はてなキーワード: 自己批判とは
「これはまともなフェミニスト」と外部からいわれる自称フェミニストはアンチフェミのなりすましか、百歩譲って女性だとしたら名誉男性。
なぜならフェミニズムはこれまでの男性優先社会を否定するものだから、大半の男性が本能的に快く思うことができないものだ。
男性がフェミニストの思想に賛同できる点があるとしたら、その自称フェミニストは男性に媚びへつらっているのである。これはフェミニストの味方のふりをした敵だ。フェミニストが自己批判をするならこの自称フェミニストを排除しなければならない。
フェミニズムは女性だけのための思想であって男性の状況をよくするためのものではないので、男性が気持ちよくなるならそれはフェミニズムではない。
同じというのは思想がということではない。
「お題目は大変崇高で、実現できれば素晴らしいが人間が素晴らしくないのでダメな方に転がっていった。」という所である。
本来はマジョリティの無神経さからマイノリティを守るという何気ないものであったはずであるが、今や「自分が不快なものに相対主義を持ち出してすりつぶす行為」に変貌した。
というかそのまんまだ。プロタゴラスなどのちゃんとした知恵者が節度を持って使っていれば、学問のツールとしての懐疑論に収まっていた相対主義も、市井や政治の場に降りていった時点で、相手を蹴落とし、自己肯定のために用いられるごろつきの便利ツールへと変貌してしまった。
野球のルールの中で使えば人々を楽しませることができるバットも、人の頭に使えば簡単に不幸を量産できるようなものだ。
ポリコレもきちんと自己批判、懐疑、考察を繰り返すことのできる「ルール守って議論できる学者」が使っていれば人類の倫理を底上げできるものであったのであろうが、
自己批判も自己観察もできない我々のような一般市民の手に落ちたことで、自己肯定や社会の中での地位闘争に転用されてしまったと言って良いだろう。(その間に「自己批判ができない学者=ド三流の学者」が挟まっているのは相対主義でも同じである)
バカでも天才でも1票の価値は同じ。どんなバカでも票だけ入れてあとは黙ってくれたら味方だ。
左翼は「愚民は我々の理想国家に不要だ」なんてことを言ってバカを取り除こうとするが、取り除かれたバカはどこに行くか。ネトウヨに取り込まれる。
ネトウヨが嘘やデマやヘイトなどの卑怯な手段を使ってでもバカを騙して味方につけて数という力を得る。
左翼が愚民を嫌うのもネトウヨがよそ者を嫌うのも同じだが、ネトウヨは外に敵を作ることで内の結束を強くする。左翼は味方となるべき者を排除するので味方がいない。
外国が日本の国益のためにわざわざ外圧をかけてくれることも期待できない。そんなお人好し国家はない。
バカに寄り添うふりをして味方に付けるくらいなら少数精鋭で戦うってそれ政治じゃ負け確ですから。
敗北主義者はプラカードを首から提げて木に吊るされるべきだよな。
内容には全く関係がないが、「文字をギュッとね!」というフレーズが浮かんだ。ああいかん、こうして見栄えのことだけに触れることもまたルッキズムだな…。
おっさん乙。
すまん、実は『炎の蜃気楼』読んでないんや。存在は知ってるってだけで……
北田の論文ではちゃんと「この論文では二次創作に興味があるオタクのことを二次オタクって呼ぶよ」っていう定義がなされた上で使われてるのでまあ問題はないと思う。この論文の中ではこういう用語法にしますよ、という話だから。
なのにtwitterでグラフの画像だけ切り取って拡散するやつがいるから勘違いされちゃうというね。その論文では一般的な用法とは違う用法をしてるって理解してくれー。
そんなに酷い本なのか、指摘されてる点が素人でも分かる程酷い
北田(2017)はあくまで本の1章やで……他の章に罪はないやで……参考文献にはちゃんと何ページから何ページまでって書いてあるんだからちゃんと見てほしいやで……
もとの調査は2010年やで。10年前のデータってのは古く思えるけど、2010年にデータ採って、それをもとに色々分析して、本の形で研究成果を発表したのが2017年でしょ? これだけの共同研究で7年なら、早くもないけど特別遅いってわけでもないよ。さすがにそれは言いがかりすぎて北田が気の毒。
『北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ』まで読んだが、その時点でもうほとんど相手する必要ない感がすごいある。謎の『二次オタク・非二次オタク』だったかの分類も意味わかんなかったけど。
いやその分類それ自体は別に悪くないやで……ただ分類に際して「興味がある」をそのまま「好きである、実践している」と同一視してる点とか、二次創作への興味を表す項目を腐女子の操作的定義に使ってるのが論理的におかしいって話やで……そういう分類も仮に適切に定義して適切に運用できるならまったく問題ないやで……
これ、「オタクの研究」じゃなくて「若者の趣味に関する共同研究」なので……他の章では音楽とか読書とかも扱われてて、オタクのジェンダー観の分析はその1章というだけ。
別に難しいことじゃないんだけどなぜか変なことしてるなぁ、という感じ。山岡(2016)の操作的定義は割とマトモだと思う。
なんで二次創作好きに絞って調査したのか気になる。一次創作好きと二次創作好きで分けて著作権意識について調査するとかなら必要性もわかるけど
それには、
という2つの要因がある。
北田は、男オタクは東浩紀の提唱した「データベース消費」をしているけど、腐女子はそれとは違う「関係性消費」をしていて、前者は既存のジェンダー規範に対して親和的だけど、後者は既存のジェンダー規範に対して批判的で、むしろ古臭い既存社会の構造に挑戦している、という議論をしているのね。
その文脈で二次創作に注目する、というのは、(議論の妥当性はさておき)まあわかる。
でも、北田のおかしいところは、「二次創作に興味がある」という項目から、これに賛同したやつはディープなオタクだろうとか腐女子だろうとか定義してるところね。「マンガの二次創作に興味がある女≒腐女子」ってのはデータがどうこう以前に論理的におかしい(『炎の蜃気楼』や『刀剣乱舞』で掛け算してる腐女子は「マンガ」で二次創作してるわけじゃないし、商業BL専門の腐女子もこの定義からは外れてしまうし、男女CPで二次創作やってる女オタクなんていくらでもいるし、好きなマンガをBLにするな! って毎日のようにBLを叩いてる女がいたとして、そいつは定義上「マンガの二次創作に興味がある女」ってことになるけどそれを腐女子と呼ぶのはどう考えても間違い)。これは山岡も皮肉ってる。
例えば、与野党の政治家、報道関係者、一般国民に至るまで、多くの者が総理大臣の言動に興味を持っているだろう。「興味を持つこと」と「好きであること」を同一視すれば……驚異的な支持率になる。……(山岡 2019: 21)
それと、男オタクと女オタクのデータベース消費うんぬんの話で東園子の先行研究を引いていて、これは私はまだ読んでないからなんとも言えないんだけど、『ヘタリア』と『東方』の差異で男女の消費の差異を論じてる箇所があるらしいんだよね。……『ヘタリア』、普通にギルエリとかヘテロCPもあったよな? 『東方』、男オタク界隈でも早期から百合(つまり関係性消費)の勢力が根強かったジャンルだよな? まあでもこれは東園子を読まないと何も言えないのでまずは読んでみますわ。
で、北田(2017)のツッコミどころはたいてい指摘されてて(てゆーか北田も一部については自己批判してる)、正直私がここでこんなこと書くのって車輪の再発明でしかないんだけど、あのグラフは画像として独り歩きしてて「男オタクは保守的、女オタク/腐女子は進歩的」の論拠として用いられることがまだまだ多いんだよね。だから、いやもともとの論文もけっこうおかしいよね? そんなとこから無批判に持ってきて男オタクを云々されるの困るんだけど? というのをブクマカ諸氏に訴えかけておきたかった。
ちなみに北田はその後noteで山岡(2019)に応答してるけど、今んとこ山岡からの再反論はなし。
https://note.com/gyodaikitada/n/nf3ec68635b4e
https://note.com/gyodaikitada/n/n64fa34704698
https://note.com/gyodaikitada/n/n1c5f282be513
ただこの夏に山岡が新刊出すらしいんでそっちで反論があるのかも。個人的には北田の反論もnoteとかでやってないでどっかの紀要とかに載っけてくれればいいのにと思うけど、まあ印刷物はすぐにはできないので気長に待つとしましょう。仮に去年の夏ごろに紀要に原稿投下してればそろそろ刷り上がってくるころかな(『現代思想』では江口聡のtweetを引用してdisってるんだから、ウェブ上の論争を紙でやることに抵抗はないのだろうし)。
フェミニズムの人って文献を批判的に吟味出来ているのかな?なんか北田のグラフをそのまま鵜呑みにしている反応を見たんだけど...
まあ畑違いの分野だったり自分に馴染みのないテーマだったりすると批判的に読むのすら難しいしねえ。同じドイツ近代史の真面目な研究者さんでもキリスト教に詳しくないとカール・レーフラーを見抜けなかったので……あと、フェミニストでも腐女子じゃなければ操作的定義のおかしさに気づくのとか難しいだろうし、腐女子でフェミニストでも研究についてよくわかってなければ吟味する能力がないのは仕方ない面もあるし。でも腐女子を自認してるフェミニスト研究者はさすがになんかおかしいと思わなかったのかよとは思う。
一応全部読んだんだけど、北田氏の言説がアレげな事はおぼろげにわかったが、それを突き詰めるために原典全部に当たろうとはとても思えない話だった
北田(2017)は日本語で50ページくらいの分量やで……選書だからページあたりの文字数もそこまで多くないしグラフも含めてのページ数やで……
引用しちゃダメな文献なんてないんやで。どんな文献でも引用してよくて、その中に肯定的に引用すると信頼度が落ちる文献とか自説を補強する目的で引用するとバカにされる文献とかがあるだけだから、もしも引用に値すると思うのなら匿名記事でもガンガン引用してええんやで。まあこんなガバガバ増田から引用するくらいなら素直に北田(2017)や山岡(2019)を引用しよう!
山北(リバあり)
そもそもがミソジこじらせてる連中が言う「俺らオタク」の定義がガバガバで、ジェンダー論に行く手前でもう突っ込みどころが満載なんだよなあ。アニメ漫画ゲーム以外にも山程オタはいるわけだし
私はポリコレやその歴史にそれほど詳しい訳では無いんですけど、リベラル、あるいは人文系の領域で何かを考える時ってある程度定石みたいなものがあると思うんですよ
そのような場合、例えば強者側である西洋人は非西洋圏の人々に対して、自分達の暴力性や問題を考え、自省する訳です
西洋の文化を優越した物として考えてしまっているんじゃないか、とか、西洋の価値観を押し付けているんじゃないか、とか、西洋の規範を押し付けてしまっているんじゃないか、とか、文化を収奪してしまっているんじゃないか、とか
で、ですね
あのですねぇ、普通に考えてみてください、例えばインドの文化に対して西洋の規範でもって「こんなのはダメだ、遅れている」と断罪したとしましょう
アウトなんですよ、明らかに
西洋中心主義、植民地主義、何でもいいですが、そのような自己の身勝手さや暴力性について考える事はもはや欧米では常識ですし、それが倫理的な態度というものですよ
勘違いしている人が居るといけないから先に言いますけど、日本はとっくに先進国じゃないですよ?KIMONO騒動でも明らかなように、文化の収奪を心配される側です
それを、西洋の規範で塗りつぶす、という事がそもそもポリティカリー・コレクトネスという文脈の上で何を意味するのか、もしかして考えた事無いんですか?
あるいは、その商業主義的なコードを、あまつさえ普遍化して「普遍的だから「西洋のローカルな規範」等ではない」と考える事のまずさを、考えた事無いんですか?
あくまで西洋と言う強者の自己批判だから成り立っていたものを、弱者を強者に従わせる理屈に流用するなど、どういうおつもりですか?
ポリコレを非西洋圏に押し付ける事の問題点、なんてもはや周回遅れの議論でしょう、語り尽くされていますよ、日本だけですよ、こんな所に辿り着いてさえいないのは
○ご飯
朝:パン。昼:ラーメン。フライドポテト。夜:茹でた豚肉を水で締めて、カイワレ大根とレタスと大根おろしの上に載せてポン酢をかけて食べるやつ。間食:へこきまんじゅう。
○調子
むきゅーはややー。
仕事行こうとしたら雨降ってて地面が濡れてたせいで、豪快に滑って転んであちこち擦りむいてしまった。
右と左の手足全部擦りむいて血も出て痛くて、情けなくてちょっともう無理となって仕事休んじゃった。ごめんなさい。
午後からでも行けばよかったのかもだけど、先週のあれこれもあって気力が湧かなかった。
なので漫画喫茶で漫画読んだりしてた。色々読んだけど、今日読んだ中で印象に残ったのは、らーめん再遊記。
シリーズ三作目にして、遂に芹沢さんが主役。ラーメンに関する鋭い分析と、その分析する行為そのものへの自己批判と、とにかくまだ一巻なのに内容ぎっしりで凄かった。
○ポケマス
卵機能とセレナ追加が気になり久々に起動したけど、セレナはフォッコだし、卵に悪いないのでモチベはない。
○ポケモン盾
だらだらレイドしてた。悪ポケのウーラオスがいるのにだらだらしてるからこのモチベの無さはそこに由来してないな。
○プリコネ
フェス限は引く、逆にいうとフェス限以外は引かないようにしてるので躊躇なく引いた。
結果。190連でした。ただ、割と使い道がわからんな。いやラースドラゴンやって無いんだからさっさとやれよって話なんだけどさ。
昔のぼくは人からバカにされることを極度に恐れていたと思う.どんな人間からも全く後ろ指を刺されない完璧な人間が存在していて,そういう完璧さを求めていたような気もする.今思うと全くもって的外れである.どんな賢い人間も,最初から賢かった,あるいはスタンドアローンで考え抜いて賢くなった,わけではないのだ.数多の他者から鋭い批判を受け,それでもなお折れずに自分の知性を信じて貫き,自己批判精神を磨いていった帰結である.優れたものは批判を受けないのではない.どんなものにも粗を探すことはできる.そうではなく,想定される・されないを問わず繰り出されるあらゆる批判に対してそれを跳ね除けることができる,徹底的に糾弾されたのちに「ああ,こうするしかないんだ.これが真理なんだなあ.」と腹落ちすることのできるものである.批判に耐えられないものに価値などないのだ.
そして,これは「自分」にも言える.自分ほど我々にとってかけがえのない存在はない.自分というのはそれまで生きてきた多種多様な経験・思いが堆積した帰結,まさに作品である.芸術というのは剥き出しの純朴さ・「幼さ」を泰然と世間に対し突きつける,批判を確固たる覚悟と信念によりはねのけて己の信じる真理を突きつける,この力学にこそ尊さがある.自分という作品もまた同様である.万人に嘲笑されようが,「貴様はそもそも無能である」と罵られようが,集団から排斥されて死の淵を這いずり回ろうが,それでもなお意を介さず,自分を信じることができること.自分は「ダメ」なやつだなんて薄弱な言い訳を口にしないこと.これこそが作品を創造していく存在者として健やかなる在り方であろう.叩かれて引っ込めるぐらいなら最初からやらなければ良いのだ.そこに信念があるなら.他人から見て愚かに見えても構わない.君の中でつじつまがあっていればそれで良い.その結果,世間の生き方から外れても,社会的成功から遠のいても,あらゆる者に軽蔑されても,そのような生き方が特段劣っているとは思えない.個人の満足感・快楽には他人は介入できない.その結果が死であっても,それはそれで尊い結末である.個人の力ではどうしようもない「運命」と呼ぶべきこともある.そのような理不尽かつ強大な敵にこそ果敢に挑み,そして力及ばず散っていく.その死は英雄的であり,恐れることはない.
真に人の性 (さが) を憎む者として,神の前に立つべき英雄.君が募らせた憎しみは,いつしか祈りとなって神のもとに届くだろう.諦めれば全てが嘘になる.救いなどなくていい.
虚しい。
虚しいと感じることは全く初めてじゃなくて、むしろいつも何かの隙をつけて襲ってくるものだった。今日のように。
だからいつもなぜ自分は虚しく感じるのだろうか、虚しさからどうしたら逃れられるのだろうか、とか考えていたらいつの間にかそれが趣味になったままざっと数えて10年ぐらいたってしまった。僕はまだ20代だから、ユースのほぼすべてをそれに費やしてしまったようだね。あーあ。
今日こそは何か違ったアプローチをしてみようなんて勇気を振り絞って匿名のここに長い文を吐き出そうとしているのに、その感情について書きだそうとして見た瞬間に心がblankになる。僕は本当に自分の感情を表現するのがヘタクソなようだ。
最近の自己分析の結果自分は自分の感情を他人に表現するといった練習を積んでこなかったことや、そもそも自分が今どんな感情に突き動かされているのか鈍いということを、否が応でも認めざるを得なくなってきた。自己分析は上に書いたように自分の趣味で、まぁつまりその中で今HOTなトレンドが自分の今までの感情への向き合い方についてというわけである。
これについて思い当たる原因は腐るほどある。そして自分をその状況へ追いやった原因たち(必ずしも人間ではない)に対して怒りややるせなさが轟々と湧き上がってくるのだが、いつもその瞬間すぐに別の考えが頭をもたげる。ひとのせいにするな、たにんのせいにするな、自分が置かれた不遇のせいにするな。
多分これは自分の成長過程で周りの大人に言われたことや、読み漁っていた自己啓発本の中から自分が内在化した批判精神である。自分でも今のクソみたいな状況を過去に起こったことのせいにしてる自分はそこはかとなくカッコ悪いと思ってる。
でも過去に自分に起こった不幸について、正しく怒り、自分にあの事象は起こるべきじゃなかった、と正しく消化することは、自分がこのわだかまりを乗り越えて次のステップへ進むために大事だとも思う。そしてもし過去に起こった不遇の中で自分が原因で起こったことがあったり、何か自分が責めを負うべき部分のあることであっても、ちょっとくらい自分は悪くないって思ってもいいでしょ?この苦しいフェーズを乗り越えるために今は怒っておきたい。そしてしかるべき時が来たらまた我が身を振り返る。もしそうすることが自分の成長の糧になるときがきたなら。そうしても問題ないくらい当時の自分には悪意はなかったと思うし、そのくらいの分別は過去の自分にも今の自分にもあると思ってる。そしてそうしたほうがいいと感じられるくらい、今の自分は”自己客観視”という名のもとの自己批判に余念がないし、精神的に弱っている。
今度書くけど自分は、未熟な自分をさらけ出して本音で人とぶつかり人の本音を聞くなんて作業を中学校から放棄してきてしまっている。情緒の発達が思春期で止まっているといってもいい。そしてそれが今の自分の精神の多大な悪影響を及ぼしているんではないかと疑っているため、匿名で恐る恐る他人様に向かって吐き出させてもらおうと思った次第である。自分の中に閉じこもって答えを探してても大体それは答えじゃない。
岡村さんがこのような軽率な意見をするに至った社会背景があることは、普段からフェミニズムを真剣に学んでいる身として重々承知しております。これは日本社会が産んだ発言であり、日本社会が許容している発言です。どんなに岡村さん本人が謝罪されても、彼の本心が変わらないことも想像に難くありません。
そして、このように考えている人が日本社会にはあふれており、彼が偶然間抜けだったために、自分の影響力についての考えも及ばず、この発言を公共の場でうっかりしてしまっただけのことだと考えております。
しかし、このような女性蔑視な発言は、女性が自分自身の可能性を信じ、豊かな人生を歩むことに対して、大きな障害となります。そしてそのような方が、小さな子ども向けの番組、さらにはマスコットキャラクターが5歳の女の子で司会を続けることが許されるような状況は見過ごせません。 実際には、もうテレビに出演することすら許されることではありませんが、今回は、NHK総合1で放送されている番組、「チコちゃんに叱られる!」からの降板のみを希望します。
そしてこれをきっかけに、謝罪をするからには、岡村さんには、日本社会における性差別・性暴力・性犯罪の問題についてきちんと向き合っていただきたく思います。 彼のような知名度の高い方のこのような発言が許容されている状況を許してしまうことは、日本社会において性差別・性暴力・性犯罪を助長することに繋がりますので、例え岡村さんの普段の人柄が良かったとしても、私たちが許容してもう一度チャンスを、と優しく許してあげることはできないのです。
社会が岡村さんのこのような言動を許すことは、何人かの女性の心と体の犠牲を伴うからです。そして、過去の報道を見る限り、このような言動は初めてではなく、常習的に行っていると見受けられます。本来は一番組からの降板では済まされない話です。
女性蔑視な言動を行った方が、以前のように当たり前に職場に戻れるようなケースをもうこれ以上一回も出さないことが、「女性が輝く社会」を真に実現するためには必要です。例えこのケースが社会的に風化されようとしても、私たちが忘れることは決してありません。
やっぱり芸能界から完全抹殺を希望しているし、どんな謝罪をしたところで受け入れないぞって宣言してるんだけど血みどろになるまで戦争を望んでるの?
「痛みを理解して~うんたらかんたら」みたいなコメントを出したところで「魂が籠もってない」とか「口では何とでも言える」と糾弾して「勉強会への参加」や「活動への賛同」を求めたり、それで許されることは無く繰り返し自己批判と反省を求めたりするの?