はてなキーワード: 自己分析とは
複数言語を使用している国家は山ほどあるのに無知なのか意図的なのか言及がない→言語が障壁になるわけではないのに事実をゆがめて論を進めるのはあまり意味がないと思う。
特に金融市場の話をするのなら、国家があることが原因というよりも、経済格差というか資本集約の進み方が地域によって異なるから、という方が近いのでは→国境だけの責任にするは違う
これは、ちょっとありえないと思う。彼らの見解で1ミリでも擁護できるところがあれば教えてほしい。ブロック化と民族主義で成功した例はないと思うが。
上記より、増田は単に国粋主義を消極的に肯定している日和見主義者とお見受けしたので挑発してみたところ
自己分析、乙w
5000円でソシャゲ10蓮ちょいするならコース料理食べたくて、欲しい服があったらコース料理は我慢する。服より本のが好きでよくこの値段だったら漫画10冊買える・・とか考えちゃう。
自分は"物質主義"なのかなーと自己分析。でも本は絶対紙で買うけどCDはレンタル→取り込みで安く済ませちゃう事が最近多い。書き出してみての発見。
彼女(付き合う女性)はそこそこできるのだが、特別感や気分の高揚を感じたことがない。
その相手とのセックスにすら、そこまで大きな特別感や気分の高揚を感じたことがなかった。
自己分析では、これらの相手はすべて「彼女のほうからアプローチして付き合いが始まった」パターンばかりだったからだと考えている。
端的に、自分が狙った獲物ではなく、自分は何の苦労もせず手に入ってしまった獲物だからありがたみを感じられなかったのだろうと。
反対に、恋愛あるあるで、自分から好きになった相手とはうまくいったことがない。
自分から好きになった相手とはうまくいかないし、自分を好きになってくれた相手のことは好きになれない。
やはり私自身何かおかしいのではないか、私には男として備わっているべき能力や価値がないのではないかと不安になる。
そしてその感情が満たされることがないまま、40手前にきてしまった。
結局、toggeterの人とかと、アホの子指導好きの増田との違いってさ。
「模範演技の提示とその吸収度の判定が役割で、できない・わからない原因の追究は生徒自身がやるべき」
と考えてるか
「できない・わからない原因の分析・追究が主な役割で、できれば生徒自身にも自己分析のノウハウを身に付けさせたい」
と考えてるかの差なんだろうな。
そりゃ前者の方が圧倒的に楽だよな。
なんか運動できる生徒としか関係を作れないタイプの体育教師の話に似たものを感じる。
「ホラこんな風に飛べ、ヨシお前は飛べたな、オイお前飛べてないぞ、よく見ろこう動け、何でできないんだ」
ってひたすら生徒だけに投げてれば仕事してることになるんだから。
あの増田、アホの子の他に、すごくよくできる子担当してたそうだが、わかる気がする。
前者のスタンスだと、まあまあできる子とすごくよくできる子の間の壁を超えられないもんな。
できないことが多くて凹んでいるみたいだけどさ、1〜2年目って「自分ができないことがたくさんある」ってことを知る時期なんだよ。
君が見てる「テキパキできてる先輩」だって通った道だ。
抜け出したいなら、抜け出すためには何をすればいいか考えればいいし、特に抜け出したいと思わないなら、そこにいるためにはどうしたらいいか、って考えればいいだけのこと。
自分は初期の頃の就職氷河期世代で、「やりたいことを仕事にする」っていう選択が叶えられない人が本当に多かった。
そのためもあるのか、自己分析は悪いことではないけど、最近の若者は「やりたいことを仕事にしよう」っていう強迫観念が強すぎな気がするんだよね。
仕事を難しく考えすぎと言うか…仕事は生活するための糧を得るためにも存在するわけで、全員が「仕事で自己実現しよう!」って思わなくてもいいと思うんだよ。
この増田とは違うけど、私も技術系の仕事している。だから、技術職の世界にある「成長していかなければいけない宿命」というのは常々感じる。
そうしていかないと給料も増やせないし、管理者としても技術者として「使えない」ということになると、失職する可能性だって出てくる。
でも、色々な人生を持つ人間がいることを考えた時、皆が上昇志向じゃなくてもいいかなと思う自分もいる。
部下を持つ役職者としては、全員に上昇志向があったなら、それはとても嬉しい。
でも、安定志向な人間がその中にいても、いいと思っている(下ばかり見るのは困るけど)。
色々な種類の人間がいた方が、色々な危機を救える可能性が出てくるんじゃないかと思ってるからだ。
この増田に言いたいのは、今の状況は決して無能である証拠ではないということ。誰しもが通る道だ。
1年目は会社になれることが仕事だが、2年目は仕事を知り、できる事を積み上げていくことが仕事だ。
この増田に限らず、最近の新人はこういう思いに囚われて、勝手に病むことが多い。
やる気があって優秀な人間も多いと感じるから、本当にもったいない。もう少しハングリーさを養ってほしいと思う。
…まあ、就職氷河期乗り越えて来た人間から見ると、誰もが繊細すぎるように見えるのかもね。
上司や先輩は、いいところ見つけてくれてるかもしれないよ?
私の人生がゲームとか小説とかで例えるなら本編は高校で、ずっと前にエンディングを迎えてるはず
なのになんだかわからないけど終わらないままここまで生きてしまった
残り60年長すぎないですか 死なせてくれよ
高校は厳しい部活だったので放課後カラオケとか買い食いとかそういう俗に言う青春は全然なく、まあとにかくめちゃくちゃしんどかった
でも間違いなくこの時以上の出来事も経験はこの先できないって思ったんですよ
引退した後は悔いはないからこのまま死にたいなあって毎日思ってたのに死ねなくて、そのまま受験もそれなりにうまくいってしまった
そうして入った大学もそれなりに楽しくて、でも「この楽しい大学生活はエピローグかおまけモードだな〜」って思いながら過ごしてて
で、いま就活なんですけど
「なにがしたい?」って聞かれても何もしたくなくて
自己分析できてないだけじゃない?って言われても、そもそも私は部活引退の時からずっと「人生の本編が終わったから死にたい」って思ってるので「なにがしたい?」「どうなりたい?」って問いには「早く死にたい」としか答えられないんですよ
気楽なモラトリアム大学生活ならおまけモードや蛇足の番外編として受け入れられたけど、この先の人生何も望んでないのに、高校のあの日々より大切なものなんてできないのに、絶対仕事とか辛いのに、なんでまだ生きてなきゃいけないの
オタクなので趣味は楽しいんだけど、趣味のためにリアル頑張る!って気持ちにはならないから世のオタクみんなすごいよ
好きなものたくさんあるけど死にたいし、でもなんとかそれに縋って生きてるかんじ
私は楽しいことと辛いこと、心の中で打ち消しあえないみたいで、楽しいことは楽しいし辛いことは辛いままで終わりだよ
家庭環境とくに悪くないし、貧乏でもないし、私自身能力が物凄く低いわけでもないはずだし、友人にも先生にも恵まれて、特別な不幸も今までなかった、だからほんとは幸せなはずなのにずっと死にたい
じゃあ早く死ねばいいんだけど、家族(特に母親)はめちゃくちゃ落ち込むだろうし、何より色々とお金かけてもらってるし、今ここで死ぬのは親に申し訳なさすぎる
とにかくもうあと60年も生きたくない
任意で死なせてくれ
まだ二十歳そこそこで悟ったようなことを言うのも何だが
一緒に居てくれる人が居たらいいなとは思う。
もちろん性欲もある。
一緒にいて何を話す?第一声、天気。二言目、ない。どうすればいい?
口数の少ない良い関係というのもあるだろうが、最初は流石に話ししないと無理だろう。色々と。
分かってる。こんなことダラダラ書いてないで何でもやってみればいい。話題があろうがなかろうがとりあえず話してみる。人に話せる趣味を深める。そもそも少ない友人を増やすことから始める。自己分析する。鏡の前で笑う。服に気を遣う。筋トレしてみる。
今まで出来なかった。出来る気がしない。
どうすればいいかは分かってる。でも、俺は、どうすればいい?
支離滅裂な文章になってしまっているので訳が分からないかもしれない。ただただ、僕の状況を思い出しながら書き連ねただけの文章。
まず、僕の状況から説明する。某都道府県のトップレベルの進学校に通っている地方国立大理系志望の受験生。判定はセンターで無事爆死して、出願大の二次試験で満点かそれ以上の点を取ってやっとボーダーに乗るか乗らないかのところ。なお、私立大はMARCHを受験はしたけれど受かっても行けない。親が行かせてくれない。現役ではダメ、と言われたため国立に受からなければ浪人。早慶ならいいと言われたが残念ながらそのレベルには達せなかったため受験をしていない。
こんな所に書き込みなんてしてないで、最後の最後まで諦めるな、って言われても残念ながら、この状況でいけると思えるほど強靱な意思を持ち合わせていない。
どう言っても敗者の言い訳にしかならないから気にせず言うが根本的に高校選びから間違えたと思っている。
親、周囲の「できる限りレベルの高いところに行きなさい」という言葉の言いなりにしかなれなかった自分が悪い。自己分析が不十分で、頭のいいやつがいっぱい集まればその中での序列が更にできる、ということに気づけなかった自分がただ悪い。
僕は一小一中の地元の学校に通って成績でトップに位置していた。先取りをして進める勉強は楽しかった。トップに居れることの快感からだと高校に入学して気づいた。
高校の内容を学習し始めてからは進度が遅くなって中学卒業の時点での進度はぎりぎり高校二年の内容に入るか入らないかくらいだった。先取り学習の進度が実際の学年に追いついてしまった事が少し怖かった。
高校で様々なテキストを渡されて気づいた。常に渡された教材を解き続けることで勉強していた僕は一学年分の教材を渡されてどこから手をつければいいか見当がつかなかった。
今思えば、そんなの最初から片していけばいい、ということくらいすぐに思い至る。でも、当時の自分は通学時間も、周りにいるメンバーも大きく変わった状況で混乱していたのだと思う。
そして、高校にぎりぎり、滑り込みで入学した自分は多分周囲から1歩か2歩出遅れていた。そこで勉強を始められていたら今が違っていたかもしれない。
僕はどうしたらいいか分からなくなって勉強をやめた。やめたと言うよりはしなくなった、が正しいかもしれない。表現はともかく勉強時間はゼロに等しくなった。
勉強時間が無くなった僕と初めから少しリードしていて少しでも勉強時間を確保した同級生。格差なんて一気に広がった。
模試の全国偏差値が初め65あったものが2年の夏には30まで落ちた。校内偏差値なんて気にするものではないと言うけれど、数字があるのなら気にしてしまう。
トップであることが勉強のモチベーションになっていたような人間にこの状態から受験勉強を普通に始められる、と思う方が失礼だがどうかしていると思う。
偏差値が最低を記録した2年の夏頃から鬱の様な症状などの心の方の不調が出た。特に親にも言わず、言えず、病院にも行かなかったから断言はできないが鬱だったと思うし、自律神経もおかしくなっていたと思う。2年の夏休み明けから学年が変わるまでは、大体保健室にいた。
3年に無事進級してからは受験が迫ってきたこともあって荒療治に出た。自分を勉強せざるを得ない状況に置いた。塾の授業の出席状況は親に筒抜けだったし、塾の希望制の特訓に参加したりもした。
はじめの頃は机に向かうだけで吐き気頭痛腹痛のオンパレードだった僕も調子に波がありつつも、休憩を挟みながらも一日机に向かえるようになった。
ちょっとやれば成績は上がる。その通りだった。V字回復とまでは行かなくとも『へ』の字をひっくり返したくらいの傾きで成績は上がった。模試の全国偏差値が55になるくらいまではすぐだった。秋以降になると伸び悩んだがまだモチベーションがあった。
冬になってセンターが終わった。数学で序盤にミスを連発したため数学だけで約80点を落とした。この時点で出願した大学に受かるのは絶望的になった。
僕は、進学と浪人、どちらでも選べるようにしたいと出願大のレベルを下げる事を親に提案した。親は僕の提案を認めて次の日学校で先生に候補の大学を出して貰いなさい、ということを言った。
次の日、先生と面談して幾つか候補の国公立大学を出してもらって親に見せた。そこで、意訳するとこう言われた。
意訳ではある。もしかしたら違うことを意図して言葉を発したのかもしれない。でも、受け取る側の僕はこう受け取った。びっくりした。同時に今年度の試験に対するモチベーションがゼロになった。
昨日と言っていることが違う。訳が分からなくなって僕はその日の話し合いを打ち切りにしてふて寝した。もしかしたらその場で真意を問うて意思疎通を図るべきだったのかもしれない。そうは言っても、センターが思わぬ結果に終わってショックを少なからず受けた受験生がそんなに冷静でいられるか。否である。
自分の事は、他の誰よりも自分が分かる。僕は勉強の事で大きなスランプに陥ったから、そしてまだ完全に回復したわけではなくて状態に波があるから、どちらの選択肢も用意したくて提案をした。僕にだって無駄に高くはあるがプライドのようなものもある。出来ることならできるだけ上位の大学に進みたい。でも、心身の状態がそれを許さないことも起こり得る。最悪の事態にならないためにも避難先を用意したかった。
出願を行ったのも自身であったから勝手に出願先を変えることもできた。しかし、しなかった。できなかったのかもしれない。そんな親の言いなりになっている僕が悪いと言われるのならそうなのであろう。
親は自身の体験から僕に苦労して欲しくないと思って様々な事を言ってくれている。そのことには感謝しているし、言う通りにすれば一般に言われるような幸せが訪れるのかもしれない。
でもその途上で僕の人生が絶たれたら?親が辿った時代と現代は事情が変わっていたりもする。親は親で、僕は僕だ。その先にあるものが万が一にも僕の幸せでなかったら?全てとはいわなくとも多くのモノが無に帰すのではないか。
僕はリスクを減らしたかった。ぎりぎりまで行きそうになったことがあるから分かる。もし、もう一度心が壊れたら多分ダメ。理系だから院にまで進学もするつもりでいる。大学と別の院に進もうと思えばそれもできる。そういう選択肢も教えてもらった。先延ばしにして猶予が欲しかった。自分の体制を整える猶予が。
残念ながらその機会は失われた。僕には、高い確率でもう一年死にそうになりながらやる道しかない。もう腹は括った。やるからには自分が許す限りやってやろう。
書いてみるとこうすれば良かったのではないか、というのが出てくる。でもそれは客観的に見た最善策であって当時の選べる最善策ではなかった。勉強の悩みなんて親に話せるはずもなかった。もし、話せたのなら理解もされただろう。日本語は通じるはずである。しかし、そんな事を許すような親ではないと思っている。僕から見るとそう見える。
他の人から見れば何をやっているんだ、と言われそうだが僕がその時に尽くせるベストを尽くした結果である。
内容が飛躍するが、親への不満、入試の仕組みへの不満、何より自分への不満がとにかくある。
もちろん、親に関しては自分へ金銭、時間の投資をしてくれた事への感謝もある。けれどもいつかは不満を、一覧にしたものを、突きつけたい。突きつけられるようになりたい。自分の意見をきちんと突きつけられるようになりたい。
出る杭は打たれるような所ではあるが打たれてなお出ていよう。自己で決定ができるようになろう。
かなり長い文章になってしまったから、最後まで読んでくれた方はいないかもしれない。もし、ここまで見た方が、この文を読まれたのであるならば感謝を伝えます。ありがとうございます。
店の店長として、若者を中心としたアルバイトスタッフをまとめる仕事をしている。
前職で実績ができ、「褒めて伸ばすのが得意な店長」というお墨付きをいただいた。
転職先では散々で、かなり自信を失った。
分かったことは、私は褒めるのが得意なのではなく、自分より優秀なスタッフに対してすごいすごいと言っていただけということだ。
前職のスタッフはかなり優秀だった。
名門大学の大学生や院生が中心で、意欲があり、飲み込みが早く、スキルも高く、育ちが良いので性格も良かった。
学生以外の人たちもかなり優秀で、年下の私の話を尊重してくれた。
「本当はこの辺りまでやってほしいけど、大変だろうからここまでやってもらえれば良いか」という指示に対しても、その先を読んで期待以上の動きをしてくれる人が多く、感動しきりだった。
私は高校は進学校だったが、芸術系の大学に進んだため、勉強では彼女たちにとても敵わない。
だが、その業種での経験が長いので、スタッフが困ったことは大体解決できたので頼ってもらえた。
また、学校では教えないようなことを伝えられるので、慕ってもらえたと思う。
退職時の寄せ書きには「大好き」という言葉がたくさん並んでいて、とても嬉しかった。
自己分析なので間違っているかもしれないが、おそらく私は他人を羨んだり妬んだりすることが無い。
そのため、相手が年下だろうと「すごい」と思ったことは手放しでよく褒める。
ただそれだけのことだったのだが、「褒めて伸ばすのが得意」だと勘違いしてしまった。
転職先では、スタッフ教育が足りていないのが目に見えていて、時間が空くと個人的な作業を勝手に始めてしまうような、意欲の低いスタッフが多かった。
前任の店長は、お客様が来店しても困っているスタッフがいても気づかないような人だったので、そのためだろう。
前職のスタッフほどではないが、頭の良い大学に通っている人が多く、能力も高そうだったが、やる気のなさを感じた。
「すごい」と思えるところが前職ほど見つけられず、あまり褒めることができなかった。
その店のスタッフは、前職のスタッフよりも平均偏差値が20以上低かった。
事務作業が無いため学力は特に気にしていなかったが、失敗した後に対策する力や、先を読んで行動する力が足りないと度々感じた。
また、笑顔で接客することすらできないスタッフが多く、笑顔でお客様をお迎えする必要性を説いても響いていない様子だった。
お客様が来店してくださった時は感謝の気持ちが自然に湧いてきて、自然と笑顔になるものだと思っていたので、それが分からない人にはどうすれば良いのか悩んだ。
それぞれに頑張っていたかもしれないが、「すごい」と思えるところが見つけられず、ほとんど褒めることができなかった。
だが、最近とても優秀なスタッフが何人も入った。それはもうしょっちゅう褒めている。
それまで、なぜ「褒めて伸ばす」ことができなかったのか考えた。
「すごい」と思ったことしか褒めることができない。それが私の能力の限界なのだと思う。
上司には「人の良いところを見ようとせず、悪いところばかり気にしてしまう」という欠点を指摘された。
もっともだと思うが、前職の上司なら「そんな点は見受けられなかった」と言ってくれる気がする。
前職でスタッフに恵まれすぎていて、きれいな水でしかイキイキと動けない魚のようになってしまったのだと思う。
現職では心身ともに疲れてしまって、スタッフに対しての言い方がキツくなってしまったことがあった。
私の存在がストレスになったスタッフもたくさんいたはずだ。本当に申し訳なく思っている。
また、上司と相性が悪く、お互いの言い分と受け取り方がひたすら平行線になってしまった。
私はもうすぐ退職する。
横田だけど、テレビゲームの中にスポーツ性があると言うことを理解できない人はたくさんいる。ちょうど増田のように。
でもそうじゃないんだよ、テレビゲームにもフェアネスとかリスペクトとかストイックさとかそういうスポーツに見出される精神性と同じものがあるんだよ、っていうことを主張したいがためのe-Sportsなんじゃね?
スポーツと呼んだら公共性が高まる、って話はちょっとよくわからんが、個人的には格ゲーみたいな一部のテレビゲームをe-Sportsと呼ぶのは違和感ない。やってみりゃわかるけど、本当に強くなるには単なる遊びを超えた取り組みがどうしても必要とされるから。
むしろ増田が、なんでテレビゲームをスポーツと呼ばれるのがよくわからんと思っているのか自己分析してみる方が、増田が探してる答えへの近道なんじゃね?
https://twitter.com/nhk_nehorin/status/951099083074056202
最後の腐女子用語辞典【解釈違い】キャラの受け取り方が自分と違うこと。イライラすることもある。例)「番組に出てた腐女子の話に納得いかない。完全に解釈違い!でもしょうがないよね、100人いたら100通りの腐女子がいるんだから・・・」ご視聴ありがとうございました🐽 #ねほりんぱほりん https://t.co/1sVh0dQNWf
マッッジで。
「男って~~だよね」「女には~~な傾向があるから」みたいな語り口で腐女子を語ろうものなら大炎上が約束される。
誰もが(この言い方も怖い)、「あなたはそうでも私は違う」を持っている。例え他者から見れば誤差の範囲だろうが、一人一人自分の腐女子としての輪郭をはっきりと持っていて、その差違をないがしろにされることを嫌う。
なんでだろうな、「男」「女」なんてカテゴリよりずっと狭いのに。
でも、もしかしたら、本来人をカテゴリで語るなんてのはこんくらいめんどくさくて然るべきなのかもしれないが。
なんで男同士に萌えるの?
と問われたとき、私にとって一番原点に近い表現をしてるのは下記の動画だ。
ここで言われているのは、端的に言って、
ホモが嫌いな女子なんていません!という平成も浅い頃の暴言があるが、
少なくとも女子の多くは、おっさん同士が無邪気になかよしだとわけもなく嬉しい。と、思う。
ヒロエさんは男性なので男性にもある程度は通じる感覚なのかもしれない。
でもまあ、人と人が仲良くしているな、と見てとれるとき、その多くは喜ばしい。
にこにこと仲良く戯れていたら、やっぱり微笑ましいしなんだかうれしい。
でも男女だと、そこに性の香りが漂うと、感想の種類はぐっとかわる。
終電前の改札前でいちゃいちゃしてる男女はまあまあ見苦しい。優しい気持ちにはならない。
でも、たとえおっさんのいちゃいちゃに喜ぶ人が世の中の何割であろうと、みんなが腐なわけではもちろんない。
だってみんなチームナックスを見ても彼らのセックスを連想しない。
(腐女子が全員セックスを連想しているかというとそうも言い切れないが…ここはややこしいがとりあえず話を進める)
そもそも前述の通り、人と人が仲良くしてるのは微笑ましくても、性的な要素は多くの人にとって微笑ましくない。
腐女子は微笑ましいものにわざわざ性の要素を見いだそうとする。
ようやくねほりんぱほりんの話をするが、あの30分間で一番私の心に刺さったのはこの言葉だった。
この、能天気な、使い古されたみたいな言い回しは、けれども「腐」というものの一面をとらえてるんじゃないかと私は思う。
そうなのだ。腐の世界は、すべての感情を、行動を、あるいは状態を、愛によるものだと意図的に読み違えることで成り立っているのだ。
だから、友情にもコンビにも兄弟にも愛を見いだすし、天井と壁にも愛を見いだす。
(ここでいう「愛」は「恋」である必要はないのだが、その辺は後述する)
そして、ここが重要なのだが、性欲とは愛に対して従であると、腐は思っている。
終電前の改札でいちゃいちゃしているカップルはあんまり微笑ましくないと書いた。
見知らぬ人たちが、泊まるか泊まらないかやるかやらないかの駆け引きをしているのを見るのは、何ならちょっと不快だ。
でも、それは、通りすがりの私の目には彼らの性欲しか見えないからだ。
彼らが「心から愛し合っているのだ」と認識したとき、その感想は変わる。
「逃げ恥」のじれじれしたベッド回りのあれこれを見たとき、あれを不愉快に思う人は多くなかったのではないか。
そこに愛を認識できれば、他者のものであっても性欲は不快なものではなくなる。
私もそう思う。
腐の妄想世界のなかでは、人は酸素を吸うように愛を吸っている。
話すのも食べるのも、笑うのも泣くのも、生きるのも、死ぬのも、すべて愛のためだ。
もちろん現実はそんなわきゃない。人は嫌うし憎むし見下すし嫉む。
でも、妄想世界のなかで、それらもみんな愛だと誤認する。意図的にする。
そこまでしてはじめて、恋について語れるし、性欲について語れる。
恋と性が大好きなわけではない。むしろ恋も性も汚い側面を有していることをよく知っている。
だからこそ、「この世のすべての感情は愛」な妄想世界にトリップしてやっとようやく、恋と性について語れるのではないか。
なんでだろうね。
天井と床の間に、唐揚げとレモンの間に、電車と駅の間に愛を見いだすとして、
どうして男女でもなく女同士でもなく男同士にたとえてしまうんだろう。
少なくとも私は、腐以外でこの手の「愛を見いだす遊び」をしている人たちを知らない。
「私とは違うなにか」でありかつ「同質に並び立つ二人(ふたつ)」が重要なのかもしれない。
私という現実の人間は愛じゃなくて酸素吸って生きてるので私に近い要素は必要なく、
彼岸の愛の世界で生きている人たちは同じ愛を吸う同じ種類の生き物だと思うのかもしれない。
やっぱ苦しいな。単にちんこすきなだけ!っていう清々しい腐のみなさんが一定数いることは書き添えておく。
ねほりんぱほりんでは、一人の出演者が男性にしつこく付きまとわれた過去を話した。
それがマジとか嘘とかマウンティングとか違うとかはどーーでもよいのだが、
ただ、そうなのだ。腐という趣味はその人の性的経験としばしば関連付けて語られる。
本人も、「私はなぜ腐女子なのか」と考えるとき、自身と男性との関係性について考えてしまう。
では、愛でくるまなければ恋も性も語れないというこの増田は、一体男性にどんなトラウマがあるというのか…!????
私は、そんなの聞かれなくていいし考えなくていいと思っている。
なぜ好きなのか?を考えて、趣味と過去の経験を結びつける必要はないのだ。ましてネガティブなものとなんてぜんぜんいらない。
何が好きなのか、どんなところが好きなのか、そんなことを考える方がずっといい。
でもなーーしちゃうんだよな!なんでだろうな!!
ねほりんぱほりんの三人の腐女子たちが自分はどんな人間かを語っているとき、私にとって目新しい言葉はひとつもなかった。
彼女たちの自己分析は、ネットに転がっている腐女子「たち」の語りの集大成のようだった。
どっかで見たことばっかだった。
腐女子は、「100人いれば100通り」であるにも関わらず、どこかで「私たち腐女子」という自意識を持っている気がする。
誰かの自己分析は私の自己分析で、自分について語る言葉は際限もなく膨れ上がる。
「私たち」は常に語らなければならないと思っている。
養老孟司が「いわゆるオカマの人は頭をよく使う」ということを言っていた。
マツコは「そうかもしれない」と応じた。「だってアタシ、トイレ入るときだって、自分はどっちなのか考えるもの。」
「私は何者なのか?」を考えてしまうのがマイノリティなんだと思う。
人はじぶんがマイノリティの側であると思ったとき、「私はなぜこうであるのか?」を考えずにはいられない。
腐女子もそうなんだと思う。「私はなぜこうであるのか?」それを語るために、「私たち」は「私たち」を語る言葉を溜めていく。
100人いれば100通りのはずの私たちは、似たような言葉を使って自分を語り、共感し、それでいていっしょくたにされることを嫌う。
私は何者であるのか。
私について私が語るとき、私は自分が女であることより、30代であることより、会社員であることより、腐女子であることを語るだろう。
「私たち」は問われ続けるし語りつづける。でもいつか、自分のネガティブな経験と腐を繋げて語る人がいなくなるかもしれない、と思う。