はてなキーワード: 私権とは
ブクマカ批判の増田とは別だが、提示されたリンク先を読んでも特に(ブクマカ批判の増田の)主張におかしい部分はないと思ったのでレスするぞ。
確かに京都市(あと京都府も同じだった)の条例には、見通しが確保できていればOKで隅切り部分を通過できないようにしてあっても良いと書いてあるが、
「具体的には各都市の条例にもよる」と書いてあるので別に間違っていない。
そして、他の自治体の建築基準法施工条例を見ると、京都とは違って「すみ切り部分の通行は考慮する必要はない」とは書いていない。
例えば大阪府の条例だと https://www.cac-osaka.jp/document/image/QA02.pdf
「接する道路が屈曲又は交差していることによる道路通行上の不便や、危険性を回避するための規定である」
という表現になっていて、私権の制限になるから明言しないけど無闇に通行車両にダメージ与えるようなことはするなよ、という意図が窺える。
京都はとくべつ道路が狭く、いけず石を置くことが一般的になっている地域なので、その文化との整合性のために条例もそのようになっているように見えるが、
建築基準法自体の意図としては、建物所有者と道路通行者(自動車)の不要な軋轢を回避するための緩衝地帯として隅切り部分を定義している訳であり、
その場所のわざわざ角ギリギリに大きな石を置くようないけず行為を擁護する要素は本来ない。
「隅切り部以外の敷地に通行車両が入り込む(接触する)のを予防するための、見通しを妨げない工作物を角から何十㎝程度離したところに置いてもよい」
京都の場合はこれを5㎝以上にすることすらできなくて「いけず」が可視化されてしまうので恐らく猛反対するだろう。
ちょっと脇道にそれたが、法律の趣旨と「個別には条例を参照」とまったく妥当なことしか言っていないブクマカ批判増田に対して、京都オンリーのいけず擁護条例でディスりにかかってる方が余程おかしい、という事を言いたかった。
なんかネットでは信用のならない議論が繰り広げられているが、こういう時は信頼できるテキストに当たらないとダメだ。(ネット民のご意見なんか糞食らえなのはもとより、学術論文も、多くは新しい説を主張するために書かれていたりして、そのエビデンスレベルを読み誤るリスクが高い。)
信頼できるテキストといえば、信頼できる出版社から出ているコンメンタールである。ちょうど昨年6月に弘文堂の「条解」シリーズから著作権法が出たところだ。
以上のように、著作者人格権の譲渡や放棄が困難と解されていることから、実務上は、著作者人格権の不行使契約が広く用いられている。
(…)
従来の議論においては、著作者人格権の不行使契約(特に包括的な不行使契約)については、その有効性を否定する見解が少なくない。
これに対して、著作者人格権の不行使契約の有効性を明示的に肯定する見解もある(田村411頁、内藤167頁以下、高瀬亜富「著作者人格権不行使特約の有効性−一実務家の視点から」コピ662号(2016)48頁等参照)。また、起草者も、実演家人格権についてではあるが、
「本条〔90条の3〕の「同一性保持権」と前条〔90条の2〕の「氏名表示権」はいずれも「人格権」ですが、権利者と利用者とでこの「人格権」の不行使特約(権利を行使しないという契約)を結ぶことも当然ながら可能でございます。なぜなら、著作権は「私権」であり、権利者はこれを行使するかしないかを契約によって自由に決めることができるからであります」と述べている(加戸639頁)。(…)
以上のことから、著作者人格権に関する契約の有効性については、著作者人格権それぞれの性質を踏まえつつ、意思の明確性と具体性を考慮して判断すべきであるように思われる。また、同一性保持権については、20条2項4号が「著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」を許容しており、そこでは諸事情が考慮されることから、包括的な不行使契約が締結されていたという事情もその一要素として考慮すべきものと考えられる(以上について、上野・前掲52頁以下、上野達弘「著作物の改変と著作者人格権をめぐる一考察−ドイツ著作権法における「利益衡量」からの示唆(2・完)」民商120巻6号(1999)959頁以下参照)。
ちなみに文化庁の著作権契約書作成支援システムでは、そのマニュアル8頁において
なお、利用者に自由に使わせる必要がある場合などは、著作者人格権を行使しない旨を規定する例も見受けられます。この場合、著作者としては、依頼者が著作物を改変、修正した場合や著作者の氏名を表示しなかった場合でも異議を述べることができないといった不利益が生じるため注意が必要です。
と注意を促した上で、同システムが出力する契約書では、たとえ改変を許諾する場合であっても
規定例(一定範囲での変更を認め、かつ、氏名表示を要しない場合)
第○条(著作者人格権)
1 甲は、乙が本著作物を利用するにあたり、その利用態様に応じて本著作物を変更したり、一部を切除したりすることを予め承諾する。ただし、乙は、これらの改変であっても本著作物の本質的部分を損なうことが明らかな改変をすることはできない。
2 乙は、前項以外の改変を行う場合は、事前に甲の承諾を得なければならない。
といった条文を出力するようにしている。
なお、議論のきっかけになった事件では、原作者が著作者人格権に基づき介入を行い実際に意向に反する映像化を防止できているから、著作者人格権の不行使契約は締結していないと思われる。
けん‐り【権利】
1 ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりすることのできる資格・能力。「邪魔する権利は誰にもない」「当然の権利」「権利を主張する」⇔義務。
2 一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力。私権と公権とに分かれる。「店の権利を譲る」⇔義務。
ぎ‐む【義務】
1 人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。「義務を果たす」⇔権利。
3 法律によって人に課せられる拘束。法的義務はつねに権利に対応して存在する。「納税の義務」⇔権利。
当然しなければならない勤め、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと、法律によって人に課せられる拘束を果たさず、ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりすることのできる資格・能力や一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力を主張しているのがおかしいと思うんだが?
私にとってはタイムリーな話でした。
中学生の娘がマンガを描きはじめたみたいなんだけれど、何を描いてるか一向に教えてくれなくて。
それで、掃除してるときに、たまたま見つけてしまい、それが市販のマンガのキャラでした。
これ二次創作… ってやつだよね…
親として止めるべきなのか悩んでるときに、こちらの増田とブックマークコメントが来たのです。
でも全然納得できません。
コメントの多くが、話題の詭弁術「論点先取り」「藁人形論法」などを使っており読むに耐えないのだけど、参考になりそうな意見でも、今ひとつ飲み込めない。たとえば挙げられた参考先。
著作権…という私権であって、その侵害について刑事責任を追及するかどうかは被害者である権利者の判断に委ねることが適当であり、被害者が不問に付することを希望しているときまで国家が主体的に処罰を行うことが不適切であるためである。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/013/07042304/004.htm
刑事責任を追及するかどうか? 被害者が不問に付するのを希望してる?
責めるかどうかが自由なだけで。責めなかったときは権利侵害はない、なんて言ってない。
有資格者の人の意見以外信じるなってコメントも人気だったけど、まず増田さんがリンクしてる弁護士さんの解説記事が有資格者ですよね? でも別の見解を持つ有資格者の解説はどこにも提示されてない。
そんなに悪質な行為なら、プロ漫画家が二次創作をしたら出版社は連載を打ち切ったりするだろうね。でもそうなってならないのは何でだろうね
なんでなんですか?
何というか…… みんな自転車のヘルメットをしてないから、しなくていいって言ってるように見えます。
ハイキュー‼︎ の同人誌が著作権侵害じゃないと判断された例も紹介されてたけど、でも調べるとドラえもん最終回事件やポケモン同人誌事件などが出てきて、むしろ無許可二次創作が合法だったケースがレアに思えています。
増田さんが挙げられた会社のガイドラインは明確に禁止しているように、私には読めます。
キャラクターを使用した自作のパロディが同人作品じゃなかったら一体何を禁止してるんですか?
安倍元総理、賛否両論、分断をあおった総理として好悪の振れ幅が大きい総理だった。
国葬の賛成反対は湧かれるのも当然だろう。
私は、彼の権力の集中と、分断を煽った言動、私権を制限していく憲法、親学に傾倒しているのかわからないがいびつな家族観を持っている、など多くのことで反対だった。
だが、国葬はすべきだと思う。
だから最大限の敬意をもって送りたいと思う。
というのもあるが、死後しばらくたてば忖度の効果が切れて生前のことがどんどん公開されていくと思うわけだ。
でも家臣たちは口をつぐむだろう。
もし国葬が行われなかったら家臣たちはより、死後の評価をなるべく下げないために隠そうとするだろう
でも国葬が行い最大限敬意を払っておけば、家臣たちの気も緩み、言いづらかったことも言ったりして、本当にやりたかったこともやりやすくなると思うわけだよ
例のハフポスト記事で「見たくない表現に触れない権利」を主張した専門家の方.実は,昨年の東京都の男女平等参画推進総合計画では,委員として逆に批判的な発言をしていた.
(背景)東京都は「公共空間において不快な表現に接しない自由」を東京都男女平等参画推進総合計画に盛り込もうとしていたが,パブコメで表現の自由の観点からの反対意見が多く寄せされた.そのため,事務局はお詫びし文言を削除することになった.以下はその報告がなされた部会の議事録である.
東京都男女平等参画審議会 第5回男女平等参画部会 議事録より,以下抜粋(強調は筆者).
https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/danjo/shingikai/files/0000001567/5danjyobukai.pdf
○治部委員 ありがとうございます。
私も是枝委員と同じ趣旨だったんですけれども、ちょっと一番分からなかったのは、なぜこういう文言が入ってきたのかという、その背景ですね。それは、今、事務局からのご説明いただいたので何となく理解はできました。
それで、基本的に、行政なり国だったりの機関が表現に対して介入をするというのは憲法21条でやってはいけないということを言われていることなので、これが残っていたということ自体について、これまでの過程で憲法違反ではないかという議論がなかったのかなというのが、ちょっとすごく不思議に思います。それで、パブコメを拝見していても、その表現に対しての規制の仕方がすごく曖昧な形でなされているというところも問題で、憲法、これ学部で1年生で習えば、そういうことをしてはいけないということは習っているはずなので、別に法律家でなくても私も法学部出身なので常識として知っているようなことです。
行政が様々な公共の福祉に資するために私権の制限ということをするのですが、その中でも経済的な権利に関しては比較的制限する、徴税とかがその最たるものだと思いますけれども、一方で、表現に関しての介入というのは、できるだけ基本はやらない、やってはいけないということは割と叩き込まれることなので、そこは、多分、行政側としても結構強く認識を持っておいたほうが今後いいのではないかなと思います。
もう一つ、私のほうでちょっと懸念というのかな、議論の流れで気になったことは、もちろん性暴力的な表現ないしは過度に性的な表現というものが、目的に対して適切ではなさそうな形で使われている例というものは見受けられることがあります。それはケース・バイ・ケースで、広告主等々が判断することだと思うんですけれども、表現と現実に起きる被害・加害というものの因果関係というものが、エビデンスがあるのか。私が少なくとも様々な報道とかを見ている限り、あまり立証されていないかなというふうに思うんですけれども、その辺のところが、このような表現がなされているから、例えばDVであったり性暴力が増えるというようなエビデンスがあって、こういう表現規制のような文言があったのか、なかったのかということは、ちょっとちゃんと振り返って議論すべきことかなというふうに思います。
例えば、世の中にはサスペンスドラマとか殺人を描いたような小説とか、映画とかドラマがいっぱいあるわけですけども、それを見たから人が殺人を犯すということでは基本的にはないと思うので、そのフィクションと現実との関連等々は、これはきちんと研究もされているはずなので、そういったことを踏まえて議論をしていく必要があるのではないかなということを思いました。
私も、こういった表現があることはきちんと気づくべきであったなということを改めて反省するとともに、この文言を、たくさん反論が来たから単に修正しました、終わりですというよりも、なぜこれが入ってきてしまったのかということはきちんと検証すべきでありますし、そういうことを怠ると、男女平等政策ということそのものが市民社会からの信頼を得られなくなってしまうということを、むしろ危惧するものであります。
以上です。
行政として「見たくない表現に触れない権利」を市民に強制するのはダメだが,新聞広告など民間領域では当然に認められるべきという立場なのだろうか?
また,性犯罪と表現規制の間にエビデンスがないことも指摘しているようだが,これも行政が立法する際にはエビデンスが必要だが,民間ではエビデンスなしに規制してOKということなのだろうか?
しかも新聞って言論の自由的にかなり重要な主体だと思うのだが,それでも行政じゃないからガンガン規制すべきということなのか?
「その時代」というのが何の話をしているのかわかりませんが、私の周りには女性やLGBTを上にも下にも特別視する風潮はありませんよ。だからといって「差別はない」とは思いません。
例えばフィクトセクシュアルのようなセクシュアルマイノリティが「LGBTと同列でない」わけがないのですが、安易にそのように断定されてしまうところが差別そのものなのではないでしょうか。
女性差別LGBT差別の最たるものは社会構造的問題であるけどオタクであることが理由で生活に不便をきたすことはない(私権的な問題しかない)
とりわけLGBT差別について、「社会構造的問題」というのは何を指すのでしょうか?
自己のセクシュアリティが犯罪化するかもしれない。逮捕・拘留されることになるかもしれない。という問題は、「社会構造的問題」ではないのでしょうか?
例えば、とりわけキリスト教圏における同性愛者による権利運動の歴史は、まず肛門性交の非犯罪化から始まりました。これだってもちろん「社会構造的問題」に対する抵抗運動だと思います。
(※個人的な感想のため殴り書きに近いことをご了承していただけると幸いです)
日本の少子化対策に対して思うことはたくさんあるが、政府がやれることは十分に出来ている。問題は、民間がやる気があるかないかで解決につながるのではないかと私は見ている。
理由1.なんでも政治任せになっているため、他の人々に責任をなすりつけているのではないか。
これはあくまでも言論界隈や自称フェミニストに多く見られるのだが、やれ少子化対策をしろ給付金を増やせなどお上に対する要望が多い。真剣に考えてはいるのだろうが、市場経済の考えに倣えば、民間が需要を喚起しなければたとえ政府が何しようが効果は空振りに終わる。少ない需要に対して支援をしても費用対効果が悪ければ効果が出ないことは明白だ。
理由2.本来産むか産まないかのイエスorノーの問題なのに、環境のせいにする人が多いこと
企業が育休を取らせない、頼れる相手がいない等の環境的な問題が子どもを持つことを躊躇することもある。しかし、現代人はテクノロジーやインフラが充実した現代社会に甘んじて、人とのつながりが希薄になりつつある。私の親世代は子どもができたら周りに子供を預けるとなど自助努力はしてきた。もちろん、体調が必ずしもよくない人が子供をたくさん持たない理由につながることは重々承知はしているし、実際に無理なら仕方がない。
我が国は2010年以降人口が右肩下がりになり、今では全国の3割以上が高齢者になっている。出生率は100万人を下回り、人口が一時的に右肩上がりになったのは今の40代以降一度もない。こうした状況が続くと、経済の損失は計り知れない程に大きい。
内需の減少
将来の働き手が減少することにより経済成長が下がること。
最後に
少子化問題は我が国を揺るがす一大事であり、この状況を放置したら先代が築き上げた財産が全てなくなってしまいます。不妊治療の負担軽減など政府も最善は尽くしているが、肝心の需要(民間)が少なくなるのであれば、政府の仕事が無になることは必然ではないでしょうか。
人口を増やすには産むことが何よりも最善の策であり、悠長なことを言っていられる状況ではないと感じている。
なにより、人口が減少することで産む側の立場にある女性陣の立場が追い込まれる。手遅れになれば社会が女性や民間の人々に対して私権を制限せざるを得ない状況になる可能性だけは避けるべき。
そして、金儲け=悪 という訳のわからない概念がこの国には蔓延ってるので、経済よりの発言や行動は叩かれやすい。
日本は私権を制限できない国なので、それを担保しながら経済ダメージを最小限にした最大限の感染対策ってどんな政策があるんだろう。
緊急自体宣言中は、飲食店ほかカラオケなど遊戯施設はおひとりさましか入れない。
その代わりGOTOキャンペーンのようなインセンティブをつけて、店に来てくれるような施策をする。
フェスのあと、仲間とワイワイ飲み会は禁止。おひとりさまでしか、店に入れない。
接客業や医療関係者ほか人と接する仕事の人がフェスに行けないのは困るなぁ。
https://www.bbc.com/news/world-australia-58381168
オーストラリアの死亡数が1003名に達したというニュースだけど
人口比で考えると、日本の3分の1という少ない犠牲者なのは、素直に素晴らしい。
同記事内で触れてる様に、ワクチン接種率は日本よりも低い状態でこれだから
島国においてロックダウンを連発できる事は、やっぱり有効手段だったんだよな。
昨年、ロックダウンが議論に上った時に私権制限だとか言って反対してた連中が憲法改正に応じてれば1万人くらいは救えた可能性がある。
現在の日本の死亡者数も十分少ない数字ではあるけどロックダウン出来てれば更に抑えられただろう。
死ななくてもいい1万人は、改正を議論をしなかった政治家に殺された様なものだと思うよ。
まぁロックダウン連発で経済が弱るのは間違いないし、治療法の確立と変異への対応が安定するまでは、インフルエンザの様に季節風邪扱いには出来ないし
数年は危機感を持って、なおかつ日々の暮らしや仕事を守りつつコロナと付き合っていくしかないことに変わりはないんだけど、付き合い方の一つとしてロックダウンが選択肢にないのは痛恨だね。
選挙するなら憲法改正とロックダウンの法制化を公約にして欲しい位だ。その党を支持するのが、自分と家族の命を守る選択になる。
よく考えてみれば、「ほんの数%の確率で、自分が無症状者または潜伏期間かもしれない」という理由で、感染拡大防止のためにマスクをするというのは、一見して馬鹿げた対策に思えるのも無理はないと思う。
「三密を避ける」というのも同じで、数十人が集まるならともかく、ほんの4~5人で集まるのに「この中の誰かが既に感染しているかもしれない」と想定するのが馬鹿馬鹿しいと思える気持ちも分かる。
だけど、みんなが「馬鹿馬鹿しい」と考えてルールを守らなくなったら、歯止めが利かなくなるんだよな。だからみんなが守るしかない。個人レベルでは馬鹿馬鹿しいと思っても、みんなのために守るしかない。
人権との兼ね合いが難しいところだけど、もはや私権を制限しなければ守れない人権もある段階に来ていて、「私権制限は人権侵害だから無理!」という単純な理屈では済まされなくなってきているんだよな。