はてなキーワード: 生活力とは
主に同棲をしているなどで、普段の生活において家事の分担が発生した場合に「家事手伝い」によって起こりうるすれ違い(ほとんどお気持ちのようなもの)を書いてみた。
そもそも、それぞれの家庭がどのように家事をこなすかということ自体様々なパターンがあると思う。
絶対にこれをしてはいけない。というよりは、自分はこういう風に思うことがあるんだけど、他の人ってどうなの?というのを家事をする側・手伝いをする側の双方の意見を聞けたら良いなと思って書く。
他にもこういうのあるよねというのがあればぜひ知りたいし、こういう気持ちで手伝ってるんだよなというのも聞いてみたい。
実際、いつも料理している人が料理を作れないみたいな時は後片付けも含めて億劫な状況であることが多く、料理部分だけをやってもむしろなぜ人が散らかしたものを自分が片づけるんだ!?という気持ちになりがち。
これはちょっと笑い話でもあるんだけど、こういう時に限ってなんかすごい面倒そうなもの作るね!?みたいなことがあったりする。せっかく作るんだからみたいなところから来るのかな?聞いてみたい。
せっかくのアンチパターンなのでこういう状況はどうすればよいのかみたいなことも書いておくと、サクッと出前を取るとかするか、料理するなら後片付けまでちゃんとやるまですればとりあえず良さそう。
後片付けのクオリティみたいなところもあるけど、その辺は期待値コントロール次第。
家事の種類によらず、自分が今まさにやっている家事を手伝おうとする、みたいなことが結構起こる。
自分が家事に取り組み始めた段階で、これくらいの時間でこの手順で終わらせていこうみたいな計画があるので、途中で手を出されるとそれを並行で進められてもなーという気持ちになることがある。
結構ウキウキで手伝っている気がするので、手持無沙汰な時間のコミュニケーション的な感じでやっているのかなー?と思っている。
解決策はシンプルで、残っている家事で手を付けていないやつをやってもらえるのがよい。ちょっと手伝おうと思うんだけど、なにすればいい?みたいなコミュニケーションがあるだけでじゃあこれお願い!となる。
家事の分担自体、最終的に生活力が高い人が多くを担う形に落ち着きがちだと思う。双方ストレスなく回るなら別にそれでも良いと思う。
そうすると、あまり家事をやらない方ができることと言えば、まとまっているものを定時に出すみたいな簡単な仕事になる(ならない?)。
で、例えばなんやかんやあって朝のゴミ捨てはお願いねという形になるのだが、これが普通に難しい。
朝ってバタバタしてて見逃すということもあるし、前日自分がゴミをまとめるのを忘れていたみたいなことも起きる。
あとは、複数種類のゴミをまとめて置いた場合に自分が持っていけるやつだけ持っていくとかもある。燃えないゴミは隔週だから本当に重要なのはこっちだったのに...とかもある。
自分は特に思いつかなかったんだけど、こういう簡単なものを任されたけどうまく回らなかったパターン色々ありそうだなーと思っている。
これの解決策、なんでしょうね?ゴミ捨ての場合は普通に24時間ゴミが出せるマンションに住むとかくらい?あとは、心配しなくてもゴミの日はまた来るのでくよくよ考えずに切り替える。なんかいい方法あったら教えてください。
なんか書き出してみるとそんなに出てこなかった。
現代、自動で色々やってくれる家電も普及しているしそもそもすごく大変な家事みたいなのは少ないのかも。
子供がいると全然違う、というのはあると思うのでもしあれば色々教えて欲しい&パートナーで話合う種になると良いなと思っています。
こうだと思いますわ
たとえば、
具体的には・・・
世間では「明るいこと」に比べて「後ろ暗いこと」への理解が浅い。浅すぎると思う。
そもそもいつからこんなに、明るさや賑やかさが正義とされ始めたのだろう。そして明るさを「楽しい」と変換する安直な人が増えたのだろう。
「性質」と「それがもたらす感情」は別物なのに、ごく当たり前のようにいっしょくたにされすぎである。自分の中できちんと「楽しい」に変換されたなら全く構わない。し、社訓や集団のスローガンに沿っていっしょくたになる場合は往々にしてあるから仕方ない。
けれどよく考えずに、よりによってその場の空気なんかで「楽しい」としているのはいただけない。
後述するように、思考を放棄すると自分のためにならないからだ。
明るく賑やかなものに触れると楽しい。後ろ暗いものに触れると気が滅入るし嫌だ。だから暗さは人生に必要ない。Q.E.D。
ここまで解いてペンを置く人たちが意外と多くて恐怖をおぼえる。はたしてそんなに簡単に証明できるものなんでしょうか。まだ終了のチャイム鳴ってませんよ。まだまだ考える時間はたくさんありますよ。ゲーデルの不完全性定理みたく証明できないということを証明しても間違いじゃないんだから、もうちょっと考えましょうよー!
情報が増えSNSが普及し、みんなが広く「人と比べる」ことを始めてから、世の中ではグッとわかりやすいものへの評価が高まった。
わかりやすいというのは、説明しやすいということだ。「楽しい」はわかりやすい。他者との濃密なコミュニケーション。よろこび。平和。笑顔。健康。皮肉にも先人たちのブランディングのおかげで、個人に沿ったものかは別として楽しいシチュエーションなんて山ほどあげられる。フェス。海。BBQ。友人とのランチ。家族との食事。etc……。
それに比べて「気が滅入る」「嫌」はどうだ。「楽しい」ほどポンポンシチュエーションが出る人は少ない気がする。
それは人によって全く違う形をしているのと、「嫌なことなんて忘れて、楽しいことだけ考えないと人生もったいないですよ♪」というひとつの考えが蔓延しているからだ。
はたしてそれがみんなに適応する考えなのだろうか。楽しいことだけで自己が形成されているわけなんてないのに、臭いものに蓋をしてしまったとき、ひずみが生まれないだろうか。そしてそのひずみは、今すぐでなくても時間をかけてゆっくりと自分を苦しめたり、あるいは自分が無意識に他者を攻撃する原因になったりしないだろうか。
私の母はもう還暦になるが、家の中でひとりでボケてツッコんで、永遠に喋り続けている陽気な関西人だ。器用で頭の回転が速く、生活力も抜群に高い。何をやらせても80〜120点でこなせるタイプで、どこでも重宝されて生きてきた。
母は子供時代、友達と遊ぶことを許されなかった。共働きの両親の代わりに家事を引き受け、弟の面倒をみた。ランドセルを放り出して遊びにいきたいのをずっと我慢して、結婚して家を出るまで一生懸命家族に尽くしてきた。
年月は流れ、両親も母も歳を取った。いざ相続に関する話が出たとき、母の親、つまり私の祖父母は露骨に弟を贔屓したそうだ。
母は当時50代だったが、そこから何年も「男尊女卑精神が染み付いた両親」と向き合うことになった。
『思えばずっと、あの家が嫌いだった。ずっと、両親の弟贔屓が嫌だった。でも、嫌ってしまったら「嫌な家庭に生まれた人間」になってしまうから考えないようにしていた。年老いた親を嫌うひどい人間になりたくない』……。
さめざめと泣く母を見て「別に実の親のこと嫌っててもいいじゃん。そういう自分を認めていいじゃん。『私はあの人たちを嫌いで理解できない』ってことを自分で理解しておけばいいじゃん」と言った。
これは言わなかったけれど「私は絶対に自分の中の『暗い部分』や『何かを嫌う理由』と向き合っておこう」と思った。
私は母と違って生活力もなければ大抵のことが40〜50点しかできないし、場合によっては0点も当たり前、でもある特定の条件が重なると涼しい顔で200点を叩き出せる、そういうタイプの人間なのでより一層そう思う。
これは私の持論だが、これから先もずっと自分の弱い部分や後ろ暗さ、悲しみや憎しみについて考えなければならないと思う(楽しいことなんて放っておいても無意識に考える)。
「ずっとトラウマを抱えるな」「いい大人なんだから忘れろ」「うじうじするな」「そんなこと考えて人生楽しい?」とかなんとか言ってくる人がいる。けれど、そもそも簡単に忘れられないからトラウマなのだし、「いい大人」なんて曖昧な言葉が理由になることなんてないし、うじうじしているのではなく向き合っているのだし、人生は広い目で見ると楽しいけどピンポイントで見ると全然楽しくない、そういうものだと思ってます。
勘違いされたくないから強調するが「『暗い部分』や『何かを嫌う理由』と向き合って昇華し、キラキラすっきりと生きていこう♪」という能天気なことを言っているわけではない。無理無理、それは私には無理。ずっと私は暗いもん抱え続けて生きているし、嫌なもんは嫌なまま。
その理由を言葉で説明できるようにしておくと「本当に無理なこと」を避けられる。客観視できるまで噛み砕いておくと「これに関しては私のバランス感覚がおかしいのだな、人を選んで主張しよう」「これは今いる環境によって自己がブレてしまって起きている事象だから、あまり気にしないでおこう」と判断ができる。
自分を知るという槍、客観視点という盾で戦うしかない。転生したらきっとチート主人公になれるのだから、今世ではとりあえず、武器を持って立ち上がろうと思う。
漫画ではドラゴンボールを筆頭に戦闘力を可視化してるわけじゃん
わかりやすいなら現実世界でもやってみよう。って話になったとして、
現代の戦闘力って何だろうと考えると、真っ先に頭に思い浮かぶのは、経済力になるよね
より具体的に言うと、年収または可処分所得に貯蓄額(不動産、投資なども含む)を追加したものになるだろうか
これが可視化されてしまうと、低収入の奴は見向きがされなくなってしまうんだよね
可視化って究極の客観視のわけなので、脳みそが足りないやつでも比較ができてしまうから
経済力のほかには、容姿、健康度、知能、生活力、腕力、コミュ力、繁殖力なども挙げられると思うけど、
したがって、現代において、戦闘力(=年収)を可視化してしまうと、これまで曖昧になってた人間としての魅力が
単純比較できるようになってしまい、弱者が這い上がるのはより困難になってしまうわけだ
このため、現代においては一部の高収入を除いて年収の公開なんてしてないわけだ
もちろん、年収の公開によって泥棒など犯罪に巻き込まれる可能性が高くなるって側面はあるけど、
それ以上に可視化によって自分が下層に行くのが嫌だから誰も公開しないんだよ