はてなキーワード: 根付とは
誰かに覚えて貰いたい
私の事ずっとずっと愛して欲しい
でもそんなの無理だって叶わないって、私の事をいくら愛してくれてもいずれどんな形であれそれは終わってしまうって分かってるから
君が私が死んだ後も私の事ずっとずっと覚えてて、ちゃんと記憶しててくれてて、ヤケ酒した時に思い出して泣いてくれるような女の子になりたいな
誰でもいいから誰かから私のこのちっぽけな器じゃ抱えきれない程の愛を与えて注いで壊して欲しいな
まともな思考もまともな恋愛も何もかもが程遠くて無駄な考えが浮かんで頭から離れてくれないのが怖いから何も考えていたくないな
私が産まれた理由とか生きてる意味とか全部全部どうでもいい事だと思うのに、それに存在価値を見出したくて仕方がないの
叶うなら私、真っ白で一面に咲き誇る花畑の上で動画を回して貰って、その中で私史上一番おめかしした私がくるくる回って転んでそのまま倒れてぐさって、銃で胸元を撃って死にたいの
そうしたら、そうしたら、真っ白な花が私の血で少しずつ赤く染まってって、凄く幻想的で美しいなって、動画も残って、それを見た人の心にああ綺麗だなって思って貰いたいの
愛した人の記憶の中の私はいつだって一番綺麗でいたいから、醜い姿が一番の印象なんて嫌だよ
全く現実的じゃない、ただの私の妄想、頭の中での創作に過ぎないのにどうしてこんなにこの考えが頭から離れないのかな
壮絶な過去を持った恵まれなかった女の子って設定を自分で忘れてないのかな
もしも私の心の奥底に昔の嫌な記憶が深く根付いてたとしても、もう過ぎた事だって割り切らないのは、私がこんな自分が大好きだからなのかもしれないな
でも、可哀想な私でいるうちは色んな人に可愛がって貰えるの
そんなの要らないよ、私には君だけだよなんてそんなドラマチックな言葉、私の口から出せたらよかったのに
可哀想な私を愛して、覚えていて、私、今確かに存在しているの、心臓がトクトク動いて、ちゃんと息をしているの、生きてるんだよ
ああ生きてなんていたくなかったな
河野 真太郎氏の私が一橋大学の教員を辞めた理由〜国立大に翻弄された苦しい日々
これが分断統治であるということの意味は、「教養対専門」の対立は、「大学改革」を押し進めるための人為的な対立だ、ということである
これは事実に反すると思う。「教養対専門」の対立は「大学改革」を押し進めるための人為的なものではなく、新制大学発足当初からある構造的なものである。そして、大学設置基準の大綱化を奇貨として大学側が旧教養部を解体したことで、むしろその対立が緩和されたと考えられる。
例えば、平成10年の大学審議会の議事録に以下の認識が残されている。
△ 教養部再編の時に各大学が積極的になったのは、教官グループ内の差別がなくなるということがインセンティブになったから。これから、大学院専任と学部専任という仕分けができてくるとすると、教養部の時に一度解決しているのに新たな差別を持ち込むこととなり、非常に強い抵抗があると思う。
また、旧教養部の成立から解体までを詳しく分析した第3章 教養部の形成と解体 一教員の配属の視点から 吉田文は、大綱化の背景を以下のように要約している。
P.61
一般教育に関わる規定が大学設置基準から消えた背後には、一般教育そのものに対する大学内外からの批判や不要論よりもむしろ、一般教育のみを担当する教員やその所属組織の存在に対する大学教員自身の卑下と格差解消の願望の歴史があったといってよいだろう。
もちろん河野氏も「とはいえ、大綱化によって、それまで存在しなかった教養対専門の分断・対立が生まれたという話ではない。その対立はずっとあった」と述べてはいるが、ではその対立とは一体どんなものだったのか。
P.65
民主化の旗手のようにいわれて新制大学に導入された一般教育であるが、専門教育しか行ってこなかったうえに、新制度下の組織編成も専門教育を行う学部が中心であった旧制度下の大学には、一般教育の根付く場がなかったのだといってよい。新制のもとでの教育がスタートしてわずか数年のうちに一般教育の座りごこちの悪さは、どのようなタイプの大学にとっても問題となって、それぞれの方式で解決策を見出そうとした。
で、一般教育の座りごこちの悪さはどのようなものだったかというと、
P.66
こうした(引用者注:教養部を法制化して学部と格差を埋める)要望が出されるに至った背景には、教養部が劣悪な教育・環境条件におかれていたことがある。名古屋大学の場合では「学部だと・・・文科系で教授三十二万五千円、助教授が十七万円。・・・理科系になると教授百二十三万円、」助教授でさえ七十五万円になる。それが、教養部となると、教授でも文科系が十三万五千円、理科系四十四万七千円。とても学部助教授諸君の足元にもよれない。」(名古屋大学、1989、p. 250)といった状況が記されている。こうした物質的な条件格差に加えて、「ごく最近のことだ。全学教授が顔をそろえた席上で『大学ではねぇー、こんな風にやっとるんだが、教養のはどうだね』と、・・・教養部の教授たちは、さぞくちびるをかみしめたことだろう」(名古屋大学、1989, p. 251)というような、条件格差を身分格差とみなすような日常が教員間には醸成されていたようだ。
このように、大綱化のはるか前から深刻な「教養対専門」の格差と対立が存在したのである。上記の名古屋大のエピソードは1950年代後半から60年代初頭の間のものと思われるが、そのエピソードをわざわざ1989年発行の大学史に載せるぐらいだから、大綱化直前の大学内の空気を推して知るべきだろう。そして、大綱化によってカリキュラム編成の裁量拡大が大学側に与えられ、このような格差を是正するために旧教養部を解体することを大学教員側が決断したのである。
ツイッター上には大学設置基準の大綱化によって旧文部省が大学の教養教育を破壊した、という言説が蔓延っている。しかし、教養教育を破壊したのは1990年代の当の大学教員側である。「教養対専門」対立に関する河野氏の主張も含めて、これらは大綱化を巡る歴史修正主義ではないか。
アメリカでは自由に?銃が買えるそうですが、どうしてなのでしょうか? - Yahoo!知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q126831922
アメリカでは自由に?銃が買えるそうですが、どうしてなのでしょうか?
ですから、殴ってきた相手を殴り返せば双方が暴行の罪に問われますし、身内が殺されて仇討ちをすれば殺人罪として罰を受けなければなりません。
この原則に我々が納得しているのは、自分達の力を使わなくても国家が救済してくれるという合意があるからです。
しかし、アメリカの開拓時代、当時のアメリカ政府は広大な西部の治安を自力で維持することが非常に困難でした。
この弁護士に限らず、最近の元官僚がドラ息子の非行を憂慮して刺し殺してしまった事件も、日本社会が自力救済に向かいつつある一例なのかもしれませんね。
動物は人間のご飯でした。過去数千年も人間は狩猟採集で生きていました。
狩で仕留めたマンモスを食べて氷河期を生き抜き、山でシカやイノシシを食べて生き抜きました。私たちの祖先はヤギや豚や牛や羊や鶏を、長い長い長い年月をかけて家畜化しました。家畜化なんて一朝一夕一世代で出来ることではありません。祖父から父へ、父から子へ、飼育のノウハウを受け継ぎながら、家畜を食べる肉食文化を発展させました。
色々な国で色々な食文化が発展してきました。それは日本のように仏教によって禁止されながらも、こっそりと楽しまれたり、文明開化とともに最先端の料理として食べられたり、ヨーロッパのようにソーセージやベーコンや干し肉なんかにして長期保存できるようにされたり、焼いたり蒸したり揚げたりして、美味しく食べれるように工夫されたりしてきました。イヌイットのように生食する民族も、沢山の香辛料でスパイシーに食べる民族もいます。食文化は、宗教やその土地の気候と密に絡み合いながら発展してきました。
文化は人間が長い歴史の中で作り上げた叡智の結晶です。衣、食、住の1つである、生き物にとって欠かせない「食」の文化は何にも劣らない人類史の大切な要素です。文化人類学的な価値を持つものです。
生物学的にも人間が動物を食べるのには意味があります。日本人だけが海苔を消化できるように進化したことは有名ですが、お肉も同じです。人間が肉を美味しく食べて、消化して、エネルギーとして利用できるのも、人間が長い間肉を食べ続けて、そのように進化したから美味しくお肉が食べられるのです。お肉を食べるのは人間が生態です。人間は雑食なのですから。
連綿と続くこの歴史の中で、動物が可哀想だという考えを持ち、肉食をやめることもまた文化です。人類がそのように方向転換し得る可能性を持つこともまた大切なことです。
しかし、それを望まぬ人に強要すること、人間全体から肉食文化を奪うことは文化の破壊です。畜産家や肉屋やコックさんから仕事を奪う権利は誰にもありません。
食文化は生活に根付いて始めて意味があります。レシピの本だけあっても仕方がありません。肉を食べないということは今まで育んできた肉食文化を永久に手放してしまうことになります。日本の和食が文化遺産であるように、世界の肉食文化は和食よりもうんと重要な文化です。ヴィーガンの肉を食べない「食」が尊重されるべきように、私たち雑食の食文化も尊重されるべきです。
体罰による躾を肯定した記事を書いた増田がボコボコに叩かれてたのを見て、私も体罰による躾があったからこそ、こうして今がある人間として思うこともあるので、ここに書いておきたいと思う。
はてなには体罰による躾を一切認めない人たちが多い。それについて例の増田じゃないけれど私も疑問を覚える。
その理由は、体罰が必要な子供も本当にいることを、私は私自身の行動から骨身に沁みて知っているからだ。
幼稚園の頃から私は他人が苦しんだり悲しんだりするのを見るのが好きだった。
絵本でも児童書でも、いじめられてるシーンや恥をかくシーンを見て興奮する子供だった。
何をしたのかはあまり覚えてないが幼稚園の頃から、なんでお友達に意地悪するの!と母によく怒られていたことは覚えている。
小学生のとき授業参観の日にクラスの大人しい子の教科書を朝にこっそり盗んだ。
後ろに親が並んでるなかで教科書がなくて必死に探して泣き出した子を見て楽しかった。
でもなぜわかったのか、母に家に帰ったら問答無用でランドセルの中を見られてその子の教科書が出てきて思いっきり叩かれた。
それが私の受けた体罰の最初の記憶だ。そのあとから体罰が度々行われるようになった。
あるとき、AちゃんがCちゃん宛てにBちゃんの悪口を書いた手紙を捏造してこっそり教室に落とそうと考え、その手紙を書いてるところを母に見つかった。
母は号泣して私を殴りつけ父には何度も蹴られた。全身が痣だらけになるくらいで次の日は高熱が出た。
でもそのおかげで「痛み>快楽」の方式が自分の中に根付き、他人に嫌がらせをすることをやらなくなった。
私物はすべて管理され部屋も与えてもらえなくなったから自由もなくなったことも大きい。
父に自分が行ったことをすべて書かされてから学校に無理やり連れて行かれて、教室で先生やみんなの前で読まされたことで、私自身がいじめられる側になり他人に何かを出来なくなったことも影響はあったとは思う。
ただそのすべてで私は私の行動を社会的なルールに適応させることを学べたし、犯罪を犯さない人生を歩めた。
両親は私が中学生の頃に、父の兄、私にとっての伯父に当たる人が、女性を強姦して逮捕されたことなどの影響で、夫婦関係も難しくなり離婚した(父は五人兄弟だが私が産まれる前にも一人逮捕されている)が、父はその兄と私が似ていると心配していたらしい。
私は女なので強姦で逮捕される可能性は低いが、あの体罰がなかったら違う罪を犯してたんじゃないかと自分のことながら疑ってしまう。
子供は好きなことをやってしまう。好きなことが社会的に悪いことな場合は体罰は必要だと感じる。
申し訳ないが反省や後悔はしていない。私がどう感じようと、その人に傷が残っているなら残り続ける。なので意味があるとは思えない。
感情の強制なんて誰にも出来るわけはないと思うので、問題なのは私が行為を繰り返すか繰り返さないかだと思う。
あなたの意見を全否定するつもりはないが、ここ6年ほど子育てして分かったことを1つだけ書く。
「あの歳の子供はイヌやネコと一緒。理屈をどれだけ丁寧に言ってもむだで~」
少なくともこれは、真実ではない。子供によっても違うだろうが、我が家ではそうではなかった。
もちろん一度言って聞かせたことを即理解できたわけではないが、子供は私の言ったことを覚えていた。
何度も繰り返して言って聞かせたことが何年後かのあるとき、娘の行動指針として根付いている事を確認できた。
そしてそれは犬猫の躾のようなネガティブな反射ではなく、きちんと「なぜ」という基盤に則ったものだ。
叱るために子供に手を上げる事は親の精神的負担を伴い、これを避ける事は親としての覚悟が足りない、安易に親の責務を放棄している、とでも言っているように見える。
趣旨とは外れた見当違いの話なんだけど
犬猫の放し飼いはさておき、家畜の放牧を何もしてないみたいに言うのはおかしい
家畜の放牧は家畜のストレスを最大限減らすために行なっていて、しかも、その背景にはしっかり病気などに感染してないかなどの徹底した管理がされている。
牧場内(放牧場など)は他所からやってきた靴などで入ってはいけないのは知ってるか?
それくらいデリケートなんだよ
犬猫はしつけという問題があるけど、それでも、きちんとしたしつけではなくて暴力を受けたら人間が手をただあげただけでビクつく
信頼関係がそこにはないと言ってもいい
それは世間一般でいう"虐待"を受けた人間によくある現象ということを最初に理解してほしい。
子供も育てている歳となると、もう価値観として強く根付いているかもしれないが。
お前が家畜の放牧を挙げたことを前提に話すと、例え暴力(殴る蹴るなど以外で、精神的な暴力を含む)をしつけ上で行いたいとしても、しっかりと子供の病状や心情などの管理はできてるのか?
現代ではあと80年90年生きるかもしれない娘のことをよく考えてやってくれ
その兄がGW明けから自衛隊に2週間ほど缶詰になって研修を受けると聞かされた。
内容が気になったので案内のパンフレットを見せてもらっていたが、これが本当に酷いものだった。
アラフォーのおっさんたちを集めて、国旗に敬礼だのベッドメイクだの掛け声三唱だのをやらされるようだ。
辛い……こんなものを「幹部研修」として大手企業がやらせていることが辛い……。
兄は「こんなごっこ遊びでお金が貰えるんだからありがたいよ。行ってる間はノルマが達成できそうもないから給料は減っちゃうけどね」と笑っていたが。
気合を入れたらなんだか突然不思議な力が湧いてきて物事が一気に解決すると信じているおっさんたちが大勢いる。
子供向けのホビーアニメと脳みそのレベルが何も変わらないことを、自分たちが荒波に揉まれた末に見出した現代社会の奥義であるかのように語る。
巫山戯ている。
人口ボーナスや朝鮮特需の中でたまたま経済の波に乗れただけのことを、自分たちの大和魂がその結果を生み出したという錯覚を抱えたままで奴らはのうのうと暮らして、最後は年金制度の最後の一山を全部かっさらって死んでいくのだ。
殺してやりたくなった。
自分の身内が務めている会社の上役や、その上役にこんな無意味な商品を売りつけた国営ヤクザ共を全員殺してやりたくなった。
2020年も間近になっておきながらこんな精神論を振りかざしている人間たちの中で生まれて、それに迎合して生きている自分が恥ずかしい。
牟田口廉也の命じるままに大勢の人間が無駄死にしてから3世代経って、結局何も変わってない自分たちが許せなかった。
死にたい。
仮に、女系認めても、結局皇位継承者が少ないことは同じ。先延ばしにしかならないので。
旧宮家復帰か、
個人的には秋篠の宮さまが割と進歩的なのでいまからでも側室設けていただきたい。
そもそも一般人も戦前戦直後の家系図みると結構な割合で、(側室はおおくないだろうが)腹違いの子どもがいることが多い。死亡率がたかかったこともあるだろうが、この辺り民俗学的にまとめてる本でもないだろうか?。こうした側面も、日本が戦後すぐに少子化にならなかったことにも一役買っているはず。
個人的には男系で1000年以上つづいてるなら、一次的な時代の風潮で伝統をかえずに、女性天皇をはさみながら地ならしして、あとざっくり500年くらい男女平等が根付いてから女系を認めたら良いと思います。
いずれにしても、雅子さまのこれまでの状況から、日本の少子化と、決められず先送りする社会の犠牲まで体現されていて、いい面も悪い面も、日本の象徴になってて、神ががっていると思う。
EM菌騒動や失敗大全などで、科学的でないものが否定されることにことになったのが最近。
それまでリテラシーない人が多くて届かなかったが、長い時間をかけて「科学的」な考え方が広まってきた。
同時に「論理的」「統計的」な考えも伝播しそうなところだが、今一歩のところで止まっている。
ただこれは進みが遅いだけで、論理的な考え方はこの国に広まってきている。
ゲーム理論が日本においてアカデミアを飛び出して一般化してきたのは2000年代から。
それから20年。これでようやく30代、40代の社会的発言力がある一般人に根付いている状態になってくる。
(逆に検定論などのような物古いがまだまだ一般化していない)
消費税増税延期をめぐって信を問う可能性なんて話を萩生田氏が発言するなどしている( https://www.jiji.com/jc/article?k=2019041800634&g=pol / https://www.ytv.co.jp/press/politics/32768.html )。そんなところで再び思うのだけれど、仮に野党が勝つことで政権が入れ替わることに期待するにしてもしないにしても、これはあくまで先の民主党政権のときに指摘されていた、日本の官僚機構に根付く問題や与党と政権の関係に基づく問題というのはそのままになっている中での話だということだ。
どんな政治的な立場の人にとっても、その部分に手をつけない現政権には、将来の国家運営資する期待を持ちようがないはずである。
つまりごく挟視野的な期待で「自分は賭けに勝てる」と信じているものたち以外にとっては、この問題に手がつかないまま早数年を経た現政権への実際的・長期的な魅力はないまま、しかし現政権はその立場を維持しつづけているのが現状だろうということだ。
そんな中で、現政権の「お友達」的な姿勢は、もともとの官僚機構の問題や与党と政権との関係の問題を避けようとする中で(当然だが、管理機構と政権関係や政権と与党との関係についての問題は現政権にとっても問題であるわけだから、彼らなりに何らかの対策を講じているのだ)公文書問題などさらに別の懸念点問題点を生むばかりだ。彼らはこの問題に関しての革新的な方法論を示すどころか、日本の政治機構への負の遺産を積み上げる大活躍を繰り返しているばかりである。
これは言い切っても間違いではないと思うのだが、現政権には、たとえ第何次との数字を重ねたところで、官僚機構や与党と政権との問題を改善する力も意思もない。つまり、現政権自身がチートによる「勝ち抜き」を信じる存在そのものであり、将来に通じる政策に取り組もうとしてしかしまだ果たせないなどという「美しい」存在では決して、ない。チート思考である以上、現在のルールへの自負や敬意があるわけではない。彼らにとってのルールや構造というのは、ただ単に「勝ち」に関する、自身が信じる合理性の材料であるというだけの話だ。
しかし(この点がこの文章における嘆きの中心なのだが)現政権・現与党がこの問題に手をつけなければ、問題は先延ばしになって他からそこにコミットするルートも方法もない。私自身、民主党による政権交代とその失敗から数年を経てやっと言い切ることができるようになったのだが、しかしこれが現状であるようなのだ。
つまり、現政権にとって代わろうとする勢力があったとして、彼らはまず最初に失敗を約束されているということだ。構造的に政権交代を果たしたとしても、その同じ構造によって、失敗を運命付けられているのだ。
制度的には、ついには国民の不利益として司法権に訴えるという方法が考えられるものの、一票の格差問題についての弱腰さを思えば、司法もまた現状では、限界を訴える存在のひとつなのかもしれない。つまり今のところ、ここに大した期待は持てない。
そのような構造と現状の前で、選挙によって可能になる最大の現与党への働きかけというのは、現政権にお灸を据えるといったごく可愛げのあること以外に何も無さそうなのである。これは同時に、野党による前向きな政権交代に期待したところで、この負の構造を引き継ぐことになるその新与党の仕事自体には、そもそも構造的に期待できるものはないという話だ。
この点は、現与党もこの社会のマスメディア論壇も、民主党政権の失敗や民主党政権への大きな落胆を彼らのパーソナリティに押し付けることで自身の立場を得ており、よって、ほぼ意図的に、これが私たちが共有する構造上の問題であるとか継続した論点であるというふうには扱われていないと言えそうである。
このことは、現与党に任せたい仕事に関してより良い質を期待する層にとっても、まったく同じく、大きな問題である。しかし、実際にはその是正を促す方法がないままになっているのだ。
ではその限界を分かった上で、仮に近い将来政権交代が起こり、今ある限界のままその政権が失敗に終わるとして、そのことを私たちの社会が予定された正しい敗北としてポジティブに受け止めるようなことは可能か? といえば、これはまず無理であるとも感じている。選挙で負けた現与党以上に、その新政権への参画者たちは傷つくことになるだろう。
その後の無法を思えば、現政権の敗北に期待するのがそら恐ろしくなるという意見があるとしても、私はそれを責めづらく感じる。
天皇陛下の野党論 http://diamond.jp/articles/-/13434
イケノブ http://agora-web.jp/archives/1668593.html
いまの政権と民主党政権の、官僚制をめぐる「意外な共通点」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57386
民主主義の良さとは間違っても、やり直しがきくこと https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/yoshida-toru
われわれとしては、解散を堂々と受けて立つ用意がある(福山) https://twitter.com/fuku_tetsu/status/1118781710437474305?s=21