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はてなキーワード: 官位とは

2024-07-21

弥助が侍かどうかなんてどうでもいいと思う

まぁ多分侍かなとは思うけどだから侍だから何なんだろ?逆にそうでなかったとしても同じ

雑賀衆みたいな国衆とか宮本武蔵とかも侍かと言われれば「どうかな?」ってなるし、だからといって武力がないわけじゃないし正直何に拘ってるかわからない

もし自分が拘るんだったら官位の有無かなぁ

こっちは多分ないと思ってる

2024-01-07

anond:20240105203713

関東平野って本当に平野なんだなあ、と感心したのはいつのときだったか

まだグーグルマップもなかった子供の頃、信長の野望リアル日本マップとして採用したときだったっけ?

うわー、こんなに平地だらけで田んぼばっかり作れるのはチートやろと思ったときだったか

よくもまあ、こんな土地徳川家康みたいな外様にくれてやったもんだよな、みたいな感情もあったような気がする。

豊臣秀吉政治感覚京都を中心とした地域西日本方面に向かいすぎていて、

関東というのは辺境である、という感覚が濃かったのかもしれない。

それは秀吉信長の部下として西へ西へと進出していったことがひとつの要因かもしれない。

尾張を起点として、

信長の勃興期に奮闘し、

近江領地をもらい、

毛利攻略を命じられ、

筑前守は九州制覇ををその任務とさせられる官位だ。

きっとその先、というもの身体感覚としてすでに持ち合わせていたのだろう。

高度な文明を持つ東アジア大陸文明へと近づいていくことの指向性をもっていたのだろう。

まり秀吉にとって文化文明とは常に西に向かっていくことで獲得していくものだったのだ。

そのような感性の持ち主に関東というのは甚だしく辺境に感じられ、

日本国というものを正しく治めるためには最重要地域とはいえ魅力を感じなかったのだろう。

辺境伯、というもの欧州にはあったらしいが、きっと秀吉家康辺境伯にでも任じた気持ちだったのだろうか?

しかし、辺境伯というものはやがて力をつけて中央政権を取るもの相場は決まっている。

そのことを秀吉が知らなかったのは致し方ないことだが。

2023-10-24

戦国がほmとか腐女子一定の人気があるのはこういうところだと思う

家康秀吉が和平した後、最初使者として秀吉から康政が指名されたという。康政が上京して秀吉と対面した時、秀吉は「小牧にて立札を立てた私の首を一目見たかろうと思って呼んだが、和睦した今になってみればその方の志はあっぱである。それを言うためにここに呼んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか徳川殿は小平太殿のような武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下式部大輔官位を贈ろう。」と言い、祝宴まで開いたという[3]。

いわゆるホモホモしいネタに事欠かない

2023-09-26

国家誕生とは

日々暮らしていると国家なんか意識しないよね。

働いてメシつくってわちゃわちゃやっているだけで忙しく人生はあっという間に終わってしまう。

どんぐりあつめるのって楽しいし大変だからな。

となりの集団けしからん、やっつけちゃえ、とかあるかもしれないけど、 それは国家誕生には程遠い。

日本における国家誕生

日本における国家誕生

それはヤバイ隣国の登場である日本の生みの親は煬帝煬帝ヤバい。超ヤヴァイ。見るもの触るものすべてぶっ殺す。隣国人民もぶっ殺す。滅茶苦茶である。この滅茶苦茶な煬帝に率いられた狂集団誕生でわちゃわちゃやってただけの日本日本という国家意識するようになった。煬帝誕生までは、日本日本でなかった。自分国号も決めてないレベル煬帝が現れてから急拵えで法律官位通貨などを整備するようになった。国史とかも編纂したり。

幕末日本

面倒だから省くけど、幕末日本煬帝の頃の日本と似てるよ。

令和の日本

面倒だから省くけど、令和の日本煬帝の頃の日本と似てるよ。プーさん煬帝よりもヤバイって。

日本には法律がないからこれから急ごしらえで整備しないとだめだよ。

2022-08-12

anond:20220812104247

cloudはくろうどじゃなくてくらうどって読むんだよって教えてやれ

現代日本には蔵人って官位はないってことも

2022-07-19

anond:20220719165355

検索スキル高いなー

俺は「官位 八位まで 知恵袋」と調べてみたが有用情報に突き当たらなかった

知恵袋一言入れると結構親切な回答でるもんなんだけど今回はだめ

wikipediaのほうが成功率高いんだろうか

anond:20220719164944

いや、大学でその辺の勉強をしたときレポートかなんかを書かないといけなくて調べた

大化の改新後に大化の詔が発令されてその中に新しい官位体系が含まれてて

それの実施と同時に冠位十二階は撤廃された、らしい

 

基本的に「あの聖徳太子がやったんですってよ!」だけが重要トピックスなので

2022-01-28

anond:20220128075604

運用保なんて旧国名はないぞ。

 

「守」は基本的三河守とか越前守とかいう具合に

国名+守で表させれる律令制官位

地方長官のことだ。

元増田が何と勘違いしてるのかはわからないが、

とりあえず運用保守なんて官位はないのだけは確かだ。

2021-07-18

anond:20210718152437

鎌倉時代に乱発された官位現代港区タワマンなんだよな

戦乱になったら一気に没落するだろうね

2021-06-28

anond:20210628093947

無理無理

アマチュアリズムが強いということは個人簡単プロで金稼ぐ方法技術転用ができることを意味してる

例えば剣術なんかそうだろ江戸時代の、平安鎌倉弓術もそうだ

検非違使滝口の武士になっても官位貰えないんなら地方に降って蝦夷に混じって猟師農家やるわって簡単コンバートできた

今そんなことできるスポーツどんだけあるよ?

野球サッカー崩れが行き着く果てはオレオレ詐欺受け子アポ強盗じゃないか

プログラミングアプリだけ脳みそインストールされてるだけの発達障害増田たちみてぇな奴らの行き着く果てがHagexとかはあちゅうみたいなネット山師がせいぜいなのと同じ

アマチュアが強いスポーツ技術成熟してないって側面もあるんだけどね

2021-06-11

廃族と呼ばれた男

廃族とは、国家に対して大罪を犯した先祖の罪のために、その子孫が官位に就けなくなった家門を意味する。

2021-05-08

平清盛に置き換えてみた

池江 璃花子 on Twitter: "いつも応援ありがとうございます

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/rikakoikee/status/1390638021943316482

ブコメが酷いので平清盛に置き換えてみたりしといた。

出家できるのに太政大臣してる平清盛との対比。

平清盛置換バージョン

「そうか、君らアスリート国民がどんだけ死んでも自分たち競技勝利と栄達だけが大事なんだな」ってリプつけにいかないと

「そうか、君ら平清盛農民がどんだけ死んでも自分たち仕事生活と栄達だけが大事なんだな」ってリプつけにいかないと

自分利己的な小人物」との告白だね。辞退は金メダルよりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。

自分利己的な小人物」との告白だね。出家叙勲よりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。

軽蔑する。何もできない?太平洋戦争徴兵された兵士か何かか?拒否したら憲兵に殺されるのか?

軽蔑する。何もできない?源平合戦徴兵された足軽か何かか?拒否したら奉行衆に殺されるのか?

飲食演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、コロナと戦うために色んな犠牲払ってる中で、アスリート無罪は俺は受け入れられない。自分意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。

飲食演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、末法思想と戦うために色んな犠牲払ってる中で、平清盛無罪は俺は受け入れられない。自分意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。

競技団体が動くべきだとは思うが、選手も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??スポーツ団体にも税金は使われてるし、ワクチン医療ボランティアの話に何も思わないと??

帝が動くべきだとは思うが、平清盛も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??朝廷公家にも年貢は使われてるし、飢饉鎮護国家の話に何も思わないと??

矛盾するようだが、例えば池江選手個人」に「辞退しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、この五輪に全面賛成する選手は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮にメダルをとっても軽蔑する。

矛盾するようだが、例えば平清盛個人」に「出家しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、日宋貿易に全面賛成する平氏一門は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮に宋銭をとっても軽蔑する。

自ら行動してみろバージョン

平氏一門の官位上昇を物語として消費された上に源平合戦マスコットのような存在にさせられてしまたことはとても気の毒なのだが、「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う

アスリート朝廷でいえば平清盛に過ぎない、辞退したら食っていけない、というブコメには賛同できない。公家が反朝廷活動をしていたら出家すべきだ。しか日宋貿易朝儀ですらなく一つのイベントに過ぎない。

平清盛が「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う

匿名戒名晒すだけで出家になるかもよ?

出家できるのにしない平氏一門は「反朝廷活動」じゃないの?さっさと切腹してね。

最後に置き換える必要もなかったバージョン

平清盛なのはわかるけど、平清盛でもやれることはあると思うぞ。

そうだな


anond:20210508032456

2021-04-07

活動家への集中砲火は当然の帰結

戦後ずっとこの国は成長して来ていて(過去完了型)、そんな時代にそこから取り残された者としての障害者や老人なんかへの福祉が叫ばれた。どんどの豊かになっていく暮らしの中で、まるで戦後バラック生活みたいな悲惨暮らしをしている人間がいるという事で、国民理解も得やすかった(朝日訴訟とか)。

翻って、今はどうか?

失われた20年で国民所得は下がり、しか福祉はむしろ充実して行った。障害者の主な収入障害者年金障害者手当、それに生活保護だけど、これらが所得と比べて落ちてないのは周知の通り。バリアフリーも進み、生活用品の支給なんかも充実している。

要するに、弱者のはずの老人が貰う年金が、若者収入が落ちまくってるのに変わらないのと同じで、逆転現象が起きてる。そこへ持って来て、決して待遇が良いとは言えない駅員を、コロナ禍のど真ん中に平日旅行としゃれ込んでる障害者言論でぶん殴ったら何が起きるか?起こるべくして起きた事だと思う。

福祉ってのは経済的繁栄おこぼれなのに、ゼロ成長で没落しつつある国で福祉だけは事前の計画に沿って(多少の減速はありながら)充実している。要するに、あの重度障害者は、不労所得で食ってる地主年金付きの官位持ちみたいになってるわけだ。

先天障害はお気の毒だと思うが、ヘルパー派遣・補装具支給・大量の金を突っ込まれて働かずに生きている彼等が「我こそは弱者なり」と誰かを言論でぶん殴るなら、同じ拳が返ってくるくらいは覚悟するのは当たり前だろう(銃で撃たれたりないだけ日本平和だ)。

エレベータ設置にせよ人員手当にせよ、「お前にかかった金はどこから出てると思ってる?」ってのは、給料の数割を社会保証の名のもとにふんだくられてる貧乏から出る言葉としては、一番穏当な部類だろう。

まあそもそも、各種の「活動」で矢面に立った人間(だいたいは医療関係者行政関係者、あとたかられる企業)はあの手の活動や団体を大っ嫌いになるので、今までたまったもんが吹き出してるって面もあると思うけどね。

外交画面もチェックせずに戦争始めて大同盟に包囲されたようなもんで、良く言って「当てが外れて残念でしたね」悪く言えば「ざまあ」としか思えませんわ。

2021-03-16

「ジョブ型雇用」導入すれば、係長にもなれない人が続出する:日経ビジネス電子版

でもね、欧米ジョブディスクリプションを見れば、実際にはもう細かいタスクなんて書いてない。昔はタスクが書いてあって、このタスクをやれば帰れるという仕組みだったけど、今はそうじゃない。周囲の仕事も手伝うとか、規定にない場合上司判断に委ねるとか、書いてあるんですよ。で、もう明確に規定などできなくなっている。その結果、何が起きているか

 今度は人事コンサルタントがそれを見て、タスクではなく、責任とか理念とか職責とかが書いてある、いわゆる「グーグル型」に変えようみたいなことを言っているわけです。それって日本の職責グレードとか役割給とあんまり変わらないじゃないと僕は思うんですね。

昔、大英帝国インド統治したとき官位と職位(役職)を併記したのを思い出した。今の南アジア全般がそう。短期的な成果の評価と長期的な経験パラレルに扱うメカニズムがあるといいのだろう。

2021-03-09

ぼくのかんがえたなまえのほうりつ

 この投稿は「日頃から匿名ガーと暴れている人こそ丸山珠代の芸名使用夫婦別姓正当化するのは乱暴すぎると問題視すぐべき、そもそもなぜ保守派本名芸名を一緒にする野蛮人を叱ろうとしない?」という趣旨です。

 

 

通称管理

 

三等通称 本名及び旧本名アレンジ

四等通称 本名及び旧本名の原形が皆無

 「なんで序列化するんだ!!」と感情的になるのがわかりきっているので、すごくわかりやすい部分を先に説明しますね。

 いやでしょ、友達のいないオタク勝手に名乗っているハンドルネーム友達自然に与えたあだ名が同列だなんて。

 友たちが与えるあだ名って、大抵本名アレンジなんですよね。

二等通称 芸能人であれ作家であれ例えプロになっていなくても芸名管理センター登録

 たとえ売れてない以前にプロデビュー出来ていないだけでは飽き足らず、コミケサークル参加したことすらない人でも登録さえすればちゃんとした芸名

 一見乱暴に見えますが、十年以上使い続けていたら人間関係ぐらい出来ているものですし、そもそもしかるべき組織登録」しているのです。

 簡単に年齢と本名がばれるリスクを背負う覚悟がない人に匿名批判をしてほしくいないです。

 ちなみに三等と四等は法律レベルラベリングされるのやらかした後ですわ。

 普段はそんな物わからない(本名キラキラネームの人だっているし)

 あと、官位氏姓の復活も視野にいています

 どうせ「左翼ネトウヨ中二病がが勝手登録するぞ」とごねるのでしょうが勝手にやればいいしっていうか、むしろ本当にやらかすバカの名簿が作りやすくなる。

 

一等通称 夫婦別姓

 法律レベル

 どんなに優れた芸能人であっても、本名大事自分の親の姓を護りたいのでしょ? それともリベラルっぽいものを片っ端から要求したいだけ?

 

外国人通称 外国人日本人

 これは別枠。順位をつけたらキーってなるでしょう、

 

 

 これだけ説明しても公文書レベル夫婦別姓要求する様な原理主義者とハンドルネームネイティブ悪魔合体蔓延るかと思う頭が痛くなる。

 後、キモオタなのでLINE本名アレンジっぽい名前を見ると「こいつ、うちの仕事関係なのか? 詐欺師じゃないのか?」と悩みます

 フルスペックニートだったらどれだけよかったか

2020-12-25

anond:20201225103526

あいだに官位名が挟まってたから、みたいなトンチ話?

2020-09-04

ナーロッパがあるならナジアやナッポンがあってもいい

和風ファンタジー中華ファンタジーはすでにジャンルとして存在するわけだが、なろうやその周辺では相変わらずナーロッパが人気なのかな?

でもナーロッパ的な世界の作者と読者はヨーロッパ歴史文化を必ずしも熟知しているわけじゃないから、実質日本になるよね。

ナーロッパをナッポンにするなら、剣や魔法は刀や陰陽術にそのまま置き換えられるし、むしろヨーロッパよりも日本歴史の方が我々はよく知っているはず。爵位日本人には理解が難しくても官位幕府役職ならならわかりやすいだろう。

2020-05-05

anond:20200504154613

出羽」とは日本旧国名行政区画の1つである現在山形県秋田県領域

出羽守は、出羽中央から派遣された国司官名

古代から中世日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守、介、掾、目を指す。

律令制崩壊後は、任地と関係なく、朝廷官位名称として用いられた。勝手に名乗っていた武士も多い。

欧米『では』~で」とよその状況を引き合いに出す人のことをいう。

2019-10-20

anond:20191020123254

まぁイケイドンドン天皇って歴史を振り返れば少ないしな

しろ立場上、共産主義的というか平等主義なとこある

頑張った人に官位を与えたりする立場

まぁ建前上平等なだけだが

2019-07-04

女性名前に「○子」が多く四音の名前が少ない理由

anond:20190701200632

日本では個人名前は「石川麻呂(いしかわまろ)」や「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」といったふうに長い訓に漢字を当ててきたが、嵯峨天皇のころ遣唐使であった菅原清公の進言によって、男子名前漢字で二文字か一字、女子名前は「○子」とするといった、漢風の名前使用が進められ、定着した。

諱 - Wikipedia

この菅原清公っていうのは菅原道真のおじいちゃんな。

具体的な後世に残った事績としては、それまで和風だった人名のつけ方を唐風に改めたことが挙げられる。男子場合坂上田村麻呂」の「田村麻呂」のような形式から菅原道真」の「道真」や「藤原基経」の「基経」といった二文字訓読みか「源融(みなもと の とおる)」の「融」や「源信(みなもとの・まこと)」の「信」など一文字訓読みという形式にし、女性名前の「○子」という形式にすることは彼の建言によって導入されたものである

菅原清公 - Wikipedia

まず単純に、名前の二文字目が「子」で固定されると、必然的に読みは三音になりやすい。

男性名だって、「○太」とか「○斗」といった形式だとだいたい三音で、二音や四音は少ないもんな。

このあたりは音韻問題もあるのかもしれん。

で、貴族実名に付けられるこの「○子」はいちおう庶民にも広まったらしいが、

室町時代からそもそも女性に「実名」をつける風習がなくなり「通称」だけを持つようになった。

まり「松」とか「亀」みたいな二音の簡単名前がつけられて、

「お松さん」とか「お亀さん」とか呼ばれるようになった。

この傾向は江戸時代まで続いたけど、

明治になって庶民公式の姓名を名乗るようになると、

貴族の名付けである「○子」は庶民の憧れだったので一気に増加する。

女性名と[子] - nihonjin-name !

最初のうちは「〜〜氏」「〜〜女史」みたいなのと同じ敬称として扱われていて、

本名の「松」や「亀」に「子」をつけて「松子」「亀子」とか呼んでいたらしい。

津田梅子与謝野晶子本名「うめ」「しょう」だった。

それがだんだん本名として最初から「○子」と名付けられるようになった。

もとが二音、「子」を付けて三音、というのがここで増えていったわけだ。

明治安田生命の名前ランキング大正元年まで遡れる。

明治安田生命 | 名前ランキング2018 - 生まれ年別名前ベスト10 - 女の子

「○子」のピークは1956年と言われていて、そこから「○美」が増えていったらしい。

なんでこの時期に「○美」が増えたのか分からんが、

高度経済成長時代に入って社会雰囲気が変わったのもあるだろうし、

そのちょっとから「由美子」「久美子」「恵美子」「美代子」「美智子」などと「美」入りの三字名の人気があったから、

そこから自然と「子」を外すようになったのかもしれんね。

思いついて宝塚歌劇団女優芸名確認してみたけど、

1953年入団宝塚歌劇団40期生あたりから「○美」が増えている気がする。

「当時、こういう名前がかっこいいと思われていた」という傍証になりそうだ。

宝塚歌劇団40期生 - Wikipedia

(もうちょっと遡ってみたら33期生だけ特異的に「○美」が多いな…何かあったんだろうか…)

それからしばらく「○子」と「○美」の時代が続くけれども、

1970年代に入ると「美香」「美穂」「香織」「恵」「愛」などがランキング上位に登場してきて、

ようやくバリエーションが増えていったという流れ。

一方で、男性のほうのランキングを見ると、思ったよりも三音の名前が多い。

「清」「正」「茂」のような一字名はもちろん「正治」「和夫」「達也」なんかも三音。

四音の名前は「○一」「○郎」「○介」「○平」などの形になる。

これらはだいたい「生まれの順番を表す字」か「官位名に由来する字」なので、

女性名に見られないのは納得。

武士時代が長く続いたなかで男性名けが多様化していったのだと言えそうだ。

ちなみに「○郎」の由来は「○子」と同じく嵯峨天皇な。

日本において太郎という人名が登場したのは、嵯峨天皇第一皇子の幼名に命名したのが初見とされる。

以後、武士階級の名としても広まり今日では一般的命名される人名ひとつとなっている。



以上から考えると「四音の女性名が少ないのは何故か」には、

二音の女性接尾辞が無かったからだ、ということになり、

「二音の女性接尾辞が無かったのは何故か」というと、

社会的地位の低かった女性人名接尾辞バリエーションが少なかったからだ、

と言えるのではないか

(「人名接尾辞」って書きましたがたぶん正式用語ではないので「止め字」でいいと思います

2019-03-28

anond:20190328114807

官位かぁ…役職とは違うのかな?

本当にそういう名誉を与えるのって大事だと思うけどな。今も叙勲とかあるけど。

「完済カード」とか発行して、美術館が割引になるとかさ。そういうメリット提供していくのいいよ。

2018-03-13

anond:20180307210243

諱、仮名、号、官位名とかごっちゃにしないほうがいいのでは?

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

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