はてなキーワード: バブル期とは
誰も言わないからあえて言わせてもらうけどさ
ポスドクワープアの増田とか、彼女や彼氏がいないとか日本ではまともなIT企業がないとかいってるけど
こういう、一見能力は高そうだけど雇止めやロクに雇われなかったり会社で爪弾きになったってことは、ぶっちゃけその程度の人間ってことでしょ?
これって、逆に言えば研究者やITエンジニアや彼氏彼女持ちなんて、その程度で根性でなれるほど甘くはない、ということだし
そういう能力の足りなかった増田みたいな人間を排除することで、日本のITエンジニアや研究者の質や、優秀な遺伝子を保ててることになるんじゃないの?
つまりさ、現状の日本の社会や科学政策やIT政策、なーんも間違ってないじゃん、5Gにだって対応できてるし、いまだに組み込みやIoTは世界でも定評がある実力だし、医学系含めてノーベル賞取ってるエリートな学者がバンバン出てるわけじゃん
若者の恋愛離れだって、恋愛全盛期だったバブル期の頃ですら、男女は上位30パーセント間で付き合ってただけと統計で判明してて、それは今の値と全く変わってない、もっと言うと、江戸時代から変わってないんじゃないかって仮説さえでてるわけじゃん
ま、氷河期に限んないよね、これ
ようは能力の足りない出来損ないに救済措置を金かけて、それがなんか生産性あることにつながるの?って話
でも増田みたいなやつらは幸せだよな、自分の努力不足や自己責任を社会のせいだって言えるんだから
すげー羨ましいわ、マジで
祖母はお見合い結婚で出会った国家公務員の祖父と結婚しました。バブル期?は公務員<<<民間企業だったらしいので贅沢は出来ず、ボーナスが出たら家族で中華街までいくのが楽しみだったと話してくれました。そこから平成に入って数年後に酒飲みの祖父は倒れて搬送、一命をとりとめるもマヒが残り、要介護状態になりました。祖母は、毎日おむつ替え、病院付き添い、流動食の世話の日々が続き詳しくは知らんがまあ大変だったということみたいです。
祖父の死後、年金暮らしの祖母は、毎月お金使い切れないという感じで子(母)にも孫(自分)にもお小遣いバンバン渡してました。せっかく自由になったんだから、旅行でもなんでも自分のために使えばいいのにと思ったけど、使い切れないというより使い方がわからないのか?。この辺時代と価値観の違いかもしれない。
祖父は急に倒れたというより、病院の定期健診?で「このまま酒止めないと死にます」て言われてんのに飲み続けて倒れたらしいので、自業自得ですが、時代的に酒飲むのも仕事の内だった気がしないでもないので何とも言えないです。
今が良い時代になったとも思わないけど、祖母の時代がうらやましいとも思わず。自分のまわりで観測できるのがこんな状態なので、テレビで見かける楽しそうな老人はフィクションか何かと思いつつ、こういう実態から何を学べばええんかよくわからんし脳内では落としどころの無い話になってる。
祖父の葬式とか〇回忌とか墓参りの際にはいつも象徴的な虫が出現する。季節外れの虫とか、どこから出てきたのかわからないでっかいカマキリとか、「あの虫さ~」ってみんなが覚えてて話題する系の虫。
葬儀の時にずっとハエが飛んでて、祖母に「あのハエ邪魔だったねー」と話したら、お通夜の時からずっといたと。母やら叔母やらもハエのこと認識してて、「もしかしたらおじいちゃんがハエになって遊びにきたのかもね~」って話してた。で、母がはっと気づいて、そういえばおじいちゃんの口癖「うるさい!」だったって思い出して、ハエって漢字で書くと…。
そんな話をしていて、何回忌かでまた親戚が集まって、その時もなんか虫が出て、「おじいちゃん来てるねー」って話してたんですけど、祖母がそれ見てやだ気持ち悪いって踏みつぶしちゃって、一同えーーーーーーーーーー!!!!いやあの話…おじいちゃ…!
祖母は祖父が脳梗塞でぶっ倒れてから10年近く介護していたしバブル期?は公務員で全然贅沢できなかったし寡黙で亭主関白で今で言えば精神的DVな祖父には色々な…思いが…わかんないですが、あの話をしていて、あの流れで踏みつぶしたの、一点の曇りのないまっすぐな行動でした。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこの事柄に対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、つらつら書いてみようと思う。
・検閲
今回発生した問題は検閲の問題ではない。現在紙面やネットで騒いでいる検閲という問題は、当事者の手を離れた部外者による場外乱闘であった。扇情的な展示に対して、権力を扱う不用意な政治家が、自制せず権利を侵害する発言を行ったことは大問題であるが、ここまでくるともはや展示云々ではなく、国家、自治体による権利侵害(の実行又は脅迫)という、大事な問題だが、別方向の問題として切り離して考えるべきで、後述する問題を覆い隠してしまうことになる。展示を取りやめたのは、大量の抗議や脅迫、犯罪予告により、芸術祭にかかわる方々の安全を確保できなくなったという状況に陥り、該当展示の実行委員会(実行キュレーター)の同意なしで中止に至ったという顛末と理解している。
芸術市場が大きい欧米諸国に対し、日本国は元々芸術品の売買に対して諸国のような減税優遇措置をとっておらず、バブル期を除き、民間のギャラリーを経由した売買や、流通操作で伝統工芸品を大型百貨店の展示場で、国内のみ通用する相場で販売する程度であったが、バブル期~90年代の大型公共投資の連続からハード面での地域振興策が資金、コンプライアンスの両面で実行が不可能になった自治体における「少額で、短期間で既存のインフラを活用でき負担が少なく、運が良ければ国際的な知名度を上げることができる。」ツールとして、この10年雨後の筍のように芸術祭が乱立する事態となった。そこでは、ノウハウのない自治体が、自称地域文化の担い手である新聞社に丸投げ、そこからコネ採用された力のないキュレーターは、自身の貧弱なコネクションで囲い込んだ微妙な作家しか呼べず、投下した税金の割に貧相な芸術祭になった場合。自治体が運悪く山師に金を預けてしまい、多額の不適切支出で泣き寝入りになった場合。など皆さんが思っている以上に税金を使用したイベントにはトラブルが多い。税金が投入されるイベントは前提条件として・補助金申請等の手続が煩雑・大小の自主規制や、地域ルールに縛られる・税金が原資なので、疲弊した財務状況の自治体では開催不能、批判を招く場合がある。税金は芸術より生活政策に資金が回されるのは当然である。所詮流行りの水物なのだが、皆さんが思っているより所謂コスパの良い地域振興策なのでなくならないだろう。
今回の問題では、アートと異なる展示がなされているという意見が多く出ているが、大きく表現の自由と括られる中でも、その自由の元に「どの媒体で」「どのような手段で」「どの程度の深度で」、成果物として表現しているかは人それぞれ、所属する社会により異なるという点。またアートは政治と不可分であるが、極端な扇情(アジ)を行わなくとも、その行為がそもそも自由を行使しなければ表現できない、自由で平和な状況でなければ創作活動はできず、人の創造性を発揮できない点が大前提であり、自由の中で個々人が世界との関わりの中で何らかの美醜混じった真理を見つけ、それを昇華したのがアートとすると、今も表に出ない問題の一つ、表現の自由を行使する媒体と手段の衝突という背景が見えてくる。
新聞社や論壇を中心とするジャーナリズムは、文字を用い、抽象化している諸概念を文章化し、権利と自由を、守り、啓蒙し、扇情したりするわけだが、小説などと異なり「直感的に察する/察させる」機能は弱く、相手を文字化、文脈という論理化してしまった問題に対し、「同意するか」「同意しないか」の二者択一を求めてしまう。そして問題となった展示は、実行委員会の多くが学者又はジャーナリズム出身という状況で、同じ表現の自由でも、性質が異なる表現を行ったことが原因にあり、一般市民が考える「アート」とイコールにならなかった。「これはアートではない」という声である。表現はしているが、アートではないと。
アーティストと名乗る作家にも問題がある、この「ステートメント芸術」と揶揄される表現は、業界に詳しくなれば詳しくなるほど根深く、呪いともいえる。
アートという行為、物質/空間/映像/音楽で意図が伝わるよう、意識を特定のベクトルへ向けるよう誘導し、表現しなければならない所なのだが、その実力がない作家の中に、延々とそれらしい説明文を付けて意味づけする行為や、文脈という補助要素を主要素に持って来て、実態だけを見ても理解不能となる。そのような作家は大体退場していくのだが、言葉が主戦場のジャーナリズム界隈と親和性が高いので、変な形で融合してしまうことがある。
「文脈を追うのが現代アートだ」という解釈の誕生である。一面では事実だが、全てではない。
ビジネスの世界でこの行為を言い換えた表現としては「ストーリー」という言葉がある、そしてこれを最大限活用した米国の企業、セラノスの末路は多くの人を巻き込み凄惨なものであった。
・何が問題だったのか
①監督が芸術キュレーターの経験がなく、自身の分野であるジャーナリズムの文脈で解釈した表現を、芸術祭にねじ込んだ為、酷く食傷を起こしてしまった。
②食傷を起こしてしまった後の対応が、構造を理解している人の不足で収まっていない。
①食傷を起こした理由は長々と書いた。経緯として自分たちが表現の自由の最前線で、他の作家は何も考えていない。ように捉えられてしまうキュレーション(自由の世界におけるジャーナリズムの優越性)をしてしまったのが原因にあると考える。結果、津田氏がFM番組で発言したように「自分一人ならナイフで刺されてもいい覚悟だが、関係のない人を闘争に巻き込んでしまった」という発言につながっている。
表現は自由であるから、闘争を持ち込むなとは言えないが、徹底的なゾーニングと仕掛(言語化できている主張表現に容易にアクセスできる導線を作る)ことが必要であった。言語化できている(と思われる)主張表現に対して、実態が追い付いていなかったのではないだろうか。
不特定多数の威圧行為は、少数で行う創作活動にとって凶悪な暴力であり、過去も多々あり、これからもなくならない。すべての事柄に寛容な社会など来ないし、永遠に付き合わなければならない。
②をわざわざ書いたのが、今回の騒動で最も被害を受けている、他の参加作家に対して謝罪と対策を行っているのかよくわからない状況だからである。
・誰が最も被害を受けたのか
昨日声明文を出さざる得ない状況に追い込まれた、他の参加作家である。それぞれの表現を深化させて今日を迎えているが、キュレーターがバランスを取らず、独自にプレイヤーとして創作活動を我田引水した結果。必要のない状況で、自身の作品を見てもらうという重要な事柄を達成されないまま原理原則論の確認や主張を行わされたのは、イベントの主催者として責任が重大である。表現の自由は大事だと言うに決まっている。また、作品を撤収せざる得ない状況に追い込まれた海外からの参加者に対して、展示機会を奪った結果になった事も忘れてならない。マスコミが何をキーヴィジュアルとして記事にするか理解して、扇情的な人形を配置しているのは明白で、記事を見た輩が抵抗/抗議を通り越して、挑発と解釈してしまった訳である。撤収した2人は、必要のない場面で・積極的に日本側の行為に抗議を行う・無視した場合に自国内で起きている扇情的民族主義の標的になることを避ける。2者択一の判断に迫られた。
昨日声明に協賛したのは参加作家全員でないだろう、検閲を受けたわけでもない、こういうキュレーターのミスによる騒動に対してのスタンスは作家ごとに異なるのは当然である。
・なぜここまで注目が集まったのか
芸術は本質的に生活必需品とは言えない。生活環境が改善し、可処分所得と余暇がある状況下で初めて人は関心を持つようになる。今の日本、問題は起きているが、ネットで百家争鳴する位この国は文化的に成熟しており、得体の知らない世界に関わりを持ちたい気持になったのは素晴らしいと思う。物事の全ては飛び込んでこそ妙が分かる。威圧や脅迫はださく醜悪である。そしてアートはこんな長文も飛び越えて一瞬であなたの感性に突き刺さる力を持っている。
バブル期、私は小6。
お金を返すように家の電話は頻繁になり出すし、電話がなっても取らないで鳴ったまま放置する親だった
どうしてでないのか子供心に疑問で例しに何度も自分はでていた「お母さんかお父さんはいますか?」って電話口で言われて母を呼ぶと「いないと伝えて」というのも日常茶飯事。
ある日、家の中に男の人達が急にあがりこんできてどうも893系の人達だった
父を懸命に家の中で探していたようだ
差し押さえか何かのシールみたいで当時はさっぱり意味が分からなかったなぁ
あれから、借金を母に肩代りして離婚した母は毒親の振るまいが一層強くなり私は今は精神疾患にかかってしまっている
仕事は細々といってるが当時からの悪夢にいまでもうなされて度々体調崩す
今は円の価値は盤石だから、どんどん財政出動して景気浮揚を図ろうっていう事だろ?
ところが現状でなぜ円高になるのかについては、経済学者も明確な答えは持っていない
一つは対米貿易黒字だが、これもいつまで持つかはわからない情勢
例えばミセスワタナベがロング(ドル買い)で持つのでHFが円高にして狩っている、これが円高の仕立て人だったらどうよ?
日本人投資家はバブル期からの遺産で海外の資本投資に締め出し食らっているので円が海外に逃避しないが、これも条件さえ整えば出ていく、とか
日本はそこまで広くないからな。たいていの地域から東京日帰りできちゃう。
米国や中国は首都以外の経済圏が成立するけど、イギリスやフランスやスウェーデンなんかは日本と同様に首都一極集中。
ドイツは東西分裂していた名残だから参考にならないし、イタリアやスペインは首都よりもミラノやバルセロナが経済的に発達しているということ。
江戸時代までは日本も地方政権の連合体だったから、その名残が残っていた戦前くらいまでは地方でも新興企業が生まれてきていたよ。
名古屋はトヨタをはじめとして全国ブランドが多数あるけど、大阪はきびしいね。
日亜化学やジャストシステムなどを生んだ徳島みたいに、大都市圏じゃなくてもバブル期以降でもで新興大企業が生まれてきている地域もあるから、地域性とか民度とかによるんじゃないかな?