「最近の学生は議論ができない」と耳が痛いほど言われたものだ。
私からすると議論ができないのは教授のほうだった。
私は議論を「より正しい理解にたどり着くために、お互いの意見を交換すること」と考えている。
あくまでも原理的には、"より正しい理解"というのを私も相手も知らないという意味で対等であり、お互いの意見も対等に扱うべきだと考えている。
議論ができない、議論にならない教授とは、相手の意見を全く聞かず自分の意見だけを通す教授である。
自分の意見を通すというのは、議論(ディスカッション)ではなく、討論(ディベート)である。
そしてどちらの意見を採用するかが教授次第ということを考えれば、それは討論ですらなくただの独裁である。
独裁はトップが有能であればいいが、無能なトップの独裁がどのような結果になるかは歴史が示す所である。
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