はてなキーワード: ディベートとは
Twitter不毛すぎんか〜〜〜〜! と思って何か書こうとしたが、調べてみるとこんな良記事(https://blogos.com/article/413806/)があった。これを読め! 解散!
しかし他にいくつか思うことがあるので書く。
一に、この議論に関わらず、何と戦っているのか不明な人が多すぎるので議論の種類について整理してみたい。おおよそSNSやブログで議論/主張を行うときの目的は僕には三つくらい考えられる。1.問題を周知/提起すること・2.相手の意見を変えること・3.相手に社会的制裁を加えること、だ(いま考えただけなので他にあってもおかしくないが)。「献血のポスターが女性を性的に消費しているぞ!」というのは主に1.である。今まで問題とされていなかったことを取り上げて、これはおかしいぞ、みんな見てくれ、というわけだ。それに対して個人的に「いやその論はこれこれの部分が間違っているようだからポスターは置いても構わないんじゃないですか」というのが2.である。考え直してください、ということ。最後に「これこれの部分が間違っているからこいつはバカだ。バーカ」というのが3.で、ポスターを置くことの是非はもはや二の次、相手を排除することを主眼に置く手合い。相手のアカウントが凍結されるとか、相手が恥をかくとかそういうことを願っている。
1.と2.をはっきり区別しておきたいのだが、同じ主張であっても最終的に何らかの問題解決を目標とする場合は1.、議論自体を目的とするものを2.と(ここでは)定める。例えば、フォロワー数の少ない二人がお互いに意見を戦わせて二人なりの結論を得るのは後者。有名人同士が引用ツイートで以ってお互いの主張を戦わせ、結論には至らないまでもそれぞれのフォロワーにアピールするというのが前者だ。もちろんグラデーションは存在する。
また、2.と3.も実は区別が難しい。2.の人も、相手との対話を諦めた時点で3.になりうる。あるいは、罵詈雑言を投げながら、当の本人としては「相手に改心して欲しかった」などと2.のつもりでいる人もあると思う。これもグラデーションで考えるのが良い。1.と3.も同じ。
二に、議論をする際には目的を明確に意識すべきと言いたい。概ね文字というのは対面に比べて趣旨も気遣いも汲み取りにくい。緻密なコミュニケーションは望めないのだから、目的外のところに関しては互いに譲歩すべきである。例えば、「献血のポスターが女性を性的に消費しているぞ!」という主張と「ポスターを規制するのは表現の自由の侵害だ」という主張をお互いに問題提起として戦わせるときには、前者にあっては「宇崎ちゃんのポスターを公の場から取り除くべきである」後者にあっては「宇崎ちゃんのポスターを規制するという事態を避けるべきである」という問題を周知するのが第一義だと考えられるので、それ以外の主張の些事に関しては無視するか、好意的に解釈するか、あるいは互いを気遣いながら齟齬を埋めるのがよい。「論点をずらした」などと言って人格攻撃をするのは最悪手である。論点をずらすのはもとよりよくない。しかしその論点はそれとして別に議論すべき大切なものかもしれないし、相手には同じ論点だと見えているのかもしれない。意見が違うからと言って、そのような点で攻撃するのは礼のないことだ。「論点がずれているかどうか」などと言う最もどうでもいい議論に目的を失することのないようにするためにも、相手が論点をずらしたと思うようなときにこそ丁寧に接するべきである。さらに言えば、相手が無礼であるときに激昂するのもやめるべきだ。誰が得をするだろうか。
三に、あまり論理的に複雑なことを言うのもよくない。主張のぶつかるのは感情的な原因によることが多く、それがゆえに是非を問いにくいことも多い。是非を問いにくいので、論理的な正しさで決着をつけようとする。しかし、多くの主張にはどうとでも理屈をつけることができるのだ。なるべく大元の感情から離れぬ方が、また自分の主張が感情から生まれていることに自覚的な方が良い。例えば道路で立ち小便をする人間は不快である。彼を批判しようというときに、それが軽犯罪法に抵触するなどと言うことができる。法律があるからにはそれが成立する法学理論的基礎があるはずである。また、社会の秩序を守る上で立ち小便の位置を論じた統計的資料があるかもしれない。しかし、それらはどうしてもその論点で戦わざるを得なくなる場合以外武器とするべきでない。立ち小便が不快であるという一事から離れずともこと済むからである。だいたい、ルールと言うものはより多数の人間が良い気持ちで生きることのできるようにと作られることが多いのに、個人的感情を論理に劣ったつまらないことのように扱うのは解せないことだ。
もちろん、全く理屈を使わず議論することはできず、そんなことをすれば子供の喧嘩である。ここで言いたいのは、Aという理屈、Bという理屈を戦わせているときに、Aの些細な欠点を発展させて別の論理的戦場を作るようなことをなるべく避けるべきだということだ。立ち小便は法に触れると言った時に法治国家の是非を問う類のもの。
だいたい、論理が複雑になれば間違う箇所も増え、それが本来の主張の欠点のように見えてしまう。益のないことだ。
四に、我々はそろそろ相手のことを思いやるということを覚えるべきである。これは特に、相手の意見を変えようと思って議論する際に必要である。世に問題を提起しようとするときは、なるべくフォロワーの感情に訴えるべく強い言葉を使うことが多い。これは喜ばしくはないがある程度仕方ないことである。一方、個人的議論において強い言葉を使う必要は皆無と言っていい。主張が対立するとき、その双方が「自分は被害者であり、相手は加害者である」と思っていることは多い。宇崎問題でも「女性の権利が侵害されている」と思う人と「表現規制がなされようとしている」という人が対立する図をよく見る。被害者Aは毅然と加害者Bに立ち向かう。これを逆から見るとBは被害者であるにも関わらずAから無闇に攻撃されていると感じる。Bはさらに頑なになる。「あなたは議論のできない人なんですね」「あなたこそ話のわからない人ですね、さようなら」などという風景は見飽きてしまった。
何かを伝えたいがためにわざわざ議論を始めたはずである。努力の無駄ではつまらない。なんとか議論を成立させようというという意志をもう少し堅固に持ちたいものだ。
議論をする上は、いくら自分が被害者のように思われようと、相手に心理的負担を与えている。相手も被害者なのだという認識を持っても良いと思う。相手は怯えた獣なのだ、まずは相手の理屈を受け入れ、主張を聞いてやってもよかろう。主張を聞いて、「聞いてやったがここがおかしいだろう」という態度も問題である。こういう理解をしましたがあっていますか、私はこう考えるのですがあなたはどうですか、という謙虚さを常に持つべきだ。これは、相手がたとえ似非科学や陰謀論や人種差別といった是非もなく間違いであるように思われる主張をしている場合にもそうだ。そんな思想信条を持とうと相手は人間であり、どんな思想信条であろうと批判されるのは不快に決まっている。
なお蛇足ながら、冒頭に挙げたブログはかなり中立的に論点を示していて素晴らしいのだが、やや「フェミ」を攻撃者、「オタク」を被攻撃者と捉えているきらいがある。「フェミ」の攻撃性(のように感じられる部分、すなわち規制しろ! という主張)は根本において女性の権利が侵害されていて守らなければいけないという価値観から出たものである。さらに言えば、「フェミニスト」として一貫性のある活動をしている人々(つまり、具体的に何を規制しどんな社会改革があればいいのかに関して基準がある人)もいる一方で、単に「女性は社会の中で立場が弱くて/損をすることが多いからそれを変えたいな」くらいの感覚でフェミニストに同調している男女も少なくないように思う。前者に比べて後者はさらに攻撃に対して敏感であろうと思う。攻撃の理由に関して無知だからだ。また、立場が曖昧であること自体を批判するのは間違っている。誰でも自分の/自分に近しい人の権利は守りたいからだ。
それを考慮せずに、初めから「あなた達の攻撃は...」というとなかなか議論がかみ合わないだろう。「あなた方はこれを守りたいんですね、我々はこれを守りたいんです、利害が対立している部分を明確にしていきましょう」という立場でなけれななかなか建設的にならないのではないだろうか。
特に、一部の「オタク」は「フェミ」を十把一絡げに罵詈雑言を浴びせるし、それが被害者意識を生む。同様に、一部の「フェミ」は「オタク」(時には「男性」)を十把一絡げにして罵詈雑言を浴びせる。真面目に議論をしようとしているあらゆる立場の人に迷惑なことだ。
五に、もちろん相手が議論するに足るかどうかは別の問題である。議論すべきでないと感じた場合は直ちに議論をやめ、可能ならブロックするのが良い。ブロックするのが負けのように感じるのは愚かな感覚だ。また、ブロックした後に相手の発言を覗きにいっていちいちスクリーンショットで揚げ足をとるような行為も君子の仕業ではない。そのような卑劣な行為をするくらいならきちんと自分の心理的安全性を犠牲にしてでも相手と対等な議論を行うべきである。相手に社会的制裁を加えようとする行為は言うまでもない。
六に、この文書はSNSなどでの議論に特殊の意見であった。ディベートや日常での議論についても適用されるとは必ずしも考えない。むしろ、ディベートや日常での議論の延長線上でSNSでの議論があるような感覚の人が多いのでこのような惨状があるように思う。短い文面での主張は言い足りないことが多く、普段耳にする意見に比べて拙く見えることがある。しかしそれはコミュニケーションの不備であり、相手の不備ではない。自分の意見を相手が理解できないように感じるのも同じ。普段の十倍、百倍に相手への思いやりと好意的な解釈を必要とする。
中国でスマホのチェックはあるみたい。IT音痴の人向けに説明した内容を、そのままなのか一部曲解したのか判らないけど、他で言っちゃうのはアレだ。
確かにそういうレベルの議員がスマホを持ち込むのは良くないから、外務省だって「絶対持ち込むの止めてね!」「電源オフならいい?」「それでもダメです。電源オフでは対策になりません」って言いたくなるし。聞いた方が「電源オフでもデータ抜かれるのか…」と思っちゃうのも、そのレベルの人だったら、仕方の無いような気はする。
Basically - phone inspections at HK-Shenzhen control points are real. People were forced to unlock their phones and questions were asked about photos related to the #antiELAB protests. As told by one of our colleagues and nine other travllers. @XinqiSuhttps://t.co/LEmYWFKDts— Lok. (@sumlokkei) 2019年8月15日
「電源オフでどうやってデータ抜くの?」という一点で反論している人は、そりゃディベートならそれでいいんだろうけど。そのレベルの人が日本に迷惑掛けないようにしてもらうには?という視点が欠けているように思う。
あなたや家族やお友達が差別主義者の日本人に嫌がらせを受けて困っているのであれば、周囲の日本人に相談して助けを求めれば良い。
あなたの友達やご近所や職場の同僚の日本人は助けてくれるだろうし、私も相談を受けたならば助ける。
でも、日韓関係の政治については口を出さない方が良い。今ホットな、慰安婦や徴用工、日韓基本条約などは話題にしない方が良いということだ。どんな意見を持っていたとしても。
私がオーストラリアに住んでいた時、オーストラリア人と話していて唯一非常に不愉快に感じた(たぶん相手のオーストラリア人も不愉快に感じていた)話題が、日本の政策、というより捕鯨問題だった。
私の主張は、
「過去の日本のように南半球まで絶滅の危惧があるシロナガスクジラを捕りに行くのはダメだけど、日本の経済水域内で資源量が十分に回復した種類のクジラを捕るなら問題無いだろう? オーストラリアの漁師がロブスターを捕るのと同じように」
という物だった。
ここで私が鯨の資源回復の数字を挙げたように、相手も数字を挙げて反論してくれたなら、良いディベートになったのだと思うけど、オーストラリア人の言うことは、
「とにかく鯨は、牛や豚やロブスターやスポーツハンティングで遊びで狩っているシカなんかとは違うんだ、鯨は知性のある生き物で食べ物じゃなんだ」
(これも差別的な言い方だが)現場仕事帰りのオッチャンとバーで口喧嘩してるんじゃなくて、大学のカフェテリアでもコンピューター・サイエンスやカルチュラル・スタディーズの修士コースの学生相手の議論がこのレベル。
君たち専攻している学問で身に付けた論理や他文化理解のフレームワークはどこに置き忘れてきたんだよ! って絶望的な気分に何度もなった。
普段は気さくで朗らかで本当に「良い人たち」としか言いようが無いオーストラリア人たちの顔が捕鯨の議論をしている時だけは相当にうんざりした表情になっていて、相手も私の話の通じなさに絶望しているのが見えて辛かった。
話が私の自分語りに偏っちゃったけど、あなたが韓国政府の主張を擁護する立場で政治を話題にしたならば、少しは日韓関係の知識を仕入れている日本人の多くから、まるで話が通じないと思われる危険がある。
逆にあなたが文政権に批判的な「保守派」の韓国人だったとしても、わざわざ日本政府の見解を支持するような旗幟鮮明を日本人に対してする必要も無い。
あなたは在日の代表でも韓国政府の代弁者でも無いのだから、ただただ自分や家族や友人が受けている具体的なハラスメントについてだけ、困っている、助けて欲しい、と訴えて平穏な暮らしを得るために行動すべきだ。
どうも。元増田です。表題の投稿なんだけど、一日たってはてぶをみたら思った以上にブコメがついていてびっくりしたよ。
正直、何人か書いてくれた人もいるけど、もし元増田がこんな増田を見かけたら『こんなことにまじになっちゃってどうするの』って思うに違いないので、意外とポジティブな反応が多くてそれにもびっくりだったよ。とはいえまあはてなーはテレビ嫌いそうだから、賛同してくれる人がいることは予想してたけどね!(まあ、だからこそTwitterとかじゃなくて増田でやったわけだけど…)
そんなこと言っておきながらじゃあなんでこういうことするんだっていう意見もあるだろうけど、やっぱりこれらの番組はものすごく不愉快だし、ほかの番組でですら「東大王なんとか」みたいなワードを聞くことが多くなってきてしまって、やっぱり誰かが何かアクションを起こさなきゃならないんじゃないかって思ったんだ。昔、芸人さんが「嫌なら見るな」とかなんとか言って炎上したことがあったけど、多数派が楽しければそれでよかった時代はもう遠い過去だよね。当たり前だけどそもそもどんな人だって適当な側面をとれば少数派だからね!
何人かの人がコメントでくれた点について補足したいんだ。
これは筆が滑っちゃった感じがあるね。本当に嫌いすぎてついつい本音が漏れてしまった。削っておくよ。
敬意ということを書いてくれた人もいたけど増田はこのような形でしかエンターテイメントを提供できないのはプロとしてどうかと思うんだ。知人から聞いたのだけど、「東大方程式」は最初のころは「東大生であっても年相応などこにでもいる学生で、いろいろな人がいるんだ」ということを伝えていたらしいんだ。「東大」みたいにめちゃくちゃでかい主語を使うのであれば、それくらい考えた内容でなければそもそも適切たりえないと増田は思うな。(ちなみに「東大方程式」に関してはBPOに訴えるのは直近の回のみだよ!)
これはね、増田も思った。ただ、そもそもよく考えてみると、じゃあ五神総長が許したら自分はこの番組を許せるか?というと、それはNOなんだよね。増田が不快と思う気持ちに変わりはないよ。まあ、こんなしょうもないことを大学がいちいち相手にするだろうか?とか、大学に言うと動きも遅いのでは?という話もあるけど。ということで、個人名義でBPOに申立書を送ることにしたんだ。
商標関連の指摘をしてくれた人もいたけど、これは正直グレーゾーン臭がするからあんまりつつかない方がいいような気がするんだ。登録商標で調べると、たしか「東大」とか「東京大学」は東京大学が登録していたんだけど、「東大○○会」みたいな学習塾の名前も登録されていたんだよね。他にも例えば住所は駒場とか本郷に存在していないのにも関わらず名前に「駒場」とか「本郷」とか入れている組織があったりすると思うんだけど、こういうのもまあぶっちゃけ東大ブランドに乗っかっていることは否定できないね。それらがじゃあ問題かというと、まあアメリカにケンブリッジという町が存在しているようなもんで(?)、そこまで目くじらはたてなくててもいいと思うんだ。だから、今回は名称の使用許可とかについては調べない方針にしたよ。
増田さんが思ってることとは別に「やっぱ東大生は頭が良い。」という評価をテレビで得ていた割合が高い場合は、この訴えが通じなくなるのでは。(ディベート的に反論を持ってきた、少し応援する意味で)
一人でも(実際は数割いるとおもうけれど)「やっぱ東大生は使えないな」と思った人がいれば、番組の作りとして問題があるんじゃないかな。そこら辺の増田の考えをもう少しわかりやすくリライトしておくね。ありがとう。
頭がいいってだけでイジメの対象になるような地域社会を経験してる自分にとって、東大番組はそういう集団で生活する学生の救いになってる側面もあるなあと思ってる。増田の主張は独りよがり過ぎる気がする。
上でも書いたけど、結局この文章では増田の主観をメイン軸にして論理を組み立てざるを得なかったんだ。そういう意味では独りよがりというのはまさにそうだと思う。前半部分は、申し訳ないけど増田の経験からはわからなかった。でも、増田はむしろこの手の番組が『頭がいいってだけでイジメの対象になる』傾向を助長しているのではないかと思うよ。
BPOで議題に上がる事案は(おそらく)リソースの問題からごくごく僅かであって、優先順位の問題から、たぶん相手にされないと思う。しかし記録としては残るので、全くの無駄ではない。どうぞ頑張ってください。
書いてあることに具体性がたりない。いつの放送回で誰がどんな発言をしていて、なぜそれが人権に反しているのかってところまでやらないとダメなんじゃないかな?
具体例が無いと受け取る側も審査しにくいと思う
まさにそうなんだよね。ただ「東大王」なら細部を見れば結局ただのクイズ番組なので、「番組の作り・雰囲気」というどうしても微妙な点を指摘せざるを得なくなってしまった。「東大方程式」は正直具体的な点をよく覚えていないんだけど、なんか学生くんが裸踊りしてたっけ?具体性はもう少しちゃんとした方がよさそうだよね。
「明らか」だと説得力が足りないのでは?
訴状というには個人的な思い込みみたいなのがノイズになって本題が響いてこないし、まずは文字数半分にまとめてみたらどうか。
なんというか「アウト基準」みたいなのがなくて、さらに訴えの要件が「個人的な精神的苦痛」みたいなやつなので、とりあえず思ったこと全部書こ!ってしたらどうしてもこんな文章になってしまったよ。そもそもこういう訴えを起こす窓口じゃないからじゃないかと言われればそれまでなのかもしれないけど…。
この人(のような人)が、批判の対象になるようなテレビ番組を倒し尽くしたら、次はネットかゲームかマンガかに、そのエネルギーはむかうのだろうなあ。
増田は、少なくとも現時点においてはテレビはある程度の公共性が認められているメディアだと思っているよ。例えば将来出版が免許制になって、その出版社が出しているマンガが不適切だと思ったら、増田は抗議するだろうね。そんな言論統制みたいな制度ができないことを切に祈っているよ。
増田も十中八九メディアが送る「自分が心情として認知できない偏見」を娯楽として楽しんでいるだろうけどそういうところまでは頭回らないんだな
イエス・キリストは「罪のない者だけが石を投げよ」と言ったけれど、それはその場に絶対的な存在である神の子イエスがいたからで、本当なら人間は不完全であるからこそみんなで知恵を出し合って状況を改善していかなければいけないと思うんだ。もしほかにも『メディアが送る「自分が心情として認知できない偏見」』があるのであれば、それはきちんと指摘されるべきだね。ぜひあなたにも指摘してほしい!
“番組のコンセプトとして、「東大生だからできる/東大生なのにこのようなこともできない」ということを中心に据えている” これ「明らか」ではないよね。ああいう番組は好きではないけれどこれでは勝てないと思う
わかる。もう少し書き方を工夫してみる。
明らかであるって書いてある所全部消して具体例挙げるといいと思う。「おっと東大生カップラーメンの値段は分からないか~?!」みたいな煽りあるだろ
明らかはほんとそれ。なんか具体例あったらみんなほかにも教えてくれると助かります。
明らかって言いすぎなんだよなあ。知り合いが見たら特定できそう。
ディベートの技術は大事って宣伝が広まったせいか、それとも世界的なポリコネ論調のせいか。
証拠がない限り、明らかに悪意があっても言及してはならない、という見えないルールができたのが非常に面倒くさい。
例えば「公園のベンチで休憩していたら通報された」というニュース。
http://news.livedoor.com/article/detail/16569333/
通報した女性は明らかに「自分の縄張りである公園に入ってきた男は気持ち悪いから通報して排除しよう」、
「気持ち悪い男は警察に捕まって苦しめ」という悪意で行ったのは言うまでもない。
しかしディベートにおいて、発言を言葉通りに受け取らず悪意を想定して指摘するのは人格攻撃だから禁止、というようなルールがあるせいか、
明らかな悪意であっても指摘した瞬間に「はいそんなこと言ってないですそんなこと考えるお前の性格が悪いだけ人格攻撃したお前の負けー!」となってしまうのが昨今の潮流だ。
この文章もツイッターにでも書こうものなら、明らかと思ってるのはお前だけ! お前がクズ! と散々にののしられることだろう。
結果、こんな流れをあちこちで見かける。
「本当に不審者だと思ったのなら、まず子供を連れて逃げるのが第一だ。子供を保護する意識がかけているのは問題」
↓
「本文中に逃げていないという記述はない。不審者から目を離して自分だけ逃げるのは社会的正義ではない」
↓
「この事件では書いていないが、子供連れだった落合福嗣氏の事件では後から話しかけてきており、近くにいた事は明白」
↓
「あくまで疑いであり確信を持っていたわけではなく、確認のため警察を呼んだのは正当。そもそも事件が起きなかったことを喜ぶべきだ」
お互いに中途半端な指摘と擁護を繰り返すこの会話は、要するに「悪意があってやったんだろカスが!」「証拠がないだろバーカ!」と言い合っているだけだ。
悪意があるに決まっているのだが、矛盾や違和感を突いてなんとか悪意があったと証明しなければならない、このくだらなさ。
流行りのヴィーガンだってそうだ。肉を食う奴は下等! 俺達上等! と他人を見下して喜びたいだけだろう、という明らかな事実は、なぜか言及した方の負け。
男女差別にLGBT、大麻合法化やらあれやれや。どれもこれも公平です社会正義ですポリコネですって顔をした嘘丸出しのポジショントークだらけだが、直接指摘したら負け。
わざわざ議論に参加することなんて全くないけど、建前を信じているという前提で反論しているのを目にするたびに、本当に無駄で面倒くさいと思う。