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はてなキーワード: ジャック・ラカンとは

2023-06-10

チョムスキーによるポストモダン評(1995年

 提唱された「脱構築」については (この当論でも話題になりましたが)、コメントのしようがありません。なぜなら、そのほとんどは、わたしには、ちんぷんかんぷんみえからです。しかしもし、これもまた深遠さを認識する能力わたしに欠如していることを示す表れのひとつに過ぎないのだとしたら、次の指針ははっきりします: その結果をわたしにも理解できるふつう言葉表現し直してください。そして、それがなぜ他の人々が以前から長らくやってきてし続けていることと異なっているのか、より良いのかを示してください。三音節用語や、支離滅裂文章や、誇張したレトリックなんかは(少なくともわたしにとっては)大部分無意味なのですから。そうしたら、わたしの欠陥も治ることでしょう──もっとも、それが治るものならば。

 世の中には、わたし理解していないことも、たくさんあります──たとえば、ニュートリノには質量があるか否かという最新の議論だとか、フェルマーの最終定理最近 (おそらく) 正しいと証明された方法だとか。しかし、この五十年間のゲームからわたしは二つのことを学びました: (1)その分野で仕事をしている友人に訊いて、わたし理解できるレベル説明してもらうことができる。そして彼らも、それほどの困難もなくそれができる。(2)もし自分に興味があるなら、もっと学習を進めて、理解できるようになることができる。さて、デリダラカン、リオタール、クリステヴァら──フーコーでさえ。彼のことは知っているし好きで、他の人々とはちょっと違ったけれど──は、わたしにも理解できないことを書きますしかし、(1)も(2) もできなかったのです。自分理解しているという誰ひとりとしてわたし説明することができず、分からなかったところを克服して勉強を続ける糸口もつかめませんでした。

 とにかくデリダを取り上げましょう、大御所のひとりです。わたしは、少なくとも彼の『グラマトロジー』を理解できるはずだと考えました、そして、読んでみました。少しは分かりました。たとえば、わたし自身よく知っていて何年も前にそれについて書いたことのある古典的文献の批判分析なんかは。哀れな誤読に基づいた、酷い学識だと判りました。そして彼の議論は、以前と変わらず、わたし子どもだった頃から慣れ親しんできたような水準にも及ばないままでした。そうですね、わたしが何かを見落としているのかも知れません: あり得ることです、しかし疑いは残ります。既に書いたように。繰り返しになりますが、証拠抜きのコメント申し訳ありません。でも問われたので、応えているのです。

 この手のカルト(わたしにはそう見えます)の人々のなかには、会ったことのある人もいます: たとえばフーコー (数時間議論もして、出版されています。多くの時間は楽しく対話しました。現実の諸問題について、きちんと理解可能言葉で──彼はフランス語で、わたし英語で)、ラカン(彼には何度か会って、おどけて完全に自覚的ペテン師だと思いました。カルト以前の初期の仕事意味のあるもので、それについては出版したものの中で論じたことがあります)、クリステヴァ(彼女が熱烈な毛沢東主義者だった頃に、少しだけ会ったことがありました)、などです。会ったことのない人もたくさんいます。なぜなら、そういったサークルからとても疎遠なところにいますから。選ぶとしたら、まったく異なる、幅広いところを好みますから──そういったところで、講演に行ったり、インタビューを受けたり、活動に参加したり、毎週のように十通以上長文の手紙を書いたりしていますわたしは、好奇心から、彼らの著作を手に取りました。しかし既に述べた理由から、それほど深入りしませんでした: 大仰に虚勢をはりながら、検証してみれば、大部分は単に無知なだけだと判りました。わたしのよく知っている(なかには、わたしが論じたこともある)文献を異様な誤読して、議論はいつも初歩的な自己反省の欠落したひどいもので、主張の多くは(複雑な饒舌で装飾されていても)当り前か間違っているもので、かなりの部分はまったくちんぷんかんぷんものでした。他の分野で自分理解できなかったところでするように続けると、上に挙げた(1)と(2)に係わるような問題にぶつかります。ですからデリダわたしの言う人々のひとりで、これが深入りしない理由です。

 フーコーの具体的な例のいくつかは (たとえば、18世紀刑罰手法など) は興味深く思います、そして、その正確さを調査するだけの価値がありますしかし、その「理論」というのは、他の多くの人々が何か深遠なものが絡むと装ったりせずシンプル表現したことを、異様に複雑にして膨張させたものしかありません。

 そして事実、どれも分かりきったことばかりです。こういった自明なことが興味深いのは、透けて見えるその原理ではなく、人々にとって重要な具体的な事例でそれ自体がどのように機能するかを示すことです: 介入や攻撃搾取テロ、「自由市場」の詐称、など。こういったことはフーコー著作にはみられません。わたし理解できる文章を書き「理論家」として知識人界に属していないような人々の著作には、たくさんあるのですが。

 そのシンプルで慣れ親しんだ考えから 複雑で思わせぶりなレトリックを剥ぎ取ったら「理論的構築物」という程のものは何もないということです。

 【https://rootless.org/chomsky/postmodern_cults】より

 ついでにチョムスキーによるジジェクラカン

たとえば科学であるとか、何であれまじめにやっている分野でなじみがあるような理論なんてのはジジェク仕事のどこを探したってありはしないのです。こころみに、ジジェクのすべての仕事のなかから結論の引き出せるような原則や、12の子どもに5分で説明できるレベルを超えるような経験的に例証可能命題を見つけ出してごらんなさい。あるいは、けばけばしい言い回しを言い換えることができるかどうか。私にはできません。だから、そういうはったりには興味がないし、ジジェクはそういうはったりの顕著な例だと思います。で、ジャック・ラカンについてですが、彼とはじっさいに知己があったんですよ。彼のことは好きでしたし、ときおり会いもしていました。ただ、率直に言って、彼はまったくのペテン師だったと思いますね。ラカンがしていたことと言えば、テレビカメラの前でポーズを決めることだけ、ですよ。パリ知識人の多くがやっているようにね。それで、なぜこういうはったりが影響力を持つのか。私にはその理由がまったく分かりません。そこには影響力を持ってしかるべき要素はぜんぜんないわけですし。それで、色んな人がそういう「理論」の重要性について私に説明するのですが、やっぱり理解できませんね。まあ、そういう次第なので、ほんとうは理論なんてないのにあるふりをする空疎なはったりには興味はないわけです。

 【http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/2544/】より

2020-04-14

anond:20200411134657

これは興味深い結果となった増田作品である

すなわちジャック・ラカン理論を背景とした「ネタなのだろうが増田という場のレベルでは誰もついてこれなかった。

普段文脈」などと称し批判に対して「理解できない側が悪い」とでも言いたたげなラノベアニメ愛好家も蓋を開けてみればこの体たらくだ。

それはそれとして「言語悪口を言ったくせに言語を使う」などという常人では気づきようもない矛盾看破し痛烈にあげつらうことができるなんてラノベアニメを好む人々は理知的ユーモアに富んだ面白い人々なのだな。

今後も面白いラノベアニメによって教養を深めて、より面白い人々になることを目指してほしい。

2017-01-26

基本的に「恋愛」は男限定の娯楽 女の大半は「一番好きな男」とは一

 福士蒼汰フォトショでいじくって、南海キャンディーズ山ちゃんにし、「大好き!」と口にするのが女という生き物である

 分かりにくい例えかもしれないが、要するに女の理想は叶う率が低いから、妥協を繰り返し、少しずつストライクゾーンを広げてゆく作業必須になるということだ。

 言ってしまえば、あらかたの女は自分を騙くらかすことでしか彼氏を獲得出来ないのである

 つまり女の恋愛は、娯楽じゃなく我慢なのだ


女は、本命の男に本気で恋をすると、極めて高い確率でフラれる

 恋心の強度と、フラれる確率は比例関係にある。

 好きになればなるほど難易度が上昇する。

 男は、「がっつく女、余裕のない女、重い女」を忌み嫌う。

 だから女は、恋愛感情故意に薄くして、無味乾燥に近づけ、死んだ魚になるよう努力しなくてはならない。

 愛情の鮮度が高いと、男は女が提供する恋の食卓にはついてくれない。

 恋心を生け贄にして、天から余裕を授かり、さりげなさを全面に出して男に媚びる。

 そうした無感情の狩りこそが、女の恋愛なのである

 好きなあの人への想いが最高潮に達した段階で付き合えたという、美しい運命を辿れた女など、ごくごく少数だ。

 男は選ぶ側のため、「一番好きな女」と付き合える。

 女なんていう生物は、歩く無料お試しキャンペーンみたいなものだ。

 特段のブサイク性格破綻者を除けば、男に求められて喜ばない女はいない。

 男の恋愛は始まるまでに困難がなく、実はドラマチックさの欠片もない。

 だからこそ、「あえて想いを伝えずに、この駆け引きを楽しんでいます」という余裕綽々の態度を取る者がいくらでも現れるのだ。


男という悪徳工場が、不誠実な女を大量生産している

 どれだけ誠実な女であろうと、全身全霊で恋に落ちてしまうと、意中のあの人にどん引きされ、物の見事にフラれてしまものだ。

 男目線だと、「そんなことないよー。純粋気持ちが一番嬉しいよ☆」という真心第一みたいな結論に行き着く場合もある訳だが、これほど無責任綺麗事は他にない。

 どんな女であれ、「あの人を好きな気持ちだけは誰にも負けない。」という純情一本気な思いの丈を、胸に熱く秘めていた時代があるはずだ。

 しかし悲しいかな、純情さだけでは、手応えゼロ全否定されて失恋してしまう。

 どうしてかと言うと、この世を生きる女の大多数は、なんの才能にも美貌にも恵まれない無力な存在であるがゆえに、猫も杓子もが「媚び」という曖昧模糊としたものを唯一の武器にして戦おうとするから供給過剰になってしまっているためだ。

 男は空求人みたいなもので、常に誠実な人を大量募集していると見せ掛けて、「残念ながら、今回はご期待に添えない結果となりました」とお祈りを連発する。

 そうして女は幾度もフラれ、ただ突っ込んでも事態好転しないということを悟り、好きの感情に打算を組み込むようになる。

 自然体で男と接するトレーニングをしたり、好きになり過ぎないようにセーブして、計算高く立ち回ったりし始める。

 その結果、彼氏が出来たとしたら、開口一番こう切り出すだろう。

「なんだ、付き合うってこんなもんか」

 そらそうだ。

 恋心を肥大化させずに、落ち着き払って男を落としたに過ぎないのだから

 釣り堀で、虚しい魚釣りをしていたも同じ。

 一向に心が満たされないから、幸福論でいうところの『幸福を追求する不幸』という状態に陥り、次から次に手頃な男子を求めるようになる。

 これが後天的ヤリマンへ変化するプロセスだ。

女が非モテへと落ちぶれる流れについて

 精神科医ジャック・ラカンが、『欲望他者欲望』という言葉を残しているように、生きている中で誰かを好きになったとしたら、自分以外の人間もその子を好きだと考える方が良い。

 金は金を呼ぶみたいに、愛される人はより愛されるのが、現状の人間界なのだ

 誰もが似たような流れで欲望を浮上させるから自分特定のあの人を好きになった感情フローを、他の多くの人々も体験している可能性が高い。

 ゆえに奪い合いになる。

 しかイケメンは、可愛らしい子達が根こそぎ奪って行くため、反応に困るような人だけが少量、余っているだけになってしまう。

 その中からなんとか好きになれる人を探すわけだが、好きになった頃には、他の女もその男を好きになっていたりするため、また争いが発生する。

 こうやって殴り蹴られの決闘が延々と続くから非モテ挫折したまま、半永久的に再起出来なくなってしまうのだ。

 つまり無気力学習するということであり、こうなってしまえば、「自分最初から男に興味なんてないんで……」とオタク趣味に走ったりする。

 これが非モテへの転落である

女のほうが女としてのアイデンティティについて不安が大きく、自分モテるであることを証明したがる。

 こうした傾向があるからこそ、男よりも女の方が、失恋からの立ち直りが遅い。

 良く男は、「いい男なんて星の数ほどいるんだから、もう忘れなよー」と口から出任せをいう訳だが、これは的外れな助言である

 女が悶え苦しんでいるのは、好きなあの人を喪失した悲しみなんていう小さなものではなく、アイデンティティに深い傷が入ったためだ。

自分の女らしさが通用しないのではないか?」と憂いを抱いているときに、それを否定されるような断られ方をすると、失意のどん底に落ちる。

 そして、「私は終わってる」「私は一生一人だ」と憂鬱感情を強化してしまうため、自発的言葉によって、内部から心が壊れてゆく。

学習性無力感を引き起こす手続きは、うつ状態と同じような状態を作り出すと考えられるようになった。それは、学習性無力感が、うつ病モデルとして妥当性を持つことの証明にもなった。

 残念無念にフラれる連続の中で、「私なんて女としてダメだ……」という落ち込みの反復が起きて、自分の不甲斐なさについて学び続けてしまうと、精神が歪んでゆく。

 それはそれは寂しくて、どこの誰でも良いから、この弱り切った瀕死自分を認めてくれ、と切望するようになる。

 こうなると最悪なことが起きる。

 それは、男が最も嫌悪する、「がっつく女、余裕のない女、重い女」になってしまうということだ。

 気付いたときには既に手遅れ。

 プライドを削って、グレードの低い男に突撃したとしても、厄介なギトギトした女に成り下がっているため、近付いただけで逃げられる。

 勇気を出して振り絞った、最後の女らしさ――アイデンティティの全てを砕かれてしまうということだ。

 暗転。目の前が真っ暗になる。

自分は誰にも必要とされていない」という絶望悲劇、激痛を急速に学習してしまう。

 明言しておくと、女が人生において一番に彼氏が欲しいときは、こういう誰一人に相手されない悲しい時代だ。

 しかしながら、男も一回きりの貴重な人生を歩んでいるため、浮上確立が低いどん底の女を相手にしている暇などない。

 こうして一生浮かばれない、弱者女性が出来上がるのだった――





http://pipipipipi-www.hatenablog.com/entry/2017/01/26/194617

※ただし男版も女版もイケメン美女は除く

2016-10-15

http://anond.hatelabo.jp/20161015103104

ジャック・ラカン - Wikipedia

言語活動現実界

 ~中略~

どうがんばっても言葉では現実のものを語ることはできない。「言語現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語しか現実を語れない」。

 ~中略~

したがって、人は、より的確な言葉を探したり、より多くの言葉を重ねていくことによって、少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘する。

この誠実さは、評価されるかもしれない。しかし、それでも言語活動現実となる瞬間はない。これが象徴界現実界が分かたれる一面である

あなたがどうか「嘔吐しませんように

2016-05-03

識可能性/フロイトによる超自我の成立過程に関する説明

他方、デカルトにおける私と明晰判断認知できるものだけで構成しかしそれでは私の全体像をとらえたことにならないのでは?

※1明晰判断認識可能性

※2明晰判断認識することできない

フロイトによる超自我の成立過程に関する説明

超自我エディプスコンプレックス(異性の親に対する性的願望と同性の 親に対する敵対心の複合したもの)を克服してゆく過程近親相姦願望を抑止する者として

幼児エディプスコンプレックスを克服する。同性の親を取り込んで心の中を番人にする。>

の同性の親を心の中に取り込むことで、それを核に成立(こうした説明を元に可能となるデカルト批判フロイトに従う限り(人間の心をもつ)私の中には本来 「私」とは異なる他者(同性の親)が部分として存在していることに

こうした本来の「私」の外に存在する他者しかしそれでいて私を形成する他者デカルトの目の内面でひたすら探るというやり方では捉えきれないのでは?

ジャック・ラカン(1901ー1981)が鏡像段階に関して展開する議論をもとに可能になる

デカルト批判

鏡像段階幼児の発育過程の中の一段階(生後6か月〜18か月)この段階の幼児は、鏡の中に映った自分の姿に強い関心を示しなおかつそれを見て大喜びするという特徴をもつ

なぜ大喜びするのか?

新たな発見をするから

自分が一つの統一的な身体を持つことの発見、そしてまたそうしたものとして他者から見られているのだということの発見

そして発見を通してナルシシズム自己像に対する愛着)がめばえ

様々に思い描くようになる

そして様々に思い描かれる自分の姿を通して「私」の輪郭が定まってゆく

2015-05-02

千葉雅也のアンチエビデンス論について」について

10+1 web site|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト

千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版) | しんかい37(山川賢一) | note

 最初リンクを「アンチエビデンス論」、二つめを「アンチアンチエビデンス論」と呼ぶことにする。もちろん、この文章アンチアンチアンチエビデンス論と呼ぶ必要はない。

 千葉雅也の「アンチエビデンス論」が出たとき個人的にはそれなりに楽しく読んだけれどその評価別にして、まあ批判は出るところでは出るだろうなとは思っていた。と思っていたらしんかい37氏が「怪文書」なんて比喩まで出してけなし始め、氏がまとめた批判が二つめの「アンチアンチエビデンス論」。(最終版)となっているのは、この文章はいくつかのバージョンが発表されたらしく、(完全版)を読んだつもりがまた新しいのに更新されたということのようだ。この調子で(究極版)とか(最終版・改)とか(帰ってきた完全版)とか出してみてはどうか。そんな正論はともかく、これから取り上げるのは後者の「アンチアンチエビデンス論」についての感想、とりわけその文体についての雑感である

 しんかい氏は、まず千葉の主張をこのように要約する。

千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡ネット上に残してしまます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。

 そして、その上で読者にこう問いかける――

まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。

 不思議なのは、ここで「そんな気がするかどうか」という「実感」についての話からこの論を始められる図太さ、というか、ふてぶてしさだ。過剰に説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、それを批判する千葉の態度をアンチエビデンスと呼ぶなら、さらにそれを批判するしんかい氏の態度は、普通に連想すれば、説明責任擁護エビデンシャリズムの擁護となるだろう――そういう予感を持って、読者は、というか私は、読みはじめた。どのような根拠でもって(説明責任果たして)氏が主張を正当化していくか、それが私がいちばん期待していたことだ。もちろん「アンチアンチエビデンス論」の議論の射程は鋭く、こうした「実感」に訴える論法を手厳しく批判している。この論の最後

エビデンスを求めようとしなければ、人の思考個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまます

という風にして終わるのだ。仮に、しんかい氏の主張が〈個人的な実感のまわりをくるくると回る〉だけに留まらないと仮定すれば、〈そんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしない〉と主張するに値するほどの、根拠が示されるはずである――そう期待して読む私は、またすぐに裏切られる

しかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。

実感に則さなくても、当てはまる事例があることはすぐに認めている。いったい、しんかい氏の「実感」を裏づけする根拠は、いつになったら出てくるのだろう? (「落ち着いてください!」と隣にいた貴婦人が言う。「まだほんの初めの方の十数行を読んだばかりじゃありませんか。議論は始まったばかりです。これから先も慎重に読み進めていけば、きっと〈個人的な実感〉なんかとは無縁の、素晴らしきエビデンスとやらに出逢えるはずですよ! さあ、続きを読んでください!」)

 さらに読み進めていくと、千葉文章引用したあと、しんかい氏はこのように述べている。

このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断要求されていると思いますけど。むしろ日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。

 「思えます」! 「思います」! 「気さえします」! 実感に訴える主張のオンパレード! 「フリーターならともかく」――どのような根拠でこの要素を除外したのか? 「長い不況のせいで」――いったいいつからいつまでのことなのか? こんなにも曖昧表現で何が指し示せるというのか? 「高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている」――さっき例から排除されたフリーターはこの例には含まれないのだろうか? 確かに最初の例のフリーターが、元からアルバイトなんかしていなかったのなら辻褄は通るけれど……ところで、引用されている千葉文章は〈企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで〉といった範囲の広いものであるのに、しんかい氏は勝手企業だけの話にすり替えているし、しか千葉文章に〈給料〉という言葉はひとことも出ていない。

マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから

 なぜ「効率化のため」という目的だけに話を限定できたのだろう? もし仮に、企業(そもそもなぜ企業だけの話になったのか? しんかい氏がそうすり替えたからの話でしかないのではないか?)が、しんかい氏の思いつきによる目的で動いているとしても、そうすれば、そもそも前段のマニュアル化が進んでいることを否定するような数々の圧倒的「実感」とはいったい何のために書かれたというのか? これらは全てただの思いつきで、論旨を整えずにただ手当たり次第に条件反射的に反発してみただけのことで、最初から根拠なんかなかったのだろうか? 〈千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが〉と、その次の「不明瞭な文体について」の章で氏は書いているが、確かにしんかい氏の文体千葉に比べればまったくもって明瞭ではある。場面ごとに言いたいことは分かる。ただ、自身の主張に対する根拠ほとんど書かれていなくて、全体を繋げると辻褄が合わないというだけのことだ。しかし、最初から言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論〉がしたいのならともかく、アンチアンチエビデンス論としては、これは致命的なことではないのだろうか?

 この後も、しんかい氏は「アンチエビデンス」的な、説明責任を果たさず、ただの思いつきで主張を言いっぱなしにするだけの批評を展開している。

ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路評論というものを考えてるんですよね。思考論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。

この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇アカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。

 対象になる文章に「粘土細工」という比喩を与えて、その粘土細工のイメージ攻撃する。ありがちな比喩の乱用だが、このあとソーカルによって批判される「科学数学」の乱用に比べれば、反証のしようがないために、確かに優れた方法ではある。

ただし、いまや世界的に、ドゥルーズ的な文体にたいする風当たりはかつてより強くなりました。

 これなどはまだいい方で、一冊の参考文献が提示されている。そのピーターバリーによる教科書引用部分だけで、どうして「世界的」な思潮についてここまで断定的なことが言い切れるのかはさっぱり分からない。

バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。

 また「世界的」なことを一冊の本だけで理解している。しんかい氏は〈千葉が、九〇年代エビデンシャリズムからいまだ自由時代だったと称えている〉ことと、ソーカルの影響によってポストモダニスト難解な記述スタイルに〈致命傷を与えた〉話を、そのまま繋げている。〈それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します〉。……。時系列ごとに並べると、受験生に嬉しい真っ白な年表ができそうだ。これも千葉世代論に比べると、中身をスカスカに抜いたからとはいえ(ほとんど粘土は混ざっていない)、確かに言いたいことは分かりやす世代論ではある。そこにエビデンスがあるかはともかく。

 だいたい、千葉ポストモダニスト的なよく分からない文体を使っている(これもしんかい氏の主観であり、論の後半にはある部分の引用について〈率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします〉などと豪快なことを言う。論の冒頭で〈発表直後はネット賞賛の声に包まれました〉という例示と「批判の声」を対比させたのは何だったのか、賞賛の声を上げた人たちは最初からしんかい氏にとっての人類には含まれていなかったのだろうか?)ことと、過去に著名なポストモダニスト問題と論争を巻き起こしたことには、いったい何の関わりがあるのか? ただの連想ゲームしかないのではないか? こうしたカテゴリー混同した主張と、「ジャック・ラカンは、虚数無理数混同している」といった事実に、どのような違いがあるのだろう? 

 しんかい氏はなぜ、ソーカル事件千葉雅也を結びつけて論じようと思ったのだろうか。「おそらく……」などと仮定を挙げてエビデンスのない主張をする気は今のところない。それよりも、根本的な疑問がある。「アンチアンチエビデンス論」において、しんかい氏は、アンチエビデンス批判するどころか、むしろそれに則った、説明責任なんてお構いなしの自由闊達批評をしている。それはそれでいいことじゃないかと思うし、それとは逆にエビデンシャリズムを徹底させた批評の道もあるのではないかと思う。しかし、今回のように、ある種の世代論や、ある人物をどのように評価するかなど、すでにある程度の文脈が与えられた人文学的なテーマ場合科学数学におけるような厳密な方法論などないし、徹底して証拠を走査することは(この私の文章のように)不毛ものになりがちなのではないだろうか。そもそも戦う土俵を間違えているんじゃないか、という疑問がある。「アンチアンチエビデンス論」において批判されている(かのように見えるが、どういう理屈でかははっきりしない)「実感の正当化だって、たとえば何らかの世代論であれば、いくつかの本から有益そうなところを引用して、それなりに理解が深まれば、反事実的条件と現実世界関係に関する考察などといった面倒そうなところから論を始めなくても、それで充分なのではないか、という気はする。これは純然たる思いつきである

 貴婦人はとっくに寝てしまったので無駄話を続けると、だいたい意味が分からないかどうかで評価するのなら、数学科学プログラミングなどの高度な専門書だって(〈一般社会には通じない理屈〉とまで表現するかはともかく)私個人にはまったく意味不明ものだし、別に大陸哲学だけの話ではなく分析哲学の本でさえ、少し高度になるといまの私にはさっぱり分からない。意味不明なことを言っているのと意味がないのは(いわゆる「説明と理解」といった哲学的テーマになるのだろうか)まったく異なるはずだし、ここを突き詰めて考えると分析哲学的にも絶対にややこしい問題に直面すると思うのだが、しんかい氏はその辺りをどうも曖昧に片づけている気がする。

 ところで、「形骸化したエビデンシャリズム」それ自体は、いつから・どの程度顕在化したかはともかく、いかにもありそうな話ではあると思っている。最近某所で話題になっている広島大学モニタリングの話とか分かりやすいんじゃないだろうか。

徹底した大学のモニタリング | 広島大学

2015-01-23

エロ漫画における絵の巧さが押しつける異常性癖のおぞましさについて 追記

もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。

汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。

面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。

私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。

自分の精いつぱいの物を。

然し、必ず、こはれるものを。

然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。

それより外に仕方がない。

それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。

私が、私自身に裁かれさへしなければ。

たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。

坂口安吾著「余はベンメイす」

序論

自分前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である

批判こそあれど、撤回をする事で偽るべきではないと思う

しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする

前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ

タイトルだけに反応すれば、自分のスケベさを絵のせいにするなよ、と。

性的嗜好覚醒とは外から来るのか自らの内から来るのか。それはあたか信仰に似ている。

それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。

人間は欲望が渦巻くスープであり自然は際限なく冷酷なものであるから

クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。


これらの指摘は、全く正しいと思われた

そう、自分自分パスカルの「パンセ」を引用

"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う

私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない

しかし、人は自らの体験を真実、伝えきることはできない

ここにおいて自分象徴界限界を知る事になる

しかし、自分自分表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う

本論

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

フリードリヒ・ニーチェ著「善悪彼岸


まり、ここでは"力を振るうのは誰か"と言う事が問題となる

自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か

エロ漫画によって異常性癖になった」などとは言わない

それは私の作品への投影に過ぎない(※1)

あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分決断し、自分が選んだ」に過ぎない

決めたのは自分自身に他ならない

然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない

春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。

そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。

自覚てゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心てゐるだけのことさ。

夫婦の間では猥セツでないと思つてゐるだけのことですよ。

誰がそれを許したのですか。

神様ですか。法律ですか。阿呆らしい。

許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我

坂口安吾著「余はベンメイす」


では、自分自身意識は何によって駆り立てられたか

ジャック・ラカン提唱した概念対象aと言うものがある

「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観

主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか

若きジャックは、よくいる活発で利発な青年の一人として、

自らのインテリとしての優遇された生活に疑問を覚えてか、

荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。

この時、船の上で、彼の同僚である教養な男が、海上を指差した。

そこにはどこから流れてきたのか、一つの空缶が浮かんでおり、

強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。

「こっちからは向こうが見えてるけど、向こうからはこっちが見えていないんだぜ」。

しかしこの時、ラカンは、「違うのではないか、むしろ向こうこそがこちらを眼差しているのではないか」と直観した。


対象a

人間が一生を通して追求するもので、想像界象徴界現実界中間にあり、欲動が求める対象

他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象自己対象との関連性が指摘される。

経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。

単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの

自らの世界の中に象徴化された欲望の対象痕跡

満たされない欲動の向かうところ

詳しくはこれを参照して欲しい





幼児期において、人間は万能であるという錯覚がある

求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分意志によってすべてが好転する

世界には他者などおらず、自己しか存在しない

しかして、その世界には終わりがある

聖書にて失楽園があったように、人間にも楽園からの追放がある

自我の芽生えである

世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる

絶対的依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である

しかし、人間はこの時の愛着を忘れない

例えば、母親との絶対的な密着を忘れられない子ども

母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)

成人した後は、形を変えて残る

人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない

「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」

幼児の頃の万能な世界や、絶対的幸福、真理や真実表現されるもの探し求める

しかし、それはみつからない

絶対的愛情存在しないし、絶対的幸福存在しないし、絶対的絶望存在しない

完璧文章などといったもの存在しない。

完璧絶望存在しないようにね。

村上春樹著「風の歌を聴け



しかし、人はそれを求める

逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる

然し、真理といふもの実在しない。

即ち真理は、常にたゞ探されるものです。

人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。

探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。

真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。

人間人間の形をした豚ですよ。

真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。

坂口安吾著「余はベンメイす」



結論

自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間尊厳冒涜するエロ漫画否定する事)は

主観としては作品のものの力によって屈服させられたように感じられる

しかしその実、それは作品の力という要因だけに帰属しない

自分自分の力によって自分正義破壊したに過ぎない

自分を駆り立てものはいだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である

欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理破壊する作品」に惹かれる

それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる

氏は「宇宙人の冬」を業の深い作品と説明した

それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか



脚注

※1:投影

投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快感情性格他者が持っているかのように知覚することである

たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者投影して逆に他者自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である

※2:俗に、ライナスの毛布と呼ばれる。移行対象のこと

ラカン

現実界

フロイト現実原則や、カント命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚対象」。独語

などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。

以下に記述する想像界にも象徴界にも属さな領域であり、例としてはトラウマ不安現実における体験などで言及される。

象徴界

人間存在根本的に規定する言語活動の場のこと。

また数学などもこれに含まれる。

ラカン言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。

これは自己他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。

大文字の他者言語活動の一部であることから象徴界に属するものとして考えられている。

想像界

想像界とは、たとえば「日常」平和」「不幸」といった、

人であれば誰しも漠然イメージできるけれども、

その正確な描写となると大変な労力を要するような対象世界を指しており、

かつわれわれが頭で思っているものを言う。

2009-12-29

「宛先人の居ない手紙

どうやらワタシは最近RPGのような「裏シナリオ〜裏エンディング」と切っては切れないようで、

それは表向きはとっくに終わっているが、裏では次に何か起こる直前まで引きずっており、しかもそれは本人しか解らない事だ。

思い起こせば学生時代大学は無事卒業したが、実は卒業していなかった。

研究書の最終稿が上がらなくてね、居残ったんだ。終わったのは入社式の3日前だった。(ちっとも自慢出来ない・汗)

教授も半ば呆れ顔。しかし、どうしようもない言い訳をするならば、こんなユニーク研究など初めから結論など見えなかった上、

ようやく出した結論すら二転三転だ。解析方法をどんだけ変えた?そもそもサンプル数が莫大過ぎるのだ。

その結果ですら「ヒット率70%」とはね。人間様の精度は3割有れば良いと野球好きのオッサンが言いそうだけど、

機械的な精度を求めたら9割打てなきゃダメ。これだからサイボーグを作るのは難しい。ゆらぎの問題が有る。

まぁ、呆れたついでに。呆れるように。人は何故こうまでして誰も読む保証なんて無い手紙を落としまくるのだろう。

それも差出人も宛先人も不明になった。それはおよそ「手紙」とすら呼べない代物だというのに。

今更ながら、「エヴァ」の話でもしよう。今でも語り継がれるであろう、TV版の最終2話な。

アニメは強シンクロだ。そこに映る物で総てを説明する。」と言ったが、最終2話では完全にそれは無視された。

それどころか、説明では無く、あちらから問うのである「君の思っている僕は、僕とは違うんだよ。」と。これは拷問の作法である。

ラカンで言う「大文字の他者」その不確定さと不安定さ。「悲しい」とはそういうものだろう。

だがシンジが最後の最後で開き直り、祝福を受けるのは何故だろう。

何故ジャック・ラカンはその暴力的な論理を振りかざしつつも、「手紙は宛先に必ず届く」と断言したのだろう。

だが残念な事に、これは神の慈悲では無い。誰の慈悲でも無い。単なるロジックだ。

2009-10-24

Re:

ラカン精神分析学に依れば...。だが。

言葉は”現実”には決して成り得ない。

だから言葉の領域は現実より遥か手前に落ち、ワタシ以外の誰かに届かない事が多いだろう。

しかし当人、ジャック・ラカンは「手紙は宛先に必ず届く」と明言している。

慈悲と見るか、確信と見るか...。それを理解する者は恐らく誰も居ない。

                        〜T.H.

 
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