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はてなキーワード: 二階建てとは

2017-01-16

自分ゲーム全般に疎い任天堂株ホルダー

周りにもゲーム好きな人間はあまりいない(と思う、話題にしないだけかもしれない)。

から任天堂ゲーム業界の中でどんなポジションにあるのかとかゲームユーザーからどういう評価を受けているかとか、

通り一遍情報以上のことは知らない。

ただ、はてな匿名任天堂について熱い書き込みをしている人が多いことを見ても社会的な関心度がとんでもなく高い会社

であることは分かるし、「社会的な関心度がとんでもなく高い会社だとみんなが思っている」会社なのは確かなので株の売買はしている。

短いスパンで傾いたりしない(であろう)会社の中ではボラティの高さは捨て難いものがあるし、何かきっかけがあった時の

瞬発力から株式投資というか投機面白さを味わえる。

ただ、基本的現物のみ。

信用で目一杯とかさら二階建てとかは考えただけで恐ろしくて無理。

このへんが素人たる由縁なんだろうな。

2016-08-18

http://anond.hatelabo.jp/20160815131847

シンゴジラ舞台が、若狭湾から上陸だったら東京の人の絶賛の数は減るだろうな。

今回のゴジラ地方人の俺が観てもすごく面白かったが、東京の人はそれが二階建てになってると思う。ずるい。

2016-08-10

通勤ラッシュ解消でホーム電車二階建て

実現するのこれ?

無理でしょ?

実現するなら是非していただきたいんだけども

2016-08-08

勤務地が遠い人同士で住む場所を交換出来ればいいのに

よく東京都心の通勤ラッシュ問題にあがるよね、混雑率200%!、身動き出来ない!、対策しなきゃ!

幾つかの会社は出社時間をずらしたり、社宅、住宅手当を出して会社の近くに住んで貰ったり、

都知事電車二階建てにして乗車数を増やせばと提案したり、

だけどこれらも焼け石に水、まだまだ激しいラッシュは続く。

ふと思ったんだけど、勤務地が近くなる同士が住む場所を交換出来れば良いんじゃないかな、

住宅業界辺りがラッシュ問題に参入してさ、現契約者に引っ越し可能エリア登録してもらうの、引っ越し代金割り引きとか協力報酬付きで

そんでお互いに利害が一致した人同士で住む場所を交換、住んでる人も勤務地が近くなって嬉しい、住宅業界も、引っ越し業者も良い特需って感じで

そんなサービス出来ないか

2016-08-07

はてサ最近はポケGO擁護するともれなく怒ってくれるから好き

二階建てブコメ噴火とか面白すぎる

2016-05-21

パナマ文書 恵比寿西関連

3者のシェアフォルダー

パナマ文書データにある日本関連と思われる情報のうち

所在地が「恵比寿西」の情報報道目的で整理しておく。

 

パナマ文書震源地となったモサック・フォンセカにつながる

オフショアひとつに、GLOBAL TRADING OF ASIA LTD.がある。

https://offshoreleaks.icij.org/nodes/10088362

そこには判明しているだけで

3者のシェアフォルダーいたことがわかっている。

そのうち次の2者は、マレーシア所在地としている。

 

GENJI HASHIMOTO ゲンジ ハシモト

NO. 8-2, JALAN 1/76C DESA PANDA JALAN KAMPONG PANDAN KUALA LUMPUR 55100 MALAYSIAマレーシア 郵便番号55100 クアラルンプール ジャランデサパンダン、1/76C NO.8-2

https://offshoreleaks.icij.org/nodes/12170494

 

上記の場所実在する。

カフェ食品店、カラオケ屋などが密集している商業地域のようだ。

ゲンジハシモトは日本名に見える。同姓同名の人物は実在するが、

偽名の可能性は高いだろう。

 

HONG HENG SOON

NO. 45 JALAN SS2/74 47300 PETALING JAYA SELANGOR MALAYSIA

 

この名を持つ人も複数いるようだが、偽名の可能性も高い。

所在地実在する。

SS2/74は二階建て低層住宅が多い通りだが

セキュリティがしっかりした家が多く、自家用車が2台以上ある家が普通にある。

マレーシアの中では富裕層向け住宅地だろう。

その地域には華人も多く住んでいるようだ。

 

日本シェアホルダー

GLOBAL TRADINGのシェアホルダー最後の一者は

日本渋谷区恵比寿西所在地がある。実在住所だ。

 

TRANSPORTS CORPORATION トランスポーコーポレーション

COM-BOX 3/F; 1-32-16 EBISU-NISHI SHIBUYA-KU; TOKYO JAPAN

日本東京都渋谷区恵比寿西1丁目32番地16号COMーBOX(コムボックス)3階

https://offshoreleaks.icij.org/nodes/14036402

 

このCOMーBOXという名前ビルには

グーグルストリートビューインドアビューがあり、

入口エレベーター前の全方向画像を見ることができる。

(撮影対象になってる貸ブティックは3階の企業ではなく別会社)

1階ホール入り口前にテナントプレートがあり、

次の二社がビルの三階に入っている様子を目視できる。

地下1階から7階までがテナント

8階は空きテナント居住空間だろうが現時点では不明

 

緯度 35°38'50.79"N

経度 139°42'19.24"E 

渋谷区恵比寿西1丁目32番地16号COMーBOX

https://goo.gl/maps/een3qetbXMk

https://goo.gl/maps/rEVmqUeUW2v

 

3階

トーヨービバレッジ株式会社

株式会社フェリス

 

もちろんこの二社以外に、

過去にCOMーBOX3階に別な企業があった可能性もある。

国税庁法人番号公表サイトで「東京都渋谷区恵比寿西1丁目32-16」を

過去データを含めて検索すると、22団体法人がヒットする。

が「TRANSPORTS CORPORATION」という法人は予想通り見あたらない。

 

国税庁法人番号公表サイト

http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/

東京都渋谷区恵比寿西1丁目32番16号 を所在地とする法人一覧

1011001060345 ルシエシード (1階?)

1011002012262 (地下1階)

4011001000208 アイズ

4011001004836 桜武

4011001055433 TUI Solutions

5010001151514 フェリス

5011001050417 アステラ

5011003000535 (地下1階)

8010701023745 トーヨービバレッジ

8011001008057 コスモ

8011001020879 ベリーグットマン

8011001090591 DI.テクノロジー

8011001096993 プログラマティカ (4階?)

9011001070270 (4階)

9011001102759 ベストインクラスプロデューサーズ(5階?)

8011001049712 プロデューサーズハブ

1011001049990 (7階)

9011001046031 (4階)

2011002022913 (6階)

2011001044669 (5階)

3010401101673 (5階)

9011001109580 日本デー取引所 (4階? 平成285月2日所在地変更)

 

(法人登録パナマ文書情報整合しない会社法人番号と階数のみ表示。

ビル看板で階数が異なることを確認できるものは番号とテナント名と階数を表示。

ウェブ上のデータから階数が異なることを推定できるものは階数?を表示。)

 

これらの企業モサック・フォンセカとの契約者や関係者である

可能性があるという点で、どれも疑わしい。

だが、シェアフォルダー所在地であるCOMーBOX3階に

入っている法人は以下の二社であり、

とりわけマスコミなどから注目され急成長しているのは

トーヨービバレッジ株式会社だ。

 

http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=8010701023745

http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=5010001151514

 

パナマ文書(GLOBAL TRADING OF ASIA LTD関連)まとめ

 

MOSSACK FONSECA & CO. (SINGAPORE) PTE LTD.
          (パナマ法律事務所課税回避の元締め)
            ↓↑              ↑
            ↓↑              ↑
  GLOBAL TRADING OF ASIA LTD.(バージン諸島登記)   ↑
        ↓   ↓   ↓           ↑
        ↓   ↓   ↓           ↑
 GENJI HASHIMOTO   ↓   ↓           ↑
(在マレーシア架空名)  ↓   ↓           ↑契約?
      HONG HENG SOON   ↓           ↑
  (在マレーシア架空名)    ↓           ↑
        TRANSPORTS CORPORATION        ↑
        (在渋谷区恵比寿架空名)         ↑
            ↓               ↑
      所在地が同じ↓現住所            ↑
        トーヨービバレッジ株式会社      ↑
                   (実在企業代表熊谷聡)

トーヨービバレッジとはどんな会社なのか

トーヨービバレッジ株式会社は、デイリーヤマザキ

ファミリーマートサークルKサンクスローソンミニストップ

などのCVS向けに、カフェラテなどのカップ入り飲料を卸しているSCM企業

 

この会社過去にさまざまなタイアップ商品を開発している。たとえば

デュラララ!!ゴールデンエッグス、藤井リナ神楽坂茶寮、作山若子、

DHC、とある魔術の禁書目録マイメロディボノボチョコレート

Mrs. New Yorkショコラティエマサール、フェルクリン、よしもと、

ジャルジャルヒルトン小田原リゾートスパ総料理長水口雅司、

阪神タイガース、めしとも、とくダネの御瀧政子などとタイアップしていた。

この他にも、朝ズバッ!洞爺湖サミット、町村農場など、政治色のある

タイアップ製品もある。

(町村農場北海道衆議院小選挙区5区で長く衆議院議員をやり衆議院議長

も務めた故・町村信孝実家。先月この選挙区で町村一族地盤を継いだ

親族候補者補選当選したのが記憶に新しい)

 

http://www.toyobeverage.co.jp/contents/hp0012/list.php?CNo=12

 

トーヨービバレッジがパナマ文書の示す契約者と関係があることを示す物証

現時点では見つかっていない。

が、急成長したトーヨービバレッジが採用している

サプライ・チェーン・マネジメントという経営手法が、

最新流行の高収益事業であるのは事実だ。

 

社名 トーヨービバレッジ株式会社

代表者 代表取締役社長 熊谷

所在地 〒150-0021 東京都渋谷区恵比寿西1丁目32番16号 

TEL 03-5459-7066 FAX 03-5459-7067

設立 2006/6/2

資本金 3,000万円

顧問 横山千尋<バリスタ日本初代チャンピオン

取引銀行 三井住友銀行 りそな銀行 三菱東京UFJ銀行

販売日本アクセス三菱食品

http://www.toyobeverage.co.jp/contents/hp0005/index.php?No=6&CNo=5

2015-12-20

勤労という概念が嫌いだ

生存競争を薄めただけのくせにそれを労働と呼ぶのが嫌いだ。

エサとってきて住居を温かくしないとお前もおれも死ぬってだけのことなのに、あたかもそうではないように、留保のない生命という建前と二階建てにするのが嫌いだ。

2015-10-30

母がクズすぎて辛い

家計は母が管理

母は父の収入から父の小遣いを引いた残りを生活費の支払いにあてている。

それでも足りない分は母の収入から払っている。

母はそれを「私の収入から払ってあげている」という認識でいる。

父の収入は一部を除き家族の物であり、母の収入は母の物と思っている。

母の収入しか残らないため、当然貯金も母の貯金と思っている。

その結果、どのような事が起こるか。

何か大きな支出を伴う物、例えば車を買ったとする。

そうすると、母の貯金で買ったのだから車は母の物だと思っている。

父が運転するときは「善意で使わせてあげている」という認識でいる。

専業主婦を一部口の悪い人たちは寄生虫と例える事があるが、母はそれ以下のクズに思えて仕方ない。

因みに母は定年を迎え仕事をやめて数年が経過しているが、まったく変化は見られない。


それを父が許容しているのならば夫婦間の問題で息子である私が口を出す問題ではない。

しかし父は一切その認識を許容していない。

父は仕事だけしているわけはなく、平日の朝食や休日の昼食夕食を作る等の家事は行っている。

仮に母が家事全てを引き受けていたとしても、この認識を許容できる人はそういないだろう。

それどころか母は料理掃除が人並み以下でどうしようもない。

ただでさえ狭い家は母の私物であふれかえり、全ての部屋は床が半分無くなるほどに山積みにされている。

その上で掃除洗濯料理などを父や息子に手伝わせるという悪質さである

母がやったらやったで「やってあげた」と本当に口にするから恐ろしい。

あんたたちが気付かない無神経だからやってあげて疲れた」は何度も聞いた口上である


はいえ、父に問題が無いわけではない。

まず収入が圧倒的に少ない。

父の収入だけで家計が賄え、貯金もできるほど稼いでいれば両者共にもう少し寛容になれたであろう。

母が共働きで働く必要も無かった。

次に父の性格である

面倒事からすぐ逃げ、逃げられずに頭に来るとキレて怒鳴り散らす。

怒鳴り散らすが母はまったく意に介さず、不機嫌になって嫌味を言う性格なので酷い事になる。

大体家計問題なんか結婚する際に話し合っておくべきで、それから父が逃げたのだろう。

結婚自体世間体を気にしての逃げだったのかもしれない。

それが全ての元凶である

最後家族に難があった。

現在実家現在は亡くなっているが父方の祖父母の家が建っている借地の一部に建っている。

これは祖父母の意向であった。

その実家敷地面積は8坪である

少し変則的な形の借地ではあるが、借地全体の1/10以下である

その狭さ故に二階建てなのに間取りが2DKである

その上、祖父母の為に建てたとも言えるのに一円も援助は無かった。

流石に地代を払えとは言わなかったものの、この件で母と祖父母の関係は最悪となった。

更に車を購入する際も父が祖父母を送るなどあるだろうにそちらも援助は無かったため、母は激怒した。

父が祖父母のために車を使うことを強く反対し、その度父と母は喧嘩となった。

私が結婚と車に無関心になった原因の一つは間違いなく両親だ。

もう祖父母は亡くなったため、借地を利用して家を建てる事ができるかと思いきや、実家に父の妹(独身)が住み着きどうしようもなくなっている。

因みに遺産葬儀を行って赤字になるほどしか残ってなかった。


以上の事から、私が幼少の頃から週末は必ず夫婦喧嘩が始まると言っても過言ではないにぎやかな家庭であった。

今でもわけがからないのは、少し時間が経つと何事も無かったかのように会話を始めることである

次の日になるといつも通りの行動を行っている。

父は面倒から逃げるタイプで、母は何事にも責任があるとは思わないタイプで人の気持ち理解しようともしない無神経なタイプなのでそういう事になっていたのかもしれない。

両親がこんなだから私は無事に人間不信になりました。

そんな両親から私が今まで離れなかった理由は、何かしらの原因が解決すれば何とかなるんじゃないかと期待していたからです。

私が稼ぐようになればとか、母が仕事を辞めたら家事をやるんじゃないかとか、父と母がよく話し合えば解決するんじゃないかとか。

その全ては間違っていました。

根本性格認識が父と母で大きく異なっているため、何があってもこの問題は解決しません。

私が父の立場ならとっくに離婚していると思うのですが、私が自立した後も面倒事から逃げる性格から毎日嫌な思いをしているにも関わらず離婚しません。


先日、母が父に無断で車を買いました。

私は一応事前に知らされていました。

絶対に面倒な事になるから反対。あなたがそれを回避できるのなら良いよ」と私は母に言いました。

購入後ですが納車前に母は父に話しました。

父は「今度は私も乗って良いんだよな?」と聞きました。

母は「良いよ。前はあなたの両親が……」とまたいつもの話が始まるので父が制しました。

しかし母が貯金から出して購入した車は家族の車である認識しているようで私も父も安堵しました。

翌日、もう一度父は「家族の車だから私も乗って良いんだよな」と言いました。

父は酒のせいか少しボケているのか同じことを何度も言う癖があります

からの返答は以下でした。

「乗っても良いけどあれは私の車。燃料代くらい出しなさいよね」

あ、駄目だ。

何もわかってない。

私は実家から遠いところに引っ越し、今後極力関わらないようにすることを決意しました。


以上、取り止めも無い愚痴でした。

特に何か知りたいわけでも伝えたいわけでもないですが、こんな糞な親も存在するんだよと何かの教訓になってくれれば幸いです。

私と同じような境遇の人は若いうちにさっさと逃げたほうが良いです。

2015-09-17

母親の話

 うちの母親は、真の意味で「子育て趣味」という人間だ。徹頭徹尾子供のことのみを考えて生きていて、非実用的な私物は一切買わず娯楽の類にも興味がない。最近少しパソコンを始めたようだが、それも「PTA書記になったから」というだけの理由だった。さすがに友人は少数いて月に一度くらい食事に出かけている。それがほぼ唯一の散財だ。専業主婦になる前一年ほど就いていた仕事小学校家庭科教師というのだから、筋金入りとしか言いようがない。二十四で初めての子供を産み(僕のことだ)、その後さらに追加で三人を産んだ。最後に生まれた娘が重度の知能障害だったのでより深く面倒を見なければならず、五人目は断念したようだが、後々になって「欲しくなかったの?」と訊いたら即答で「欲しかったよ」と言われて少々唖然とした。

 それなりに広い二階建ての家を毎日隅々まで掃除し、大量の衣服洗濯してアイロンがけし、夕飯も惣菜で済まさずに手作りする。これは明確に仕事の一環として行っていて、特に料理は全く好きでないらしい。前日の肉じゃが再利用してコロッケを作るような工夫を見せながら(抜群に美味い)、自分は白米と沢庵で済ませていたりする。自分のことに関心がなく、そして外の世界にもほぼ関心がない。生粋の箱入り娘として育てられていて、男性経験も父以外には一人もない。よく昼ドラで描かれるような「専業主婦」とは対極に位置する存在だと思われる。

 そんな彼女の一番の教育方針は「兄弟間で差を付けない」というものだ。僕は長男であり次男は三歳下、三男は四歳下なのだが「面倒を見ろ」と言われた記憶はない。「お兄ちゃんなんだから」と何かを我慢させられたこともない。小遣いは学年に応じて決められていて、同じ学年になれば同じ額が支払われた。僕が小四になって希望して塾に行ったので、弟達が四年生になった時も同じように(希望を訊いた上で)塾通いを許可した。子供が増えるほど家計は切迫していたに違いなく、これは想像以上にきつかったはずだ。

 そしてこの方針を徹底している最も象徴的なことが、僕の呼び名だ。僕は家族全員から下の名前で呼ばれている。弟からも妹から呼び捨てだ。「兄さん」などと呼ばれるのは想像しただけで寒気がする。これは間違いなく親が「兄」という呼び名を使わなかったことが理由で、つまるところ僕は家族の中で「兄」として扱われたことが一度もないのだ。だからよく、他人に「長男だ」と言うと「そうは見えない」と驚かれる。

 この育て方の結果として、うちは兄弟仲が異常に良い。あたりまえのように一緒に食事やカラオケに行くし、仕事や好きな漫画について何時間でも話し続ける。弟二人は特に年子から僕以上に関係が深く、対戦ゲームを一晩中遊んでいる様子を度々見かけていた。世間一般のイメージする「兄弟」というよりはどちらかというと「幼馴染」に近いようにも思うが、しかし僕にとってこれこそが兄弟関係以外の何者でもなく、それはすなわち母の教育成功意味しているのだと思う。

 そもそも複数兄弟を分け隔てなく育てるというのは、土台無理な話なのだ。あまりに手間がかかりすぎる。自分の好きなことは一切できないような生活にならざるを得ないだろう。だからこれは、うちの母に限定された教育法だ。彼女は「私欲を滅して子育てに魂を捧げるのだ」といった大層な決意を持って臨んだわけではない。単に自然子育てをしたらそうなっただけのことなのだ。そう、彼女ある意味では自分の欲望に忠実に生きている。

 現在、四人の子供は全員成人し、男三人はみな就職してそれぞれの仕事に励んでいる。すべからく子供は大人になり、親から離れてどこかへ行く。あたりまえのことだ。だがそれは母親にとっては唯一の趣味がなくなることを意味する。

 だから四人目の娘が重度の知的障害者だったのは、(いろいろなものに目をつぶって言うと)僕たち家族にはとても良いことだった。今でも二歳児程度の知能発育である妹は、これ以上成長しない。彼女永遠に子供のままであり、それはそのまま永遠に子育てが続くことを意味する。母親にとって、それはきっと幸福ことなのだと思う。

2014-11-19

http://anond.hatelabo.jp/20141119111151

満員電車になってる路線のホーム長はもう限界からじゃない?

二階建て車両とか検討したほうがまだええんでね

2014-07-09

学生時代禁欲生活

テスト期間だったのでつい思い出して書いてみる。

共学ならみんな知ってるし、経験あると思うのだが、女子はなぜかテスト前になると、セックス禁止令、を突然打ち出してくる。

その日もテスト勉強という口実で彼女の部屋に上がりこんでいた。もちろん勉強なんてするはずがなく、いつものように制服を着たまま後ろからおっぱいとか揉み始めたんだ。

ちょっとぉ、だめだよぉ。」と言いながらセックスに流れ込むのがいつもの流れなんだがその日は違った。

びしっと一言


ダメ!」


「○○ぜんぜん勉強してないでしょー。きょうからテスト終わるまでエッチなこと禁止。」


「いいじゃんかよー。」と言っても冷たく、「勉強しないなら帰って。」と言い放たれた。


当然性欲の塊だったおれは、「ふざけんなよ、ばーか。」と捨て台詞を吐いて、彼女の家から出て行った。


むかつくわー、と思いながらもしょうがないので家に帰って勉強に励んだ。そして決めた。「よし、それならオナニーも禁止しよう!」

その日からおれは彼女のことを忘れ塾の自習室に入り浸り、勉学に励んだ。でも、同じ塾の他の女子高の女の子と仲良くなってしまった。

「オレくん、彼女かいるのー?」「いないよー、いたらこんなとこで勉強してないし。」「うそー。」「△△ちゃんは?」「わたし受験生からー。」「うそ。。。じゃあデートとかできないっすね。」「オレくんならいいよー。」「うそー。」「ほんと、ほんと。」

とまあそんな冗談を言いながらぼくはテストが始まるまで自習室に通いつめ、△△と仲良くなった。

でまあテスト最終日。なんだかんだ言って、テストまでずーっと彼女に会うたびに、「テスト終わったらHさせてくれるんだろ?」「いま、オナニーも我慢してるんだぜ。」とか馬鹿なことを言って彼女を苦笑させていた。

そしていよいよ全教科終了。彼女がおれの机の方に近づいてきた。

「帰ろ。」とぼくの小指と薬指をぎゅっと握ってきた。

はいスイッチ入りました。

「おい、○○、カラオケ行くけどどーする?」「ちょっと用あるからからいくよー、場所は?」

彼女はまだぼくの小指と薬指を握ったままでした。

ぼくは携帯を取り出し、「図書室の下の体育用具庫に行ってて。」

目の前で彼女携帯がなります

名残惜しそうに二本の指を離し、彼女かばんをもって教室を出て行きました。

図書室の下は高飛びのマットレスが置いてあり、そのほかにもいろいろ体育用具が所狭しとおいてありました。おれはそこを秘密基地のようにして使っていたのです。この用具庫というのは、よくある二階建ての家で二階は部屋、一階は丸見えの駐車場のようなつくりになっているのでマットレスは外から丸見えです。でも、その奥に小さな雨などに濡れてはいけない用具をしまっておく部屋がありました。もちろん鍵はかかっているのですが、上下に風を通すための小さな引き戸があり、その引き戸を上下にがちゃがちゃ動かすとかぎが外れそこから中に入れることは、おれらの間では周知の事実でした。で、たまーに、そこでセックスをしていたのです。中に入ればツッカエ棒のようなもので外からの侵入を防ぐこともできるようになっていました。その前に、ハードルを置いておくと、中に人がいるよ、セックスしてるかもよ、というのがおれらの共通サインでもありました。とはいえ、おれが見つけた場所なので普通の生徒たちは知るべくもありません。数人の友達に教えた程度でした。

体育用具庫に行くと彼女がいたので、いきなり抱きつき、高飛びマットレスの上に押し倒しました。

「だれかきたらどーすんの。ふぁん。」とすでに喘ぎ始めています。僕は自然と手をスカートの中に入れました。すると、そこにはぐちょぐちょになったおまんまんがあったのです。

「すけべだなあ。もうこんなに濡らしてるの?」

2014-01-16

繊細チンピラ」的なものは今に始まったことではない。

はてなブックマーク - 蛭子能収幸せな姿は他人に見せない方が良い」

http://b.hatena.ne.jp/entry/alfalfalfa.com/archives/7046159.html

こちらの元記事とコメントを読んでいて、こんなトラウマを思い出した。私が小学生の頃だから、もう四半世紀近く前のことだ。国語の授業で自分家族や家についての作文を書いて、各自が自分朗読して発表することになった。

そして私の番が無事終わり、その時には何ごとも無かったのだが、それからしばらくした後、クラスの内の何人かが私への陰口や悪口を言っていることを知って驚いた。何でも、私の作文の「私と妹の部屋は二階にあります」「二人で階段遊んだします」という下りに対してムカついたそうだ。「自分の部屋があるって自慢してる!」「二階建ての一軒家に住んでるってわざわざ言いたいんだ、ムカつく」とか言ってたらしい。

いや、私はもちろん自慢するつもりは毛頭無くて、ただ家のことを書けというからそのまま書いただけだし、そもそもそういう要素が自慢になるという感覚すら無かった。

だいたい、部屋は6畳間を妹と共用だし、一軒家と言っても庭も無いローンウン十年のウサギ小屋だったし、だいいちたか小学生程度に大した格差意識があるわけはない。それに、当の陰口を言っていた彼女たちは、私の家にはないゲーム機流行のグッズを持っていたのだし、加えて私などの家よりも高級なマンションや立派な庭付きの屋敷住まいの子がちゃんといて、「庭でキャッチボールをして遊びました」とか言っていても、その彼らは何も言われていないのだ。

とんだひどい言いがかりだ、どうして私だけが、と内心憤慨したが、結局何も言えなかったし、しばらくしてそのまま忘れてしまった。

つまるところ、「繊細チンピラ」的な存在事象最近になって生まれて増殖したものではなく、ネットの普及で目立つようになっただけなのだろう。

2010-08-31

トカイとイナカとジャスコ

ずっと「トカイ」にいかなければと思っていた。

育った町は関東に位置している田舎だ。電車に乗れば東京まで一時間半か二時間程度の場所だが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならない。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機切符が買えない。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バス時間も早く、夕方差し迫ってくれば、乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。

電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げた水が滔々と流れる用水路も、稲穂の上を渡る金色光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも車がなければ不便で、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかない。それで、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。

みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンも、なにもかも厭わしかった。私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。

高校卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住みかを確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日時間もかけて都会へと通った。

私は住みかを確保できた幸運な一人だ。山の手のかたすみにある、静かな住宅地最初下宿はあった。学生用の木造二階建ての、半分傾いたアパートだ。四畳半風呂がなく、トイレ玄関は共同だ。同じ値段を出せば、田舎では1DKが借りられる。しかしそんな場所でも、私にとってそこは「トカイ」だった。

トカイでは駅までの道に田畑はなく、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈が一定の間隔で並んで夜を追い払ってくれる。月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心が都会にはあった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。

都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。

あるいは、田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているように見えるが、どこかに必ず境目があるのだった。境界付近では二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。

山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、そんな些細なことを田舎だと称するけれど、田舎はそうじゃない。

田舎は不便だが、時に便利だ。車で移動することが前提だから、どこか一箇所にいけばだいたいのことを取り繕うことはできる。都会のように一つの場所に店が集まっていないせいで、あちこち足を運ばなければいけない不便性が田舎にはない。確かに近くに店はない。駅も遠い。でもそんなことは本当に全然大したことじゃないのだ。

大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎のやりかただ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景あなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしない。それが田舎なのだあなたたちはそれを知らない。

盆や正月田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかいから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野秋葉原新宿池袋渋谷原宿東京丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。

ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。

ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方サービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせち材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。田舎ではショッピングモールの商品棚のなかにプラスチックくるまれた商品があるだけだ。そうするほうが「トカイ」的で便利でコミュニケーションがいちいち必要いから、田舎人間はそれを喜ぶのだ。

そして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。

どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想しかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだった。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイのものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。

「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想しかない。幻想しかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ


私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。




補記:母は東京イオンがないという

記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。

父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。

引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルド本屋ミスタードーナツもある。旧市街地門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。

バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置しているが、新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに言った。

父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙時間的距離は苦痛だったのだろう。

子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。

そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。

祖父母にとって東京得体のしれないところだった。東京駅に降り立った彼らは人込みの歩き方がわからず、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。

たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京イオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列ショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。

あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウン生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。

私の住む東京千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内はいっても下町からここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。

それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。

成田に育った:http://anond.hatelabo.jp/20080929192856

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