はてなキーワード: ペドファイルとは
むしろ「フェミニストやミサンドリストの目に入ったら騒がれて面倒だから」という程度ではないでしょうか。「子供に見せるのはヤバい」と言う人がいたとしてもせいぜい建前で、実際にそんな心配をしている人がそれほどいるとも思えません。「という方向に収束しているらしい」というのはあなたの思い込みか、あるいはそんな大人の建前論に引っかかってしまったがゆえに(あなたが「〝子供〟の立場からこのトピックで論を立てたい」と考えるあまり)採用してしまった間違った(あるいはあまり意味をなさない)前提なのではないかと言う気がします。
18禁のレーティングを、子供を守るためのものなんて本気で考えている大人は、ごくごく少数でしょう。それは「なにも考えてないから」ではなく、「大枠としてある子供と性という真の問題解決にコストと労力を費やして社会全体として傾注するつもりがなく、といって当該のイシューが原因または遠因となって実際に子供が傷ついたとき、責任も取りたくないから」といったところだと思います(まあ、そういうのはなにも性に関することだけではないです)。
大人というべき立場の人たちが、当事者である子供の性欲の「安全かつ倫理的」な解消に無関心なのは、そもそも彼らに当事者性がないからです。彼らの中にも青春時代に異性や同性との関係を求めて煩悶した人はいるでしょうが、それでもどうにか切り抜けたり、あるいは同じような片割れをうまく見つけて乗り切ったり、それでどうでもよくなってしまったのです。放っておけば今の子供たちも適当によろしくやって育つだろうみたいな、一種の生存バイアスですね(青春時代にしくじって身を持ち崩した人は、ここには含まれません。そんな人たちのなかには、次の世代の子供たちに同じ思いをしてほしくないと活動する人もいれば、逆に同じ目に遭わせてやろうと引きずり込んでくる人もいることでしょう)。
だいたい、そもそもみんながみんな若いからといってそこまで性欲に支配されるわけでもありません。そこを間違えると、単に個々人のフェティシズムを満足させるためというだけの成年向け創作を、隠された人間の本性を暴き描いて禁忌の扱いを受けた真実みたいに思い込むことになりかねません(そういう人こそ、本来「成年向け創作」を鑑賞すべきではない人だと個人的には思いますし、成年向け創作はそういう人に多かれ少なかれ実際に悪影響を与えていると思います)。性は究極のプライベートなので、親しい仲でもそうそう意見を述べ合ったりすることもない問題ですから、知見もたまりにくい。娯楽としての偏った性知識は勝手に変な方向に積み上がっていくんですけどね。
ところで思ったのですが、
このnoteでは「フィクションに影響されてロリコンは子供に手を出す危険性がある」という主張と「ロリコンは子供に手を出さないのにその努力を台無しにするな」という正反対の主張が混ぜられている。
このあたり以降であなたが書いていることを読むに、ペドファイル(ここに「ロリータコンプレックス」を含めるとしても、未成熟な身体性を持つ少女への愛好のことで、成年女性に対しての性衝動は皆無か、あっても薄い)と、いわゆるロリコン趣味者(社会倫理としては許容されていない、制服を着た女子高生なども性の対象にする成年男子。機会があれば同世代の女性とも普通に性的接触を行うし、また女子小中生であっても「女体」であれば性的な対象となる)の意味の切り分けができていないので、話が通らなくなってしまっているように思います。後で出てくる「子供に手を出す人の7割はロリコンじゃない、という話、あれは信用していない」というあなたの考えありき――Wikipediaでいうところの独自研究――で話を進めているからですね。
そもそも大元のネタは成人男子が男児型の人形を買って性衝動を語っているという話から始まっており、「ロリコン」の話ではありません(元ネタの人は自分は男児ではなく女性が好きで、単にネタとして言っただけ、みたいな話になってるようですが)。このあたりも、あなたが書きたいことを書くチャンスが来たと前のめりになりすぎて、周りが見えなくなっているのではないかと感じた理由です。
美少女アニメ以外で日本に興味がありエリート職であえて日本の高級取りの職を得て滞在している。禅とか忍者とか空手とかに興味を抱いている。日本食にも肯定的で治安の良さを評価している。精神的にも落ち着いていて交友関係は広く付き合いやすい。
エリート勤め人だが本人の意に反して日本に赴任させられてしまった。滞在の間ずっと日本のシステムの古さ、効率の悪さ、外人嫌悪、閉鎖性、天気、交通、全てに対して憎悪を募らせている。英語の話せる日本人女とも付き合うが日本の悪口を唱え続けるので大抵嫌われる。ある意味気の毒な人。
日本の女に幻想を抱いており、日本をアニメのテーマパークかなんかだと思っている。日本に肯定的とも言えるが、ファンタジーを抱いていて危険。国で何かやらかしているか、帰れない事情がある。家が金持ちだったりしてなにをしてるかわからないが金には困ってなかったりする
理解してないな。
問題はあなたの奥さんがまったく罪悪感を感じてないように見えることだよ。
ファッションペドファイルで、成人男性と結婚していて、ショタ最高〜wとか言ってカジュアルに虐待をジョークにしている。
本当に小児性愛傾向に苦しんでいて、絶対に子供に危害は加えない、大人を愛したいと苦しんでる人に対してもその苦しみや罪悪感を理解してなくてとても侮辱的だと思う。
下の記事に出てくるような人を見てどう思うのか。
https://www.bbc.com/japanese/amp/features-and-analysis-41812774#click=https://t.co/eyqivpexK4
とのことだが、俺は現在進行形で差別されている側の人間だ。具体的にはゲイやペドファイル他、いくつかの差別されがちな属性を持っている。だから奇異の視線に晒されることは少なくなかったし、日常的に排除される環境も経験してきている。
それでも過去に倒れた多くの被差別者たちに比べれば、現在も各国に倒れる被差別者たちに比べれば、俺はまだ恵まれている方だと考えている。この国で、差別によって直接に身の危険を感じることはほとんど無いのだから。
今の世界があるのは、先人たちの運動の結果だ。過去に声を上げ、社会と戦った先人たちの屍の上に、現在の平穏な暮らしがある。それを知っているからこそ、俺は「歴史に身を捧げる」と書いた。決して気楽に考えて書いたわけではない。
俺が住むこの世界で、俺に対する扱いが今すぐに変化することを、俺は望まない。というより望むべくもない。他人を差別するのもまた心ある人間で、その集合たる社会は、そう急激に変化できるものではないだろうから。
LGBTに限らず、様々な差別に対して俺ができるだけ誠実であろうと心がけているのは、せめて次代にもう少しだけマシな世界を手渡したいからだ。その積み重ねこそ、俺が今日まで生かされてきた「歴史」というものの恩恵だと思う。
貴方がどのような生き方を選ぼうと貴方の自由だが、少なくとも俺は、そのような姿勢でいる人間を心の底から軽蔑する。
単に「私はこのようにして苦しんでいるから手助けしてくれ」と言われる方が、よほど手を伸べる気にもなろうというものだ。
オタク差別って、実際にはオタクじゃない人間のステレオタイプによって強化された。
源流をどことするのは難しいが、80年代後半の宮崎勤事件にフォーカスしてみたい。
このあたり、調べてみるといろいろ面白い。
まず、やり玉にあがるのが「宮崎勤」だが、彼は、最初は「アニメやホラー映画愛好家や大量のビデオテープ所持」としてテレビやワイドショーが紹介している。しかし、その後、ペドファイルからオタクという極めて雑な流れでオタクバッシングへとつながった。
このあたりの流れ、極めて重要なのだが、「ホラー映画のテレビ放送の自粛」なども起きており、オタクに対する規制と差別のみが強化された原因はほかにある。
まあぶっちゃけて言うと、「某自称オタクサブカル芸人」なんだよね。
この芸人というのは、宮崎勤後、かなりテレビに出まくった。言ってしまえば奇妙なキャラ付けでオタクを自称し、テレビでオタクってキモいでしょ? という偏見を持ってもらうことを仕事にしていた。
オタクのステレオタイプを強化し、妙なキャラクターづけで、「オタク評論家」としてメディアに露出しまくった。
それだけではなく、いまでいうところのストーカー行為なんかを紙面でやって裁判沙汰になったりしている。
「オタクの元祖」とかいう紹介をされると、烈火のごとくその当時のオタクが怒り出すこともある。
オタクはダサくて陰湿で気持ち悪い異常者、というコンセプトのタレントを、そのままメディアが時流に乗って重宝し、その結果、オタクの差別がより強化された。
なにより反感を感じるのは、そのオタクのキャラ付けが「演じられていること」だったろう。
オタク差別は、その芸人が「気持ち悪いオタク」を演じることによって一気に広がった。
しかし宮崎勤を語っても、「そのサブカル芸人が自分を売り出すためにオタクをコケにする演出を行い、テレビがそれを利用した」ことはなかなか振り返られない。
オタク差別などないという人は、この構図を今一度振り返ってほしい。
おそらく、他の差別に対しても得られる教訓があるだろう。
結論を先に書くと、ゲイに襲われた経験のある父親(俺)は息子にゲイだと明かされたら絶縁を選ぶ。
もしあなたが親にカミングアウトすべきか悩んでいるゲイなら、縁を切っても構わない程度の親と思っているのでなければカミングアウトはしないでくれ。
男の子を授かって、生来のゲイの割合は5%というのが正しければうちの子は絶対に違うとは言えない確率だな、もしゲイだとしたら自分は息子を受け入れられのか?
と傍から見ればアホな独りよがりなんだろうけど自分にとっては切実な問いにここしばらく取り組んだ末に「受け入れられない」というが自分の答えだった。
俺の場合は、ゲイに襲われたと言ってもレイプまでされたわけではない。高校生の時に通学の電車で痴漢されて性器を直に弄られたところまでの被害で済んだ。
それだけでも一生ゲイフォビアを抱くのに十分だったが。
成人してから酒のはずみで父にこのことを冗談交じりに話したら、陽気に飲んでいた父が俯いて押し黙った後「……俺も中学の時にそういうことがあった。ホモ連中はクズだ」と初めて聞く声色で言うので酔いが冷めた。
父は人格者とまではいわないけどあからさまに他人を罵るような人ではなかったので本当に驚いた。
「ゲイフォビアは総じて薄っぺらな世間体や伝統道徳や宗教信念が形作った妄念に過ぎない」というのは危険な誤解だと思う。
俺や父のようにゲイに襲われた経験からハードコアなゲイフォビアになった人間はそれなりにいるし、あなたの父親もそういう誰にも話せないトラウマを抱えているかもしれないという想定を持って欲しい。
「ゲイを全てレイピストの如く見るのはいかがなものか」という反論は理性的だと認める。
だが、幼女の時に男に襲われた経験を持つ女性が母親になり産んだ息子が幼女しか性対象にできない真性のペドフィリアだったとしたらどうだ?
生来のペドファイルの多くは二次元などの性的ファンタジーで性欲をコントロールできており実際に性犯罪に至る者は少ない。
実際の児童への性犯罪のほとんどは「正常」な性指向の男性により行われており、性犯罪者は本来の性対象の成人女性の代替として無力な子供を狙うのだ。
というよく聞くペド擁護が統計的な事実だとして、その事実が息子を家から追い出したい、「治療」したい、いっそ心中すべきかとまで思い詰める母親の心を救えるだろうか?
俺にとって、ゲイの息子を持つということはそれと同じ苦しみをもたらすものなんだ。
では、ゲイのあなたは父親とどう向き合うべきなのか(もし息子がゲイだったら俺はどうして欲しいのか)?
端的に言って、向き合わなくていいし何もしなくていい。
母親やきょうだいの口の堅さが信用できないなら、家族の雰囲気で父親が事実を察してしまいそうなら、父親以外の家族にもカミングアウトしないでくれるとありがたい。
幸いなことに日本の男性生涯未婚率は既に2割いずれ3割になる。
父親から結婚はまだか孫の顔が見たいなどの繰り言が出たら、仕事や趣味に忙しくて結婚に興味が無い(単純にもてなくて結婚できない)3割のありふれた未婚男のふりをすればいいだけだ。
繰り返す。
この世にはゲイに襲われ傷つけられた男がいて、あなたの父親も自分からは決して語らなくともその一人かも知れず、息子がゲイであることを知ることは父親の傷をさらに深く抉ることになるかも知れない。
このことを常に忘れるな。
twitterで、ロリコンの権利向上を訴える人に向かって、子供と大人は権力構造があるから云々と的外れな非難を浴びせ、それに反差別・リベラルを掲げる面々が賛同のリツイートしまくってたのが気味が悪くて限界だった。もうほんとおめーらのそのロリコン差別意識をどうにかしろよ。
実在の子どもとセックスするのは(たとえ子どもの「同意」があっても)犯罪。オーケー。異存はない。
実在の子どもを被写体にしたポルノは取り締まられねばならない。オーケー。別件捜査の口実になるとかそういう運用上の懸念はあるが、単純所持の禁止それ自体に異論はない。
(個人的には2回目までは廃棄命令で済ませて3回目以降はじめて送検するというスリーストライク方式でもいいんじゃないのと思うが、それは処罰のやり方への異議であり単純所持禁止そのものには賛成する)
ゆえにロリコンに冷たい目が向けられるのは仕方ない。これは差別ではない。ホワット? ちょっと何言ってるのかわからない。
ロリコンだろうがゲイだろうが成人に欲情する異性愛者だろうが、子どもとセックスしたり子どもを被写体にしたポルノを持ってはいけない。この主張は明瞭でまっとうだ。
なのに、なぜそこにロリコン差別を混ぜ込む必要があるんだろう?
子どもをレイプした男が「いや俺には同年代の妻がいるし、学生時代も同年代の人とばかり付き合ってきたから、俺はロリコンじゃないんだ!」と言ったら罪を軽くすべきとか思うの?
小児にしか欲情できない、というのは、異性にしか欲情できないとか、同性じゃないと性愛の対象として見れないとか、どんな人をも性的欲望の対象にできないとか、そういったものと同じ、単なる性指向の一種にすぎない。
その属性をまとめて蔑視し、彼らの権利向上に反対するのが差別じゃなくてなんなんだろうか。こんな主張が反差別・リベラルの側から流れてくるというのは、反差別を掲げるリベラリストとして地獄感がある。
「ゲイは対等な相手と恋愛/セックスすることが可能だけど、ロリコンはそうじゃないからゲイとは違う」という議論もある。
えっ? ゲイの人たちが求めてたのって「好きな相手と堂々と恋愛/セックスする権利」だけだったの? 違うでしょ?
ゲイであるからといって社会的に差別されない、ゲイ向けの表現をゲイ向けであるという理由で排斥されない、ってのもゲイの権利向上で、ロリコンがそれらの権利を求めることはまったくおかしくないよね。
それこそゲイの中にも非モテとか結婚する気のない人とかはいるだろうけど、だからといって彼らは同性婚には縁がないんだからゲイの権利向上を訴える理由はない、なんてわけがない。
もっと言えば、仮に実際のロリに手を出したやつだったとしても、ロリコン差別に怒っていいんだよ。男をレイプしたゲイだってゲイ差別に怒る権利があるのと同じ。
なぜなら、そいつらの罪はレイプしたことであって、ロリコンであることやゲイであることじゃないからだ。
そいつらは性犯罪者として刑務所に入れられるべきだが、誰もロリコンやゲイであることを理由に投獄されるべきじゃない。
ペドファイルの権利とゲイの権利は切り離せないんだよ。ロリコンを変態と蔑視していいなら、伝統的価値観からいえばゲイだって変態だろ。で、ゲイを差別するその伝統的価値観は間違ってるよな?
子どもを性的に見るなんてこわい、という主張をする人も見かけた。悪いが、ゲイの入団を認めたらロッカールームでケツ掘られる! とかわめいていた連中のことを想像してしまう。
中学校の頃、近所の公園はゲイのハッテン場だから気をつけろ、と言われて、夜に通るときなんかはビクビクしていたが、冷静に考えたらあれは差別だよな。
こわいと思うのは仕方ない、生理的反応だもの。それこそ、ゲイを見てうわキモッと内心で思ってしまうことまで止めることはできない。
でもそれを公共圏に持ち出して特定の集団を差別していいはずがない。
というか公共圏じゃなくても、差別的な反応は内省した方がいいし、内省しないにしてもせめて表に出さない方がいい。もうちょっと自由主義的にいうなら、出してもいいけど、出すなら差別者だと馬鹿にされることを覚悟してね。
何度も言うけど、実在の子どもへの性虐待とか、もっと広範に、立場が上の者、権力を持っている者からの虐待やハラスメントは積極的に罰していくべき、あるいは重罰を科すべき、という主張なら賛同する。
こんなツイートを見ました。
ペドフィリアが欲求を表明する「自由」は既に保証されているわけで、SNSであえて彼らを擁護してみせる人たちはそれ以上の、たとえば批判すら受けない権利を要求しているように見えるが、そんなの無理に決まってるだろ。— デビルトラックさん (@deviltruck2010) 2017年5月8日
確かに「批判すら受けない権利」を要求しているような語り口の人もいるでしょうが、ペドフィリアにも不当な批判に抗議する権利は当然あるでしょう。
「しかし、本当にペドフィリアは不当な批判に晒されているのか?」
はい。
ペドファイル男性っていわゆる「ネット右翼」みたいなもので,主張の極端さ故にマジョリイティから忌避されているだけで決して全否定はされておらず,時には擁護されたり,あるいは鉄砲玉みたいに使い捨てられたりしてるよね。— デビルトラックさん (@deviltruck2010) 2016年9月26日
こういうのがまさにそうです。
“ペドファイル男性っていわゆる「ネット右翼」みたいなもので”
パンチラインですね。
「主張の極端さ故に」って、そもそもペドフィリアは主張ではないし、ペドファイル男性というのは思想集団とかではないんですが、何を仰るんでしょうか。
ペドフィリアは主張ではありません。ただし、ペドファイルを公言するのは悪であるという主張には一定数からの支持があります。であれば、ペドファイルを公言することもまた「ペドフィリアを公言することは悪ではない」という「主張」として機能し得るというような捉え方は可能です(「私は悪だ」というスタンスのペドファイルも中にはいるでしょうが)。恐らくは、そのような意味での「主張」が、マジョリティから「忌避」されつつも「擁護」されるという話だろうと思います。
ここでは「ペドフィリアを公言するのは悪であるという主張」自体の是非は論じません。個人的な見解はあるのですが、まとまっていないので。
それよりも指摘したいのは、デビルトラック氏がペドファイル男性とペドファイル“を公言している”男性を同一視しているということです(それ故に、言葉通りに読むと「ペドファイル男性」が皆「主張」をしているかのような奇妙な文が出来上がっている)。
氏のツイートからは、氏がペドファイル公言に否定的な立場であるか、又はその立場に一定の正当性があると見なしていることが伝わります。
その上で、「ペドファイル男性」と「ペドファイルを公言する男性」を混同した文章を書くのは、非常に悪質です。
要は公言しようがしまいが「ネット右翼みたいなもの」として一緒くたに叩くということなので。
デビルトラック氏に限らないのですが、ペドファイルを公言するべきでないという立場に立つ人(氏がこの立場なのかははっきりとはわからないけど)のうち一部に、
「ペドファイルを公言する人は××(批判文句)である」と書くべきところで「ペドファイルは××である」と書く人がいるのですが、
それは結局「ペドファイルは公言してはいけないけど、公言しなかろうが公言しているペドフィリアと一緒くたに攻撃する」ってことですよね。
勘弁してください。
(なお「私は内心に留めているペドファイルも批判する」という立場の人に対しては上の批判は当たりませんが、今書いたのは、デビルトラック氏のように内心に留めてるペドファイルと公言するペドファイルを混同してものを言う人の話です。)
ペドフィリアであることの告白は『他者を傷付け人権の衝突を引き起こす』(=公共の福祉に反する)為、表現すべきでないという言説-togetterまとめ
を読んで思ったことを書く。
まず、筆者は「ペドファイル」と「チャイルドレマスター」の区別の件は知っていて、表現規制に反対の立場であることを明示しておく。
さて、まとめ内では「ペドフィリアであることの告白」は「恐怖をもたらす(保護者や児童に対して)」から、その表現自体が規制されるべきと言われている。
しかし考えて欲しい。ペドフィリア以外でも、そもそも「属性の表明」は結局何らかの恐怖をもたらすのではないか?コメント欄から引用するが、「ウェイ系であることの告白」は「陰キャラにとっては恐怖」とも言われている。この人の書き方はちょっと微妙な例だとは思うが、基本的にはこの考えに同意である。
ペドフィリアが全員チャイルドレマスターではない。ペドフィリアだとしても、現実に児童に危害を加える人は殆どいない。ウェイ系の中で陰キャラに危害を加える割合のほうがよほど多いだろう。それでも「すべての」ウェイが陰キャラをいじめているんだなどと言い出したらトンデモである。
そしてこの「全員がそうではないがなんとなく恐怖の対象になりかねない属性」なんてのはいくらでもある。逆に陰キャラを毛嫌いしている人からすれば、自分は陰キャラだからと表明している人にある種の恐怖を感じるかもしれない。何かを欲しいと表明する人がいたら、その何かを持っている人が自分のものが盗まれるのではないかと恐怖するかもしれない。実際、ネット上で画像を上げてこれがほしいと発言した人に、違法や強引な手段で手に入れようとするに違いないと決めつけて犯罪予備軍とでも言わんばかりの苦情が発生したという事件も見たことがある。
とどのつまり、「属性の表明」は全てとは言えないにしても、突き詰めれば何らかの恐怖をもたらす可能性はペドフィリア以外にもたくさんある。ペドフィリアであることの表明が、恐怖だからという理由で制限されることが是とされれば、当然別の恐怖をもたらす属性を表明することも規制されかねなくて、「いかなる属性も表明するな」に繋がるのではないか。例えば児童に危害を加えた犯罪者の中には教師が含まれるが(そして一方で殆どの教師は犯罪など犯さない)、では教師であることを表明するのは恐怖を与えるとして制限されるとなるのか。包丁を持った人間が殺人を犯したから、包丁を持っているとの表明は殺されるかもしれないという恐怖心の理由になるから規制されるとなるのか?ありえないだろう。
属性の表明なんてどういう発言がそういうものと見なされるのかわかったものではない。したがって、恐怖だからという理由で表明そのものを規制しては何も言えない世の中になってしまうのではないか?と思う。特に、職業の属性であることを表明せずに仕事をするのは不可能である。
勿論TPOを考慮せずに不適切な属性告白の仕方をするのが良くないというのは当然である。わざわざ小さい子供を持つ親の前で自分はペドフィリアだと余計に表明するのは良くないだろう。しかしながら、いかなる場合でも許さぬという方向になると、こういうディストピアの出現を邪推せざるを得ない、とも思う。
以上の理由から、「ペドフィリアであることの表明」も含む属性告白は、TPOなどの配慮が求められるのは当然とは言え、それ自体犯罪扱いされたり表現規制を受けるなどということはよろしくないのではと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20150128232843
また伏見憲明氏の『欲望問題』から引用する。伏見憲明氏はゲイ・コミュニティについて以下のように語っている。
ゲイはまだ被差別記号としての意味合いも強く残っていますし、多くの異性愛の人たちが結婚をして家庭を作っていく中では、人生を共に生きていく仲間をゲイ共同性に求めていく志向もあると思います。(中略)そこそこ被差別性を帯びた共同体を差し挟むゆえに、茫漠とした社会の中で他者と集い、共感を得ることができる、ということです。
続いて、たまごまご氏の『オタクが融解した、「げんしけん」二代目が、つらい』というブログ記事から引用する。
とても明るくて、幸せあふれる恋愛マンガとしての「げんしけん」
楽しいです。
楽しいけど、読んでいて辛い。
そこにさようならを告げられて、若い世代でよろしくやりますよ、という流れになってきた。
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20141225/1419531038
このつらさとは、「オタク」が被差別記号では無くなったことへの寂しさなのではないだろうか。『コンプレックス・エイジ』について、「こっちのほうが読んでいてほっとする」というコメントされているが、この作品で描かれる「歳を食ったコスプレイヤー」は被差別記号としての意味合いが未だ強い。というより、ここでは「被差別者・被抑圧者であるという自意識」の有無が重要に思える。
「被差別性を帯びた共同体」が社会に受け入れられることで、被害者意識や鬱屈・屈託の無いプレーンな「共同体」となっていく。セカオワが大人どもに叩かれるほどセカオ輪は強固になり、セカオワが大人どもに容認されるほどセカオ輪はユルくなるだろう。否定・拒否・攻撃してくる共通の外敵が居なくなる分、「被差別性を帯びた共同体」にはあった「弱者であるお互いを守りあう」という意味合いは無くなる。その分、共同体単位の結びつきの濃さは薄れていき、個人単位の結びつきになっていって、相性の良いもの同士が共同体の外で個人的に関わるようになっていく。共通の外敵を持つ「被差別性を帯びた共同体」でなら、魅力に恵まれない個人でも、その共同体意識の強さによって人と繋がることが出来たのに……。男性を敵視するフェミニスト・コミュニティを見ていても、彼女たちの目的は男女同権ではなく、男性を共通の外敵に設定して、女性同士の繋がりを強固にすることのようにしか思えない。そのようにしたがるのは、彼らの個人としての魅力が弱く(あるいは魅力に自信を持てず)、「被差別性を帯びた共同体」の力を借りないと人と繋がれないからではないだろうか。仮想敵にされる側からすればいい迷惑だが。
現代日本の,というかぶっちゃけて言うとオタクのあいだで言われる「ロリコン」って,ぶっちゃけファッションであってそんな切実な性的志向じゃないだろ! と思うことが多々あって,もちろんガチのペドファイルのひとたちがある程度いることは間違いないだろうけれど,雷ちゃんかわいいとか響サイコーとか薫ちゃんにせんせえと呼ばれたいとか言ってるひとが同時に愛宕萌えーとか加賀さんかわいいとかしぶりん結婚してくれとか言ってるの見てると,それもうロリっぽくデザインされたキャラに萌えてるだけで実際は小児性愛者でも何でもないようにしか思えなくて,そして肌感覚としてそういうひとたちの方が多数派なように思えるので,そういうのを見ているひとが「何お前らがセクマイ気取ってんだよ!」みたいに言うことも,まあ,よくわかる.
http://anond.hatelabo.jp/20150116015211
「三次元はクソ」だの「女子大生はババア」だの散々言っておきながら、女子大生の彼女が出来ると何事も無かったように「シーパラ行ってきてさ~♪」となる自称ロリコン自称オタクの男子大学生を何人も実際に見てきた。ハンコ絵ならぬハンコ人格と言えるありさまであった。自称ロリコンの大半はそのような「なんちゃってロリコン」なのだろう。真性の小児性愛者は小児にしか欲情できないため事態が深刻化しがちだが、「なんちゃってロリコン」は同年代にも欲情可能なため──むしろ同年代への欲情がメインで、ロリに向かうのは上手く手に入らない同年代への当て付けかと思うこともあるくらいだが──それなりの年齢になると恋人を見つけ、結婚し、社会に容認された多数派としての人生を歩むことができる。「上がり」である。
そして『欲望問題』に戻る。
コミュニティ活動や、ハッテン場や、ゲイメディアなどさまざまな場で、日々ゲイという共同性をめぐる動向を肌で感じているぼくは、いまではそれを解体すべきものとも、抑圧的な記号だとも思っていません。もちろんゲイ=自分ではありえませんし、ゲイ共同性の中のある種の傾向や指向に違和感をもたないでもありません。自分自身とそれの間には多少のズレや距離があるのが当たり前ですが、一つの足場として利用価値があると思いますし、自分にとっては大きな人脈資源だと実感するのです。ここ数年、ぼくは、ゲイだからゲイ・コミュニティに属する、という見方ではなく、自分が豊かな人生を歩むのに、ゲイ・コミュニティというフィクションをいかに創造し、それを利用するのかというスタンスに移行しています。
ゲイ・コミュニティの被差別性は徐々に融解しつつあるようだ。表現規制者に弾圧されている「ロリコン」や、恋愛至上主義に抑圧されている「非モテ」は、「オタク」という属性の被差別性が融解して宙ぶらりんになった「被差別者・被抑圧者であるという自意識」を持つ人間の受け皿となるラベルだったんじゃないだろうか。被抑圧者になるためのラベルとしてのロリコンと、小児性愛者は別物であり、深刻度も別格だ。
最近では、ふと気がつくと、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいのでしょうか。なんとかならないものでしょうか。本当にもう子供に手を出してしまう寸前なのです……。
http://anond.hatelabo.jp/20150128232843
多くの自称ロリコンは、現実の子供に手を出しそうになったことがない。ロリコンを自称するのは、「被差別者・被抑圧者であるという自意識」を持つ人間とつるむこと、そして強者の愚痴を言うことが目的なのだ。
最近あちらこちらで「ロリコンはセクマイ」という主張を目にすることが増えて,それに対する「とうとうこいつらロリコンはセクマイとか言い出したよwwwwww」という反応も目にすることが増えてきたんだけど,なんというか,どっちも正しくてどっちも間違ってると思う.
前者は一般論としては疑う余地なく正しい.小児にしか性愛の感情を抱けないひとは一定数いる.それは変えられない.同性としか恋愛できないひとがいる,自分は違う性の身体に閉じ込められたひとがいる,というのと同じ次元で,彼らはセクシャルマイノリティと言われるべきだし,彼らが現実の子供に手を出さない限り彼らがそのために迫害されたり「治療」の対象になっちゃいけないと思う.
http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1531
実際に↑のような迫害を受けているひともいる.彼らはどう考えてもセクマイだ.
しかし後者も一定の理があるというか,現代日本の,というかぶっちゃけて言うとオタクのあいだで言われる「ロリコン」って,ぶっちゃけファッションであってそんな切実な性的志向じゃないだろ! と思うことが多々あって,もちろんガチのペドファイルのひとたちがある程度いることは間違いないだろうけれど,雷ちゃんかわいいとか響サイコーとか薫ちゃんにせんせえと呼ばれたいとか言ってるひとが同時に愛宕萌えーとか加賀さんかわいいとかしぶりん結婚してくれとか言ってるの見てると,それもうロリっぽくデザインされたキャラに萌えてるだけで実際は小児性愛者でも何でもないようにしか思えなくて,そして肌感覚としてそういうひとたちの方が多数派なように思えるので,そういうのを見ているひとが「何お前らがセクマイ気取ってんだよ!」みたいに言うことも,まあ,よくわかる.
もちろんオタクの中にも,本当にセクマイとしてのペドファイルはいるだろう.でも,大学に行っても自分は7歳くらいの女の子しか好きになれないんだ,と絶望したことのない俺のような「マジョリティ」に属す人間が,第六駆逐隊に萌えているという理由だけで「俺たちもセクマイだ!」と叫ぶことは醜悪だと思う.
セクマイは,多分,そんな軽い在り方じゃない.
似たような言葉で「テロとの戦い」があるけど、これは「テロ=犯罪」という認識から、ひとまずは許容される言い方なんだよね。
一方、ブッシュ元大統領は「イスラムとの戦い」を示唆して批判されてきた。「十字軍」とか「イスラムのファシスト」とか。これが間違っている理由は、ごく外形的に説明ができる。つまり、イスラム教徒でもテロに加担しない者もいるんだから「イスラム≠犯罪」。
さて、ペドファイルであることは罪ではない。ペドファイルの国家議員だっているかもしれない。麻生首相がペドファイルじゃないって誰が確かめた?あなたの隣人がペドファイルでないと、どうやって確かめた?あなたの息子や娘がペドファイルではない/ペドファイルにならないって誰が確かめたの?
ペドファイルやペドフィリア(小児性愛)と戦ってはいけない。そんな戦いに賛同してはいけない。
※「ペドファイルとの戦い」:与党で児童ポルノ法改正案を推進している葉梨衆院議員による国会での発言であり、与党案を分かりやすく表現したスローガン