はてなキーワード: カルト教団とは
そもそも、国宝みたいなものより人権の方が大事なのは当たり前だよね。
国宝とかナショナリズムを高揚させるのが目的だしないほうが良い。
国宝とかああいうのって昔に作られた物ばっかりだよね。武士とか武力で人民から富を巻き上げたのは明らか。
農民が貧しい暮らしをしているのか自分たちは巻き上げた金で豪奢な鎧や刀など軍国主義的なものを作ってたんだから壊したほうがいい。
寺は女は解脱しないとか言ってるし、反フェミなのは明らか。それにあの世とかいう存在しないもので金を巻き上げたカルト教団。統一教会と一緒。
朝廷は天皇制が前提なのでだめに決まっている。天皇制とか家父長制度の権化だしね。
はてなのバカどもは国宝なんて全部メルカリで売ってその金をcolaboなどの今生きてる女性を大切にする団体の資金にするほうがずっと良い事に気づくべき。
「鼠」は「風の歌を聴け」に始まる「鼠四部作」に登場する。主人公の友人であるが、ある日突然行方をくらまし、「羊をめぐる冒険」では自ら死を選ぶ。語り手と主人公の仲は深く、あたかも語り手の半身のようである。己の半身が半ば死の世界にいるというモチーフはこの後に何度も繰り返される。
この半身のように親しい友人は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のなかでは幻想パートの「影」に姿を変える。彼は語り手の半身であり、語り手の記憶を保持している。壁の中に閉じ込められた世界を脱出するためには二人がそろっていなければならないが、土壇場で語り手は壁の内側にとどまることを選び、影は死ぬことになる。
「ノルウェイの森」では彼は「キズキ」になる。物語の序盤で排気ガスによる死を選んだことが語られ、交際相手であった直子の死の遠因となる。
また、直接の半身ではないにせよ親しい友人で自ら死を選ぶ点で共通しているのは、「ダンス・ダンス・ダンス」の「五反田君」だ。彼は連続殺人犯であったことを明かして死ぬ。このあたりのくだりは恐らくチャンドラーの影響が深い。
このように、半身はしばらくのあいだ無力な存在だったが、「海辺のカフカ」以降では様子が変わる。「カラスと呼ばれる少年」は、「カフカ少年」のもう一つの人格のように見えるが、彼は「カフカ少年」を客観視し、適切なアドバイスを与える。一貫してサポートしてくれる存在だ。半身が異界の住人であるというモチーフであり、「鼠」の系譜に属しているが、そこに自ら死を選ぶような面は見られない。「海辺のカフカ」は主人公がとても若い点でも特異だ。
ただし、佐伯さんが現実感を失った生活をするきっかけとなった、東京の大学紛争で殺された友人は、佐伯さんがノルウェイの森の「直子」の系譜に属するとすれば、「キズキ」のもう一人の子孫だ。
キズキと直子が、そして佐伯さんとその恋人は幼い頃から自然に性交をしていたが、まるで思春期の完璧さを求める性向が現実によって打ち砕かれるかのように、その関係が死によって断たれる点でも、この二つのカップルは類似している。
村上春樹の小説には一貫して何らかの精神疾患を患った、少なくとも感情的に不安的な女性が出てくる。
デビュー作の「風の歌を聴け」の時点から、「小指のない女の子」として出てくる。彼女は話している途中に突然泣き出してしまう。また、周囲の人々がひどいことを言うとも語るが、これが事実なのか、精神疾患ゆえの妄想なのかどうかは判然としない。
この系譜が「1973年のピンボール」の中ですでに亡くなっているかつての恋人「直子」につながり、さらに「羊をめぐる冒険」の「誰とでも寝る女の子」につながっているかどうかはわからない。ただ、「ノルウェイの森」の「直子」には直接つながっているだろう。語り手の過ちによって感情を失った「国境の南、太陽の西」の「大原イズミ」も、彼女の裏面だ。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」もその子孫だ。
また、恋人または妻の一つのアーキタイプとして、「ねじまき鳥クロニクル」の「クミコ」「加納クレタ」や「スプートニクの恋人」の「にんじん」の母にも発展しているようにも思える。
より明確な形としては、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」が子孫のようだ。前述のように恋人の死をきっかけに精神を病む、少なくともある種の現実感を失ってしまう点が共通している。ただし、佐伯さんは後述の老女の系譜にもつながっている。ピアノができたことを考えると、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」も「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」も同じカテゴリに入れていい。
そもそもこのキャラクターの流れについての記述は、誰が後の作品の誰に直接発展したかを明確に追うことではない。おそらくはいくつも混ざり合っている。むしろ、これは村上春樹の作品を解釈するための補助線として見るのが適切だろう。
彼女がやたらとタフになったのが「1Q84」の「青豆」かもしれない。あるいは、生命力にあふれている点では後述の「ミドリ」だろうか。
直子とは対照的な心身が比較的健康なタイプの女性の系譜もある。
性に対する好奇心の強い「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「太った娘」もそうだが、彼女は後述する「少女」の系譜につながる面もある。
同じく制に対して罪悪感を持たない「ノルウェイの森」の「ミドリ」、「国境の南、太陽の西」の「島本さん」、「スプートニクの恋人」の「すみれ」、「海辺のカフカ」の「さくら」(どうでもいいがこのキャラのせいでおねショタに目覚めた)、「1Q84」の安田恭子へとつながっている。
村上春樹の作品を時系列順に読み返すと、ある時点で突然新しい属性を持ったキャラクター群が登場する。それは、どことなく巫女的な力を持った若い女性である。
前兆としてあらわれるのが、「羊をめぐる冒険」では耳専門のモデルをしている21歳の女性だ。彼女は不思議な力で主人公を羊へと導くが、物語の終盤を前に姿を消してしまうので、いくばくか影が薄い。しかし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる肥満の17歳の女の子は語り手を「やみくろ」の支配する東京の地下世界にいざなう。
より少女性が強まるというか、単純に年齢が幼くなるのが「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する13歳のユキで、彼女は五反田君の殺人の痕跡を巫女のように感じ取ることができた。
「ねじまき鳥クロニクル」での「笠原メイ」は、映画「ロリータ」を思わせる登場の仕方をするし、終盤では主人公を救う力の源であるかのように描写されている。月光の下で裸身をさらす姿は、今までの村上春樹にはなかった描写である。確かに「ノルウェイの森」で「直子」がそうするシーンはあるが、彼女は成人した女性だ。
「海辺のカフカ」では夢の中に現れる十五歳の佐伯さんの姿を取る、ここでは少女との性交が初めて描かれる。
巫女的な少女の系譜がより明確になるのが「1Q84」に出てくる17歳のカルト教団育ちである「ふかえり」だ。彼女は何らかの学習障害を患っていて独特の話し方をするが、彼女との性交は異世界との経路となる。
村上春樹が歳を重ねて少女との性交を書くのをためらわなくなっていったのは面白い(【追記】「ふかえり」にいたっては巨乳の文学少女という属性!)。というのも、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では肥満の女の子から私と寝ないかと誘われて断っているからだ。
大学の先輩がこう述べていた。ある種の作家は自分が生まれる十年ほど前の出来事をテーマにすることがある。なぜなら、自分が参加できなかった「祭り」だからだ。これが事実かどうかはわからないが、村上春樹は古くから第二次世界大戦と中国がテーマに含まれている。「鼠」の父親も戦争とその後の混乱で金持ちになった人間だ。興味深いことに村上春樹の父は中国に従軍している。
(余談だけれどもこの先輩は村上春樹作品にしばしば出てくる井戸は「イド」つまり無意識を示唆しているのではないかと言っていた)
さて、老人がキャラクターとして物語の信仰に深くかかわるようになったのは、「羊をめぐる冒険」の「羊博士」からだろう。彼はいるかホテルにこもったきりで、外に出ようとしない。しかし、探し求めている羊がどこにいるかという重大な情報を指し示す。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも、現実パートには「老博士」が出てくるし、幻想パートには退役した「大佐」がいる。
軍人という属性が前面に出てくるのが「ねじまき鳥クロニクル」の間宮老人だ。彼はノモンハンにて過酷な体験をするし、そこである種の悪しき力に取りつかれる。
「海辺のカフカ」には「中田老人」が出てくる。彼もまたある種の不可解な力(後述の闇の力?)の犠牲になり、記憶や知性の多くを奪われてしまう。一方で、彼は「カフカ少年」に代わって父殺しを遂行する半身でもある。
「1Q84」では少し特殊で、これは近過去SFであり、戦争の経験者やその前後に生まれた人々が相対的に若い。それゆえ今までのパターンを単純に当てはめるのが適切かはわからない。
天吾の父がこの系譜に属するだろうか。「1Q84」では善悪が入れ替わることが多い。幼い天吾を無理やりNHKの集金に連れまわす点でネガティブに描かれていたにもかかわらず(村上春樹はこうした巨大組織を一般に「システム」と呼んであまり肯定的に扱わない)、後半では声だけの存在になった彼が助けに来るのだ。
なお、戦場に行っていたという点を考慮すると、これらの老人たちは村上春樹の父親の世代に当たるだろう。
米軍基地にいたという点でジェイもここに属しているかもしれない。
一世代上の女性が出てきたのは「ノルウェイの森」の「レイコさん」だ。彼女は心を病んではいるものの、主人公たちを導いてくれる。「直子」のルームメイトとして、彼女の心身の安定に寄与している。
それがおそらく「ねじまき鳥クロニクル」の「赤坂ナツメグ」になるし、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」を経て「1Q84」の「緒方静恵」になる。
彼女たちの多くは戦争をはじめとした暴力の中で深く傷つき、その中でもある種のコミュニティ・安全地帯を運営し続けている。「レイコさん」は精神病院の患者たちのまとめ役だし、「赤坂ナツメグ」は女性向け風俗(?)で女性の性的空想を現実にし、「佐伯さん」は図書館という静謐な環境を守護し、「緒形静恵」は性暴力を受けた女性の避難所を運営して、しばしば法を破ってでも報復を行う。年齢的にはかけ離れるが、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」もこの老女の系譜に属するか。
彼女の息子たち(血縁があるかどうかはともかく)の系譜は、「赤坂ナツメグ」の息子「シナモン」、「佐伯さん」の図書館で司書を務める「大島さん」、それから「緒方静恵」の柳屋敷でセキュリティを担当するタマルだ。セクマイであることが多い。
「1973年のピンボール」の双子の女の子を除いて、概して二人組の登場人物は不吉な前兆だ。体格は対照的なことが多い。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では「大男」・「ちび」の二人組が語り手に刺客を差し向け、第三勢力になって儲けようとだましに来る。「ダンス・ダンス・ダンス」ではまるで「長いお別れ」みたいな嫌がらせをしてくる「文学」「漁師」と語り手があだ名をつけた警官が出てくる。「海辺のカフカ」に出てくる二人組は、軽率な発言から「大島さん」を傷つけてしまう自称フェミニスト二人組だ。「1Q84」には「さきがけ」のリーダーの警備をする坊主頭とポニーテールの二人組がいる。
ただし、何度か繰り返すが善悪のシンボルを意図的に逆転させることが多いのが村上春樹の作品で、おなじ「海辺のカフカ」でも「カフカ少年」を森の奥に導くのは同じように体格が対照的な二人組の日本兵だ。
また、よくよく考えてみれば、「風の歌を聴け」の時点でも、「小指のない女の子」には双子の妹がいたのである。直接姿を見せず言及されるだけだが、このモチーフの萌芽とみていいだろう。
村上春樹はある時点で純粋な悪の起源はなんであるかについて語ろうとしている。
それは悪しき登場人物の姿だけでなく、クトゥルフ神話的な怪物としても姿を見せる。
現に「風の歌を聴け」に出てくるデレク・ハートフィールドの伝記は、ラブクラフトやバロウズをはじめとしたパルプフィクションの作家たちを混ぜ合わせたものだ。
「鼠四部作」のなかでは「羊」がそれに該当する。不可解な暴力や権力の中心に存在し、人間に憑りつくことで現実的な力をふるう。あるいは、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の現実パートの「やみくろ」たち、幻想パートの「門番」。「ねじまき鳥クロニクル」の「ねじまき鳥」や、綿谷昇の属する政治の世界。そして「海辺のカフカ」に登場する「ジョニー・ウォーカー」や、「中田老人」の口の中から出てくる不可解な物体。
非人間的な力ではないが、「ノルウェイの森」の「レイコさん」の精神を悪化させる原因となった少女も、この系譜に属していると見なしていいかもしれない。
だが、「1Q84」のリトルピープルの存在は解釈が難しい。今までとは異なり、単純な悪ではないようだ。初読時には「これは人が複雑な現実を物語化する能力の具現化で、善にも悪にもなりうる、ある種の単純化する力ではないか」と思ったが、再読したら違う印象を受けるやも知れない。また、「牛河」も悪しき力の手先のように見えるが、離婚した妻子がおり、生きた人間であって化け物ではない。
善悪が曖昧と言えば、「海辺のカフカ」では「圧倒的な偏見でもって強固に抹殺するんだ」が主人公サイドと敵役サイドのいずれでも使われる。
こんな風に、村上春樹はある時期から善悪を意図的にぼかし、単純化を避けるようになった。
【追記】アフターダークの暴力を振るった深夜残業してたサラリーマンもここにいれていいかも。
村上春樹後半期のテーマの一つをまとめるとしたら「どれほど不適切な養育環境で育ったとしても、その現実を受け入れてスタートするしかないし、ときとしてそこで学んだことに結果的に心が支えられてしまうケースがある」だろう。言い換えると「歴史・過去を消し去ることはできない」だ。
あと、「国境の南、太陽の西」の「にんじん」はうまくしゃべれないけど、「海辺のカフカ」の「カフカ少年」の造形に影響を与えたかもしれない。
別に結論はない。ただ、こういう順で発展していったのだなと考えながら読むと楽しいだけである。
もう一つ興味深いのは、親が亡くなるかそれくらいの年齢に近づくと、ちゃんと親と向き合ったような小説を、みんな書き始めることだなあ。
霊感商法で金巻き上げるカルト教団は潰れろ、っていうのは全面的に同意なんだけど、
どこ見てても、大半の意見は「カルト教団と少しでも関係持った議員はさっさと辞めろ」で思考停止してしまっているように見受けられる。
「宗教団体から票を集めるのはやってもいいのか?」 と、「統一教会はカルトなので活動をさせるな」ってのは別問題な気がしている。
で、前半は現行認めざるを得ないんじゃないかと思う。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20220912/1662987600
上記にもあるように宗教団体から票を集めるっていうのは現状の仕組み上効果的・合理的だと思うし、
もし全然やっていない政党があるんだとしたら、応援者の期待を裏切る怠慢だとすら思ってしまう。
政党なんて議席がないと力が出せないんだから、各議員があらゆる団体にいい顔をして力を持とうとするのは当然。
批判するんだとしたら統一教会をカルトだと認めていないこと、それらカルトがちゃんと活動できないように法なり仕組みなりを作っていないことを批判すべき。
それはそもそもそういう宗教団体が票田を持ってしまっている原因を作ったアホな国民の責任だろうし、
(スパゲティモンスター教信者が国民の50%超えたらカルトだろうが教団に有利なように政治をもってくでしょ)
https://anond.hatelabo.jp/20220818211741
あと、この人が本当に自民党議員なのかどうかはわからないけど、大半の中の人はこういう感覚なんじゃないかなと想像する。
いちいち、どの宗教団体から票集めようとかそこまで計算してないんじゃないかな。
色んな団体の会合に出席して、俺に任せてくれ、悪いようにはしない、って顔するのは、上に書いたように当然だと思う。
あらゆる団体のしがらみから完全に抜けて理想的な政治をしてほしいっていう願望は実現性皆無だしあまりにも幼稚なんじゃないかな。
なんかこう、個人的には、応援する政党(基本的に政策参考にその時々で決めてる。この前は国民民主に投票した)には、
かのローマ帝国初代皇帝のように、共和制でございって顔していつのまにか元老院の権限も護民官の権限も巻き取ってインペラトールになる、そんで政治を実体の効力があるよう動かす、みたいな、
清濁併せ呑んだような政治をしてほしいなとか思ったりする。
事の経緯
C100で知り合い(以下、A)が「エロゲの舞台になった街に行って遊んで来た(大意)」と言った趣旨の新刊を出す(※内容自体はR-18ではない 所謂「聖地巡礼」本)
→自分の選挙を手伝った人(以下、B)が「エロゲの聖地訪問本なんぞ青少年に悪影響で許せん」とツイッターでAに喧嘩を売る
→AがBに論戦を挑む(がBが逃走)
このやり取りを見た儂の感想と行動
・「青少年に悪影響」とか言ってて、Bは統一協会(に限らず、右派orカルト教団)の手の者か?
・一方的にフォローされていたが、視界に入らない様にミュートした(ブロックするとまたガーガーうるさい為)
幾ら支持者であっても、自分の考えと合わなくなったら切り捨てるのは正解だと思うが、如何だろうか
それは外圧。
世論調査でどのような結果が出ようとも、法的にいかなる正当性がなくとも、どれほど国内でデモをやろうとも、バカ老人が閣議決定で何かを決めたつもりになると勝手に承認されたと思い違いできるという事態は、もう日本人なら皆わかっているはずである。すでに民主主義の実態などこの国に存在していないので、いくら訴えても無駄である。
それなのに日本国内で街頭に出て騒げば何かが変わると思っているのはさすがに知的怠惰が過ぎるというものだ。話を聞かず、いくら街場で騒いでも喉元過ぎれば暑さを忘れると老人に学習させたのは、いま街頭に出てデモをやっている愚民たちに他ならない。愚民は学習能力がないゆえに愚民であり続けるのだ。
我々が非法行為とみなすものを止める力はもはや国内には残っていない。たった一つの賢いやり方とは、外圧に訴えて老人の愚行をやめさせることだ。
もしあなたが少しでも自分を賢いと思っているなら、もし日本が民主主義の国だと1ミリ秒でも思ったことがあるなら、今すぐに各国からの国葬出席者のリストを作らなければいけない。そして出席者の属する政党、個人事務所に向けてすぐにあたうかぎり激しい抗議のメールを送らなければならない。出席者がSNSをやっているならば直ちに公開の場でメンションして国葬への出席意図を訊さなければならない。
いうべきことは少しでも頭を使えばいくらでもあるはずだ。これは国家元首の葬儀ではない、カルト教団の宣伝行為であって出席する者はこれに加担する者だと。国民の大多数がこの愚かな行事に反対しており出席者はすべからく日本の敵とみなされると。考えればいくらでもある。
英語ができないというのは今の時代に単なる言い訳だ。日本語で言うことがあればDeepLなどで翻訳してメールなりDMを投げればいいだけである。それを外国語の壁が高いとかなんとか言っているのは単なる知的怠惰である。
このようにいくらいっても冷笑的に揚げ足取りのコメントをして何かに「勝った」つもりになって、何も変えないことを選択して布団の中で屁だけこいているがゆえにあなたは愚民であるし、あなたのそのような人生はこれからも変わらないことだけが確かだ。
「○○、なんてない」っつうタイトルの記事、とにかくタイトルが鬱陶しくて、糞食らえ!という気持ちになってまう
ほんまに気色悪いんや
ほんまに気色悪い上に、そのキショい「なんてない」構文に妙にこだわっているせいで、意味が不明になってしまっている記事すらある
センスがない
センスがなさすぎる
ゴキブリ以下の、ドブみたいな、ないほうがマシのセンスだ マイナスだ カスだ オタンコナスだ
イヤなんだ 見たくないんだ 他のタイトルにしてほしい
そんで、このクソ企画が、クソタイトルが、また妙に息が長いんだよ
去年くらいからずーっと、時折ホットエントリに現れて、俺に不快感を与えてくるんだ
なーにが「○○、なんてない」だ
どこがいちばんムカつくか?っていうと、実は、「なんてない」じゃなくて、「、」なんだよ
一回言い切ったあと、ちょっとタメをつくって、「なんてない」
タメをつくんなよ 腹が立つからよ
本当に腹が立つんだ ハラワタが煮えくりかえると言ってもいいかもしれない
せめてこの「、」がなかったらまだ許せてた
視認性だと後者のほうが下だけど、ムカつき度も下だ
腹立つねんマジでよ
だいたい、良い大人が、いつ「〜、なんてない」なんて言い方をするんだ
ガキっぽい表現をあえて使うことでアピーリングな雰囲気を出そうとしてんのかもしれないですが、ただただイリテーティング、ファックユー、アイヘイトユー、マザーファッキングバスタード、という気持ちにしかならない
実際、俺は最近何に対しても心が"凪"の状態になっていて、ほとんどのことには腹が立たない
元首相が死んでも、国家中枢が謎のカルト教団に支配されてても、戦争が起きても、「わー…」くらいの反応で済ませることができている俺が、「○○○、なんてない」という記事タイトルのあまりの気持ち悪さ、クソさ、ゴミさ、臭さ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ
それを木の葉でちょいと被せ!
殺すぞマジで いまの殺すぞというのは、俺自身に向けた言葉です
とにかくダメなんだよ 堪え難い
早く終わってくれねえかなあのクソ企画