はてなキーワード: 味音痴とは
ペットボトル入りや紙カップ入りのやつね。
ガムシロ2個ぶちこんだくらいの甘さのラテばっかり。
もっと甘さ控えめのやつ出してくれよ。
甘さ控えめと謳ってるものも出てるには出てるけど(微糖とか)全然甘い。
もっとかすかな甘みがいい。
かといって、まったくのノンシュガーだとまずい。
あと、甘さ控えめを謳ってるやつは 大抵
エスプレッソ多めになってるけど、そうじゃない。
その上で、ほんとうにかすかな
甘さのラテが飲みたいのだ。
どこかでちょうどいいやつ売ってくれないかな。
以前午後の紅茶の甘くないミルクティーというのが出てたが(ほんのり砂糖は入ってる)、
それは本当にちょうどよかった。
あれのカフェラテ版が出たら最高。
ちなみに、
子供の頃から何かにつけて「おいしい!」を言っていたな、と最近気付いた。
未就学とか、小学生低学年とか、それくらいから。実際母の作るごはんはおいしい。それを差し置いても私はしょっちゅう「おいしい!」と言った。
きっかけや理由は曖昧。母を褒めようとしていたような覚えはある。だから、無理のある「おいしい!」もあった。
キュウリとトマトとレタスとハムをよそっただけのサラダに「お母さんがスーパーで選んだキュウリおいしい!」って言ってた記憶がある。我ながら苦しい理由だ…。
大学に入った時、一年だけ一人暮らしをした。その間、実家は母と父だけの二人になった。
父は、あまり料理の感想を言わない。味音痴ではないし美味しいものは美味しいとわかる人だけど、言わない。既製品に対する文句やダメ出しはするあたり、美味しいイコール味が気にならないからわざわざ口に出さないのだろう。が、悪く言うと、母の料理には無頓着のように見えた。
それが関係しているかどうかは微妙なところだが、私が実家に戻ってきてから、母は何度かこう言った。
「あんたがおいしいって言って食べてくれるから作りがいがあるわ」
私の「おいしい!」はもう癖になっていたから、そうなの?としか思わなかったけど、あとからちょっと照れた。
そんなことを言われたので、「おいしい!」は積極的に言うべきなんだなーと思う。なにも作り手のためだけじゃなく、自分のためにも。
美味しいものをおいしいと言うと、さらにそれが美味しく感じられる。言葉を発した口の動きで、音を捉えた聴覚でオイシイという情報が脳に入ってくるので。て塾の先生が昔言ってた。
でもおいしくなければ言う必要はない。
味覚がするどいと公言できるほどではないが、味音痴ではない。料理上手と言うほどではないが、自分と家族の食べるものをつくる程度には困らない程度には料理をする。また、作ったことのないものをつくる際、参照すべきレシピを困ることなく選ぶことができる。
そして、言うまでもなく食い意地のはった人間だ。
そんな私のまわりには、おなじく食い意地のはった友人が集まっている。
一方、インターネットを見ていると、たまに信じられないくらい味音痴な人、料理が下手な人を見かけることがある。それも、本人は自分が味音痴なこと、料理が下手なことに気づいていない場合がほとんどだ。
たとえば、先日中身の構成が発表されていないパフェを食べた。そのパフェ自体はたいへんおいしく、楽しみながら食べることができた。
中身が発表されていなかったこともあり、ほかに食べた人の感想を確認すべく、私は期間中パフェの名前で何度か検索をかけていた。
そこで、食べたときの感想がわたしとまったく違う人のpostを発見してしまった。日本語があやしいのか味音痴なのか判断がつかないくらいひどいと思った。例えるなら、しょうゆと味噌の味の区別がついていないようなレベルだ。
(そして、後日発表された正解と照らし合わせても、その人のpostはひとつも合っていなかった)
その人は食べること自体は好きであるようだった。過去のpostを見ていても、ほかにパフェをいろいろと食べているようで、おそらく私よりも台数を食べていると思う。
それなのにそんな味音痴としか言えない感想をインターネットに発信できるなんて、私からしたらゾッとしてしまう。パティシエの方がこのpostを見つけたときにどう思うか考えると悲しい。
また、これまた先日、自作のめんつゆは市販品にくらべてまずくて使えたものではないと言っている人を見かけた。
実家は母のつくっためんつゆが常備されていた家で、私も自分でめんつゆをつくることがしばしばある。揚げびたしのように加工するならともかく、そうめんを食べるのであれば安い市販品よりも、自作のめんつゆのほうが好きだ。
(ちなみに水、しょうゆ、みりん、だしパックで簡単につくれる)
おそらく、というかその発言を見れば明らかにその人は参照すべきめんつゆレシピを間違えている。あるいは勘でつくった結果、まずいものを作り出している。
今年も土用の丑の日が終わりました。ウナギおいしかったですか?私は食べました。最高に旨かったです。別にこの日にわざわざ食べなくても良いとは思いますが、いやーいつ食べてもウナギは良いものですねぇ。
さて、2014年にニホンウナギがIUCN(国際自然保護連合)レッドリストの絶滅危惧種(IB類)に指定されて以降、このままウナギを食べ続けると絶滅するのではないかという意見がインターネット上でよく見られるようになりました。年々その声は高まっていき、特に今年はTwitterのトレンドにも上がるなど、大きな関心を集めました。人々の間でこうした水産資源についての関心や資源保護への機運が高まることはとても良いことだと思います。その一方センセーショナルな話題ゆえか明らかに間違った言説やミスリードを誘う意見もTwitterを中心に数多く見られかなりげんなりしました。ウナギ資源保護のためなら嘘、間違った意見も許されるという空気すら感じ、違和感を覚えました。まぁ、かようにウナギという魚は日本国民のソウルフードであり、多くの人の関心や意見を集めるものなのだなあと感じた次第です。
以下に私がそりゃねーだろwwwwwwと感じたものを列挙します。あ、不快に感じた人はブラウザの戻るボタンでもクリックしといてくださいw
・バイオウナギ(う〇次郎くん)やウナギ味のナマズ(近〇ナマズ)はウナギと味変わらない!これはウナギの代用になる!というツイート。はっきり言って失笑モノですwどちらも食べましたけどね、結局のところすり身はすり身であり、ナマズはナマズですよ。代用になんかなるわけがありません。本当に味一緒と感じておられるのなら味覚障害なのでは?そんな味音痴に今まで食べられていたウナギがかわいそうです。つーか世の中こんなに味音痴が多いのかと驚いたわ!!まぁ何でもうまいと感じられるのはある意味幸せなのかもしれませんが・・・また、そもそもナマズに関して言えば、コイツがウナギの代用品として利用され始めたのってなんか見た目がにゅるっとしてて、泥っぽいとこが好きそうだし、どことなくイメージが似てるからっていうただそれだけの理由だと思うんですけど。両者は分類も大きく違えば(ウナギ目とナマズ目)身質から脂の付き方まで何から何まで違います。ウナギの脂の付き方は魚の中でも相当特殊で、だからこそ他に真似の出来ないあの味わいが生み出されるのですよ。ウナギの代用品なんて考えはありえません。
・クックパッドで見つけた鰻を絶滅の危機から救う天才的なメニュー(ウナギのタレだけご飯)。ハイ!偽善!キングオブ偽善!そもそも大概のウナギのタレにはウナギ抽出物が入ってるwwwwwwwwwwww乙!!!
・ウナギの旬はそもそも冬、わざわざ旬はずれのウナギを食べる土用の丑の日の習慣なんて廃れたほうが良い。・・・天然ウナギならその通りでしょうね(本当は10~11月くらいか?)。ただ市場の99%以上は養殖ウナギでちゃんと今の時期に美味くなるように調整してますからw 知ったかぶりでモノ言うと恥ずかしいっすよ?
・ウナギは絶滅危惧レベルがアフリカソウやオカピと同じなんですよ!そんな生き物を平然と食べる日本はおかしい!(うろ覚え)。・・・まぁ、IUCNのレーティングだけ見ればそうかもしれないけどさぁ、絶対的な個体数も生息環境も生態的地位も何から何まで違うでしょうが・・・そもそもそういった大型哺乳類と生態系中位に位置するニホンウナギを同列に語ること自体ナンセンスだとなんで思わないかなぁ?まぁこれは植物動物ひっくるめてすべての生き物を同じ基準で絶滅危惧リスクを評価するIUCNのやり方自体に問題があるとも言えるんだけれど。(これやhttps://www.facebook.com/jsfs.wakate/posts/701605086579950 これhttps://c-faculty.chuo-u.ac.jp/blog/eelunit/conference_intro/ が詳しい)。あとよく引き合いに出されてたのがリョコウバトね。確かにかつて鳥類最大の個体数をもっていたこの種が乱獲に次ぐ乱獲で絶滅してしまったことは人類の忘れてはならぬ教訓にしなくてはならないでしょう。ただそれってまっっっっったく生態の違うウナギと同列に扱っていい事例なのかね?そもそも私はウナギが絶滅するとは思っていません。ウナギ産業が成り立たなくなるくらいに資源が減少し、蒲焼き文化が廃れる可能性はあるとは思っていますが・・・まぁそう思う理由はいろいろとあるんですが、ここでは割愛します。まぁ簡単に説明すると海ウナギの資源の実態がまだよく分っていないこと(相当な量があると考えられる)、ウナギの成魚も稚魚(シラスウナギ)もそう簡単に獲れるものではないこと、私自身が川などで今でも腐るほどウナギを見ていることなんかが根拠です(最後のはちょっとアレですが)。
・・・ウナギは絶滅しないだろうとは書きましたが、水産庁の役人の無策、密漁、密輸を黙認する業界団体、ウナギの価格が安いか高いか以外に関心を示さないマスコミ、叩き売りして大量廃棄するスーパーには腹が立ちます(ただその正当性を自分でも納得のいく形で合理的に説明できない)。またニホンウナギの資源量が本来あった量とは比べ物にならないほど減っているのも事実でしょう。ただ絶滅を声高に主張する人たちにはもうちょっと冷静になってほしいと思います。絶滅危惧だからもうウナギ釣り行くのやめよう、なんてツイートも見ましたが、そうして本来身近な存在であるはずのウナギを遠ざけてしまうことで、結果的に彼らに対する関心が薄れてしまい、河川環境に無配慮な改修工事が行われ、個体数に悪影響を与えるなんてことも起こるかもしれません。生物多様性の保全の上で一番怖いのは、人々のその生き物に対する「無関心」です。ウナギ絶滅派(?)の人の呼びかけるウナギの不食運動や採集を控えることはそうした「無関心」に直結するものであると危惧しています。本当はウナギなんてどこにでもいる魚なんです。ただ夜行性なのと濁った場所が好きなのと、かくれんぼがちょっと上手いせいでその存在になかなか気付けないだけなんです。まだまだウナギはたくさん川にも沼にも海にもいます。うな重だけではなく、彼ら本来の活き活きとした姿を多くの人に知ってもらい、彼らと彼らの暮らす環境が守られることを願ってやみません。
おふくろの味じゃないって
結婚した頃はよく言われてたな
あれから10年以上経って
出来合いをそのまま食卓へ出すことが多かったらしい
一つだけ炒り豆腐は美味しくて教えてもらった
なぜか旦那はそれは嫌いだと言う
ドバッとオイスターソース炒めの上にかけた。
「美味しくなかった?」
「…? 青梗菜嫌いだった?」
「ううん、別に。」
ちなみに、レシピ本を見て計量し作った。
私の母は調理師だ。
カレーを作った際は
「俺の求めてるカレーじゃない。
実家の味に寄せてくれ。
レシピは知らない。
俺の母親に聞け。」と言われた。
汚部屋に住む外食ばかりしている義理母の言う通りに作ったが、どうも違うらしい。
1年、これじゃないと言われ続け試行錯誤した。
結局、ニンニクをドバドバ入れてジャガイモを煮崩れさせてドロッドロにしたものが完成した。
夫のことは愛してる。
でも、この人に40年も料理を作っていくのかと思うと気が遠くなる。
こんなの地獄だ。
【追記 2016/3/29】
匿名ダイアリーで反応があるなんて思ってなかったので、コメントやトラバがとても嬉しかったです。
ここに書いて見てもらえるのか分からないけど、匿名ダイアリーの返信ルールがわからなくてごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20170329091916
それ言うとメンドくさい事になるから言わないけど、ありがとう。嬉しい。
http://anond.hatelabo.jp/20170329092214
匿名じゃないしな…。
ちなみに、有料ユーザーです。
人気レシピの通り作っても文句言われるから、プロの料理本の方がいいのか?と思って本を試してるけど、
そう言う問題じゃないみたいだ。
http://anond.hatelabo.jp/20170329092632
わー…お母様ご苦労様です。
こだわりが強いと思わせて、何食べてるかわかってないんですよね…一緒です。
うちには幼児もいるので、今から濃い味に慣れてもらっちゃ不健康だし、味音痴娘にはしたくない。
突き付けてやりたいけど、自分の舌が正解と思い込んでるし、食事は働く意欲なんだ!と言われると、仕方ないかなと思ってしまう。
正直この件に関しては結婚してから何度となく喧嘩してきたので、もう2人とウンザリなんですよね。
私も美味しいって言ってもらえないの我慢してるし、向こうも好みの味じゃなくても我慢してる。
ゲッソリ。
http://anond.hatelabo.jp/20170329093021
10年…!
あと7年、頑張ろうかな。うん。
http://anond.hatelabo.jp/20170329093631
はっきり物を言える人の方が押しが強い感じしますよね。
でも何でも美味しいって言ってくれるのはとんでもなく魅力的ですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20170329094012
早く死ね!!って思えたらそうする。
どうも、落とし所迷子です。
ボディブローは嫌ですね…
一人暮らし男で、不器用、味音痴、雑な性格という料理にはまったく向かない人間である。
とはいってもこれまで自炊はしないでもなかったが、飯を作るにしても、
材料を全部鍋に入れて煮る、全部フライパンで炒める、全部飯と混ぜる、みたいにドチャッと雑な一品を作って食べる程度だった。
で、先月、弁当でも作ってみるかと思って2段タイプの弁当箱を買ってみたら、みごとハマってしまった。
上段は飯、下段におかずとなるが、おかずを野菜炒め一色とかにするのはあまりにあまりなので、
簡単な常備菜を調べていろいろ作ったり、時間がなければありもの惣菜や冷凍食品などで最低三品は入れるようにした。
飯も白飯ではつまらないのでいろいろ炊き込んでみたり混ぜてみたり。
すると、そうやって弁当箱という空間を埋めていくのが楽しくなった。埋め終わって完成した「弁当というモノ」を眺めるのもとても良い。
これは弁当箱という制限があるがゆえの楽しさだと思う。量や器が無制限だとどうしても雑になってしまう。
弁当は会社へ持っていくこともあるが、会社の昼飯は同僚と外食することが多いので、
大抵は家に置いておいて夜に家で食べる。食べ終わったら洗って翌日用の弁当を作る。
1つめ!
妻がさ、少しでも家事を減らしたいという気持ちがないわけではないが、水道が節約できたり環境によかったりなど総合的に考えて、無洗米にしました。
って感じのニュアンスの事言ってたらさ、
いいよいいよ。大変だったな。いつも家事ありがとうって言って食うよ。俺ならな。
だって家事大変なんだろ。米を研ぐのすら面倒と思うぐらい、家事大変だったんだなって思うもん。
お前のプライドが邪魔して、大変さのアピールができてないだけでは?
2つめ!
別にそんなに言うほど家事大変じゃないけど、米研ぐのがただただ面倒。味の差分からんしってパターン。
今までは普通にやってきたけど、夫婦間が覚めてきちゃって発火するやつ。
俺なら妻にお願いする。というか甘える。僕は君の研いだ米を食いたいんだよ!毎日!って言う。
ダメって言われたらシュンとして、しばらく元気無さそうに振る舞う。
眠い。帰る。
そのままだ。愛情とはなんだ。
性欲の延長とは違うもんだろう、とはうっすら感じている。
好意というのは相手に対する「こうであれ」という期待みたいなもので、愛情ってのは…なんだろうな。
お前、好きな人いるか?って言われてもパッと答えられない。俺は誰も好きになれないのか。
顔の好みはある。しかし、タイプの顔立ちの女性についてきて欲しい・・・みたいに感じない。俺は不感症なのか。
過去に彼女がいなかったわけではない。ただセックスができればよかったので、嫌われないようになんとなく付き合っていたような記憶しかない。
最低だな俺。セックスも誰とでもいいというわけじゃないし、セックスしたくなったらそれは好意と言っていいのか?少なくとも愛情ではないよな。
かつて飼っていた動物が死んでしまった時には涙をたくさん流した。もう世話できないのかと思うと悲しかった。
飯もしばらくまともに食えなかった。これは愛なんだろうなと思う。
俺は誰が好きなんだろう。誰を愛せるんだろう。
今、好きなものがないと、何が好きだったかもよくわからなくなってくる。顔の好み以外に何があるというのだ。
これが理解できない人が多すぎるようにみえるから、ネットは醜悪だ。
「作品Bなんてクソ作品を評価する時点で味音痴」みたいなマウントをする人。
好き嫌いや美醜の感覚は、正しいとか間違いではない。絶対的な評価はない。
そこに多数派少数派という概念が加わっても、一方が正しくなったりはしない。
何かを好ましく受け取る感性は、その人がそれを好ましく思える生き方をしてきた故だ。
その生き方はあなたの人生とは違うし、想像が及ぶものではない。
だからそこで、多様性を尊重してデフォルトで敬意を払わなければならない。
それが出来ない人は、おそらくこういう話を無意識に矮小化しているのだろう。
生き方の違いは、たんなる「個性の違い」で理解される範囲にとどまらない。
年齢の違い、性別の違い、経済環境の違い、容姿など体質的素地の違い、
それから来る、特定ジャンルに対する問題意識の高さの違いなど、多岐にわたる。
それぞれが複雑に差異を抱え、感性を異にしながら人生を紡ぎ上げていく。
ぱっと見「刺さる」層――セグメントが他者から見ても分かりやすい。
けれど今の時代の映像芸術は特に、セグメントがわかりづらくなっている。
むしろ、作り手の側も、わざとセグメントを複雑怪奇に設定する。
幼稚に思われがちなアイドルや特撮ものは社会派で意識高いテーマを内包する。
そして尖った作りを受け止めてもらえる人を探るような野心作がヒットする傾向がある。
だから「自分には合わない」「思っていたのと違う」作品を鑑賞する機会も多くなっている。
「楽しむための作法」を吸収していける人ならばなにも不幸はないだろう。
一方で、そうでない人もたくさんいる。
けれども、本稿で述べてきたことに想像が及ぶなら、
そして、次のことも同時に分かるはずだ。
さもなくば、安易に作品を「取るに足らないもの」と捉えてしまう。
それは、クリエーターに対してだけでなく、すべての他人に対して「侮る」姿勢だ。
そんなサイクルに陥っている人が、周囲に当たり前にいる。
そういう状況が、あまりにもネット上で普通になりすぎているのではないか。
ネットで見られるのは「批評」という皮をかぶせた「作品侮蔑」ばかりだ。
作品を理解するには、まず表現者の思想に寄り添わないといけない。
なぜなら、作品を出すことは、とりもなおさず思想の表現であるからだ。
思想というのが堅苦しく感じるなら、美意識や価値観と思ってもいい。
そんな大層なものが込められていなさそうな、フェチの塊みたいな
娯楽作品であっても、そのフェチの詰め込み方などに表現者の思想が表れる。
そういうものにまずは理解を示してみる姿勢がなければ、よさを感じ取れるはずがない。
それだけではなく、
表現の技術的価値や制作背景、時代背景なども織り込まないといけない。
莫大なエネルギーと解読時間が必要なのが「批評」という作業であるので、
「ふつーに面白さが分からなかった、繋がりが変、あの描写は変」
自分のネガティブな受け取り方をネットに排泄したくて仕方ない人がいる。
あるいは、断固として自覚はせず、マウントにマウントを重ねて、
「作品が好きだからこそ叩く」とか理由をつけて、作品に寄り添う気すらない
「オレ好みの『正しい』展開」的なものを主張し続ける人もいる。
そういった、他人の作ったものに乗っかって文句を言うような人のために
ネットがあるのだろうか?
今のネットは、もう「便所」ではない。
それならまだログの残らないリアルで友人相手に暴論かました方がいい。
この先人気をあつめるだろうと思う。
というよりも既に、人気のYoutuberなどを見ると、彼らは例外なく
ネガティブ感情を生むような物言いは華麗に巧妙に避けている。大人である。
こういうネットをディストピアだと思う人もいるかもしれないが、
今のところは、順当な変化だと感じている。
年間何百食を食べ歩いたラーメン評論家!とか、渋谷を食べ尽くした私がおすすめ!とか、体重100kgの私が!とか、孤独のグルメが!とか、言ってる自称グルメは味覚障害なので信用ならない。もっと言えば食事好きな人って総じて味覚障害だよね。むしろ、食が細い人が勧めるのが本当に美味しい店。
きっかけはダイエットだった。長い間、程よく体鍛えて食事も質素に節制してると、いわゆる胃が小さくなってダイエット初期の頃の猛烈な食への欲求がなくなるんだよね。必要最低限の量、味で満足するようになる。
あれほど好きだったポテチ。全然惹かれない。久々に食べてみると味の濃さ、油っこさにびっくりする。ポテチってこんな味だったんだ!今まで感じたことが無かった味覚がわかって面白い。が、ただただ刺激が強い。一口だけで味覚が馬鹿になる。
背脂チャッチャ、豚骨ラーメン。一口スープを飲んだだけで口中が猛烈な喧騒で刺激が後頭部に突き抜ける。血圧上昇。二口以降はもう味覚も何もない。これ以上食べるのはただモノを胃袋に運ぶだけ。罰ゲームでしかない。
翻って生野菜。同じ価格のキャベツでも生産地によってこんなに味が違うのか!味の薄い食べ物でも違いがわかって面白い!!
まぁ、面白いからといって好んで色々なメニューを食べようとは思わないんだけどね。食欲そんなに無いから。
自称グルメみたいに毎日毎日様々な食事をしていたらそりゃちょっとやそっとの刺激じゃ満足行かなくなるよね。で究極を求めるんだろうけど、果たしてそれが美味しいものか?刺激に刺激を重ねたその味覚は本当の味覚なの?と。
何が言いたかったかというと美味しいものを外へ求めて刺激を重ねるだけがグルメじゃなくて、たまには舌を休めて落ち着いてみれば、本当に美味しいものは自分の近くに溢れてるんだって気付けるかもしれないってこと。
味音痴だった私が蕎麦の味の違いがはっきりとわかって凄く面白かったので書いてみました。だからって蕎麦が、食事が好きなわけじゃないんだけどね。面白い。