はてなキーワード: ハガレンとは
同人界隈で20年近く友人を作ってきた、診断済みアスペルガーな私程じゃないだろうが、
増田が今後うまく交流グループに入れるようになるコツを教えるから気が向いたら読んでくれ。
あのねどんなにアカン子でも10人ぐらいの規模のグループでハブられる事態になるとね、もめ事起こった時に誰かしら味方についてくれたり、裏で交流続けてくれる人がいるねん。絶対。
ハブられることで傷ついてきた人が多い所だから、慰めてくれる人は出てくる。
なのに誰一人フォローも入らない、反応して貰えなくなるってよっぽどやぞ??
いままでずーーーと蓄積されてきたアレコレが、もうフォローしきれなくなった可能性が高い。
増田が恨みに思ってるジャンルの顔的な人が、フォローしてくれてた可能性があるからな?
そもそも貴方の言動が文字に推敲するプロセス踏まない分更にヤバかった可能性考えよ?
で、今は同人以外に気分転換した方がいい。そこは同感だし、癒着するほど同人にドハマりしてる状況はよくない。同人以外で友達作るの大事。あなたみたいなタイプは、複数居場所作って一箇所でべったりせず転々と移動するのが大事だと思うんよ。
で、増田が同人以外で友達作れなかった時に、今後どうしても大勢の同人グループに居たい時のやり方な。
今回のグループで一番優しい人を思い浮かべて?
その人にメール送ろう?
当時は申し訳なかった。グループに戻りたい訳でもなく、しくじった自覚はあるが、理由が分からない。
同じような失敗をしたくないから、どうしてハブられたのか教えて欲しい。
今後グループに所属するための技術を獲得するためだと思って送ろう。
届いたメールが多少厳しい内容でも、受け止めよう。
そしたら次はうまくやれる。大丈夫。しくじった理由が分かれば対処できる。
ハガレンほどハマれるジャンル見つけた時怖がらずにグループに飛び込める。
あとな、受け止められない時のことも書いておく。
グループに入るの諦めるんや。みんなでキャッキャしたいと思っても諦めるの。寂しくても。
かわりに一対一で人付き合いをする。
これやれば、末永く付き合いが続く。私でさえ10年続いてる同人友居るからね?
仲良くなった人にグループ誘われても絶対断る。グループ崩壊したらその人とも縁切れるから。
同人は息抜き。リアルが辛いときに気持ちを切り替えられる場所。
がんばれ。
※自己陶酔長文
※同人界隈のくだらない話です
※ハガレンはあくまで個人的な感想、感慨、そういうものの中で引き合いに出しただけです。こじつけというか、たまたまこういうものの中で自分がしっくりくるのがハガレンだっただけです、うまく言えないのですが。ハガレンが好きな方は閲覧気をつけてください。
「鋼の錬金術師」という有名な漫画がある。鋼の義肢を持つ兄のエドワード・エルリック(通称エド)と、鎧姿の弟、アルフォンス・エルリック(通称アル)が、「真理」(神様的な存在)に奪われた自身の体を取り戻すための旅をする中で賢者の石をめぐる壮大な陰謀に巻き込まれていくダークファンタジーである。
私はこの漫画が大好きなのだが、一つだけ「あんまり気に入らないなあ」という展開があった。それは、物語の最後、主人公のエドがアルを取り戻すためにとった手段のことである。
そもそもなぜ兄弟は体を奪われていたのかというと、死んだ母親を蘇らそうとして人体錬成を試みた結果、錬金術の「等価交換」の法則により、代わりに自分たちの肉体を奪われてしまったからだった。二人の肉体を取り戻すには万能のエネルギー源である「賢者の石」が必要だったのだが、エドとアルは賢者の石が生きた人間を材料にして作られていることを知ってしまう。
経緯をまるっと端折るのだが、結局物語の終盤、エドは賢者の石を使わずに二人の肉体を取り戻す方法に気づき、実行する。エドの決意に、「真理」は「正解だ」と言って笑う。
エドが全てを取り戻すために差し出したのは、エドが錬金術を使う能力そのものだった。
私はその展開に正直もやっとしていた。
「鋼の錬金術師」の見どころの一つは、エドが繰り広げる巧みな錬金術の数々だったからだ。それに、「最年少国家錬金術師」という厳つい肩書きや手を合わせるだけでどんどん色々なものを作り、意のままに動かすバトル、錬金術の知識を使い炭素硬化の能力を使う敵をもろい消し炭に変えてしまう展開……。錬金術はエドというキャラクターのアイデンティティだった。
実のところ、錬金術のような便利なものに頼らず額に汗して自力で生きろという作者のメッセージは作中で示唆されてはいた。エドの師匠のイズミは凄腕錬金術であるにも関わらず、「錬金術に頼っちゃいけない」と言って近所の子供の壊れたおもちゃを手作業で直す。そしてエドも最終回、「錬金術がなくてもみんながいるさ」と、金槌を手に清々しい笑みを浮かべる。
だが、やはり読者からすると、「それでいいの⁉︎エド、あんたすごかったのに」と思わざるを得なかった。
しかし今、Twitterをやめたことで、エドの清々しい笑みの理由がわかるようになった気がしたのだ。
前置きが長くなってしまった。
私は同人の字書きである。Twitterやpixivで二次創作小説をアップするとそこそこバズる、ジャンルではまあまあ人気の字書きだ。
小説を書くのが好きなぼっちオタクの私にとってTwitterは、ジャンルの情報や推しの素敵な二次創作、実社会のニュースやトレンドをリアルタイムでたくさんチェックすることができる大切な情報ツールであると同時に同人友達を見つける出会いの場であり、萌え語りができるコミュニケーションツールであり、どのような傾向の話を書けば芳しい反応が返ってくるのがすぐにテストできる巨大な実験場であり、お手軽に承認欲求を満たしてくれる蜂蜜の壺のようなものでもあった。
しかし、同人界隈でTwitterをやっていると、疲れることもたくさん出てくる。人間関係、承認欲求、ジャンル学級会。三者三様に歪められたキャラの二次創作がどっと流れてくるタイムラインに疲れ、私は果たしてこのキャラを本当に好きなのだろうか?それともみんなで口をそろえて「〇〇ちゃんえっち」とか「可愛い」とか「エモい」とか言わなければいけないような集団意識のせいで好きだと思い込んでいるだけなのだろうか?と悩むこともあった。Twitterでキャラグッズを次々と大人買いする人々や、論理が通っているのかよくわからない考察ツイートを見るたび、胸焼けするようになってきた。創作でも、いわゆる「互助会」に組み入れられるのが重荷になってきた。
それでも、同人のSNSが私の生活の中心にあり、そこでの中堅字書きという立ち位置が数年の間私のアイデンティティだったから、Twitterをやめられなかった。情報を追えなくなったり、忘れられたりするのが怖かった。
(一応リア友もいないわけではないけど、就職を機に皆地方に散ってしまってあまり会えないし、しょっちゅうはやりとりしないため「居場所」感はあまりなかった)
冴えないぼっちの日常生活を送る私の唯一のきらきらしい社交場が失われることへの不安感から、私はTwitterを続けていた。
だけど、限界が来た。
きっかけは、私が、おそらくリモート飲み会で、ジャンルの顔的な人の不興をかったことだった。このことについては何を言っても主観になってしまうのでうまく説明できない。特別な粗相をしたつもりはなかった。ただ、今まで仲良くしてくれていたその人が、飲み会を境に急に全く絡んでくれなくなったので、何かしてしまったのかな天…と思った、というところだ(他の飲み会メンバーからはハブられてはいなかったけれど、わざわざ「私なんかやらかしました?」なんて鬱陶しがられる自意識過剰な質問もしづらかった)。強いて言えば最初、私のスマホの電波があまり良くなくてもたついたせいで若干場を乱してしまったとか、その人が話しているとき一度トイレに立ったとか、そういうことはあった。もしかしたらとんでもない粗相を無意識のうちにしていたのかもしれないし、あるいは全く別の理由かもしれない。
とにかく、その人が絡んでくれなくなった瞬間、その人の取り巻き的な人たちがほとんど反応してくれなくなったのだ。
Twitterで彼女たちがワイワイ盛り上がっているのがやたらと目についた。彼女たちの創作をヨイショすれば機嫌を直してくれるかもしれないけれど、不純な動機で同人を利用するのはもう嫌だと思っている自分がいた。
私は、何をすればいいのかよく分からなくなってしまった。彼女たちより有名な字書きになって見返してやろうと憤ったり、自分を責めたりと、このご時世において生活に困っていない恵まれた身でありながらバカみたいな理由でメンタルがぐちゃぐちゃになった。ジャンルの顔的な人や、それに媚びている取り巻きたちのかいた推しを目にするたび、推しそのものが嫌いになり始めている自分がいた。
(また、同人界隈がきっかけになって仲良くなり、LINEを交換して旅行などにも行った人たちがジャンル移動していたため、TwitterでやりとりすることがほぼなくなったというのもTwitterをやめるきっかけの一つでした)
楽しいこと、心が慰められることよりも、つらいことの方が上回っていると気づいたとき、やめようと思った。
そして私は、ずっと私の生活の中心にあった同人アカウントを消した。消す前から、このご時世における自分の悩みの卑小さ、不毛さには気づいていたが、消して改めて、自分が長い間スマホの中の小さな世界を首を縮めてのぞきこむばかりで、顔を上げてきちんといろいろなものの広がる世界を見ていなかったのだと気がついた。
思えば、どこかに観光に行っても、何を食べても、Twitterに投稿することばかり考えていた。何を書けばウケるかとか、通知の数とか、そんなことで頭がいっぱいだった。いつのまにか自分自身で、同人アカウントしか居場所がない状況を作っていた。
世界の命運や肉親の志を背負って闘うエドと、ただの同人字書きの私では月とすっぽんよりさらにかけ離れており、同じ括りで語るのはおこがましいこと限りないということは分かっている。
しかし、そのとき私は確かに、エドの最終回での清々しい笑みの理由がわかった気がしたのだ。
エドは、錬金術の能力を手放すとき、「思えばずいぶん踊らされたよな」と口にした。錬金術師として活躍したエドは、しかし、錬金術で母親を蘇らそうとして大切な家族を奪われ、錬金術を使い倫理にもとる悪事をはたらく者たちを数多く見てきてもいた。錬金術は、壊した物を直すこともできるし、武器にもなる、一見万能な術だ。しかし死んだ人間を蘇らせることはできないし、錬金術頼みでは解決できないこともたくさんある。
Twitterも同じである。日常のあらゆる情報をリアルタイムで発信する。Twitterを使えば全世界の人々と繋がれる。しかし、日常に入り込むそれらは、同時に、日常を強大な「それ」(錬金術/Twitter)なしではいられなくさせてしまう。「それ」を利用しているはずの私たちは、いつのまにか「それ」越しでしか世界を見られなくなってしまう。
錬金術にしろTwitterにしろ、便利ですごいものは良くも悪くも影響力が大きくて、世界やものの見方を変えてしまう。それに振り回され、人間の作った枠組みの中でおだてられて自分はすごい人間なのだと慢心し、甘い汁を吸ったかと思えば虚しい思いもする、そんな力の渦から脱却したから、エドは最後、笑ったのだと思う。
Twitterを退会し、同人の交流をやめてできた時間の中でやりたいことは意外と早く見つかった。小説や映画など色々なものに触れてみたい。資格を取ってキャリアアップしたい。今は難しいが、時勢が安定したら小説のカルチャースクールに通いたい。どうにかして、ネット頼みでなく新たな交友関係を築けるよう模索していきたい。
たぶん、徐々にTwitterをやめたことに対する寂しさや後悔は増していくのだろう。それでも、私のなりたい未来の姿は小さな世界の局所的人気者ではないから、寂しさを糧にしてふんばりたいなと思っている。
最後に。
まず注意いただきたい。
以上気をつけて欲しい。
そもそも推考をしていないただのゲロなので気分が悪くなったらそっとタブを閉じて欲しい。そこら辺は自衛してくれ。
みんな思ったでしょ。
いや別にだから悪いってことではないんだけど、安易に気持ちの問題で強くなるっていうのを連発しすぎじゃないか?(少年週刊誌のバトルものにありがちだが)
ちがうんだ、それは別にいいんだ、私も歳だしそういったことには慣れている。だが今回私が言及したいのはどうして心理描写が曖昧なまま強くなるんだ? 共感できない部分が多々あったということだ。
少し応援されたからと元気になったりしすぎだろうと、いい加減そんなゲームじゃないんだからと、せっかくのボンズ屈指のバトルシーンで映画に入り込んでいた自分が急に覚めてしまったりして非常に残念。
まあ、それもいいだろう。どうせファンタジーだ。
しかし、ヒロアカ原作に関してはファンタジーでも確かにそこにキャラクターたちが生きていて、それがリアルに、まるで自分がその世界で生きているような引力のような没入感が素敵であり、だからずぼらな私も1ファンとして単行本、アニメ、映画を欠かさず見ているのだろう。
キャラを大事にし、そのキャラの迷いやこういうこと考えていてこういうことに重きを置いていて、ストーリ進行時には蚊帳の外にいるときはちゃんと外でモブやってたりする、といったリアルな感じがいいのだ。
たぶんこれは、心理描写のために一時戦闘を中断させたりする、漫画ならではの表現なのかもしれない。映像はテンポだ。リズムが全てだ。わかる。わかるんだ。でもそこを上手に見せれなくてはヒロアカには、いったい何が残るんだ?
とまぁ、いろいろと「おや?」と思う点はあるものの、実際の脚本に文句はない。
個性譲渡、別に良い。そもそもデクもそんなこと言ってた(うろおぼえだが)
めっちゃドラゴンボール。すっごいドラゴンボール。髪の毛そんなとげとげにならんでもいいやん。いやいやそんな規模の攻撃受けてふつうそうじゃん、まじ鉄人じゃん。っていうのがほんと何度も出てくる。4日目のカレーの気分だ。「え、また?!」なのだ。
特になにが嫌って言うとだ、個性遺伝した後のバトルだ。爆轟がすぐフルカウルを使えることや100%っぽい力が使えたこともそれ全て含めてワンフォーオールの奇跡って言いたいのかい・・?それは、あまりに投げやりすぎないかい? ヒロアカって、”なんでも個性のせいにしてしまおう”っていうのがなくて、“個性を持ってるからこそこういう悩みがあってそれをどう解決して行こうか向き合う”みたいな葛藤と成長を描く作品なんじゃなかったのかな?
余談だが、私は海外のグロやバトルものの映画でよくある、音楽だけで効果音なしのバトルシーンが大嫌いだ。
馬鹿の一つ覚えと言うと言葉の悪さが際立ってしまうが、まあその表現方法はあまりに使い古されてしまった。
なのでラストバトルの音楽だけですごいバトルを見せられた時、冷めてしまった。映画館でやるんだ。もっと音響を意識して、音速を超えた一撃みたいな表現でも面白かったんじゃないかとか思う。 パッと思い返すのが映画 幼女戦記だが、常にバトルしてて、音があちこちから聴こえてきて自分もその場にいるという臨場感がほんとうに素晴らしい映画だった。
それを、こういってはなんだが1曲に全ての感情を背負わせるのは重荷すぎたのではないだろうか。
私は、そこで完全に映画からリアルの世界に戻ってきてしまった。
(ただこの映画に限っては、ボンズの全力のバトル映像のおかげでまだ見入ることができた。本当に動画がいい。ほんとコマ送りで見たい。ガンダムやAKIRAや攻殻機動隊なんかをよくコマ送りで見た口だ)
少し話が脱線したが、豚カツカレーマーボー天津飯みたいになってしまった可能性はあるか?
起承転結で、転結はかなりテンポよく進めるのがスタンダードだが、それにしても端折りすぎたように感じた。
見せ場のバトルはほんと多彩に入っていてこれはもう大満足で言うことなしなんだがちょくちょく強敵との対峙で勝てない描写をとことんやりたいが為にどうしてもワンパターンなキャラパワーアップに違和感を覚えてしまって、没入感の減少を感じた。
映画だけでなく、どんなアニメも、漫画も、ゲームも、小説も。 その世界に、私が存在できるかどうかでその作品を好きになるかどうかが決まる。
本作に関してはラストに行くにつれ、私はこの映画の世界と融合できなかった。非常に残念だ。
私は、今作でヒロアカ製作陣に何かお偉いさんからのお達しがあったのではないかとか深く勘繰ったりしたほど様変わりを感じた。
とにかく派手に、とにかく意外性を、とにかく話題性のあるものを! みたいな思いを感じてしまった。
もちろん商業作品なのでそういったことを意識して作るのは当たり前だし、別に反対もしない。だが作品を生かしてくれ。頼む。
ここら辺の違和感の解のようなものは、パンフレットを読んでいて考えたのだが、先生監督脚本の皆が口を揃えて「1作目を超えたかった」と言っていた。(1作目はほんとうに良かった。作品を通して”ヒロアカ”していたし、オールマイトの過去の描写や共闘も原作の延長として受け止めることができた)
大変受けた1作目の後の2作目、3作目と作っていく際にやはり重荷になったんだろうか
パンフレットの対談インタビューを読んで、堀越先生が原作ラストで使うネタ候補の一つ「ワンフォーオールの譲渡」を提供し、制作側もそれに飛びついたような発言がうかがえた(個人の感想だよ)
やっぱり人間が作っているんだなぁと実感したし、これからも応援を続けたい。
(なんだ急に媚びうるのか?)と思った皆様、違うんだ、聞いてくれ。
その作品の感想って好きなところ・嫌なところが入り乱れた上で成されるものじゃないか。
もう間違いないやつだ。ボンズファンにとっては言うことなしすぎて、逆にボンズ色強めな印象で、純粋なヒロアカファンは大丈夫か?とか思ったが、そもそもアニメも体育祭やらUSJやらワンフォーオール戦でアニメ視聴者は調教済みだった。
何度でも見れる。ほんとうによく動くし、戦闘の表現のパターンがすごい。これは良い。ほんとうに良い。
ちなみに私が一番好きなヒロアカアニメシーンは体育祭の轟vsデクの回だ。あの回を見た後そっと忘年のザムドを見に行った(私のボンズを意識して見た初めての作品だ。デビューはハガレンだ)
本作を見た後、一番印象に残ったのが雲やなんかの描写なんだが、すまない語彙力がなくて伝えられない。だがみんなの心にも残ってるでしょ?私は今すごくひそねとまそたんが見たい。映画に何度も行く余裕がないので、今作の空の映像を思い出すべくnetflixでひそねとまそたんを見たい
最高だ。原作やアニメでは活躍の少なくなりがちな1-Aのみんなが余すことなく活躍する。各々の連携や委員長の指示なんかも見れてほんとうに良い。
キャラへの愛がほんとうに感じられたし、この人たちはこういう動きをするのか、と私の記憶の中の1-Aの皆に命が宿ったようだった。
尾白くんはやっぱり弱い印象を持って残念だったが、いつもの8割マシで戦っていた。たぶん。 (私は尾白くんを推している)
青山くん、瀬呂くんなんかもしっっっかりと活躍をしていて、ファン大歓喜だ。次回は砂藤くんにも頑張ってもらいたい。
(この活躍というのがちゃんと戦っていて大変興奮もので、本作で印象深いバトルの一つだ。といっても本作は常に戦っているのでどこからどこまでを一戦と見るかは謎だが)
(無理やりな理由で少し違和感を覚えたが)大人を排除した上での各々のヒーロ像というものがしっかりと見て取れて本作はほんとうに原作の延長線にあるもののように感じた。
「君はヒーローになれる」
あるよ。キャプテンハーロックは隻眼。隻眼キャラは眼帯のキャラ付けが厨二的で格好いいのかけっこう多い。
漫画じゃないけど昔の海外児童文学が原作のアニメ「宝島」のジョン・シルバーは片足義足で松葉杖だけどしびれるほどに強くて海賊の頭でワル、なのに料理も上手というハイスペックナイスガイ。19世紀の原作だから強化機械義足の設定とかじゃなく普通に木製の義足で無双してる。
戦後すぐから昭和中期ごろまでは戦争による傷痍軍人が巷に溢れてたから彼らを活躍させたいというアンチヒーロー的視点がその頃の漫画やアニメにはあったんじゃないかな。水木しげる先生もそうだし。ブコメにもあるけど「どろろ」とかも。昭和の漫画には多いと思う。
昭和後期以降は傷痍軍人が減った反面、車椅子の電動化やバリアフリーで傷痍軍人ではない障害者を世間で見かけることが多くなって障害者への世間の認識とともに漫画の障害者に対する認識も変化したと思う。
ハガレン的設定は現代的だよね。漫画の人物としての彼らにはあまり障害を負った人間というハンデを感じさせない。ストーリー上活躍させるとなると障害を感じさせない展開にならざるを得ないから障害者と認識されにくくなるんじゃないかな。安楽椅子探偵みたいな設定ならまた違うんだろうけど。