はてなキーワード: 類推とは
まあ地頭レベルはそこまで乖離してない人たちが(彼らのほうが上だとしても)医者になってるので。あとは進路だけの問題と思うよ
これで何かを知ったつもりになれてるのが歪んでるなって思っただけやな
まぁでも知らん、マジで理解できる超天才もいるかもしれないしな 少なくとも俺はそんな超人を現実で見たことないけど
なんか前にも100時間すごく勉強したので色々知ってるとか言ってる人がいて叩かれてて、100時間で色々分かるなら俺もなんでも専門家じゃんすごいって思った記憶がある
ちなみに俺は医療系専門でもなんでもないし真偽はわからん 最初も書いたが是非を議論する気もない
自分の専門領域でも似たような感じで専門家面して色々言ってくる人がいて適切だったことがないから類推して当てはめただけで、本当にちゃんとしてるのなら言いがかりだからごめんね
https://anond.hatelabo.jp/20221130083458
コンピュータサイエンスの知識がないならば
コンピュータサイエンスの知識があるならば
なのでコンピュータサイエンスの知識があって O(1) なコードを書けたとしてもパラメータのチェックが漏れててやはり AP サーバのメモリを使いすぎる、というやらかしをする自信がある。
じゃぁ実際にソートが遅いとかあった場合にこっちに何ができるんだ?OSSだから自分たちで直して独自ビルドにして使うのか?プルリクするのか?しないだろ?「っていう問題があるのでアップデートきたら対応します」だろ?
ソートアルゴリズムそのものの改善が難しいとしても、その目の前の課題に本質的にソートが必要なのか、要求仕様から今の場合現実的には確率的なソートでもいいのではないか、確率的なソートでいいなら(具体的なアルゴリズムを知らなかったとしても)乱択アルゴリズムの一般論から類推して遥かに高速に行えるはず、厳密なソートであっても対象となるエントリの内容は毎回完全に変わるのか、もし一部しか変わらないのであれば何らかの逐次的なソートアルゴリズムが使えるのではないか、それはライブラリのソートアルゴリズムを上手くカスケードで組み合わせることで実現できるのではないか、……とか色々発想を広げることはできる。
暇な時Twitterのトレンドをよく見てるんだが知らない世界が見れて楽しい。
ワードから内容が類推出来ないトレンドを見るんだけど最近面白かったのがkpopの韓国オタクと日本オタクの抗争。
韓国もライブは形式上撮影禁止みたいなんだが誰もルール守ってないらしく、日本でのコンサートも同じように撮影して強制退場くらうことにブチギレ。
韓国にはお裾分け文化があるらしく、日本人は観に行く癖に盗撮してお裾分けしてくれない。ズルい!とキレる韓国人と日本は本当に撮影禁止なんだから郷にいれば従え!とキレる日本人。
日本に行ってしまうアイドルに対して寂しく思う本国のファンに向けて「さっさと終わらせて帰ってくるから」と全世界に向けて発信してしまうアイドル。
「分かってはいるけどせめて見えない所で言って欲しい」と悲しむ日本人に「ざまぁw本国ファン愛されてっからww」と煽る韓国人。
煽り合戦が高まり過ぎて韓国人「独島でコンサートしよう」日本人「え?竹島?また日本でコンサートしてくれるの?ありがとう!ww」と若い世代が喧嘩してるのがクソおもろい。
https://anond.hatelabo.jp/20221112084236
https://anond.hatelabo.jp/20221113111747
本当に申告した肩書通りの人が書いてるかで言ったら正直上も下も信憑性は変わらんと思う
上は色々詳しく書いてるようで東工大や他の大学について検索して大学に関する普通の知識さえあれば類推出来る事しか書いてないし…
ぶっちゃけはてなのリベラルさんが東工大の博士課程はこんな事思ってるんだぜって願望込みでも書ける程度の内容に収まっている
そういう状況の中で下の記事に 「だけ」 こんなブコメに多数のスターが集まるのがはてなって本当にクソだなーって思った
釣りだろうけどガラスの下駄履いてることに気付いてない男は実際大勢いるからな。つか気付いてない奴の方が多いし気付きたくないんだよな/同じ環境の女と比較しての話してんのになー本当に気付きたくないんだな
本人の生まれ環境が絡む繊細なコメントに釣りとレッテル貼りしてマトモに向き合わず、差別で返すクソカスブコメ
(同じ環境の女と比べてますよーなんて言い訳は自分の差別が先にある状況じゃ何にもならんのになー)
それにスターでお墨付きを与える差別主義者が何十人もいるのって高校生がホント可哀想だわ
博士課程の人も地方高校生の人もこんなクソ差別の放置のために記事を書いた訳じゃないだろうにね
みんな自分の差別性に「本当に気付きたくないんだな」って思いましたね
・数学/物理学/生物学/化学←学問として有名だし、高校で触って古典的な部分は知っている人がほとんど
・工学←学問としてはあまり有名じゃないけど学部の名前としては有名、内容も多少想像の余地あり
・医学←学問分野としてはそこまでピンとこないかもしれないが、医療・生物学・化学あたりから類推ができる人は多いかもしれない
・哲学←学問として有名だけど、近代的なものはあまり知られていない
ごめん、話をずらしてしまったな。俺が否定しているのは「この考え方を拡張し、男女の多様性においても適用できるだろうという類推」という1点のみ。
男女に能力差はない、男女差より個体差の方が大きい等々と主張するのと同時に、男性だけより女性を入れた方が、”結果を出すための”多様性につながる=科学に資するって主張するのが矛盾なんだよ。 もちろん、男女に得意不得意などの能力差があるという前提にたつのであれば、女性を入れることは多様性を増やすことになるよ。
最初の論点は「性別が異なっているほうがより多様性が増すかどうか」という点だったと思うので、「科学一般に女性が必要かどうか」の根拠はお話ししていない。
「科学一般に女性が必要かどうか」については、これまで理工系の女性が少ない環境の中でまだ判断できるものではなく、増やしてから検証すべき事柄だと考える。
ではなぜ判断できないのに女性を増やすべきだと考えているのか。
それは多様な背景を持った研究者同士が意見を交わしあい、それぞれの研究領域を連携・横断・融合することが次代の技術革新を生み出す、という考え方が現在の主流だからである。
例えば東工大で実施されている卓越大学院プログラムは「材料×情報」「エネルギー×情報」「量子力学×情報」などの専門領域の掛け合わせを強力に推進し、結果を出している。
この考え方を拡張し、男女の多様性においても適用できるだろうという類推のもと、このような施策が行われていると理解している。
複雑化する社会課題の多くは,個々が専門とする単一分野の知識だけでは対処することが難しくなっている。
このような考え方は現在の主流ではない、ということをお伝えしておく。
元増田は最大で13人+αの男性とマッチングした結果として、エントリを書いてるんだけど、3人目くらいで「次いこ次」ってならなかったのは何故なのか。
「次こそは、次こそは『あたり』とマッチングする」と思ったのだろうか。もしそうなのだとするなら、その類推は何処からくるのだろう。
せめて他のマッチングアプリにすれば良いのに、と思うし、もう少し言うなら「日常生活で会話する男性」と恋愛すれば良いんじゃね、と思う。
もしそうなのだとしても結婚相談所のようなところもあるだろうに。
お金を掛けたくない、手間を掛けたくない
僕は音楽に向かないと思って今まで生きてきた。
いつからやっていたのかわからないが、かなり長い間という印象がある。
といっても低学年の頃には通っていた記憶がないので、3年生くらいからはじめたかもしれない。
そう考えると、通っていた期間は1年も満たないかもしれない。
子供の1年は長いのだ。
なんで習い始めたかはわからないが、きっとテレビで見たとか、友達もやっているからとか、そういう軽い興味を母親に話したからだと思う。
母は「興味があるならやったほうがいいと思うよ」と言う感じで了承してくれてすぐに音楽教室に通うようになった。
しかし、通ってすぐにモチベーションは下がっていってしまった。
まず、楽譜の読み方はわかった。鍵盤と楽譜のドレミの位置はわかった。
知っているドの場所とは違う読み方だった。
ト音記号とヘ音記号の違いは何なのかわからなかった。先生に聞けばよかったんだろうが、奥手の自分は質問はなかなかできない。
先生に直された場所に音名を書いて、それの前後から音を類推して暗記しようとした。
しかしそれが今やっているレッスンの何を説明しているのか全くわからなかった
レッスンは聞いてても面白みのない単調なものをずっとひかされて、そして知らない言葉が日々増えてきた。
先生の使う言葉はわからない。当てずっぽうでやっていくしかない。という負の連鎖に陥ってしまった。
教室に向かう途中で台風や事故でも起きて行かなければ済めばいいのにというのをずっと思っていた。
レッスンが済めばとても爽やかな気持ちになった。
もう一週間教室に行かなくていいという安堵感だ。その夜のドラゴンボールZはとても嬉しい気持ちで鑑賞できる。水曜の夜の清々しさは土曜日の夜にもまさった。
だが、月曜が来るとまた水曜が近づくということで憂鬱になる。
その繰り返しだった。
発表会は絶対に失敗できないのでそれは模倣をすることでなんとか乗り切った。
むしろ発表会周辺はいい。レッスンはその曲の練習に割り当てられるので、常に同じことを繰り返すだけだったからだ。
そんなに辛いならやめたいといえばいいのだが、僕はそういうことを言えない性格だった。
自分からやりたいと言ったからと言う負い目も感じていたのかもしれない。
よっぽどのことがない限り学校を休ませてくれない親に育てられたからだからか、途中で放り投げるというのは悪いこととも思っていたからかもしれない。
とにかく、つらい水曜日を送っていた。
そんな僕に転機が訪れた。
引っ越すことになったのだ。
引っ越すときに親に「引っ越した先でも続ける?」と言われたとき僕は何も言えなかったが、伏せ目がちにはぐらかそうとしたのを察知したのか、親は「まあやらなくていいか」といってくれた。
新しい学校への不安や友達とも離れてしまう寂しさもあったが、教室からの自由はそれらに勝っていた。
しかし、この教室に通っていたことはのちの人生に禍根を残すことになった。
まず音楽教室に通う前に親に「小さいときにやっていると、音感が身につくし、ピアノや他の楽器だってすぐにひけるようになる。プロや上手い人はみんな小さいときからやってた。だからやったほうがいい」と言ってくれた。
これは『小さいときにやると、音感やピアノが身につきやすい』という話だがこれを僕は解釈を誤ってしまい『小さいときにやらないと、音感は身につかないし、ピアノや他の楽器は弾けなくなる』とそう思っていた。
でも、あんな苦しい思いをしたんだから今後ピアノや楽器はひけなくてい良い。10歳ごろのころに完全に諦めた。
学校で音楽祭という行事があるのだが、僕はなんの立候補もすることなくリコーダーをした。
ピアノや木琴などは音楽教室に通っている人の特権だと思っていた。
児童館のピアノで猫踏んじゃったなどを弾く女子がいたが、その時おもっていたのは「僕には全然わからなかったことを分かっているすごい人。あんなに弾けるまで音楽教室を続けられている。きっと勉強もできるんだろう」という尊敬の念とともに「僕はああいうふうにでできる人じゃなかった」とも感じていた。
このピアノが弾ける人は小さいときからやっている。小さい時にやりはじめないとピアノは一切弾けないという思いはクラスのピアノうまい子を見るたびに強くしていった。
通っていて何もできないなんてしられたくなかった。だから何も始めなかったことにした。
避けたといっても積極的に行かなければ関わることもないので気にならないようにしていた。
中学くらいになれば色気が出てギターを始める人、バンドに熱中する人も出てくるが、
僕はそこに入る資格はないとおもっていた。なぜなら小さいときに始めることを諦めたからだ。
そして、ギターなどを始めている子たちは小さいときから何かしらやっていたんだろうと思っていた。
そんな誤った認識は結構成長するまで続いたが、高校時代衝撃を受けたことがあった。
保育士の専門学校ではオルガンやピアノの授業があるが、「今までピアノとか触ったことなかったので、弾けるなるようなるまで毎日頑張っている。結構うまくなってきた」とバイトの休憩時間で教えてくれた。
僕は驚いた。小さいときにピアノをやったことないのにやれるのかと。
もう一つ驚いたことがあった。
同級生のあまり親しくない人が先生と雑談しているのを勝手に聞いたのだが、「最近ピアノをはじめた。近所のうちにあるから弾きにいってる。独学だけど結構ひけるようになった。」と。
これもまた衝撃だった。
小さいときに初めてないのにピアノをやっている。そして教室に通わずに自分でやっている。
僕の認識では、ピアノや楽器は小さい時から教室に通い苦しみを乗り越えたもののみが得られるすごいスキルなんだと思っていた。
でも僕はすべての弾くスキルに対してそう思っていた。
ずーっとあの単調なつまらないフレーズを練習してそれをクリアしないときれいな曲を弾く資格を得られないと思っていた。
バイト先の人のおかげで、小さいときからやらなくてもできるということ、同級生のおかげでいつでも自由に楽しむために始められるということを知った。
でも、それを聞いてもすぐには楽器に手を出すことはなかった。
大学受験だ。
そんないい大学を出てはいないが、勉強と問題集での実力の測定のPACDを回して模試での偏差値がグイグイ上がっていくのに熱中した。
おかげで自分が卒業した地元のあまり評判の良くない高校には似つかわしくないくらいの大学には入ることはできた。
これも設計、実装、バグとりのPACDを回して品質を上げていくことに熱中した。
こういった人生経験を積んだおかげだろうか。
新しいことをやるということに恐怖はわかなくなった。
息子が吹奏楽部に入部したので楽しそうと思ったからかもしれない。
ギターを始めるにあたって、CとかFとかはなにか、コードとはなにか、メジャーとはマイナーとはなにかを調べた。
ドレミファソラシドと一般的に言われる音名は英語ではCDEFGABC日本語ではハニホヘトイロハということ
ドレミは階名といって主音にしている音が何かによって相対的に変わるらしいということ。
ハ長調は主音がハで、長調だからドがハになるということらしい。
Cをギターで弾くと、ドミソの音がなっていることに気づいた。
4分の3拍子や4分の4拍子と教室ではずっと言われていてなんのことかわからなかったが、1小節に四分音符が3つ入るか4つ入るかということだということ
泊のとり方もわかった。
長調と短調のこと全然わからなかったがギターではメジャーとマイナーという言葉で帰ってきた。
ここらへんまだ調べきれていないが、長調は全全半全全全半で音が上がっていく音の並びを使い、短調では全半全全半全全で音が順番に上がっていくらしい。
ピアノでミとファ シとドの間に黒鍵がないが、これは半音しか上がっていないということに気づいた。
これピアノはハ長調を弾くときに黒鍵を触らないでも済むようにデザインされているのかもしれない。
こうやって、幼い頃に躓いたあの教室の意味不明だった理論の答え合わせをしている。
いつから始めても構わないし、やりたいときが始め時、やめたいときが止め時だなと思った。
そして、息子が僕と同じ罠にはまらないように、疑問にはなるべく二人で調べるようにして、ちゃんと解決をする道筋を自分で考えることを教えようと思う。
ある配信者がゲームをやっていて防具を取ったとき、「その防具着けると外れなくなるよ」ってコメントがあった
配信者が(そこまで怒らずに)「あー、そういうのもネタバレになっちゃうかもな。そういうのも含めてゲームだから」と指摘したところ、コメントは「ごめん」「確かに良くなかった」みたいな反省がいくつかあった
ネタバレコメントって「配信者とかどうでもいいからどうしても言いたい!」って人だと思ってたからすごい不思議な光景だった
コメントする人って頭溶けちゃってるのかな
【追記】
防具を着けると外れなくなることはどんなに注意深くてもゲーム内の情報からは類推もできないもので(DQの呪われ装備のようなヒントもない)、初見プレイではほぼ必ず陥ってしまうような罠
「首相、英女王の国葬参列見送り | 共同通信」に対する上位ブコメがあまりにも酷くて我慢できない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nordot.app/942409931975180288
riceratoppo 見送りというかそもそも招待すらされてないだろ。なんで自分で断ったみたいになってるんだよ。選択権がないのに。
招待は「日本国」に対して。そこで誰を行かせるか決めるかは日本国政府。
天皇が外国の元首の葬儀に国を代表して参加するのは国事行為に準ずる公的行為であり、憲法第3条により、天皇が行きたいと希望しても「内閣の助言と承認」がないとできない。つまり内閣の最高意思決定者である首相が「天皇を行かせる」と決めたの。
天皇の参加希望表明も、天皇が個人的に思い立ってすぐ表明したわけがなく、宮内庁経由で意向が内閣に伝えられ首相の内諾があったうえで表明しているだろう。でなければ天皇が内閣の助言と承認なく自分の意思だけで自分の公的行為参加を事実上決めたという、憲法違反を促すことになる越権行為だ。
天皇が自分の国民的人気を背景に、自分が参加したいと表明すれば、国民がそれ以外の選択肢を許さないだろう、首相は逆らえないだろうと、内閣(首相)の内諾なくスタンドプレー的に参加希望表明してたら、それは恐ろしいことですよ。
俺も個人的には今の天皇、皇室には好意を持ってるけど、それとデュープロセスは別。日本は絶対王政国でなく民主主義国で、憲法に明文で天皇の行為に対する規定があるのだから、憲法を無効化するような独走があればそれは戒められるべき。
もちろんそんなことはなく、天皇は内閣の内諾のうえで表明したのだろうと思うけどね。
movesinthefield 天皇陛下が行かれるという話だけ出ればいいニュース。もし官邸で首相が行くことが検討されてたならそれもおかしい。
なんでおかしい??
むしろ天皇が外国の葬儀に出席することのほうが異例のことなんだけど。(参考 https://mainichi.jp/articles/20220910/k00/00m/010/027000c 「天皇は原則として、国内外を問わず葬儀には参列しておらず」)
日本国を代表して誰が参加するのか決めるのは日本国政府の権限で、もし政府が「首相を行かせる」と決めたならそれでいいでしょ。別におかしくない。
もしかして、日本国民から選ばれた政府の決定よりも、天皇の意思のほうが尊く優先されるべきという考えなのかな。民主国より絶対王政国のほうが向いてそうですね。
招待の具体的な内容が発表されてるわけでもないのに、なぜ「招待されてない」とわかるの?
もし招待が元首に限定されたものなら、天皇よりむしろ首相が行くほうが適切なんだけど…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E9%A6%96
このブクマ主やそれにスターつけた人たち、自分が支離滅裂な事言ってるて自覚できてるのかな。
あ、もしかして国政について一切の権限をもたない天皇が元首だと思っちゃった!?まさかね…
monochrome_K2 これは決して参列を拒否したわけではなく招待状の枠が天皇で埋まってしまったから。早合点してディスらないように
jnkfkt 参列できるのは各国の「元首とそのパートナーの2名のみ」なんだから、天皇が行くことになった時点で首相の席はなかった。なんで今ごろ「見送り」とか言ってるの?
だーかーらー、「天皇で埋まってしまった」「天皇が行くことになった時点で」でなく、天皇で枠を埋めることに決めるのは首相なんだってば(呆
「天皇が行う国事行為は内閣の助言と承認が必要で、その責任は内閣が負う」て憲法の規定、みんな高校の公民で習ったろ?
公的行為っていうグレーゾーンな行為については知識がなくても、天皇が行う公的な行為ってことで国事行為の規定を類推するのは容易だろ?
商船三井、その後は利確してポジション解消。今は戻りを静観中。今日は軟調だったが出来高はそこそこあった。日足はコマ状。市場が迷っているように見える。
日本郵船は今日50DMAをタッチして反落。明日以降もっとはっきりと50DMAを超えるまで戻るのか、それとももう下落再開なのかは読み切れない。出来高がそこそこあるので買いの勢いが涸れていない可能性がある。
そこから類推すると、商船三井もまだ下落再開となるかは読みきれない。まして50DMAをタッチしていないのでまだまだ戻す可能性も残っていると思う。
「容疑者は『殺したのは私ではない』などと容疑を否認しています」
上の文を読んだとき、容疑者にどのような印象を抱いただろうか。「本当はお前がやったに違いない」という印象を抱いたのではないだろうか。
では次の文ではどうか。
この文を読んだときは「ふーん、犯人はこいつではないのかな?」と、先ほどと比べると、容疑者を犯人と決めつける確度が小さい印象を抱いたのではないだろうか。
こうなる理由は、「など」を使うと言外の意味を読み取る余地を与えるからだ。
文脈とも相まって、前者の文の場合には「容疑者は他に何かを(容疑者に不利なことを)言っていたんじゃないのか」という類推の余地を与える。
たとえば、「矛盾した言い訳」や「明らかにお前がやっただろうというような状況の供述」などだ。
もちろんそんなことは文からは読み取れない。
その背景にあるのは「容疑者として捕まったから犯人の確度が高い」という社会的な共通認識だ。
こういうことが起きるため「など」は安易に使うべきではない。
似たような事例として「助詞の『は』を勝手に限定用法で読み取る人たち」というものがあるが、そっちは文章の構成上使わざるをえないことが多い。
何となく反対って思っている人はともかく、周りまで巻き込んで強烈に反対を主張している人って
まず最初に「反対」という結論があって、それを正当化する理屈を探し出してきているようにしか見えないんだよね(本人は無自覚だろうけど)。
だから、費用が高い、というのだって、じゃあ幾らだったら認めるの、と言われても答えは出ない。幾らであったとしても文句を言うから。
法的根拠についても、完璧でないと批判をやめない。予備費制度をもとに閣議決定で行うことが可能(https://note.com/tokushin_note/n/ndd2dd5a64f42)とわかっても、
昔の法制局長官は3権の了承が必要と言っていた(らしい。もちろん公式見解ではないし、司法の了承とは何?)とか、大日本帝国憲法時代の国葬令が現憲法では廃止された、など過去まで遡ってとにかく否定する材料を探し出してくる。
(それぞれの主張に理がないと言っているわけではない。100点以外は認めない、という姿勢のことを言っている)
仮に、完璧な法的根拠があった場合には、他の論点で批判できる材料を探すだけだ。
こういうような「反対のための反対」をやる人たちを見分けるコツがある。
この人たちが「賛成」に考えを翻す条件は何だろう、と考えることである。そのような条件はない(どんな状況であっても反対する)と感じるのであれば、反対の結論ありきの人たちだ。
こういう人たちに直接反応するのは無意味なので、基本的には無視すればいい。
ただ、害悪もある。こういう人たちの扇動によって物事の重要性の軽重がわからなくなりやすいからだ。
批判の対象には、憲法違反から法律違反、倫理違反、説明不足など様々なレベルがあり、批判する根拠についても、確定情報から憶測に基づくものなど、様々なレベルがある。
「無条件の反対者」はこれらをどれも同じトーンで主張しがちなので、冷静な一般人は、それらの主張がどのレベルのものかを自分で判断する必要がある。
自分をまとも側だと自覚する人には、是非これらのことを日頃から意識していただきたい。
ちなみに、自分がなんでこのような考えに到達したかというと、自分が結婚するときに母親に猛烈に反対された経験があるからである。
文句を言われるたびに、説明を尽くしたり自分の行動を変容させたりしてきたのだが、そのたびに文句の内容を変えてきて時には自らの過去の主張も翻してきた。
(内容としては、奥さんとなる人のこの挙動が気に食わないだとか、結婚に向けた進め方が気に食わない、とかそういう類のものだ)
今から考えるとあまりにくだらない理由も多いのだけど、過干渉当たり前の家族で生きてきたため、強烈な怒りを前にして臆してしまっていた部分があった。
結果としては、このような親子の共依存関係から概ね脱して結婚できたのだけれど、なぜ母親がこのような態度を示したかというと、息子に執着しており手放したくなかった、というのが自分のなかでの結論である。
(様々な個別の批判は本質ではなかったということ。これらのすべての批判に対応できる完璧超人は存在しない)
このことから類推するに、反対のための反対をしてしまう人は、相手に対して何らかの執着や依存をしてしまっているように感じる。
国葬に関して言うとその対象は安倍さん(もしくはアベ的なるもの)になるのだけど、どのように執着しているのかは自分でもすぐにはわからないので、他の分析者に任せたい。