はてなキーワード: 立派な大人とは
これで終了です。
前回記事『2018~2019年頃に執筆したwrwrd二次創作ガイドラインについての自己解釈』を執筆するきっかけとなった出来事についての記事なので一部同じ内容が含まれています。
どちらか一方しか読んでいなくとも問題はないような作りとなっています。
↓以下、本文
放送参加者のリスナーがMinecraftで『黒歴史ガチャ』と言うものを製作。
それを先にTさんが回し、「貴方は○○番目のアリス」と書かれた紙が出て来た。
次にKさんが回したら「森頁」(実際は正式名称が書かれていた)とだけ書かれた紙が出て来た。
端的に言えば、そのサイトは現在ナマモノや半ナマと呼ばれる実在する人物を元にした二次創作が席巻していた。
そして、キーワードランキングは彼らの略語が1位となっていた。
各個人が運営するサイトはその界隈を知る人達しか分からないパスワードがかけられていたが、アピール文と言う『サイトの内容を示す文章』がサイト名の下には掲載されていた。
そこにはCP名やR系を示す内容、サイト運営者の趣向などが書かれていた。
実際には分からないが、恐らくKさんはそれらを見てしまったと思われる。
数分間の無言と困惑したような呟きから、「虚無の塊」と言う言葉が出て来た。
見た感じではかなり引いている様子で、フォローのような「世界は広い」と言う言葉も残した。
いつも明るくどんな事でも笑い飛ばす彼のテンションが明らかに下がっているのが見受けられた。
ナマモノと言うジャンルは隠れて行うべきもの”と”本人の目に晒してはいけない”と言うタブーが破られた。
『黒歴史ガチャ』を作った人に、ナマモノを本人に見せる意図はなく、
「おや、見つけてしまいましたか。うんたらかんたら、ごゆっくりどうぞ」
などが盛んだった頃の話を想定したもので、今の20代・30代が過去に通ったであろう夢小説などオリジナルHP作成が盛んだったあのサイトは外せなかった。
黒歴史=あのサイトは分かる人には分かる、今の若い世代には分からない公式である。
黒歴史ガチャの意図を汲めば、彼に悪意はなかった事が理解できる。
本放送を見てもいないのに憶測で勝手に決め付け、責めるのはお門違い。
責めるのであれば、
誰の目にも触れられる可能性のある場所で活動していた、検索避けもろくにしていなかった、ランキング1位に躍り出ている危険性を理解できなかったサイト運営者達である。
結果として、
ナマモノの界隈ルールを明確に理解出来ていなかったサイト運営者たち
その全てが衝突して起きた事故であり、一部によっては自業自得である一連の出来事であった。
まず、この問題は”ご本人様の目に晒されてしまったこと”と”ナマモノ界隈のルールを守れていない”と言う点が一番の問題であると考えています。
そして、もう1つは事態を正確に把握できていない人達が憶測で話し合い、それを鵜呑みにしていることです。
ナマモノと言うのは非常にデリケートでつついてしまえばすぐに崩れてしまう。そんなものです。
何故かと言うと、現実世界で生きている生身の人間が、二次創作と言う人の想像によって自由に動かされているからです。
つまり、簡単に言えば他人を自分の想像の中で思いのままにしていると言うことです。
例えば、生身の人間を二次元に置き換えて、動物の耳や尻尾を生やしたり、TS(性転換)をさせたり、同性同士で恋愛をさせたり、団体であればメンバー同士でそう言った関係にさせたり。
同性同士の恋愛と言うのは現代社会においても理解がされにくいものとなっています。
だからこそ、他人に不快な思いをさせないためにも、ナマモノと言うのは隠れて行うべきなのです。
当然、その他人の中には題材にされているご本人様達も含まれます。
自分に置き換えて考えると分かりやすいですが、長く付き合いのある親しい友人と自分が第三者の手によってカップルにされている。そう言った行為を描かれている。となれば不快に思うでしょう。
これは、友人が同性であろうと、異性であろうと同じだと思います。
「全然大丈夫、気にしない」など、強気の発言をする方も中にはいるかと思いますが、それは相手にもよるでしょうし、誰とでも問題ないと言うのであれば、少々貞操概念を見直した方がよろしいかと思います。
自分自身が、顔も名前も知らない人に好きに描かれているのは不安や恐怖があるものです。
内容によっては嫌悪感を抱き、名誉を汚されたと訴えを起こす方もいるかも知れません。
我々だ内では公式でガイドラインが出されているので、それはないかも知れませんが。
万が一もありえますので。
そして、そのガイドラインですが。
曰く、
「○○の主役は我々だ!」に関するリアル、ネットを問わないあらゆる逸脱も含めた二次創作表現を全面的に歓迎しています。
利用者間では
・作劇上、我々だの中の人の感情や事実を配慮せず、忖度もしない
と、書かれています。
これを見て、何人かの方は「あぁ、自由にやっていいんだ」と思ったかも知れません。
しかし、よく見て欲しいのですが、
と書かれていますが、本人に見せて良い、不特定多数の人々の目に触れられる場所に無遠慮に置いても良い。とは書かれていません。
作劇、と言うのは物語やイラストの事です。現実世界、ネット上の事ではありません。
『イラストや小説などの中では、実際の中の人の感情や事実(年齢や性別、性格)などに拘らず好きに変えても構わない。また、それを製作するのに、自分たちへの配慮は要らない。』
と言う事になります。
また、
“どんな創作表現にも、とてもおおらかに”と“各人の解釈や方針に干渉しない”ですが。
これら二つは利用者間、つまりこれらのジャンルを楽しむ人たちの間の決まりであり、作劇上の表現の仕方は自由である。と言うことにすぎません。
何が言いたいかと言うと、この3つは『多くの人の目に触れる場所でナマモノの二次創作をして良い』『これまでのナマモノ界隈のルールを無視して良い』とは言っていないということです。
注意して欲しいことに、
コスプレなど「どこで何の表現をして良いか」はそれぞれの場を提供する主催者によって制限されていることがあります。
そうした場で発表をする場合、主催者の定めるルールを優先してください。
と、書かれていますが、これはコスプレを例に出しているだけで、限定している訳でもありません。
これまで何年にも渡り、先人様達が築き上げてきたルールを無視して良いとは言っていないのです。
コスプレなど、と書かれていますが、言外にイラストや小説などの二次創作物も含まれています。
その界隈のルールに則り楽しむように明記されているのです。
ですから、ナマモノを取り扱う際は検索避け、パスワードの完備、TwitterなどのSNSでは鍵垢にする。など、○○の主役以外のナマモノのを取り扱っている方達を倣って活動するべきなのです。
散々ナマモノと書きましたが、腐を匂わせるもの、事実を大幅にねじ曲げたものは全てナマモノになります。
ファンアート、と言われてしまえばそうかもしれませんが明らかにファンアートの域を越えたものは全て鍵垢など大多数の目に触れない場所に隠すべきかと思います。
これら全てが出来ていないから、他のナマモノに携わる方々やそうでない方々からも民度が低いと言われるのです。
もちろん、きちんとしている方々がいるのは存じています。
しかし、今回のことでそれを証明してしまった。守れていなかったことを露呈してしまった。
更には最悪の結果としてご本人様の目に晒されてしまったのです。
以下替え歌
田舎の爺ちゃん婆ちゃん 電車に乗って 風がびゅうびゅう吹いてきた
ババアのパンツがチラリと見えて ジジイはそれ見て目がキラリン
替え歌終わり
成長していくにつれ、「爺ちゃん」が同世代の「婆ちゃん」のパンツが見えて嬉しいなんてのは小学生ならではの世間知らずな勘違いなのだと気づいたとき、なんともいえない気持ちになったものだ。若い女にしかそういう価値はない人が大多数だというなんだかネッチョリした現実がキモかった。
俺は今「爺ちゃん」ではなく「オッサン」になったが、同世代のパンツにはやはり興奮できない。それどころか、JKモノのAVを見ている始末である。なんだか悲しい。同世代のパンツを追いかけているような、立派な大人になりたかった。
俺が9歳の頃に離婚した
母と逃げる様にして別居になり、そこから裁判所を経て離婚が成立した
離婚にいたる運びが穏やかなものではなかった為に、これまで親父と話し合う機会もなく、現在では俺も20代の立派な大人になった
親父は既に還暦を迎えているのでこの先二度と生きて再会することのないまま死別する可能性も高まってきた
当然母は良い顔をしないだろうが、息子としては例え自分を虐待した親父だろうと父親には変わりないわけで、やはり死ぬまでに一度、お互いに成熟した大人として向き合ってみたい気持ちがある
親父は個人事業主でホームページを開設しているからそこから連絡を取ろうとすれば取れる
しかし、親父から拒絶される可能性を考えると尻込みしてしまう自分がいる
https://togetter.com/li/1678814
これのブコメで「この先生は素晴らしいが、同じことを他の先生に求めないでほしい」というのがトップになっていた。
それに対して「せっかく理想が見えてるのに早々に諦めるのは悲しい」というブコメもあった。
私は前者の意見。教員ではないけど学校に勤めている。「教員」に対してこういうような対応を期待することはいいと思う。多くの教員にこの素晴らしい対応を見習ってほしいと思っている。だけど、あなたの子どもの担任にはそれを求めないであげてほしい。そういう気持ち。うまく言葉にできない。。。。
教員全体に期待するのはいいけど、直接担任に期待という圧力をかけないであげてってことかな。この教員のような素晴らしい対応ができる人もたくさんいる。できない人もいる。
できるけど、30人のクラス全員に対してはできない人もいる。あなたの子どもまで手がまわらないこともある。あなたが担任に期待するほどその担任は他の子の対応が疎かになり、家庭が疎かになったり、自分に疎かになる。そういう人たちを何人か見てきた。まぁ全部が保護者の期待のせいだったわけではない。でも求められることが多すぎてかわいそうだなと思うことが多いのは確か。家庭でちゃんと躾けられないのに教員に求めんな。
言いたいのは過大な期待はもたないでってこと。教員も人間なので、全員が立派な大人ではない。だめなところもある。
いろいろと分かってくれる保護者もいる。そういう保護者に会うと嬉しい。協力的だし、応援してくれてるのがわかる。そういう人が割を食うのが嫌なんだ。
なんだかんだ言ったが、極端な保護者を念頭に置いて書き始めてしまったから批判的な意見もあるだろう。言葉遣いも悪くなってきたのでもう寝る。おやすみ
40歳ももうすぐ中盤という年のおじさんなんだけどね、最近ニュースで同じ年齢層の奴が暴力沙汰だったり窃盗などを行っているのを見ると情けなくて仕方ない。
暴力沙汰の話なんかはね、相手の態度が気に入らなかったから殴ったとか、そういうのばっかりなんだよね。
もちろんね、そういうのは若い層も自分よりも上の層のジジイたちもやっているわけで、そういうのを見て呆れるけれども、同じ年齢層の奴が事件を起こすとなんてみっともないんだろうって感じるのよ。
おかしいよね、どの年代が問題を起こしたって感じるはずなのにね。
暴力沙汰に限らずに、YouTuberみたいな活動をしていてもほぼ年齢が同じくらいのおっさんが馬鹿な事をやっていると本当情けなくてね。
お笑い芸人が馬鹿なことをやっているのはいいの。あれは芸能人だから許される事だから。でもね、その辺のおっさんがYou Tubeで若い層に混じって常識はずれな行動をしているのを見ると、深いため息が出てしまう。
犯罪めいた事や常識はずれな事をしなければ、アニメだろうがゲームだろうがアイドルだろうが鉄道だろうがスポーツ全般だろうが、なんに夢中になったって変と思わないし夢中になれるものがあっていいねってなるんだけど、
犯罪や常識はずれな事をモラルやマナーと社会経験を学んできたはずの奴らがやっているのを見ると、ホントにね嫌悪感が酷いんだよね。
40代って、ぶっちゃけて一番馬鹿な世代かなって思っているんだけどね、それでももう立派な大人になったでしょって思ったら全然大人になってないの。
正直、これは批判食らって仕方ないと思うけど、うちらの世代よりも一つ若い世代くらいから子供のまんま大人になってしまったなあと思っていたんだけど、
母はもう認知症になり10年以上たち、もう何もわからない赤子のようになりました。治療を拒んでいた、すなわちまだ小学生くらいの自意識がありプライドがあった頃を懐かしく思い出します。病院に連れ出す名目が必要で、父は苦労していました。不可解な言動が多くなり、理由を考え求める関係に、私も母も疲れていたころでした。
ひとつお伝えできるのは、お父様はもう中学生には戻らない、それどころかやがて幼児になり何も知らない赤ん坊に戻ります。お伝えしたいことは、今までは立派な大人であったお父様とあなた、ご家族の関係は終わりを迎えたことを早めに受け入れ、これからは子供に帰っていくお父様を改めて好きでいられるような関係を目指すと、双方の気持ちが救われるのではないかということです。
認知症では、人が違ったような粗野な言動や被害妄想があらわれることもあります。お父様の性格が変わったわけではなく、病気により、世界を認識する力が変わってしまい、混乱の只中でなんとか自分を保とうと苦しむゆえの表現です。今なら私もそう思えますが、かつて同じようであった母を思い返すと、時として理解不能で憎らしく、好きだった母の姿がすっかり変わってやるせなく、苦しいタイミングがありました。しかしまだ母は笑うこともあり、頷くこともでき、花が美しいことや朝起きると息が白いことなどに心が沸き立つ様子も見られました。
この先、寂しいことですが、お父様からはそういった「らしさ」がみるみる失われて行くかもしれません。それでも共に居るための力となったのは、どんな母でも好きだという気持ちが家族の中に流れ続けたからです。逆を言うと、それを途絶えさせてしまった患者家族も見かけました。人が変わっていくことに耐えきれず、喧嘩別れをしたり、疲れ果てて遠い施設に入れて離れたり、それぞれの選択は悪いことではないですが、もしお父様と最後まで幸せに家族でいたいと願う気持ちがあるようでしたら、子供に帰っていくお父様の中に、好きなところ・可愛いところ・見続けていたいようなところを積極的に発見してあげて欲しいです。
私の母はもう何も言いません。今の母も彼女の大切な人生の一部過ごしている最中だとして敬いたいですが、記憶の中の母が懐かしくなり泣きたくなる時もあります。母が小学生のうちにもっと色々一緒に遊べばよかったなと後悔したり、いやいやあのときは精一杯だったと自分を認めてみたり、気持ちは常に揺れています。ただ、この先母とどう別れることになっても、母を愛しています。
そしてこのことは私史上最大の秘密であり、母親すら知らないトップシークレットだ。普通親なら気付くはずだと思われるだろうが、何故か母はいもしない男の気配を私から嗅ぎ取っており、男受けしない娘だが最低限の経験はしていると今も信じ切っている。
母ですらそう思い込んでいるのだから、友人や同僚ともなると私が魔法使い一歩手前の希少種だとは考えもしないのだろう。それどころか身に覚えのない彼氏の話題を振られることさえある。その度適当な嘘をつき、ボロが出る前に別れたことにしてその場を乗り切る。時にはワンナイトの相手を登場させたりもしている。今ではすっかり恋人と長続きしない自由気儘な人物像だ。処女のくせにな。
周囲にそう思われている理由はなんとなく分かっている。単純に遊んでそうな容姿と性格なのだ。
濃いメイクや身体のラインを強調する強気な服、それからアクセサリーが大好きだ。爪はいつでも長く伸ばし濃い色のジェルネイルをしていないと落ち着かない。着けている指輪の数も多い。服飾にこだわることが当然とされている職場ということもあって、毎朝時間ギリギリまでその日着けるピアスを選んでいる。誰かのためではなく自分の気分を上げる武装のようなものだ。
そんな見た目に加え、夜遊びも嫌いではない。
居酒屋やバーは勿論、JISのような異性と出会う為だけに存在する店に行くこともある。声をかけられれば会話をするし、とりあえず連絡先も交換する。大学時代に友人とふざけて始めたマッチングアプリで知り合った相手とデートの真似事をしたこともある。
ちなみに初めて男性と手を繋いだのもキスをしたのもその時だ。余りの虚しさに頭の悪い女の笑い話として友人達との飲み会で酒の肴にした。実は初めてだったなんて口が裂けても言えない。これも墓まで持っていく。
ここまで書けば分かると思うが、私は派手な見た目とそれなりに釣り合いの取れた非常に厄介な性格をしている。私自身が見た目にこだわる人間である以上、そこから得る印象の重大さは理解している。誰だって全く逆があり得ると分かってはいても、清楚な格好をした人間からは楚々とした印象を受けるし、派手な格好をした人間からは奔放な印象を受けるだろう。なので人から向けられる目に対して文句はない。
正真正銘性に奔放な友人もいる中で、私は25になっても未だ男性とお付き合いをしたことがない。それどころかそろそろ26になる。アラサーと呼んで差し支えない年齢だ。
自分のとっつき難い外見や不誠実な言動。学生時代から現在まで異性が殆どいない環境で生活していること。言い訳ならいくらでも用意できるが、最大の理由は私自身がそれ程他人との関わりを強く求めて生きていないことだろう。
基本的に私はプライドが高く、ありえない程に気が強い。性格も悪いが、そもそも根本の人間性に難があるタイプの人間だ。親しい相手を除いた自分以外の人間に無条件でいつでも害意を抱いている普通にヤバいやつなので当然モテない。もしくは見た目だけがモテる。断っておくがこれは外見が性的な対象として見られているだけなので人間として好まれているわけでは決してない。
そんな中、学生時代からの友人がついに全員既婚者となった。高校や大学など出会った時期は違うが全員同じ歳だ。それぞれ卒業後も定期的に連絡を取り、お互いの近況を報告し合っていた。そんな友人達が一人残らず結婚した。相手は私と知り合う以前から付き合っていた彼氏であったりよりを戻した元彼であったりと様々だが、とにかく全員が全員結婚したのだ。
すでに数年前から母として育児に励んでいる友人もいるが、これから先自分の周りには家人として家庭を守って生きる人間ばかりになっていく。何故か旦那さんのお義母さんとまで引き合わせてくれる彼女達とはこれからも友達でいられると思っているし、こんな気難しい私を受け入れてくれる奇跡のような友人達の幸せをちゃんと喜ばしく思えている。
だが同時にとうとう1人になってしまったと漠然とした虚無感を覚えている。やはり家庭を持つ人間と自分1人を生かす為だけに活動している人間との間には価値観において決定的な隔たりがある。
これから先、私は彼女達の気持ちに寄り添えない瞬間が多くあるのだと思う。旦那さんのことか義実家のことか子供のことかは分からないが、とにかく今まで雑な嘘で取り繕ってきた私では到底慰めきれない何かがきっとある。自発的に家族を作っていない私では今の時点でもう想像すらできない。
でも赤の他人に大切な相手として想われる人生とは一体どんなものか、知りたくて堪らない瞬間がある。しかしその愛情を受ける為に言動に気を使い、相手を思い遣ることを考えるととてつもなく面倒に思える。つまり私は恋人が欲しいわけではなく、無条件で自分を肯定してくれる生きた人形が欲しいだけなのだろう。人はどうか知らないが、私の場合他人に情を割くには体力がいる。
恋人、あるいは結婚という誰かと共にある形の幸せを手にした人達には私にはないある種の才能がある。
26歳を目前に自分が処女であるという事実は人には言えない重荷になっているが、本当に人に知られたくないのは私が誰かに感情を向けられたことも向けたこともないという現実だ。
全くの孤独であるか身近に同じような人がいれば気にならないのかもしれないが、残念ながら私はそうではないし、周りにもそうは思われていない。可哀想なくらいプライドが高い私は自分の見た目と現実との乖離をせっせと埋めるしかない。
それに人が複数集まって会話する時、過去の交際経験という経験値がないのは少々脆弱だ。決して色恋の話ばかりしているわけではないが、一度目の人生の転換期になる25歳で彼氏いない暦=年齢の女は少々浮いた存在だろう。当たり前に過去何人もの恋人がいた友人や同僚達にとっては尚更。何より過去の経験はそのまま発言力と説得力に直結する。
現在私には彼氏がいない。最近別れたのだ。そして今は作る予定もない。友人全員の結婚を期に、もういいかと思うようになった。話の流れによってはまた適当な嘘でその場を受け流すだろうが、これからはリアルタイムの話題が必要になる程恋愛経験が会話の中心に上がることはないと思う。友人達はみんな過去の話よりこれからの話をする。きっと今までのような遊び方をすることもなくなるだろう。
週が明ければ私は26歳になる。仕事だけで終えてしまった25歳の頭を整理したかった。色々考えたが結婚願望や恋愛願望以前の問題で、自己愛と自己嫌悪が強過ぎる余り他人に情を向ける余裕がない私は恐らくこのまま歳を重ねていくのだと思う。きっと精神はリスクのない無条件の愛情を求めて停滞したままだろう。
まだ職場では小娘扱いして貰えているが、最近妙に結果を残さなければいけないと思えて気が逸っている。分かりやすいきっかけはなかったが、私も友人達と同じように立派な大人になっている。歳取るって大変だわ。
反出生主義的な主張をしたツイートなんかがちょっとバズると、そのリプライ欄に大量の批判コメントがつく
そういうコメントをつけてるアカウントの大半が子持ち・育児アカウント(体感では女性の方が多い)
内容はわりと画一的で、「お前は人間の営みを否定している」「自分の親にそれを言えるか?」「自分の子供がこうならないように気をつけよう」「幼稚、大人になれ」
論理性が全然ないのに妙に偉そうなのが特徴的で、人の親っつってもこんなもんなのかと暗い気持ちになる
子供作ると「自分は正しい『人間の営み』をしていて、成熟した考えを持った立派な大人だ」と思えるようになるもんなんだろうか?
やっぱこう育児で大変な目に遭うと「自分は素晴らしく価値のある行いをやっている徳の高い人間だ」みたいな考えをもたないとやってられなくなるってことなのかな アイデンティティの根幹に生殖を置いてしまうようになるというか…
あの答辞を読んで「若者の将来へ幸あらんことを」も、「若さの発露に冷笑的な態度で接するほうが恥ずかしい」も、「年取ると、猛烈に恥ずかしくなると思う」も彼女を不当に貶めるコメントだと思う。
私は、大人というのは、「自分の行動に責任を持つ人」だとおもう。彼女は答辞としてあの内容を述べることで予想される批判を真っ向から受けるつもりで述べただろう。そういう意味で、彼女はネットではまれに見るような立派な大人だ。
たぶん、彼女のことを「若者」とかいう人にとっては、「大人」というのは、「空気を読み、周りの人への思いやりがある人」とかなんだろう。「空気を読み、周りの人への思いやりがある人」が首相になったら、どのような国になるか、私たちは良く知っている。
彼女のような人を対等に見ることも、素直に尊敬することもしないで、「今の自分とは違う人」枠に入れる人が、今の首相を支えていると、私は思う。
1972年の大晦日の晩、札幌の時計台横丁にある「北海亭」というパンティー屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。
閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしてもパンティーを被りたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると母親が「被りパンティーを1枚頂きたい」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前のパンティーを温めた。
そして母子は出されたパンティーを楽しそうに順番に被った。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のパンティーを被りに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。
翌年の大晦日も1枚、翌々年の大晦日は2枚、母子は被りパンティーを頼みにきた。「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日に被りパンティーを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。[いつから? 要出典]
それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。子供たちは就職してすっかり立派な大人となり、母子3人で被りパンティーを3枚頼んだ。
中学校と家の間に小さな個人書店があって、そこで立ち読みしていた。だけじゃなくて幾度か万引もしていた。
うちは決して裕福ではなかったけど、勉強とは関係なく趣味で読みたいSF作家の文庫本を盗んでいただけだ。申し開きはまったくできない。
六畳間ぐらいの店内にぎっしり本棚が並んでいたあの店にとっては、利益が軽く吹き飛んでしまうような犯罪だった、と後年知ったが手遅れだ。
鋭い目をした年配の店主は、僕の行為に間違いなく気づいていた。それはそうだろう。考えなしに学生服を着たまま店に行っていたので、学校に告発することも可能だったと思う。
でも、彼は何も言わなかった。
たまに罪滅ぼしのつもりで本を買うと、「本をしっかり読んで立派な大人になってくださいね」と、そのときはこちらの目を見ずに言っていた。
就職して帰省したある日、その書店の前を通りかかると、ガラスの引き戸の内側からカーテンを閉められ、長いこと放っておかれた様子だった。
店は潰れた、店主は死んだ、と風の噂で聞いた。その後も風化が進むばかりで店は放置されたままだ。
今思えば、あの店には同規模の書店が必ず扱っていた(と大きくなってから知った)成人雑誌の類はひとつもなかった。
いつかたくさん本を買って恩返しして、そしてもし勇気があったら、昔の罪をすべて謝ろう、との思いはかなわなかった。
この世に取り返しようのない罪はある。私は死ぬまであの店に対する負い目を抱えて生きていくのだろう。