はてなキーワード: 立派な大人とは
反出生主義的な主張をしたツイートなんかがちょっとバズると、そのリプライ欄に大量の批判コメントがつく
そういうコメントをつけてるアカウントの大半が子持ち・育児アカウント(体感では女性の方が多い)
内容はわりと画一的で、「お前は人間の営みを否定している」「自分の親にそれを言えるか?」「自分の子供がこうならないように気をつけよう」「幼稚、大人になれ」
論理性が全然ないのに妙に偉そうなのが特徴的で、人の親っつってもこんなもんなのかと暗い気持ちになる
子供作ると「自分は正しい『人間の営み』をしていて、成熟した考えを持った立派な大人だ」と思えるようになるもんなんだろうか?
やっぱこう育児で大変な目に遭うと「自分は素晴らしく価値のある行いをやっている徳の高い人間だ」みたいな考えをもたないとやってられなくなるってことなのかな アイデンティティの根幹に生殖を置いてしまうようになるというか…
あの答辞を読んで「若者の将来へ幸あらんことを」も、「若さの発露に冷笑的な態度で接するほうが恥ずかしい」も、「年取ると、猛烈に恥ずかしくなると思う」も彼女を不当に貶めるコメントだと思う。
私は、大人というのは、「自分の行動に責任を持つ人」だとおもう。彼女は答辞としてあの内容を述べることで予想される批判を真っ向から受けるつもりで述べただろう。そういう意味で、彼女はネットではまれに見るような立派な大人だ。
たぶん、彼女のことを「若者」とかいう人にとっては、「大人」というのは、「空気を読み、周りの人への思いやりがある人」とかなんだろう。「空気を読み、周りの人への思いやりがある人」が首相になったら、どのような国になるか、私たちは良く知っている。
彼女のような人を対等に見ることも、素直に尊敬することもしないで、「今の自分とは違う人」枠に入れる人が、今の首相を支えていると、私は思う。
1972年の大晦日の晩、札幌の時計台横丁にある「北海亭」というパンティー屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。
閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしてもパンティーを被りたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると母親が「被りパンティーを1枚頂きたい」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前のパンティーを温めた。
そして母子は出されたパンティーを楽しそうに順番に被った。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のパンティーを被りに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。
翌年の大晦日も1枚、翌々年の大晦日は2枚、母子は被りパンティーを頼みにきた。「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日に被りパンティーを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。[いつから? 要出典]
それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。子供たちは就職してすっかり立派な大人となり、母子3人で被りパンティーを3枚頼んだ。
中学校と家の間に小さな個人書店があって、そこで立ち読みしていた。だけじゃなくて幾度か万引もしていた。
うちは決して裕福ではなかったけど、勉強とは関係なく趣味で読みたいSF作家の文庫本を盗んでいただけだ。申し開きはまったくできない。
六畳間ぐらいの店内にぎっしり本棚が並んでいたあの店にとっては、利益が軽く吹き飛んでしまうような犯罪だった、と後年知ったが手遅れだ。
鋭い目をした年配の店主は、僕の行為に間違いなく気づいていた。それはそうだろう。考えなしに学生服を着たまま店に行っていたので、学校に告発することも可能だったと思う。
でも、彼は何も言わなかった。
たまに罪滅ぼしのつもりで本を買うと、「本をしっかり読んで立派な大人になってくださいね」と、そのときはこちらの目を見ずに言っていた。
就職して帰省したある日、その書店の前を通りかかると、ガラスの引き戸の内側からカーテンを閉められ、長いこと放っておかれた様子だった。
店は潰れた、店主は死んだ、と風の噂で聞いた。その後も風化が進むばかりで店は放置されたままだ。
今思えば、あの店には同規模の書店が必ず扱っていた(と大きくなってから知った)成人雑誌の類はひとつもなかった。
いつかたくさん本を買って恩返しして、そしてもし勇気があったら、昔の罪をすべて謝ろう、との思いはかなわなかった。
この世に取り返しようのない罪はある。私は死ぬまであの店に対する負い目を抱えて生きていくのだろう。
上記2つに関わる流れがすげえ胸糞悪い
「父親に暴力を振るわれたけど、そのおかげで立派な大人になったので感謝してる」
と言う人に対して
「そんなはずはない」
「価値観が歪んでいる」
「お前はおかしい」
その結果
「確かに言うとおりおかしかったです。本当は辛かったんです。こんなこと書いたのも実は助けを求めてたからなんです。」
と言い始めた途端
「うんうん、そうだよね」
「いままで辛かったね」
「暴力振るわれて可愛そう」
「やっぱり暴力で躾けられたけど幸せに育っている人間なんて存在しなかったんだ!」
と一斉に手の平返し
せかっく正の部分に注目して自分は幸せだと思っている人間に対して
ひたすら負の部分だけを掘り起こして「お前はおかしい。幸福なはずはない。本当は不幸なんだ。」と大勢の人間に否定されたら誰だって「やっぱり自分は不幸だったのかも」と思っちゃうよ
いいか
こういう人を不幸にして、苦しめているのは父親じゃない
お前らだからな
この増田自体は(自分で批判して欲しかったと言っているし)そうじゃなかったかもしれないが、お前らは幸福な人間をあえて不幸にするようなことをやってるんだからな
「やれやれ、今日も無知で可哀想な子羊を一人啓蒙してやったぜ」とか悦に入ってるんだろうが
まず「元増田の子供が虐待されようとしていたから止めようとした」みたいなこと言ってる奴ら
自分を正当化するために子供を言い訳にするとか人間としてかなり終わってるから自覚したほうがいい
今まさに虐待の危険に晒されている子供を見つけたときするべきことってなんだ?
まずはしかるべきところに通報することだろう?少なくともネット上でコメントすることではないだろう
本気で助けたいと行動してないくせに、子供を助けるためとか言ってる奴らのなんと勝手なことか
そりゃ通報したところで効果があるかはわからんが少なくともネットでやめなよってコメントしてるよりは100倍有功だ
仮に言い訳じゃなくて本気で増田へコメントすることが虐待を防ぐ最善手だと思ってるならそれはそれで異常だから自覚すべきだ
例えば元増田に対して
「自分が上手く行ったからといってそれ(暴力行為や暴力による躾)を他人や自分の子供にも当てはめるのはよくない」
みたいな意見はまっとうだと思う
俺が胸糞悪いと思うのは
「お前の父親への感謝や尊敬の気持ちは洗脳や暴力によって出来た間違った価値観によるものだ」
みたいな意見だ
そんなものは心療内科医でも精神科医でもない部外者にわかるはずもないのに
結局「私の思う正しいやり方」以外の方法で幸福を得たり成功したりしている人間が存在することが許せないんだろう?
暴力親よりよっぽど暴力的でグロテクスな思考だってこと誰も気づかないんだろうか
「今回は釣りだからよかったけど、お前らがやってることは幸福な人間をわざわざ不幸にしかねないことだ」
ってことだよ
ネットの言葉は物理的な実行力は弱いかもしれないが、積み重なれば一人の人間を殺人犯にもしてしまうことははてな民ならよく知ってるはずだろ
2年ほど前に5ちゃんの日記系スレにも書いた内容だから(全然話題にならなかったけど)なんか読んだことある人は読んだことあるかも。
父親は今で言う社畜で育児の協力は皆無だったし、母親は相当疲れていたと思う。いつもカリカリしてた。
ちょうど2年生になると週一でクラブ活動が始まる。私は手芸部に入った。
確か9月の月曜日の放課後、先生に来週までに必要なものを準備してきてと言われたのを、私はちゃんと聞いていなかった。
帰宅してから母親に「何を準備したらいいの?」と聞かれて「忘れちゃった」と答えた。
「じゃあ明日ちゃんと聞いてきて」と言われたのに、アホアホ小学生だった私は翌日にはキレイさっぱり忘れてしまった。
その日も「忘れちゃった」と言うと、母親が火をつけたように「なんで忘れるんだ。ちゃんと聞いてこいって言ったろ!」と物凄い剣幕で怒ってきた。
服を引っ張られて、背中を押されて、お尻を何度も何度も蹴られた。
今思い返すと、あそこまでやることないよなって思う。でもきっと産後のホルモンの乱れってやつで、プツンと切れちゃったんだろうね。
怖いし痛いしで思わず玄関を飛び出して、とりあえず団地の真ん中にある公園に向かった。
公園には友達やその母親もいて、涙目の私を見て心配してくれたけど「目がかゆいだけ」なんて言って誤魔化した。
徐々に暗くなってきて、みんな帰って行ったけど、私はどうしても帰る気にはなれなかった。
帰ったらまた怒られる。また蹴られるかも。帰りたくない。でも家出する勇気もない。
気付くともう真っ暗になっていた。
公園の真横には、団地の出入口に繋がる大きめの道路がある。私は公園を囲む低めの塀に登って、道路を見下ろす形で縮こまって座っていた。
もう何時になったか分からなくなってきた頃、奥から一台の車が走ってきた。
私の目の前で停まったかと思うと、窓が開いて「何してるの?」と運転席の男の人が話しかけてきた。
父親くらいの年齢の人だった。
「なんでもないです」
と少し警戒しながら答えると
「もう遅いよ。早く帰らないと家の人が心配するよ。」と言って、私が小さく「はい」と答えると、その男の人は窓を閉めて出入口のほうへ車を走らせていった。
緊張が溶けてまた縮こまって座っていると、今度は車が来た同じ方向から、女の人が歩いてきた。
素通りしていくかと思ったら、私の目の前にきて「どうしたの?」と声をかけてきた。
ちゃんと見ると、背中に赤ちゃんをおんぶしている。弟くらいの小さい赤ちゃんだった。
「なんでもないです」
とさっきと同じように答えると
と言われた。
「ママとの約束やぶったから怒られた。帰ってもまた怒られる」と、そんなことを泣きじゃくりながら言ったと思う。
女の人は「家に帰ろう?ママもきっと心配しているよ」と言ってくれたけど
「心配なんかしてない。まだ怒ってる」
と私はなかなか引かなかった。
でも女の人は「ちゃんと謝れば大丈夫だよ。私が玄関の前まで一緒に行くから」と優しく言ってくれた。
私もようやく帰る気になって、女の人と一緒に自分が住んでる棟まで歩いた。
棟の中まで入ると「ここまでで大丈夫?」と言われたので「うん。」と答えた。
「ちゃんと謝れば大丈夫だから、ね」と言って女の人は帰っていった。
私も意を決して自分の家がある2階まで上がろうとしたとき、弟をおんぶした母親が階段を降りてきた。
ここで私の記憶は終わっている。
多分母親に「なんで帰ってこなかったんだ」とものすごく怒られただろうし、ものすごく泣いたと思うけど、ここから先はちゃんと覚えていない。
そして何年もたった今、思うことがある。
あの女の人は、最初に声をかけてきた男の人の奥さんだったのではないかと。
二人とも同じ方向から来たし、暗い中わざわざ赤ちゃんをおんぶして外に出てくるなんてそうそうないと思う。(田舎なので買い物に行く場所も近くになかった)
当時はスマホなんてない。
もしかしたら、男の人は固定電話か公衆電話で女の人に、私の様子を見に行ってくれと頼んだのではないのか。
ただの憶測だけれど。
それから数年後には私達家族は引越したし、この話自体ももう20年以上も前のことなので、どうやっても確認はできない。
あのときおんぶされてた赤ちゃんも、多分弟と同い年なので立派な大人になってるはず。
私も昨年、一児の母になった。
このことを思い出すと、いつかは私も母親のように自分の子供を怒って蹴り倒してしまうのだろうかと不安になるし、もし当時の私のような小さい子を見かけたら、どう対応すればいいのか悩んでしまうと思う。
でも、あのときの夫婦(仮)のように、連帯して助けることができたら良いなと思っている。
届かないと思うけど、あのとき声をかけてくれたお二方、本当に本当にありがとうございました。
わかった、わかった。
おじさんたちが、現代社会における三角関数の重要性を正しくわきまえていて活用例もたくさん知ってて教養ある立派な大人だっていうのは、よーーーーーーーーくわかったから、ちょっと僕の話も聞いてくれる?
人を批判するときはソースぐらい確認したほうが良いし、見出しの気になるキーワードだけ拾って脊髄反射で持論を展開しはじめるのはどうかと思うなあ。
教員免許の話の流れで、三角関数はあくまで例えとして挙げられてただけで、すべての人が学ぶ必要はないんじゃないか、選択式で良いんじゃないか、と言ってたよ。
あと、「橋下」だからね。
いやいや、他のたくさんのことと同じで、当然知らないよりは知ってるほうがいいし、「○○はすべての人が学ぶべき教養である!」の○○にはそりゃいろんな単語入れ放題だよ。
それと、義務教育で全員に教えるべきかどうかは全く別の話で、現実世界には有限のリソースしかないんだから、他に学ぶべきことが無限にあって取捨選択しないといけない中で、現実問題、みんなが簡単にそのレベルに到達するわけないじゃん。世界的に見て教育水準の高い日本においてでもだよ?じゃあ聞くけどおじさん、義務教育ですべての人が学んでる英語、どれくらい話せる?
今の学校教育に必要なのは、人の話を聞かずに自分の話ばかりして気持ちよくなるおじさんを減らすための傾聴力と謙虚な姿勢と、建設的なディベートをするための最低限の論理的思考力だね。
男性は「自分の弱さをママに裁かれる」が人生で最初にならう生き方で、
人によっては最後までそれをつづける。
叱って欲しい、ほめてほしいみたいなやつ。
依存症=病気なんでまわりに害をおよぼしているけれどやめられない。
(害を及ぼさず自己解決できるレベルの人が立派な大人といえる)
家庭でも見下げられ、って「そういうとこやぞ」しか言いようがない。
そうやって状況に流されて生き、
すべての周囲の愛情を自分自身の悪性の言い訳につかっておとしめる。
自分のない男、責任というものを理解しない男は女性の寄生生物だ。
善悪もわからないんだから人間じゃなくて家畜扱い(社畜)が相応だ。
本当に自分の弱点と戦って独り立ちできるのはこういうしっかりした女性だと思う。
美しくなるためではなく強くなるために筋肉つけてください。
あなたがどんなにAKBからかけはなれていたとしてもブスではないです。
あと、加害者の奥さんと連絡とれそうなら早めにとったほうがいいです。
おそらく奥さんがわはかなりまともな人だから、連絡をとられたら困るから悪くいってるんだとおもいます。
主戦場を家庭にうつしてもらうことでこちらにストーキングや脅迫などする暇がなくなり、
まさか教えてないとおもいますが、住所を知られているなら早めに引っ越しの検討を。
という事を最近つくづく実感する。理由?メルカリ便で出そうとする出品者の梱包に対するモラルの低さだよな!
これ中学生のガキだけじゃねえんだぜ?立派な大人がこれやるんだぜ?
なんで最近の100均は発送用包材に力入れてるか分かってんのかあいつら。メルカリやオークションでニーズが増えてるからだろうがドアホが。
そもそもその厚さで何でネコポス利用しようとした!言え!65円もケチるのかよ!ヤマト行って相談してきやがれ!
これを飲み込みながら「梱包し直して出直せドカス」をオブラートと八つ橋と饅頭生地に包んで引き攣るこめかみを抑えつつ笑顔で接しなきゃならねえのほんと苦痛。慣れてる人は本当に丁寧な梱包するから余計目立つんですわ。
売って終わりじゃねえんだよ!相手に届くまでにいかに綺麗に保てる様に送るまでがてめえの仕事だよ出品者!
値下げ交渉の際に送料計算出来ないの?馬鹿なの?人間辞めたの?
って事を同業他社の知人と愚痴ってたところ、そいつのとこではサングラスを茶封筒に入れて送ろうとしたツワモノがいたそうだ。
脳みそ塵芥かな?って言ってたけど「それ脳みそうんこやで」って言おうとしてやめた俺は褒められていい。
なんっっっで自分がされたら嫌な梱包を相手にするのかなあ、それとも自分はそんな梱包されて破損汚損されても文句は言わない菩薩です、ってことかね?
多分違うんだろうけど。
もう立派な大人なんだが、未だに苦手なことがある、それは自分のことを"わたし"と名乗ることだ。
小さい頃は"うち"を使っていたけどそのあとが決まってない。"うち"はビジネスにおいて使えないから"わたし"をつかっているのけどなんだかずっとしっくりこないままだ。
女として生きてきてたまにモテたりすることもあったのだがそれが嫌で堪らなかった。なんだか喋ってるうちに可愛いね、優しいね、なんて口説き目的の会話が気持ち悪い。ちゃんと普通に人として会話して欲しかった。
そういう経緯もあり自ら女を主張する行為に感じて苦手らしい。かといって男になりたい訳ではないから"僕"も少し違う。ちょっとサブカルっぽいし。"自分"は文面とかでたまに使う。