はてなキーワード: ヨーロッパ人とは
これに対して過剰な反応をしたり、なぜか、これに対応できる「ヨーロッパさすがっす、それに比べて日本は。」厨湧くので言い返す。。。
★(前提1)自分はヨーロッパ在住を始めており、できるだけヨーロッパ人の本心をさぐりたいと思っている。
★(前提2)この現象は外れ値であり、たまたま起きた現象がこういうセンセーショナルな書かれ方をするのには違和感がある
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ヨーロッパで起きる大半の人種差別はもっとライトなものであり、もっというとそもそも人種差別自体起こらないぐらいに関心ない★
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人によって思いの強さは違う。
そして総論、ヨーロッパ人的にアジア人はどうでもいい存在。嫌い好きもなく、ただただ透明人間。
人によってはロシア人とか差別する人もいるし、いろんな人がいる。
こっちの人はまじでアジア人邪魔とか、アジア人うざいとかじゃかうて、そもそもどうでもいい。嫌いも好きも何もない。
僕はアジア人は日本のまちなかでみるよりダサい人が多いし、存在感もないし、なんなら迷惑度高めの人もいて、差別されて
当然とも思うが、、それ以上にヨーロッパ人的にはどうでもいいと思っている人が大半。好意も敵意も特に無い。
めっちゃ暇なアホなヨーロッパ人がなんとなくアジア人をからかうという現象はある。
それに比して、この増田の事例は強い敵対心を感じるし異常値で外れ値。これを議論の俎上に上げるなら、向こうが完全に悪い。
あと増田がそこを追求したので警察が本腰になったと思う。警察的見過ごせず流石にこれはひどいと思って捜査したのだと思う。
これは仕組みとしてできているというより客観的に、ああひどいよねってフローチャート的に分類されたら、犯罪と認定されて
そっからは普通の捜査になるというだけで、普通にからかわれたれた(大半の事例)では、特に動かないと思う。
だって、、、
どうでもいいじゃん。キーキーいうなよ。強くいきようぜ。アウェィだろ。そんなに守られたいか?
正直僕はこういうのでキーキー言わずに強くおしゃれに返歌を返してほしいと思う。
それしかないよ。あと、地位はもともとアジア人は低いのだから、そこからは返歌は強くおしゃれに。
糞には花をあげようよ。
大体の場合アジア人はどうでもいい存在で、逆にこれだけの強い敵対心と、集中砲火を浴びる事例というのも珍しいと思う。
たまたま、そういう人にめぐりあった場合には、向こうもこれはひどいということで捜査に入る。
が、、、、、、ほとんどの場合はそんなにオーバーなことにはならず、、殆ど肩肘透かしです。
どうでもいいと思う。
SFやミステリーやバトルものや恋愛もの、もっとゆったりした日常ものとか
コメディとかいろんな漫画があるけどどんな漫画でも修学旅行のエピソードはすごく楽しい
サスペンスフルだったりなにか緊迫したテーマを描いてるものの中では久々に取り戻された日常という描写になるし
とりとめもないささやかな日常を描いてる漫画の中ではそんな日々の中にちょっと特別な事が訪れた、みたいな描写になってそのどっちも楽しい
たいてい何話か連続した回になるのでその「いつまでも楽しいものを読んでいられる感じ」もすごく好もしいって気がする
80~90年代の漫画が大好きでもう10数年くらいあれこれ掘り返したり紹介してもらったりして読んでるんだけど、とりわけこの年代の修学旅行回は楽しい
自分たちの頃とずいぶん違うなあって感想もあるけれどそれよりもなんだか描かれ方に現代よりよけいに特別感があってがちゃがちゃ賑やかな感じなのがいい
松苗あけみ「純情クレイジーフルーツ(九州)」はそのがちゃがちゃした感じの代表格みたいな感じで
修学旅行の準備段階から念入りに微細に描かれている 当時の女子高は荷物検査なんて事前にあったんだ!?みたいなところとか
その持ち物にキャラクターの性格が如実に出るような描写とか飛行機に乗るのが初めての子が時代的に多いとか見どころが多すぎて楽しすぎる
90年代ではないが津田雅美「彼氏彼女の事情(京都)」でも事前の準備段階にかなり紙幅が割かれていて
その細かさとやっぱり買い物の仕方とかにキャラクターの性格が出るところがすごく楽しい
目的地に着いてからもそれぞれに見たいところが違っていてその行動の様子を画面を分割してそれぞれ描いて最後に合流する、
その際の人物の組み合わせが好みや突発的な事情から普段の学校でのシーンと違ってシャッフルされている、など遊び心とか工夫があって非日常のわくわく感がよく描かれてる
またそのシーンが以降の展開へのフックになってたり伏線にもなってたりしてサービス精神と長編漫画を読む楽しみの両方に溢れてる
お定まりのナンパシーンだの喧嘩シーンだのもちょっとあってこのお約束感も修学旅行回ならではだなと思って楽しい(「今日から俺は!」もこんな感じでよかった)
少女漫画というか女性の作家さんの場合では、この「旅行前のわくわく」を想起させるあれこれについてとても細かく描かれていることが多いと感じる
「究極超人あ~る(大和路)」の修学旅行エピソードもがちゃがちゃしてて楽しくてすごくいい
普段と同じ色んなキャラクターが入り乱れて普段と違う場所であれこれするのを見るのはなんて楽しいんだ!って何度読んでも思う
バスガイドさんがとても幅を利かせているのもすごくよくて、というか80~90年代の修学旅行回のバスガイドさんの存在の特別さというのはすごい
「ぼくの地球を守って(京都)」ではキャラクター達にとってものすごく重要なことが起こることの特別感もあって絵もめちゃくちゃ丁寧でいい
お土産屋さんのシーンや桜を使った演出が美しくて透明感があってぐっとくる このあたりの絵が一番好きだから余計にいいなと思う
修学旅行のエピソードのよさは長編だけに限らなくて1巻・二巻完結のような短編やオムニバス漫画でも印象に残る
星野架名「妖の教室(北九州)」は怪談風のちょっと不思議な話でおかしな事怖い事が出発前、行く先々のスポット、帰りの新幹線の中に至るまで
それぞれの場所らしい演出の中で次々と起こり続けてラストにはちょっとどんでん返しもありかつ主人公たちの淡い恋愛模様についても触れるミステリアスな一編
同作者の「カンパネルラはふりむかない」は架空の修学旅行先「歌国(おそらく山口県の岩国)」から
東京への帰りの新幹線の中に閉じ込められたままこの世ならぬ予期せぬ旅をさせられる修学旅行生と教師たちに起こる怪異と青春の一編
吉野朔実「記憶の技法」は実際には主人公は修学旅行に行かないのだけれど、主人公にとって大事なものを守るためのものを獲得するためだけの大切な旅として描かれる
(この物語はそもそも「旅」がかなり重要な芯として他にも旅のシーンが出てくるのだが、それを成立させるためのディテールに舌を巻く)
「彼氏彼女の~」は違うけれど、携帯が普及してない当時ならではの描写もありそういうものを読むのもとても楽しい 移動手段の変遷も同じく
アニメではやっぱり「けいおん!!」の修学旅行回(京都)が最高の最高の最高によくて寝る前とかよく流しながら寝落ちする
いつどのシーンを見てもにこにこしてしまうおかしみとか楽しみとかに溢れててもう移動のシーンから楽しいっていうか
行きと帰りのあのシーンの呼応がもうあ~~好き~~ってなっちゃうしお菓子食べすぎてごはん入らないとか
ちょっとした言葉で笑いに火がついて何してももうおかしくて暗い中でクスクス声がずっと聞こえてていつまでも眠らない感じとか
めちゃくちゃはしゃぐ人とそれに苦労する人とかお土産選びとかとにかく描写のこまかいことこまかいこと人物の動きからなにから
全部がそのまんまの日常なんだけどこの子たちにとってやっぱり特別なんだよね~ってなるあの感じがもう好きで好きで…かわいくて大好き
けいおんは劇場版もだからものすごく大好きであれは卒業旅行なんだけど全編が旅行っていう特別なもののエピソードで
出かける前からの描き方ももう本当に細かくてあるあるですっごいかわいくて飛行機のシーンも大好きアフタヌーンティー断られるとことか
有名人ごっことか靴擦れのエピソードとか(おろしたての靴ってわくわく感こもってる!)お部屋の扉コントとか
みんな楽器持ってくるよね~むぎちゃんはむぎちゃんらしい方法でそれ解決するよね~のとことかも大好きっていうかもう全部好きで全く書ききれない
「旅の中にいるいつものあの子たち」がたくさん見られるの丸ごと最高の映画だな~って思って何度見てもたまらない
そんな感じでだから本当は修学旅行だけじゃなくて広義の旅のシーンがすごく好きなんだろうなって思う
最近の漫画でも「きのう何食べた?」の京都旅行回とか「聖☆おにいさん」の近所への短い旅行回とかも楽しくてよかった
古い漫画だと坂田靖子「マーガレットとご主人の底抜け珍道中」、正確には旅ではないが佐々木倫子「ぺパミント・スパイ」の
架空都市(ヨーロッパ人が日本的な生活をしている佐々木倫子独特の世界)への移動を伴うエピソードはとても楽しい
学校を舞台にしていれば描かれてもいいのに学年等の問題で描かれなかった修学旅行を想像することもある
漫画「あたしンち」では父母はよく旅行するがみかんとユズは学校での旅行のエピソードはなかったので、あったらどうだっただろう、とよく思う
(なおアニメ映画版ではみかんの修学旅行がメインの作品がある)
エッセイ漫画の旅行回とかもいいけど現実をそのまま作品の中に描写するよりも創作の中の世界やキャラに起こる出来事として
もう一段落とし込む感じで描写されたときその旅にまつわるエッセンスがもっと濃く抽出されるような気がする
どれもに共通するのは作者の方がしっかり綿密な取材を現地でしているんだろうということがわかるとこで
その細かさとか作者が現地で見たり聞いたり食べたりしていいな~って思ったところが
なんとなく画面やエピソードに出ていてそれがしっかり伝わるのもまたなんだか特別感があっていいのだなあ、としみじみ思う
飛行機はCO2を大量に排出するから良くないという「飛び恥」が欧米で流行してると報じられたが、現地ではさらに進んだ考え方として「生き恥」が広まっている。人は生きているとCO2を排出して地球に優しくないから死のうという運動だ。既に28人が「生き恥運動」で亡くなっている。実際に死んだ人はまだ少ないが環境保護団体「地球のための選択肢」によると自殺志願者は既に37564人もいるそうだ。環境保護団体はこの動きを賞賛していて積極的に死ぬよう市民に呼びかけている。自分たちは監督責任があるから最後に死ぬらしい。は?まあそんな訳で欧米では地球のために死ぬ素晴らしい人々が出てきている。だがある時一人の環境テロリストが気付いた。全人口に占めるヨーロッパ人の割合はそんなに多くない。自分たちが頑張ってもたかが知れてる。むしろそこそこ贅沢していて人口が多い中国や日本インド韓国の人口を半分に減らした方が効率的なのではないかと考えたのだ。すぐにこの意見は拡散されてヨーロッパの総意となった。かくしてアジア人半減作戦は実行に移され中国インド日本韓国をはじめとした大量排出国はもちろん今後大量排出国になるであろう発展途上国にも核兵器を撃ち込んだ。各国とも果敢に応戦し核ミサイルを撃ち落としたが残念ながら大量の核兵器がアジアを焼き尽くしアジア人は半減した。当然アジア各国はブチ切れた。すぐさま準備を整え中国、インド、北朝鮮、日本はヨーロッパに向けて核兵器を撃ち込んだ。日本は沖縄にあったやつを勝手に使った。環境テロリスト政権に支配されていたヨーロッパ各国は自分たちの崇高な理念のもとに行われた核攻撃をアジア人は絶対に受け入れてくれると勘違いしていたので全くの無防備であった。そのため全ての核兵器が撃墜されることなくヨーロッパ全土に降り注ぎヨーロッパ大陸から人が消えた。そして放射能汚染により人類は滅亡した。
一般的な旭日旗の光線が十六条なのは、菊の御紋(十六葉八重表菊)に由来する。
戦後、軍の解体に伴って「軍旗としての旭日旗」の歴史は途切れたが、
1954年、自衛隊が発足するにあたり、帝国軍旗を受け継ぐ形で自衛隊旗として採用された。
近年、「韓国の旭日旗批判は2011年以降に作られた新しいもの」との風説があるが、
韓国や中国の過去のニュースを見ても、それ以前から「日本の軍国主義を思い起こすもの」として、
ただし韓国における「戦犯旗」という蔑称は2012年頃につけられたものである。
鉤十字。
ヒンズー教や仏教など、古くからさまざまな宗教や民間信仰で「幸運の印」などとして用いられてきた。
1900年頃から、「アーリア人」がヨーロッパ人の共通の祖先であるという思想(アーリアン学説)のもと、
ドイツ国内でハーケンクロイツは「最も優秀なアーリア人であるドイツ人の象徴」とみなされるようになり、
1919年に設立されたナチスもそれを踏まえて1920年に党旗をハーケンクロイツとした。
1933年にナチスが政権を掌握するとハーケンクロイツは国旗に準ずるものとされ、
終戦後、ハーケンクロイツはナチズムの象徴とみなされ、ドイツでは公の場での使用を禁止された。
1990年の東西ドイツ統一以降、ネオナチの活動が顕在化するにつれて、
ハーケンクロイツへの警戒も強まっている。
イギリスのヘンリー王子がナチス風の軍服を着ていたという2005年の問題をきっかけに、
ハーケンクロイツの使用をEU全域で禁止する法案が提出されたが、
これはヒンズー教徒の反対などにより阻止されている。
こうして見ると旭日旗とハーケンクロイツに大きな差はないように思われる。
特に「元は平和的な図案だったが悪質な政治に利用された」といった話は双方に共通する。
ただ、ハーケンクロイツが直接的に「(悪である)ナチスのシンボル」とみなされるのに対し、
旭日旗は「(悪である)大日本帝国の軍隊のシンボル」であるため、やや間接的な関係に思われる。
このあたりの印象の差があり、ハーケンクロイツほどには規制されなかったのだろう。
また近年のインターネットの普及によって、各国のナショナリズム的行動が可視化されたことで、
より大きく反発が起きるようになった面もあるのではないかと思われる。
旭日旗について言えば、
明治になってから軍旗として採用され、菊の御紋と重ね合わされる「十六条旭日旗」が、
皇国史観や軍国主義と結び付けて見られるのは仕方ないのではないか。
仮に旭日旗の使用を擁護するならば、「元は平和的な〜」や「奇誠庸が〜」などではなく、
「十六条旭日旗のみ」に問題を限定したり(この場合は海上自衛隊の自衛艦旗は変更することになる)、
「思想的なシンボルではなく軍旗にすぎない」ことを強調する(この場合は自衛艦旗としての利用は擁護するが平和的な場では使用を控える)、
といった点を前面に出したほうが良いのではないかと考える。
元は割と同じ位置のスタートだったイギリス人の友人が転職に結構成功して外資の偉いポジションになった。子育て中で共働きなので、家に住み込みのワーホリヨーロッパ人を雇って語学教育と家事その他をやらせている。その妻も自己実現バッチリで夢だった職業に就いてる。
そんな人たちが、夫婦でなぜか私に好感を持ってくれていて、やたらメッセージやイベントのお誘いが来る。
自分はといえば、大学卒業して就職のスタートラインでつまづいて(自分のせい)、転職もつまづいて(自分のせい)、病んで引きこもって病欠3年くらいして(自分のせい)、低収入で病がちな配偶者と結婚して子供も生まれたけど、その夫婦からメッセージが来るたびに正直鬱になる。
自分の家庭にはまったく不満はない。本当に愛してるし。
でも、家で皿洗ったり洗濯したり子供迎えに行ったりしてる時にふとその友だちからメッセージが来ると、ああ、皿とか洗わなくていい人なんだなあとか、この洗濯物たたまなくていい人なんだなあとか、子供は労せずバイリンガルになるんだなあとか、自分らにないものに恵まれていることに嫉妬してしまい、返信が滞る。そして返信してないこと自体に対して、「自分は嫉妬から友人とのコンタクトを拒否するような卑しい人間だ」と、更に鬱になる。
実家も都内で子供預け放題、記念日には夫婦でデート、泊まる宿は5万から、出張の延長でのイギリス帰省旅行も普段の都内のタクシーも会社持ち。金のかかるプリスクールとインターに子供は通い、教育環境もバッチリ。
今からクタクタになって帰宅して、散らかった家を見て、ああ、住み込みのヨーロッパ人がいたらこれ片付けてくれるのかな、って思うんだろうな、自分。
あまりにも嫉妬の気持ちが強いから友だちを辞めて自分の心に平和を取り戻したいのに、友だちを辞めるにも自分が最低過ぎて理由が言えないし、無言で消えて今までの信頼を裏切るのも申し訳ない。そんなことで悩んでしまい余計苦しい。
「スー・ドナルドソンらは、先住民族の土地をヨーロッパ人が植民地支配したのは不正であるという例を引き合いに出し、野生動物は領内で社会を作る利益を持ち、侵略者から彼らを保護するために主権を認めるのは有効であると指摘している。」
人間の権利を動物に拡大するというより、先住民族の権利を野生動物と同格に置いたという感じ方をしてしまうのだが俺だけ??
もし救命ボートが転覆して人間の赤ん坊と犬のどちらか一方しか助けられないとしたらどうするかと聞かれて、PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)のアウトリーチ・コーディネーター、スーザン・リッチは「はっきりとは分からない…赤ん坊を助けるかもしれないし犬の方を助けるかもしれない」と答えた。動物の権利哲学者のトム・レーガンは、たとえ犠牲になる犬の数が何匹であろうが、赤ん坊の方を助けるべきだと述べた。これはカント以来の伝統的な義務論の延長上に権利論を展開した、レーガンの立場を示すものと言える。」
種差別を全く行わない立場なら、犬を助け赤子を見捨てるのは倫理的に問題ないはずでは?
人間を常に救うのであれば、種差別を行っていることになるのでは?
「人間だけを特別視する宗教的な考えを拒否すれば、重度脳障害または重度知的障害を持った人間を、同等の精神的知的レベルの動物と峻別することが困難になる、とシンガーは表明する」
つまり知的障害者は同程度の知能の動物と同格に扱ってよいことになる。
別のところでシンガーは、痛覚を感じない障害をもつ人間は、痛みを感じる実験動物より実験対象として適格であるような意味のことを述べている。
こういった考え方は差別的ではないのか?
http://europa-japan.com/category12/entry77.html
ヨーロッパで作られるアニメは基本的に子ども向け主体だからこそ、日本のようにストーリー主体で作られる大人向けのアニメが新鮮で、フランスを中心に人気が出るのだと思います。フランス・パリのJAPAN EXPO、スペイン・バルセロナのSalon del Manga、ドイツ・デュッセルドルフのJAPAN-TAGなどなど、ヨーロッパ各地で漫画やアニメのイベントが開かれ数十万単位の来場者を動員しています。
そこまで人気なのにどうして自国では日本タイプのアニメを作らないの?と思われるかもしれませんこれは、単純にコストの問題です。フランス国内でのアニメ制作費は1分間70万円もするのにたいし、日本から輸入すれば1話20万円で済みます。
ケーブルテレビや衛星放送のアニメーション専門チャンネルで日本やアメリカの高品質なアニメが放送されてるのに、わざわざ大金かけて作るメリットがあまりないというだけなのです。
ホントかどうかは知らんけど