はてなキーワード: コンセンサスとは
H&MとCOMIC LOの件
前段階に「幼女への性的虐待の事件があったことで過敏になっていた」があったらしいし
(これかな https://news.yahoo.co.jp/articles/eb5147993bec33865c19a25060cc0ff8476833f7)
そっからの「一見すると問題ないように見える画像のオマージュ」でエロ漫画家が「あくまでエロくはない画像」を投稿するっていう
これさどう足掻いてもコンセンサスも取れないし、記事にもできないんだよね
性犯罪は問題だろうけど、H&Mは「H&Mのファッションで注目を浴びよう」しか言ってないし
これで炎上はやり過ぎっていうのはヤフコメですらそうだったからね
ここでもしエロ漫画家が画像をエロ絵にしたら「実在のモデルを性的に描いた」で燃やせるんだけど、言うほど性的ではない(扇情的ではある)し
これ突っ込むと誰かが言ってたけど「LEONはじゃあアウトなのか問題」っていうややこしい話になってくるから
いやー燃えないっすわ
記事にするにあたってCOMIC LOを説明しなきゃならないし、そしたら本旨ずれるし
無理だね
「性的な目的で考案、作成された衣装(A)」又は「元は異なる目的のものであってもある状況下で性的な目的に用いられるとのコンセンサスが社会的に生じた衣装(A')」を指すと仮定する。
たとえば「穴あき下着」は前者A、「亀甲縛り」は後者A'の例だろう。そして、それらが批判の対象とされるのは、
「それらが性的な喚起力を高くもつとの合意が現に社会的に維持されている(B)」こと、そして「性的存在として眼差すことへの禁忌が社会的に存在する対象にそれらの衣装を着ける(C)」ような場合(つまりAorA'、かつB&Cの場合)と仮定する。この場合、結果として現れる表象それ自体が公序良俗の取り締まり基準を満たしているか否か(D)とは、また別の問題として扱う必要がある(Dは、どんな文脈でも社会的に提示するのは一発アウト、みたいな基準と考えられたい。生性器のドアップ写真、とか。ただこの場合も、「公序」の制限とかけはなれた特殊な状況、場所で許容されるのは言うまでもない。医学書とか。)。
以上を前提として、先日話題になった「オーストラリアのH&M広告炎上」の件と、昨日来話題の「咲バニーガール衣装」の件を合わせ論じたい。先に結論を述べれば、A~Cの基準が異なれば議論が噛み合わないのは当然であり、相手を非常識扱いしてヒートアップするのではなく「相手との間で異なっているのは何か」を考える必要がある。相手が、いかなる表現も100%許されると考えている人(つまりDなどないよ派)でない限りは、見解が異なるだけで、対話の余地はあるはずだからである。ではまず、オーストラリアH&Mの件を整理しよう。
オーストラリアのH&Mが子供向けに「新学期ファッション」をテーマとした広告を打った。広告は、通学バスの社会を想起させる色合い・デザインの背景に、かわいい通学服を着た女児2名がちょっと生意気そうな雰囲気で振り返り、「この子らを新学期ファッションに振り向かせよう」みたいな煽り文句がついていた。これが炎上・謝罪・撤回に追い込まれた件である。
まず、この広告がDに違反していないことは言うまでもなく、それでも炎上したことに対して、いろいろと文句をつける人がいた。多くの人は「こんな程度でいちいち文句をつけるなんてちょっとヒステリックでは…」みたいな反応であり、個人的にそう感じる気持ちもよく分かるのだが、でもちょっと待ってほしい。女児の制服をファッションとして扱うのは、このキャンペーンがまさに狙っていることであり、ファッションを一種の性的喚起力だととらえるなら、この広告は「生意気そうなモデルの表情」「かわいい制服」といった文脈で、Bを印象付けたわけであり、その結果、制服がもともともつA'の文脈(制服に対して性的視線を向けるという界隈の文脈)を喚起した結果、Cに抵触する(保護されるべき女児に制服を着せあざとい表情をさせて晒し上げる)という批判を生んだという風に考えることができる。このことは、A'に陥りがちな服装をファッショナブルな(あるいは扇情的な)存在として扱うときには常に注意すべき危険であり、BからA'→C違反、という道筋がすぐ描かれてしまうことに、広告関係者は神経を尖らせる必要があるだろう。その意味でこれは、「月曜日のたわわ」の一件との連続性が高い問題だった。あれも、Dには全く違反しておらず、おそらく制服でなければ問題化もしなかった広告が、一言の少しだけ扇情的なキャッチコピーを添えられただけで炎上したが、これはもともと危うい位置にある存在で更に一歩危うい方向へと歩を進めることで起きたトラブルなのだと考えるのが適切である。
ただし、表現とは常に時代の尖端で社会の常識と切り結ぶのが仕事であり、そういう突破力を否定し切るのもいかがかと思う。社会的に(まだ)アウトですよ、と指摘するのはいいが、相手を悪魔化したり、あまつさえ、様々な社会の問題の根源や責任がそこにあるかのように攻撃したりするのは、慎むべきだ。社会の様々な問題は、多くの場合間違いなく社会そのものの中に有り、そちらをまず片づけるべきである。ゴミの多い都会を描いた漫画があるとすれば、取り組むべきは都会のゴミをまず片付けることであって、漫画の取り締まりではない。
次に、「咲にバニースーツ着せた姿の広告が炎上」した件。これに対して「高校生にバニーガールなどという性的な衣装を着せた絵が広告として駅頭に出るとは、常識外れもはなはだしい」という指摘が出た件である。一見すると、上のオーストラリアの件以上にひどい案件に聞こえ、即取り締まられてもおかしくないように感じられることだろう。この場合、それが一般的な公序良俗違反(D)の案件である必要はない。たとえば、制服の上から亀甲縛りをした少女を描いた広告にOKが出るか、と考えてみればすぐ分かる話だ。Dに違反していなくても、これはA'かつBかつCで明白にアウトである。では、「咲+バニースーツ」はどうなのか?
バニースーツがAであることは誰も否定はしない。従って、論点は、B「それが性的な喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか」、また、高校生が「性的存在として眼差すことへの禁忌が社会的に存在する」ことは前提とした上で、これらの少女が「高校生である」ことが明示されているか、の2点ということになる。
C 「咲」に登場する少女が高校生であることは明示されているか? これについては、残念ながらこの広告に関する限り、疑わしいとしか言えない。批判者は咲が麻雀部に所属する高校生であるとの知識をもって批判しているが、咲はそこまで社会的認知度が高い漫画ではない。アニメ化されたとはいえ視聴率は1%に届かない程度、DVD売り上げでも、1期7758枚、2期4939枚、3期4565枚…。(※)アニメファンには実写化、映画化……とされた人気作のイメージがあるかもしれないが、社会現象になった数々の作品に比べれば売り上げが一桁少ない。加えて作品ジャンルが「麻雀」という、一般的にいって高校生とは結び付けづらいものだ。この広告を見た多くの人が「高校生にバニースーツ」という風に見る、と主張するのは難しい。ただし、一定年齢層以上の人で、アニメ画は全て少女(ロリ)にしか見えない、という意見をお持ちの方がいることも、一応認識はしている。
(※DVD売り上げはhttps://nizilove.com/category/number-of-anime-sales/page/2/の値。)
B それが性的喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか? おそらく批判者が一番「何を言ってるんだ?!」と思うポイントであり、今回一番議論が噛み合っていないところだと思うが、Aのような服装が時代を下るにつれてBの意味合いを失っていくことは、歴史的にはよくあることである。たとえば、髪型一つとっても、「結わない髪は淫らである」といった固定観念が、遊女などの流行を取り入れつつ徐々に変遷し(※)、現代の人は単に「かわいい」という感覚で振り乱した髪の毛を奔放になびかせているのはご存じのとおりだ。「そんな髪型は昔は遊女が流行らせたもので…」と説教をして、いま、一体誰が首肯するだろう? 時代が下ればある衣装が「もともともっていた意味合い」が薄れていっても、何も不思議はない。つまり、たとえAであったとしても、時代によってBではなくなるということは別に不思議ではないのだ。
(※たとえば参考:「『女髪結』考」https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/21365/files/KU-1100-19940930-01.pdf)
では、バニー衣装はどうなのか、といえば、これはまさに時代が変化しつつある過程なのではないかと思われる。自分は決して専門の立場ではないが、そもそも夜の店の主流がキャバレー→キャバクラ等へと変遷していく過程で、「性的な接待衣装としてのバニーガール姿」というのはもはや古典的なイコンとなり、現役の「風俗衣装」としての意味合いをかなり失いつつあるのではないか。たとえば「社長さん」御用達で半世紀以上の歴史を誇る「エスカイヤクラブ」では、支援の声を受けて「ワンランク上のおもてなし」としてバニーガールによる接待をうたっている(https://www.esquire-club.co.jp/general/about01/)が、これなど、バニーガール姿がほとんと「祇園の芸妓」的な存在と化しつつあることの表れではないだろうか? そもそもの出発点においてからが極めてトレードマーク・コスプレ的な衣装であったバニーガール衣装が、現代においてコスプレ的ではなく生き延びている事例というのがどれほどあるだろう。
そのような時代の変化の過程において、「バニースーツは性的!」という批判と「ただのコスプレじゃん?」という意見が、まさにBをめぐる議論として立ち現れてくるのならば理解ができるし、それははっきり言えば単なる「時代感覚の差」の問題に過ぎないと思われるのだ。たとえば、高校生が文化祭でメイド服を着る、あるいは、小・中学生が習い事でポールダンスを学ぶ……ある年代以上の人からすると、目が点になるのか三角になるのか知らないが、そんな事例であろう。だがそれらは、時代の変化の中で起こるべくして起こる変化の一様態でしかない。
つまり、これらは決して表現の自由だとか差別とかいった問題ではなく、単なる「年寄りと若者の時代感覚の違い」に起因する問題だと認識した方がいいと思う。ならば、相互に批判しあう人たちも、この問題からいずれも学ぶことがあるはずなのだ。こういった問題で、敵味方を作ってがあがあがなりたてるのはよろしくない。何よりも必要なのは、分断ではなく対話と理解であるはずなのだから。
ホッテントリ見てて思ったんだけど
これを糾弾する人としない人に今の世の中分かれてるよね
なんなら年の差が離れている時点で糾弾する人もいる
極端な例をあげるか
1.男40歳と女5歳
4.男40歳と女18歳
この5つに対する反応で大体その人のスタンスが見える
反応もまとめるか
O.そもそも恋愛ではない(前提否定派、これちょっと別枠だから今は置いとく)
A.どの条件、どの時代であれ大人としてあるまじき行いである(究極的違反派)
C.倫理的に現代社会は受け入れるべきではない(社会的に許されない派)
E.歓迎する(肯定派)
例えばイスラム圏で5歳の少女が婚姻している現状(児童婚)を訴えているユニセフなんかは
1に対してスタンスはAなわけだ
(全てではない、生物学的にどうか?といえば、出産のギネス最年少が5歳7ヶ月だからノーコメント。病気を除けば8歳くらい。ただし母体は危険に晒される)
じゃあまず、「どこまでAか?」でスタンスが分かれる
人によっては5でもAだと考えてる人が居る、その場合昔の人の多くが極悪人だが
実際はAだと思っているが、その主張が通らないかもしれなくてBだと言ってる人もいる
まあそれはいい
問題はC「倫理的に現代社会は受け入れるべきではない」がどこにくるかだ
この3つに絞るか
4.男40歳と女18歳
2は健全で付き合うなら特に違法ではない、結婚はできない、性行為は違法(不同意性交)、大昔は結婚できた
3は健全で付き合うなら特に違法ではない、結婚は以前はできたが今はできない、性行為は違法(条例違反)
4は健全で付き合うなら特に違法ではない、結婚できる、性行為も適法
つまり、2・3をC「倫理的に現代社会は受け入れるべきではない」とする人が多いのではないかと思う
4についてはA〜Eまで主張は様々、芸能人でもこの前あったばかりだ
それは昔同性愛を糾弾したこととダブスタにならないか?という疑問が生じる
これが面白くて、賢い人はそこに薄々気づいているから以下のような対策を取る
・主張をO「そもそも恋愛ではない」にする → しかしそれは「12歳や17歳女性の恋心は偽物である」となるので主張が苦しくなる
・主張をO'「成人と未成年のは恋愛ではない」を発明する → これが「グルーミング」の正体、今はこれが主流である
・主張をAに変える → 昭和時代より昔を全部否定する強い主張になるため苦しくなる
・主張をBに変える → これもよく使われる、Cで戦いたくないからBにするケース
個人的には2,3,4はCではなくD「法を犯さない限り、個人の自由である」にするべきだと思っている
あるいは昭和時代にはD'として「個人の自由だが、周りは受け入れないよ」があった
これで良いのではないかと思うのだが、どうしてもCを採用したくて上記のような主張に至っているのを見かける
まあそれも別に自由なんだけれども、コンセンサスは必ずしも取れない(姉は受け入れない)と思ったほうが良い
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2316099
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グルーミングは確かに存在するんだ、つまり40歳男性側からアプローチした場合
ただし女性側からアプローチするケースは確実に存在するというのは誰も否定できないだろう
簡単だ、40歳男性が超モテるタイプだったらそれは簡単に起こる
だから2人の詳細を聞かないで「グルーミングだ」なんていうのは詭弁なんだ
あと、CとDの中間として
「大人はそもそも未成年を口説くべきではない」「大人は未成年から惚れられても受け入れるべきではない」と主張して
でも男は「叩いて良い」ってコンセンサスが取れるまで叩きには周りませんよね?
色々時間かけて提案してゴーサインもらってた企画が、圧力があったのか、やりたくなくなったのか部門長にプレゼン後上司からストップがかかる
プレゼンの雰囲気は時間が足りないくらい意見が活発で悪くなかった、と思う
はああー面倒くさくなっちゃったのかな
部長級ならもらえる給料ダンチらしいし、新しい事してリスク背負いたくないんだろうな
とか色々不信感抱いてきちゃった
やめたいなぁ、でも時短勤務の子育てワーカーだし、上司から放置気味扱いなので休みも取れるし過ごしやすいんだけど
仕事増やしたくて提案しても、なんか他の人がメインに置かれて外されてれるし
今回みたいに時間かけて周りとコンセンサスとっても、上司の手のひら返しに踊らされる
疲れたなぁ
私は基本的に仕事中毒の人間であり、仕事を抜いたら何も残らない。
もし仕事を辞めたら孤独で無趣味で何の面白みもない引きこもりになるだけだ。
私の仕事は独りよがりであり、作っては捨てての無駄な労力ばかりかけている。
仕事においては報連相が大事なんていうのは、うんざりするほど聞き飽きたフレーズではあるが、私はそれが嫌いだ。
まずは相手が何を求めているかをきちんと確認して仕事の方向性を決めて、
作成している途中の段階で何度も都度確認をしながらコンセンサスを得て、
最終的にゴールにたどり着くという段取りが重要なのは分かっている。分かっているがそれが嫌いなのだ。
仕事の相手は顧客であったり上司であったりするが、その相手が何を求めているかなんて大体ソイツ自身にも分かっていない。
言語化することをサボっていたり能力がなかったり、理由は様々だが、とにかく相手にヒアリングすることなんて時間と労力の無駄だと私は思ってしまう。
だから私は最初から全部作り上げる。作成途中で7割程度の完成度のものなんて見せても、不出来な部分を指摘されて不愉快になることが分かり切っている。
そうして完成させた成果物を出しても、いやそういうのじゃないんだよね、というお気持ち一つでバッサリと捨てられる。
こんなの作るのに時間かける前に、ちゃんとコミュニケーション取ろうよと言われる。
私は雑談が非常に苦手であり、休日をどう過ごしているのか、どんな趣味があるのか、といった話ができない。
飯食って昼寝してネットサーフィンしてで終わりだよとしか思えないのだが、普通の人がそうではないことは知っている。
雑談ができないから、何を考えているのか分からない不気味な人間としてカテゴライズされ、異物として扱われる。
仕事は仕事として、割り切って扱ってもらうことはこの人間社会では難しい。
まあそんな仕事の中身についての話はどうでもいい。結局は給料をもらって生活が出来ている、それだけだ。
人生は、予期せぬ出来事で満ちていると言われるが、私の人生は単調で予測可能だ。
朝起きて、仕事をして、夜になったら寝る。毎日同じようなことの繰り返しで、時が過ぎていく。
過去の私が、もっと相手の心に寄り添うような行動を取っていれば、という場面も思い浮かぶが今更だ。
まあみんな大体そういう後悔のいくつかはあるだろう。そういうものだ。そしてその8割は勘違いだとも分かっている。
過去の行動を誤ったと解釈することもできるが、こういう行動をとった結果が私なのだから、無理しても仕方ない。
仕事中毒の人間が家庭を犠牲にして働いて、職を失ってから後悔するという話もよくあるが、私にとっては贅沢な話だと思う。
その家庭をそもそも築けなかったのが私だから、完全に下位互換でしかない。
もう若くはない。この先、同じような毎日を繰り返して老いていくのかと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=A3GlTTFMSyM
要はあまりにも自分の麻雀配信に対してのコメントが地獄すぎていい加減にしろってなって、神域リーグというVtuber主催の選手になるのを辞退したというお話
で、この件で身内に打牌批判しているやつがいるが!?みたいなやつらが現れる
はっきり言って議論にもならないから言っておくと、それはちゃんと批判した側とコミュニケーションが取れており、教えをしている身だからであり、ある程度の関係性が取れているから行えるのである
不特定多数でしかない匿名のやつが全然コンセンサスが取れてない素人の打牌を面と向かって批判していいなんてことがあり得るはずがないのだ
これが麻雀プロで打牌でこっちの方がよかったのに!!と勝手気ままに自分のTwitterでつぶやく分には野球のテレビ観戦で管巻いている居酒屋のおっちゃんと同じなのでまだかわいいもんである。
それにプロというものがいい打牌をするために金をもらっているので、どうしようもない打牌していたら金を返してくれ!と叫ぶ気持ちもわかる。
だが、素人の打牌をとってきて批判しているやつらは、それはもう草野球に対して河原で管巻いている人間と同じでそんな人間がいるなら普通逃げるだろ。怖くない?草野球のワンプレーで隣で怒鳴り散らかしながら批判しているおっさんがいたら。
もちろん打牌として明確に悪い選択というものは存在する。こちらの方がよくないか?という疑問点も出てきたりする。それを言うの自体は別に否定しないし、身内でワイワイするのはもう好きにやっていいと思う。だが、それはそれとして、その人間がやっている配信のコメント欄でやるな、メンションを送るな、タグをつけてわざわざ見せようとするな、というただそれだけの話でしかない
「一定以上の関係性がない人間の面と向かった打牌批判はいらない」というこれだけの事実が難しいのは百も承知だが、麻雀を詳しいと自称している人たちが軒並み打牌批判は委縮するってバカの一つ覚えみたいに言っているのが何とかならないかなあと思っている今日この頃である
漫画版エヴァの原作改変が問題視されてるかどうか知らないけど、もしされてるならば、それは前者か後者どっちなの?という。
原作改変は条件次第であっても俺は思うんだけど、その条件はなに?というと、
原作者が事前にそれを認めてるかどうか?だと思うんだよね。
ようするに最初から話し合い、コミュニケーションの上でそれを原作から変えてもいいよ、というコンセンサスが取れてるかどうか。
セクシー田中さんはこの辺りが決定的に足りてなかったし、むしろ騙し討ちに近いやり方だと思われるんで、
日本テレビも小学館もその辺りをキッチリ検証して発表する必要があると思うんだけども、
それはともかく漫画版エヴァの方はそういう問題があったのかな?という気がするというか、
問題になってなくて、ファンの一部が「原作(アニメ)と違いすぎるじゃねーか!」っていうのは、
まぁファンの個人的な感想なので、ちょっと話が違うかな?というか。
もちろんその「違うじゃねーか!ふざけんな!」って声が物凄く沢山あったら、それはヤベーなとは思うんだけども。
世間もブクマも「原作改変はどこまで許されるか」みたいな話ばっかしてるけど、
そんなん、ケースバイケースに決まってるじゃん。
マンガは絵。小説は文章。アニメは絵の動画。ドラマや映画は実写の動画。
それぞれに特性が違うんだから、同じ物語でも伝え方はまったく異なるでしょ。
原作を尊重した結果、原作とは表現が違ってしまうことだってあるでしょ。
原作にはないセリフをドラマでは追加したほうがいいケースとか。
逆に、原作にあるセリフでもドラマでは削ったほうがより効果的だとか。
上手に原作が翻案された作品なら、そんな違いにはむしろ誰も気づかないよね。両者を見比べたら実は色々と違うところだらけなのに、「原作のまんまだった!」っていう印象を与えられたら、それこそが最高のドラマ化だよね。
そういった原作に寄り添う作品作りとはまた別に、あえて原作とは違うベクトルに持っていくアプローチもあるよね。
マニアックな原作からコアとなるアイデアだけをいただいて、もっとテレビ的な普遍性を持たせる、とか。
原作掲載誌の読者層とテレビドラマの視聴者層は一致するとは限らないから、アレンジする。
もちろん原作者の了解あってこそのアプローチであって、原作者の了解もなくファンの思い入れを踏みにじるようなアレンジをすれば当然炎上する。
でも上手にやればドラマが原作の人気を超える作品になることだってあるでしょう。
おおまかな設定だけを原作からいただいて脚本はドラマオリジナルって作品、いくつもありますよね。「おみやさん」とか。
つまり、どっちもアリなんですよ。
原作オリエンテッドだろうがなかろうが、作ろうと思えばどっちでもみんなが満足するいい作品は作れる。
そのために共通しているのは「上手にやる」こと。
原作者とのコンセンサスを得ないままどっちつかずのスタンスでドラマを作ろうとするとトラブルになる。
そういうところにもっと目を向けましょうよ。
まだコンセンサス得られてないよな
またこれか。同じやつが書いてんのか?
間違った前提でわざわざ長文を書くなよ
優生思想は「生まれる子供が幸福か不幸か」「生まれてくる価値」「人生の素晴らしさ」なんかとはなんの関係もないの。もともと優生思想とは個人の幸福とは関係ない話なの
優生思想っつーのは社会全体を特定の方向(大抵は権力者またはマジョリティが望む方向)に導くために国家または社会がその権力をもって誰が生殖するのか(しないのか)を強制してもいいよ、ということなの
個人の生殖する権利を集団が(権力者が)制限する(してもいい)という思想なの。だからアウトなの
キチガイも病人も貧乏人も生殖する権利は一様に持っていて、その権利を行使した結果たとえ子供が本人が他人が不幸になるとしても、本人以外にその権利は停止できないわけ
「じゃあ生まれてくる個人は幸せなの?」とかは生殖する個々人が自分で考えてどうするか決めるべき問題で、法律はおろか社会のコンセンサスをとるべき問題でさえないわけ。その考察の結果が生む生まないどっちに転ぼうと本人以外にはなんの関係もないし、その決定が他者から強制されたんでなければ「優生思想」なんて言葉を出すことさえナンセンスなわけ
分かった? もういい加減にしてくんない?
自分が一番心配しているのは、これでテレビ局や脚本家が一層激しく攻撃され(そのことも原作者の本意ではないだろうが)、結果として契約で原作者とのコンセンサスをきちんととりそれが正しく守られる未来が来ることだ。
そうなったらどうなる?
死ねば世の中を変えられる、希死念慮のある人にとってこれほど強い後押しはないぞ?
自殺した著名人をやたらに美化した報道をするな、という自殺報道ガイドラインがあるのはこのためだ。
だが自殺を受けて社会が変わってしまうのは止められないし、もちろん社会は良くなった方がいいに決まっている。
どうすんだこれ。