はてなキーワード: 軽蔑とは
腰を横に振るとそれに合わせてションベンがうねうねするんだけど、その軌道の美しさに俺は物理学のロマンを感じるのであった。
今日から始まる労働に俺はもう耐えられそうになく、なんかもういろいろと限界で、俺は腰を横に振りながらションベンするのであった。
生きるために労働をしなければならないことがあまりに腹正しくて、俺は生活保護の不正(と俺が思う)受給者を許すことは到底不可能。
チャブになって世界に絶望しながら社会に軽蔑されながらもう何もしたくなかった。
だからといって被害者面をするほど分別を失っているわけではない。それもまだ、というだけの話。
人工知能学会誌の表紙に女性形のヒューマノイドが部屋の掃除をしている絵が採用されたことで、女性差別だの女性蔑視だのと議論が噴出している。
しかし、多くの心ある方々が学会誌を擁護してくれているそうで心強くある。
ああいう表紙にして、実際に売上が伸びたという事実以上に強い擁護はない。
このリンクから人工知能学会のサイトへ飛べるので、そこから購入手続きをしてもらえれば幸いである。
http://www.ai-gakkai.or.jp/journals_of_jsai/
では、以下にこの件が女性差別でない理由をまとめていく。
ネット上の発散しがちな議論を一本にまとめたつもりだが、個人的な解釈の違いからくる間違いが含まれるかもしれないことは断っておく。
まだロボットは人間の決定に文句を言う権利を持っていないが、この絵に差別を感じられるのは当事者であるロボットだ。
つまり、この絵にどのような意味が込められていようとも人間の女性への差別には当たらない。
これに女性差別を感じるならば、それはロボットを人間だと曲解した上での議論である。
実はロボットだったとしても、外見がここまで女性的である以上言い訳にすぎないのではないか、という言い分も理解できないこともない。
だが、仮に絵の中のロボットが腰にケーブルをつけているだけの人間の女性だったとしても、そこに差別的な表現を読み取るのは難しい。
批判しているようなごく一部の人を除いて、この絵を見た時のリアクションは
「あ、かわいい子が掃除サボって本読んでる・・・あれ、これロボットなの!?」
数十年後の未来、なんの変哲もない日常生活の中に浸透した人工知能の姿を読者に届けるという目的に合致している。
女性の品性を貶めよう、人権を侵害しよう、男性と同じ権利は与えないようにしよう、といった、差別を助長しようという意図がないのは明らかである。
おそらく問題視されているのは差別ではなく、古くからある偏見が強化される恐れだろう。
例えばこの絵を見た人は
「XPのサポート終了にすら対応できない日本人は技術革新についていけず、遠い未来においてもほうきで掃除する」
「なんだって!日本にはこんなかわいい掃除ロボがいるのか!俺の国には太ったババアしかいない!ファック!」
といった偏見を強化される恐れがある。
(なぜか問題視されているのは最後の一つだけであるが・・・特に3番目の例は今後深刻な話になっていくだろう。日本人は損しないかもだけど)
それは確かに問題なので、断り書きの一つもつける必要があるだろう。
「たばこの吸い過ぎは健康を害する危険性があります」っていうのと同じ程度に。
ドラマの最後にだって「この物語はフィクションです」みたいな断りを入れる。
今回の場合は、
「表紙絵の女性はロボットであり、いかなる人種、個人に対する差別、偏見を助長する意図はありません。また、表紙絵の中で使われている技術や生活用品は現在あるものを基準に描かれており、未来の技術の発展の様子を予測するものではなく、このような女性形ロボットは未だ開発途中であり一般家庭に普及しているわけではありません。」
といった断り書きを小さく裏表紙の隅にでも書き込むべきだった。
そういった怠慢への批判は甘んじて受けるべきだと思うし、今後生かされていって欲しいと思う。
ここから先は生産性のない議論になるので読み飛ばしてもらっていい。
一言で言えば、自分の姿にコンプレックスを持っている人が、そのコンプレックスを刺激されて爆発したというだけの話なのだから。
今回騒いでいる人は、社会正義のために声を上げているのではなく、とにかく不快になったという人の方が多く目につく。
目立った批判を集めて一つにまとめるとこうなる。
「なにこれキモッ!
男の女を支配したいって欲求むき出しじゃん!
家事なんて、そんな底辺の女がする仕事なんて私はしたくないし、私はそんな底辺女とは違う。
これで『女性はかくあるべき』なんて偏見が助長されたらますます仕事がしづらくなる。
汚らわしい。
私は絶対そんな、男に媚びるような女にはならない。
そんな都合のいい女いるはずないのに、今度は人工的に作るとか言い出しやがった。
男の欲望の思うがままにされるためだけの女性が人工的に作られるなんて、同じ女性として気が狂いそうになる。
それを日本の人工知能研究の主流と取られかねない場に乗せるなんて、死ねエロ猿ども!
なんの反論もございません。
全員がそうとは言わないまでも、確かにそういう流れは存在すると思う。
だが、それは差別ではない。
男性の性欲についての話だ。
おしとやかで従順で決して逆らわないようプログラムされていて家事炊事で甲斐甲斐しく世話をやいてくれる女性が好きだと言って、なぜ女性全体を差別していることになるんだ!
不快になった人は単にお前は俺の好みの女じゃない、と言われただけだと気づけ。
学会誌の表紙でそんな恥ずかしいカミングアウトをするなという批判はその通りだ。
「私はこんな風潮は間違っていると思う!個人的に嫌いだ!」
しかし、実際には個人的な不快感でしかないものを差別という絶対的な社会悪と結びつけて主張している。
しかも主張の内容は男性に性欲を持つなという、無茶苦茶なものだ。
そんな主張、そのまま出しても鼻で笑われるだけだ。
だから差別という、絶対反論できないお題目を掲げて主張するのだ。
自分の力ではなく、他人の力におんぶで抱っこで議論をしようというのだ。
俺はそんな卑怯者に払う敬意など持ちあわせていない。
もちろん女性蔑視などしていないが、そういった卑怯な女性ははっきりと軽蔑する。
だいたい、女性側が専業主婦にひどい差別意識を持っていない限り、こんな主張は出ないのだ。
これは述語論理を使えば数学的に証明できるのではないだろうか。
一方、普通の男性は専業主婦に差別意識を持っていないから、何が問題なのか分からない、そもそも問題など存在しない、と思うわけだ。
一体どちらが差別主義者か。
もし、彼女らの専業主婦への差別意識が、自発的に生まれたものではなく人から刷り込まれたものだとしても、
それはこの絵を書いた人や表紙に採用した人ではなく、あなたにそう言った人に直接言ってくれ!
まず単なる個人の不快感を差別という文脈で語るのが許せないというのは先に述べた。
それに加えてこの件のおかしなところは、仮に表紙絵のロボットが性奴隷に従事させられていたとしても人間の女性に被害者は一人も居ないということなのだ。
これは「非実在青少年の人権」などという存在しない権利をもって、言論の自由を制限しようとした表現規制へと直結する流れだ。
そんなロボットを作りたいと願うのも、当然自由だ。
なぜなら、それにより女性の権利はまったく損なわれないからだ。
にも関わらず、これを差別だなんだと、表現規制をかけたり、無意識の差別、つまり考えることすら規制しろとか言う人すらいる。
それを表現しないなら、内心の自由として憲法でも保証されている。
その自由を脅かすのは、まさに人権侵害だ。
歴史に汚点を残して1000年経っても記録に残るぞ。
だいたい、差別と言っても、身の回りの人物から家事を強制されるとか、そんなもんだろ。
そんなの個人の話し合いで解決しろよ。
なんのために口がついてんだ。
そこを差別問題として取り上げて、もしなんらかの法規制が行われたらどうなると思うのか。
個人と個人の間にある、個別の問題にまで規制が踏み込むことになったら、どうなるのか。
最終的に行き着く先は「少子化対策のために20代の夫婦は毎週3回セックスすること」なんて法律で規定されるような社会だ。
本当にそんな社会になっていいのか?
いいという人が国民投票で2/3を超えたらそれに従おう。
しかし、そうじゃないだろう。
本当にそんな世の中になったらみんなが不幸になるだろう。
ならば戦うしかない。
http://anond.hatelabo.jp/20131227145434
↑のブクマ
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20131227145434
http://anond.hatelabo.jp/20131227150528
http://anond.hatelabo.jp/20131227195049
家事って卑しいの?
http://anond.hatelabo.jp/20131227201943
フェミはつまり、オタクが「自分の思い通りにはならない存在で気にいらない」わけだ
http://anond.hatelabo.jp/20131227220739
幼馴染を好きになってしまった。
今までずっといい友達として付き合ってきて、男女の友情なんてないと誰が決めた、なんて言い合ってきて、じっさい、ちっとも恋愛対象として見ていなかった。
なのに、今年になって、突然、相手を意識するようになってしまった。
今までなんともなかったスキンシップも、二人きりで話すことも上手くできなくなった。
結果、年末だから忙しい、を理由にして避けているけれど、ほんとうは毎日でも会いたい。
最初は、気持ちを忘れられるまで隠せばいい、と思っていたのに、日に日に好きになっていくばかりだ。
なんせ会わなくなっても、思い返せる思い出がいくらでもあるのだ。
今の私は、告白するかしないか、と水際まで来てしまっているけれど、断られてしまえば、もう、元の関係には戻れない。結局お前も俺のこと、そんな目で見てたのか、なんて軽蔑されるのも怖い。
万が一付き合えたところで、きっといつか別れるだろうことが怖い。
友達のままなら、たぶんお互い年を取るまでいい関係でいられたのに。
なんで好きになんかなっちゃったんだろう。
知人がこんな内容を真顔で語ってたら軽蔑するわ
毎週月曜更新! 2013年11月25日~12月01日のランキング
もうあなたに無視されるようになってからどれくらい経つでしょうか
私だってあなたとは合わないとは思いました、思ったけれどせめて折り合いをつけてうまくやろうと思うだけの気持ちはあります
意見が合わないなら合わないなりに参考にすべきところはあると思うし、違った視野の見方は学ぶところもあると思うからです。
私がどんな人間なのか、相手がどんな人間なのか、知る手段として会話が有効であると考えたので話しかけましたが、
それも拒否するんですね
たかだか出会って間もない人間の事をそこまで毛嫌いして敵認定するだなんて、さぞかし素敵な人生を送ってきたんでしょうね
そうやって嫌なものから目を背けて、嫌いな人を視界に入れない生き方は心地良いのかもしれないですが、人間的成長も見込めないし
私はそこに入っていないのだろうけど、あなたの好きな周りの人たちがあなたのせいで気まずい思いや嫌な思いをするだろうという事なんて
考えもしないあなたの視野の狭さ、自分のことしか考えていないところが非常に幼稚だと思うのです。
自分が周りにどう思われるかなんて、考えもしないんでしょうね
都合のいい耳障りのいい言葉だけ信じて、素敵な結果が得られるといいですね
まぁいろいろ言ったが無視してんじゃねーよクソが舐めんじゃねーぞはったおすぞ
ただのクズ女の戯言です。
手も繋がない
キスもしない
だって世の中には誘惑が沢山ある。
この人は、とにかく口が立つ男だった。
見た目はナメック星人みたいで
毎日が楽しくて、幸せで、壮大な喧嘩もしたけど、仲直りもサッパリ出来る
とにかく大好きだった。
この世にこんな好きな人はいないんじゃないかって位、好きだった。
でも、その人は王子様ではなかった。
予兆はあった。
まずは、デリヘル発覚事件。
あっさりと机に置かれていた如何わしいポイントカード。
デリヘル。
今となっては、なんておぼこちゃんなのか!と思うけど
嘘だ、嘘。
メンヘラかのように爆発した。
怒りと悲しみで、前歯が欠けた。
さらにその時の私がとった行動は完全に狂っていた。
ただ、他の女に欲情されるのが気持ち悪くて仕方なかった。
そして出来る限り店舗にしてくれ
と、元サヤに戻った。
彼は何事もなかったように、楽しくしてくれていた。
元に戻れたかと思っていた。
だけど、そんなものはまた嘘だった。
細かいことは、余りに辛いので省略する。
とにかく、何も信じられなくなった。
そして別れを告げた。
だけどまた、一月ほど経ってから
気がつくと付き合っていた頃と同じように会うようになった。
もちろんセックスもした。
一緒にいて、楽しい日々が蘇ってきた。
なんて言われて
もしかしたら、許せるのかな。
許せる時がきたら、この人とやり直したい。
そんな風に思いはじめていた。
しかし、発覚した。
私はあくまでその寂しさを埋める代替品だったということに。
さすがに笑えた。
何度も繰り返してきた。
なのに何故気づかないんだ。
いや、ほんとは全部気づいてた。
バッサリと縁を切った。
好きでもない人と、セックスする気持ち。
じゃあ彼氏もいない今、やってみるのもアリなのかなと。
色んな男とヤりまくった。
先輩
後輩
出会い頭
あと、ネットで会うのは怖いのでやめた。
早い話、セックスなんて誰とでもできる。
そりゃそうだ、女はセックスを金に変えることができる。
正直、気持ちいいものは気持ちいい。
そこに愛とか挟んでなかったとしても。
余計にわけわからなくなった。
私もおんなじ、汚い生き物なんだと思い知った。
男も嫌いになったけど、自分も嫌いになった。
その人は、何処と無く自分と似ている。
話したわけでは無いけど、きっとおんなじ傷を持ってる。
女のことなんか信じてない。
驚く位に、すぐに惹かれた。
もう二度と恋なんかできないと思っていた矢先に。
何度か時を重ね、恐ろしいほど順調だった。
だけど好きとは言えなかった。
よくある話だが、私にとってはジ•エンドを意味する。
だってもしこの人が私と同じなら
心と身体は別モノだ。
それがよく身に染みてるからこそ
これは失態だ。
でも、どうしたらいいのかわからない。
この年で、この状況で、今更好きとも言えない。
色んな意味で重たすぎる。
気がつくと、男に負担と思われないように
会いたいタイミングは相手任せ。
どう考えても都合がよすぎる。
でも、図々しく押せない。
嫌われるのがこわいから。
セックスに愛なんか無いのも知ってる。
でも、ひととき繋がって、嘘みたいにひとつになってるその瞬間が
とてつもなく幸せ。
セックスは簡単にできるのに
好きって一言が言えない
大人になるっていうのは、余計なことばかりなんだな。
保守的で、閉鎖的で。
経済的に失敗し、自分の生き方の間違いを認めざるを得なくなった。
どん底に落ちて、自分が見下してきた仕事につかざるを得なくなった。
こういう境遇に落ちぶれたのは、自分の判断ミスの結果なのは確かだ。
はじめは本当にみじめな気分だった。
だが、この仕事を続けることで、いままで見えてこなかったものが見えてきた。
この世界のどん底で、人々がどんな気持ちで生きているのか。
そこでいままでの私がどれほど思い上がっていたか思い知らされた。
自分の中に潜む暗いじめじめした感情に気が付かずにはいられなかった。
人は誰でも弱いのだ。
自分より恵まれた人間を嫉妬し、憎み、引きずりおろそうとする。
いままでの思い上がっていた自分は、こういう人間の弱さを軽蔑していた。
自分だけは例外で、そういう感情を抱くことはないだろうと信じていた。
だが、自分の中の暗い情動を前に、それが単なる思い込みにすぎないことを思い知らされた。
私も同じだ。
弱い醜い平凡な人間の一人にすぎないんだ。
だから私は謝りたい。
いままで私が軽蔑してきたすべての人たちに。
私はあなたたちの弱さを見下してきましたが、結局のところ自分も同じ種類の人間でした。
人生は浮沈に満ちている。
いまは沈んでいても、この先、自然に浮かび上がることもあるだろう。
だが、仮に将来、恵まれた場所に行けたとしても、私は絶対にいまの自分の姿を忘れない。
忘れてはいけないのだと思う。
自分の弱さを。醜さを。
これが人間だ。
そしてそれでいいんだ。
私は前より少しだけ優しくなれる気がする。
人の弱さや社会の理不尽さを前にしても、大声で抗議するのではなく、もっと冷静に対峙できるだろう。
うち兄妹だけどまさにそんなかんじだったよ。
正確に言うと中高時代の互いのトラウマのせいで仲良くはないけど、いまは認め合ってはいると思う。
勉強できるけど努力しないヲタ(おれ)←→アホの子だけどマメなリア充(妹)という感じで互いに軽蔑しあってた。ていうか最終的には無視しあってた。その後おれが関東の大学行ったはいいがロスジェネど真ん中で就職つまづいたり、アホだと思ってた妹が地方私大とはいえ資格系でけっきょく院に行ったり、互いに同時期に結婚したりでまあ、本質的には相容れない性質同士なのはいまも同じだけど、大人になるって「生理的に嫌い」が減っていくってことで、みんな大人になっていくってことじゃね。
私は不幸な少女時代を送った。
その理由のまずひとつに、ADHDという発達障害があり、学校生活自体が苦痛で苦痛で仕方なかったというのがある。
もう思い出したくもないが、とにかく毎日キツい言葉で罵倒され、馬鹿にされた。
私の友達の前で私の恥ずかしかった事や、言ってほしくないような事を言って笑いを取って馬鹿にしたり。
私の事を、本当に汚く、劣ったものを見るように軽蔑した目を向け「うっっわ、きったな」とか言ってた。
姉は頭が良く、運動神経も良かったので、何事にも不器用なADHDの私が本当にひどく、劣ったものにみえたのだと思う。
私も自分が劣等生物であることはわかっていたが、姉に言い返せる脳もなく、暴言に耐えるしかなかった。
たまに力任せに姉に歯向かったが、同い年の中でも小柄だった私が姉に勝てるはずもなかった。
子どもの頃、嫌いな人はクラスメイトにたくさんいたけど、その中でも姉は別格に、殺したいほど嫌いだった。
しかし時がたち、姉も私もある程度大人になった。
姉も、私のことは多々馬鹿にするものの、大人になってかなり優しくなった。
私も、地獄のような義務教育期間、高校生活を終え、大学生になったら不思議な事にADHDの症状もかなりおさまった。
姉とも、前より断然仲良くなった。
ふうん、と思った。
まあ、おめでとう、と。
しかし、この前の姉とその旦那を呼んでの家族の食事会の時のことである。
幸せそうな姉を見ていると、なんだかものすごく疑問が湧いてきた。
あれだけ私の事をいじめた姉が、何を勝手に幸せになっているのかと。
姉の人生は、おそらく彼女の計画通り、上手くいっているようにみえた。
あれだけ、私をいじめて、コケにして、みんなの前で馬鹿にして、ネタにして笑って、私の心をボロボロにしていながら今、彼女は幸せになろうとしている。
ずるくない?
私、あんたのせいでどれだけ苦しい人生送ったと思ってんの。
それから、姉の子どもが障害児でありますように、という妄想が止まらない。
子どもの頃からリア充で、一流大学に入って、一流企業に入って若くして結婚した姉の子どもが障害児。
考えるだけで笑い出したくなる。
でもそれは、お金には本質的には価値がないと言っているようなもの。
お金があることで、信用どうこうでなくお互いを信用できて通商できる。 物の価値は物を見る目が無いとダマされるけど、お金の価値は誤魔化しようが無いので、お金で取引すればよい。 となるから。
社会常識もこれと同じで。 時間を守ったりといったものを守ることで交渉できる。
② 社会性を叫ばれるとうざいのは何故?
社会人としての常識 などと言われると非常にいやな気分になる。 そんなもの本当には価値が無いというのは少し考えれば分かるから。
もちろん、心の問題では本質的には価値が無いけど、お互いが交渉するために必要だから身につけろ、というのは理解できる。
だけど、発言してる人が、『社会性がないヒトは軽蔑します』 のような感情や人間性を叩くような事を言うのが気に入らなくなる。
そんな根拠の無いものでヒトを判断するのはおかしいやん、と感じてしまうから。
逆に、それをやられてしまうと、 『あんた社会常識で俺を判断するけど、それをやってる時点で人間の心についてまともに考えたことが無いの丸出しやン。 なんでそんな人が人間性がどうこうっていうの? おかしいやろ』 となってしまう。
③ 本当の人間性
文学で、まあなんでもいいんだけど、主人公はたいてい社会性が無い。 ドストエフスキーでもチェーホフでもなんでもいいんだけど。
そういうのは社会性を余り問題にしていないというか、むしろ社会性でヒトを判断するのは危ないみたいな感じになっている。
国家に裏切られたヒトとかが、なんでだろう? と考えた末に、そういう考えになるんだろうと思う。
それをそのまま肯定してるのがたいていの文学のように思う。
と思うし、実際そうなってるようなので、だからこそ、『社会人としての常識が守れないのは人間性が無い、他人の事を考えられない自己中心だ 』 と言われると、 『あんたは心を学ぼうとしたのか? なぜ根拠も無いのに否定するの?』 となる。
ってなんなの?
100歩譲って俺を浮気野郎だと軽蔑するのはいい。主観だしな。
でも、俺とやり直すことにした彼女を批判してくるのは理解できん。
最低男とは別れるべきなんだそうだ。
せっかく教えてあげたのに。らしい。
でも彼女が許してやり直すって言ってるんだからいいじゃねーか。
早く別れろってしつこく言ってくるらしい。
俺は最低最悪のエゴイストなんだと。
浮気をタレ込んだのもムカつくけど俺の脇が甘かったせいだ。しかたない。
でも自分が思った通りの筋書きにならないと切れるっておかしくないか?
別に俺が彼女の弱み握ってるわけでもなんでもない。金も貸してない。
向こうが別れたくないって言ってるんだからほっとけよ。
なんで他人の関係にあんな顔真っ赤にして干渉してくるんだ。
ヒマなのかなー。ヒマなんだろうな。
『馬鹿と言う人が馬鹿』 これはもう疑いようのない事だと思う。
これについてこれから度々考察し、匿名ダイアリーに書くことにしようと決めた。自分の考えをまとめて整理する為だ。
この『バカとゆう人がバカ』といった言葉に、最初に出会ったのはいつであったであろうか。
過去を遡れば小学生の頃であろうか。・・いや、もの心がついて間もない時まで遡るかもしれない。
その時は自分も含め、親兄弟そして友達クラスメイト、はたまた恩師にいたるまで『馬鹿』とゆう言葉を多用していたように思われる。
「この馬鹿っ」「いやーぃバーカばーか」「うるせーよバカってゆうおまえが馬鹿だよ」「カーバ」「ばっかじゃねーの」
「馬鹿なんだからやめろよ」「んもう・・バカなんだから❤」・・・など多種多様な使われ方、使い方をしてきた。
この『馬鹿』という言葉について違和感や嫌悪感を感じたのはいつであっただろうか・・・
この疑問もきっと幼少時まで遡ることになるのだろう。
それほど馬鹿と言われるような行為をしてきたし、また短絡的に『馬鹿』と言ってしまう人物に囲まれた環境であったようにも思う。
ここで『馬鹿』と『馬鹿といわれるような行為』は分けて考えるべきだと提案したい。
理由は後で上手く説明できれば良いと思っている。
それで、馬鹿という言葉に対しての違和感や嫌悪感なのだが・・・
こんなもん言われたら嫌に決っているからだ。
なぜならば他者を『馬鹿』と断罪する人間は、決まってその対象者を見下し侮蔑しているフシがある。
この点については、異論など様々状況によって変わってくるであろうが、総じて『馬鹿』と他者対して言う人間は自分のほうが優秀だと思っている。
そして『馬鹿』と言ってしまう人間は言った相手に対して、考える事をやめてしまっている。
短絡的に『馬鹿』と断定し断罪し、慮ったり思いやったり、なぜ相手がそうなのかについて思考することをやめてしまう。
思考を停止して決めつけてしまう・・・。これはとても『愚かな』行為なのではないのだろうか。
まして『馬鹿』とゆう言葉を受け取った側の人間からすると不愉快極まりない。
その言われた瞬間に、相手から見下されてしまっているからだ。ここで怒らない人間はよっぽど出来た人ではないと無理だと思われる。
くだらないプライドを捨て、謙虚に真摯に『馬鹿』という言葉を受け止める。そういった人だ。
あほか!無理や!
日々そうゆう人間になりたいと努力は続けているが無理や!短絡的に『馬鹿』っていってくるような人間に謙虚などなれるかいっ!ぼけぇ
・・・少々取り乱してしまったが、本人が故意に間違いを犯したり、性根が曲がっていてワザと『馬鹿な行為』をしている場合ではないのに対し、
『馬鹿』だろ?「おまえバカだろ」などと言ってくる人間を、私は軽蔑するであろう。
なぜなら【人にされて嫌なことはすべきではない】と思っているからだ。
これは年を重ねていくうちに経験として、また他者から教えられて実感し学び身につけて来たことだと思う。
この点についてだけでも、他者に対し『馬鹿』などと言うことは良くないことだと明らかだと思われるのだが。
だって嫌な事されたり言われたりしたら不愉快じゃん。ムカムカイライラするじゃん。嫌われるじゃん。
別に嫌われてもしかたない場合もあるけれど安易に嫌われる必要ないじゃん。好きな子にフラれちゃうじゃん。
あと自分自身が『馬鹿』と言われる対象者ではなく、第三者の立場であった場合においても不愉快である場合が多い。
誰かが誰かに『馬鹿』と言われているのを聞いてしまったりする場合だ。陰口であったりした場合などは、なおさら最悪である。
まあ例外もあって、自ら『馬鹿と言われるような行為』を理解したうえで行った場合は別である。
「うわーい今日は白ーしーろしーろ白パーンツー」「ばっっかじゃないのっ!」
とかいった場合は『馬鹿』と言われても仕方がない。自ら解っていてやっているのだ。
しかしこれについてもスカートめくりをした本人が『馬鹿』なのではなく、スカートめくりという『行為』が『馬鹿』なのだ。
なぜなら・・・なぜならスカートをめくった本人は相手の女の子を好きであったりするかもry)
その人自身が『馬鹿』なのではなく『馬鹿』といわれる行為があるだけだ。
『馬鹿』と言われる『人間』があたかも存在し、またそれが当たり前かのように思われているかもしれないが、
それは『馬鹿』と他者に対して言ってしまっている人間が創り出し、短絡的に決定付けてしまっているにすぎない。
この言葉を意識し、本当に考え始めたのはいつだったろうか・・・
やはりトム・ハンクス主演の映画[フォレスト・ガンプ]を見てからだったように思う。
あの映画の主人公は、自分の話し方や行動行為で、他者から絶えず『馬鹿』(gump)と言われていたはずだ。
そして言われるたびに主人公は言い返すのだ。『馬鹿と言う人が馬鹿』であると。
映画を観た方ならわかると思うが、はたして主人公は『馬鹿』であっただろうか。
決してそうではなかったはずである。
昨今インターネットを閲覧していて、とてもよく見かけるのだ・・・短絡的に他者を馬鹿よばわりする人を。
安易にそういった言葉で他者を避難したり卑下したり揶揄したり見下したりする人たちは、自分がされる場合になったら嫌ではないのだろうか。
果たしてその対象者は『馬鹿』と断ずるに値するのであろうか。ただ単に経験が足りなかったり、知識がなかったり、知らないだけだったり、はたまた勘違いをしていたり。
そういった事なだけではないのだろうか。
上記のような状況を私はインターネットや私生活で見聞きしたりする度に、悲しくなったり深く考えたり、気分が悪くなったりするのだ。
そして
嘆かわしいとゆうか悲しいとゆうか驚くのだが、「知識人」と呼ばれている方などに特に多く見うけられる気がする。
ある程度の地位などに就いている方なども、そういった傾向がある気がする。
そしてだ。こういった方々は必ずといっていいほどブーメラン現象をみせてくれたりする。
自分が行っていた行為や言説で、自ら墓穴を掘ったりしてしまうのだ。
はたから見ていて目も当てられない。
最悪な事に、自分が間違ったとしても認めなかったりもする。間違っているのにもかかわらず、自らを省みずに他者を攻撃し続けたりもするのだ。
恥ずかしくはないのだろうか・・・もはやそうゆう感覚もないのだろうか。
それとも自分だけが正しく、まわりは間違っているに決まっていると思い込んでしまっているのだろうか。
他者をすぐ『馬鹿』だと断定してしまう人に、こういった事例が多い傾向があるように思われる。
こういった事こそが愚かで『馬鹿』な行為なのではないのだろうか。
確かに解らなくもないのだ。
知識がある方からすれば、知識がない人は愚かに見えることもあるだろう。
経験を積んだ年長者から見れば、若い人々の行為が愚かに見えることもあるだろう。
知っていて当然だと思う事を知らなければ「え?」っとなる気持ちもわかる。
出来て当然だと思える事ができなければ「なんで?」となる気持ちもわかる。
しかし気をつけて欲しい。果たしてそれは知っていて当然なのだろうか。出来て当然なのだろうか。
知らない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来ない事に対して理由があるのではないのだろうか。
出来る人はできない人の気持ちはわからないのだ。
目が見える人に目が見えない人の気持ちはわからないのだ。
歩ける人に歩けない人の気持ちはわからないのだ。
若い人に年老いてしまって体が不自由な人の気持ちはわからないのだ。
高等数学を苦もなく解ける人に算数でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
語学が堪能な人に国語の勉強でつまずく人の気持ちはわからないのだ。
会話が得意な人に吃音で悩んでいる人の気持ちはわからないのだ。
赤ちゃんが何故なくのか日々生活に追われる大人や子育てをしたことのない人にはわからないのだ。
または忘れてしまっているのだ。
まだまだたくさんあるだろうけど、今挙げた例は逆もまた然りなのだ。
経験していない事、出来ない事や立場については理解することは難しい。
きっと何かについて苦もなく出来てしまう人は、出来ないという経験を積む事がないから
悩んだり苦しんだりする気持ちがわからないのだ。
悩んだり苦しんだりという感情を経験してないから、そういった感情自体を知らないかもしれない。
あまりにも出来てしまう人はきっと悩んだり苦しんだりする経験が薄すぎるから、感情が希薄になってしまう事もあるのかもしれない。
怖い事なんだけど、有能だと言われている人にはこうゆう傾向があるように思える。
・・・これはまた別の問題かな。今回の『馬鹿とゆう人が馬鹿』といった問題とは別かもしれない。
さて・・・
しかし、だ。
それら理解できない状況や立場、行動行為、人などを『馬鹿』と断定してしまって良いのだろうか。
切って捨ててしまっていいのだろうか。
理解しようとせずにいていいのだろうか。
それではあまりにも短絡的すぎるのではないだろうか。
思考停止と言えるのではないだろうか。
短絡的にすぐ断定したり、思考を停止させてしまう行為こそが愚かなのではないだろうか。
決め付けや憶測での価値判断こそ『馬鹿』な行為ではないだろうか。
高度な事を教えるのなら段階的に教えればいい。
基礎の事から学ぶように導けばいいだけの話だ。
なぜそうなるのかわからない場合、局所的な事実では見えない事もあるのだから、大局的な捉え方に目をうながすのも良い。
ちょっと立ち止まって思いやったり想像したり、相手の立場になって考えたりしてもいいのではないだろうか。
自分が上手く説明できたりするようになればいいのではないだろうか。努力してみたらいいのではないだろうか。
そういった姿勢や考えこそが賢く、【利口】と言えるのではないだろうか。
ふぅ~・・・ここまで書いてきて今気づいたのだが・・・あまりにもまとまりが無い。
文体、文脈、論理展開など滅茶苦茶じゃないだろうかこれは・・・。
このテーマについてはまたこれからも考察したりしていこうと思っている。
自分が他者にたいして短絡的に『馬鹿』などと言わない人になるために。
だが人に言われるのは好きじゃない。
友達の話。
本人曰く、授かり婚だそうだ。
でも私から言わせれば、何の計画性もなくゴム無しで中出しされた馬鹿女って感想しかない。
というか、そもそも結婚も相手の男から執拗に迫られたから根負けした感じだったんだって。
そんなことだから、どうせ中出しも男に勝手にされたってことだと思う。
友達だし、妊娠、結婚したわけだからこんなこと言いたくはないけど、その子、ちょっとアタマが弱いんじゃないかって思う。
意志薄弱というかさ。話を聞いてると、何でも相手が主体になってるんだよね。妊娠の話にしても、相手が〜とか、結婚にしても、相手が何回も結婚してって言うから〜、みたいな。流されて生きてるようにしか見えない。
一応、友達だけどさ、はっきりいって軽蔑してる。ほんとバカな女だって思う。中出しの件だってさ、ゴムつけてもらえば済む話じゃん?
着けて!って主張も出来ないノータリンな女。挙げ句の果てに妊娠させられ結婚しちゃうっていう救いようのなさ。
今、妊娠何ヶ月なの〜なんて、たまにラインくるけど、全部無視してる。
何か、もっとマシな子だと思ってただけに、大幻滅。
http://anond.hatelabo.jp/20130925185607
辞書を見ると「噴飯」は、ふき出して笑うことと説明されている。
(辞書からの引用は項目全体の引用ではなく省略したり一部表記を変えたりしています。以下も同様)
しかし例えば次のでは、「噴飯物」を使った用例に対し「ばからしい」という追加の説明がされている。
「噴飯物」を見出しにあげて説明をつけている場合でも、どちらかといえば否定的な意味合いで説明されている。
【噴飯物】人に笑われるような物事。こっけいなこと。
「そんなことをするなんて―だぞ」
「そのおこないはまったくの―だ」
【噴飯】まったく~ものである be quite absurd [ridiculous, preposterous]
(研究社 新和英大辞典 第5版)
【噴飯】噴飯の至り It is laughable - ridiculous - ludicrous
※「laughable」も噴飯に似て「馬鹿げた」と「面白い」の両方の意味がある。
laughable (1)ばかげた(ridiculous)、軽蔑に値する a ~ act 愚行. (2)(まれ)笑いを引き起こす、おかしい≪◆あざけりを呼ぶような面白さをいう≫.
また日本語大シソーラスでは、「噴飯物」を含んでいる項目は次のようになっている。
馬鹿らしい 馬鹿臭い 馬鹿馬鹿しい 馬鹿なことを 馬鹿げる 馬鹿げた ; 痴れ痴れし 痴れ痴れ 痴れがまし 痴(おこ)がましい 烏滸がましい ; 阿呆臭い 阿房臭い 阿房らしい 阿呆らしい ; 愚にも付かぬ ; 笑止 笑止千万 笑止がる 笑止顔 片腹痛い 傍ら痛い ; 噴飯 噴飯物 ちゃんちゃらおかしい お笑い草 お笑種 笑わせる; 臍で茶を沸かす 臍が茶を沸かす 臍茶 臍が笑う ; 仕様もない 仕様(しょ)むない ; 箸にも棒にもかからない 箸にも掛からぬ; 話にならず
軽蔑 ; 反対 ; 切り捨てる ; 跳ね除ける ; 笑止 笑止千万 笑わせる ちゃんちゃらおかしい 噴飯物 お笑い草 お笑い種 片腹痛い ; 聞いて呆れる 開いた口が塞がらぬ 二の句がつげぬ 呆れてものが言えない
こんな感じで「噴飯物」は、「笑えること」「面白いこと」というよりも「笑われるようなこと」「笑うべきもの」「笑われるべきもの」みたいな意味合いが強くて、そうなると文脈や話者によって、あきれ、あざけり、いきどおり、怒りのようなニュアンスも付加される。
なので
中学校に入るとき,こんないつ殴ってくるか分からない奴と一緒な中学校には行きたくない,私立に行きたいって言ったら断られた。入学後に「私立に行きたかった」って言ったら「社会に出たらいろんな人と付き合わないといけないからその練習になるから行かせた」とか言ってた。あんな奴らと関わり続けるくらいなら死んだほうがましなのに。
高校に入るとき,母親は担任の前で「中学校に入るとき,私立に行きたいって言ったのを拒否したらそのことを言い続けてるから高校はこの子の好きなようにしてあげたい」と言った。「高専ではなく自称進学校に行かせたい」と父親が言う中。自称進学校以外に行ったら軽蔑するような雰囲気を醸しながら。
親に都合のいい子になってたわけだ。中学在学中までは何の努力もせずただぼーっとしているだけでそうなったが。高校でわざわざ何かをしてまでそうなる気はない。誰があんたらの思いどうりになんかなるか。俺が生きていることを親が望むなら死んでやってもいい,と思う。
妹は私立に行かせたくせに。君は我が儘な妹を私立に行かせるために働き始めたのか。絶対許さん。大学に行く気,生きていく気すら失せた。