はてなキーワード: 悪党とは
俺みたいなソシャゲに課金しまくってる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
Twitter連携を切った場合はアカウント復元できない とか ご理解ください とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.楽しそう これ、誉め言葉ね。
好きな音楽 緋墨戦で流れたりするやつ
なんつって冒頭からネタで申し訳ない。書き込みが本当に初めてなのに長文になるんでフランクに入りたかった。気を抜くと一層つまんなく、怨み節が詰まった文章になりそうなので。
タイトルの通り、天華百剣 -斬-(以下天華百剣)ってゲームのアカウントを失った件で、お話します。これから連携なんかを行ったり、他機種に移行しようという時、俺の屍をご覧ください。
投稿から半日後:本当に言いたいことが伝わりづらくなっている&散らかり過ぎなので情報をまとめた。この行以降書き直し。
ソシャゲ。原作は KADOKAWA 系列(電撃G'sマガジン)、運営は DeNA GAMES。ジャンルはアクションゲームで、刀の擬人化もの。
・運営窓口は忙しいかも知れず、見当違いの返答をされることもありえるので粘り強くお願いしたほうが良い
・そもそも、トラブルが起こらないようにアカウントはしっかり守ろう
・「こんな国、守る価値なんかない! 俺はもう銘治の人のために戦いたくない! 戦うなら勝手にやってくれ! 俺は隊長を降りる!」
・アカウントが凍結すると上のセリフみたいに気が狂うほど辛いということ
・運営への怨み(初版時あたりまで発狂してたものの、今は頭が冷えて、無茶言ってすまんと思ってる)
・ゲームがつまんないってこと(俺にはジャストフィットだった、いまでもすき)
アカウントの問題でトラブルがあった場合、連携の有無だけでサポート不可と判断されるケース多数。
他のゲームなどでは購入履歴が、本人確認、アカウント確認双方で非常に強力なソースなため復帰可能の是非に影響できるようだが、天華百剣ではその限りではない。課金の証拠は重要ではあるが、復帰のための切り札にはならない(筆者は今までで約80万の廃課金だったが……)。
連携数については多いほど良い。先日、Twitter の方で障害があり、後述する俺のトラブルと同じような状況になったユーザーがいた様子。
SNS 連携さえあり、変なことをしていなければサポートは正式な手順で対応をしてくれるだろうし、連携する気がなくても、例えば容量不足とかでうっかりゲームをアンインストールしても復帰できる。
上記の事から、SNS 連携は巫剣の命のように大切にするべき。
俺のようにアホなことしてないで、大切にしてください。本当に。
連携整頓でうっかり消したり、SNS アカウントそのものを消したりしないように。
少なくとも俺はとても気に入った良いゲームです。キャラゲーとしてはなかなか愛せる類かと。というか、良くなかったら課金しないし、今回の件でショックを受けない。
特に音楽が一推し。去年のコミケで販売されたらしいが、再販などはあるのだろうかと期待していた。
操作だとかバランスだとかには賛否あるが、開発側もテコ入れをしようと頑張っている様子で好感が持てる。
俺自身のしでかしたことがその中に何個か書いてありますが、それはそもそもアカウントを大切にしていれば回避できたこと。正直新しいものは得られません。
アカウントがずぼらだった人間がどうなるのが気になるようならお読みください。
⑤ 一度問い合わせるが、その時点で打つ手が無いと言われる
⑦ 旧端末でなら治せるかも、ということなので状況の詳細を伝える
⑧ ⑥が致命傷として確定
⑨ 禍憑と化す患者
天華百剣のアカウント管理は Twitter あるいは LINE を使った SNS 認証を使用している。これを使用することで他機種間への移行をセキュアに行うことができる様子。
ただ、これを行わなくともプレイ自体は問題なく可能。のんきな俺は SNS提携 を一年以上行わず楽しんでいた。
そんなある日、急に端末を変える必要が出たため、ちょっと急ぎ気味に各データを新端末に移行することに。
iPhone には iTunes などのバックアップツールがあり、これを使うとスムーズにデータを移植できる。一つずつ情報を入れ直すよりこれを使ったほうがどう考えても楽だった。
しかし、天華百剣ではアカウント管理の都合で、これによる移行は保証していない。しかし便利さには代えられなかったため、一回移植後、アプリのアンインストールで問題を解消させることに。
旧端末で Twitter を使用した連携を行って、さあ、新端末を起動だ。
この時点で、しでかしと、しでかし候補を一つずつ作った。
・新端末のアプリを消し忘れて起動
新端末で「Twitter 連携が完了していない」というエラー表示で進めない。
嫌な予感がして旧端末を開くと「セッションのチェックサムが不正」とタイトルで表示され、こちらも進めなくなった。※
この時点で嫌な汗が出る。Twitter には連携しているという情報があるので、こちらは一旦保留としつつ、新端末の方を何度も叩く。三回ほどタイトルをロードし直すと、ようやくタイトル下のボタンが選べるようになった。今回はここから『お問い合わせ』を選択。旧端末と新端末で出ている症状、iTunes を使ってしまったということなどを可能な限り詳しく書いて送信。
次の日の昼、返答が届く。読んだのは夜。
「iTunes のようなツールを使った場合、サポートはしかねる」というだけの返答で、この時点で事実上の死亡宣告だった。
手が震えた。
※実は5/12時点でセッションのチェックサムが不正と出るトラブルが通常で出る場合があったらしいが、こちらの症状はこちらの手順が原因の障害だったととりあえず思っている
震える手で、まだ手があるんじゃないか、どうすれば回復できるのかともがく。新端末にゲームを入れ直しても駄目だった。
少し落ち着いてから、「メールの返答は残念だった、旧端末すら動かず突然の別れになって納得もできず辛いが、本当に打つ手がないのなら仕方がない。今までありがとうございました」という意図のメールを送る。
返答は期待せず、いち早く心の整理ができるように過ごす。
しかし諦め切れない。色々とさらにいじったとき、そういえば Twitter 連携を切れば認証が昔の形式に戻るのでは、と考えた。この時点まで錯乱は続いていたと思う。次の日の仕事では大丈夫だったろうか。
返信を行ったさらに次の日の昼、その返答が届いたようだった。できればすぐに読みたかったが、やはり夜に読むことに。
旧端末が動かないということを二度目の連絡で拾ってくれたようだった。返答はまたしてもコピペ感が強く、そのコピペもミスがあったが、こちらの願いが伝わったのだと大いに喜んだ。
だが、そこには
それを見て、また手が震えた。
やってしまったことは仕方ないと思い、できうる限り、確認に必要な各種情報を可能な限り集めて送る。
まさか認証の有無でしか復帰する方法がないわけがないだろう。開発側なのだし、そういうケースバイケースだって蓄積しているはず。情報として虎の子の課金履歴なら馬鹿みたいにある。多分明日以降、土曜日か日曜日に返答があるだろう。焦らずに待とう。
そのようにそわそわと待っている間、もしかしたら直してくれるのか、直すだろう、課金情報は復帰の情報として強力だと聞いたし、旧端末のデータだって消してない。いや、これだけ情報を送ったのだから必ず直してくれるはずだ、明日には直る、と都合のいい妄想が膨らんでいった。
土曜日の夕方、「認証を削除した場合、復元は不可能」という返答が届いた。読み返しても、今までの文章より明らかに短い。
地獄に糸が垂れたと思ったが、登っていたら切れた。蜘蛛の糸の悪党なら、堕ちた後は反省しただろうか。俺はしないと思う。彼なら自分のことを棚に上げて周囲と糸とを怨みに恨んだだろう。俺はまさにそのような感じだったと思う。
運営には返答に怨みがこもった慇懃無礼な答えで返し、掲示板などでは結果報告という名の毒を吐いた。
おまけに初めての増田で長文まで書く始末。このような苦痛を他の人にはさせたくないという変な使命感で、滑りまくった文章を書きまくっていた。※
その間、巫剣のことは考えなかった。もっと何か手が打てただろうと運営を詰り続け、掲示板では極力短く毒を吐かないようにとしながらもどうしても長文化し、己自身の失敗はこの程度誰でもするだろうと棚に上げて、いかに運営が手を尽くさないように感じたか、いかにシステムの融通が効かないと感じたか、いかに対応が冷たく感じたかを書こうとするのを抑えながら文章を作っていた。
褒められない代償行為。同様の被害者候補のためにという出所不明な大義名分だけが動力で、天華百剣がゲームだったということも一時的に忘れていた気がする。
※今でも何らかの緊急措置はあったほうが良いと思ってはいる。俺のような人間を見かけたらあと二十人いると思えみたいな
夜明けまで禍憑のごとく掲示板などで暴れ回った。六時ぐらいにようやく人の心を取り戻した、気がする。
外に向けての感情は今はあまりないが、誰に向けるべきか分からない申し訳無さが強く内側に残っている。
二度と会えないだろう俺隊長の巫剣に?
多分全部に向けてのものだと思う。
長い夢を見ていたようでもある。一年間のプレイはもしかするとただの夢だったのかもしれない。
問題から三日ほど経ったが、旧端末でのタイトルの向こうは俺が持っていた巫剣が顔を出すだけだ。
キャラクターの顔をずいぶんと久々に見た気がする。起動は何回もしていたのに、エラー文言とお知らせのボタンしか睨んでいなかった。そこでゲームの中身のことを忘れていたことに気づいた。そういえば切り替え前に、イベントがそろそろ終わるから大詰めしたいと思っていた。それができなければ普通は悔しいだろうが、はて、どんなイベントだったか。何が報奨だったか。
個別エピソードは溜めるタイプだから未読が多かったし、これから育てていきたい巫剣だって多かった、はず。コレクター気質があった上にシャナは好きだったから、これからのコラボイベントも楽しみだった、と思う。
何やら他人事のような気持ちになっている。いや、辛いんだろうけど、疲れてるんだろう。多分明日頃には実感も出てくる。もうちょっと元気があった頃はまだ復帰できるようならしたいと思ってたが、色々やっているうちにやる気を全部使い切ってしまったようだ。新規プレイは、いくらゲームが好きだからといっても辛すぎる。
もし運営が返信してくれたら、一連のことを謝って、対応はもういいと答えよう。
運営として応対してくれる人は別に開発メンバーでもないだろうし、その人そのものが権利を持っているとはとても考えられない。向こうには向こうの都合があっただろうし、先日の Twitter トラブルで忙しかったかもしれない。そんな中で忙しくも言葉を拾って、欲しそうな情報をこちらに送ってきたのかもしれない。そもそも内容自体は利用規約のそれと離れていない。そもそも向こうは散々ゲーム内外で警告をしていた。そんなふうに考えるともう、自分には何をする権利も無いような気がする。
何かただ、大きいものをなくしただけの三日間だった。
アカウントだけではなく、もっと言葉にできない、取り返しの付かないものをなくした。
数日前、アカウントをもっと大切にしていれば、もう別人と言える過去の俺が望んでいたかもしれない未来があったかもしれないのに。
アカウントさえ無事にあったなら。
そんなの受けたら誰だって嫌だよ。気持ち悪いもの。だからそれは気の毒だ。怖かったよね。
って思える。
だけど、何にもしてない人を「相手が気に入らないという理由」なだけで痴漢と訴えかける女性がいる。
自分がなんもやってないのに、いきなり泥棒扱いされたら嫌でしょ?それと同じことをやってるんだよね。
でも、当の本人たちは自分たちの悪意に気づかない。というか、痴漢だと叫ぶこと自体が自分の正義と勘違いしてる。
冤罪ふっかけて相手を陥れようとする。それは卑怯でとんでもなく人間性を疑いたくなる。
「あの人がいやらしい目で見てきた」というフレーズをたまに聞く。
別にいやらしい目で見ているんじゃなくて顔の形状的に目がそういう感じなだけじゃないの?って話。
顔の出来が悪くて本当にすみませんって心で謝っている人もいるかもね。
自分で選択できる顔ならこんな冤罪も起こらないだろうし、そういう選択を生まれる前にしたかったと思う人もいそうだよ。
女性がコンプレックスを抱くのと同じように男性も同じなんだよね。
好きでそんな顔してるわけじゃないし、そういう目線を送っているわけでもないでしょ。
ほかにも「あの人の息がかかった」とかね。
お前様は呼吸をしないのか?と。人によっては呼吸が荒い人もいるよ。これは生まれつきの人も居れば呼吸系に問題がある人もいる。
女性陣の中には一切呼吸が荒くなったりしないってことかな。すげーですよ。男と女にはこれほどの差があるんだなーって思います。
そういう所も考えたことのない被害妄想が酷い女性は、ホント目の前の男が気に入らないって理由で痴漢の冤罪を押し付けてくるでしょ。
電車乗る時に女性の近くなんか行きたくないよ、電車に乗る女性はみんな冤罪ふっかけてくる小悪党だって思ってしまうもの。
そういえば、きっと女性はそんな事無いって反論した挙げ句に本当に痴漢されてるとか言ってしまう人がいるかもしれないね。
うん、最初にも言ったけど。
怖かったと思うよ。
女性が痴漢行為に遭うのが一部なら、痴漢行為をする男も一部なんだよね。
現行犯は捕まるべきだ。さっさと罰せられて社会的に制裁を受ければいいと思う。
だけど、息が荒い。何度か目があっただけで痴漢扱いするのは間違っていると思うよ。
そんな誤解で痴漢扱いされた人が、社会的な差別をされたらどうするのって話。
もうそこからは冤罪どころじゃないよ。人として差別をされるよ。
誤解した方は罪をふっかけるだけふっかけてとんずらー。
あぁ、人として腐ってる。それじゃ痴漢行為をしてる腐ったクズ男と同じだよ。
ここでタイトルの話になるんだけど、日本の女性はちょっとしたことで被害妄想が尋常じゃなくなる。
ぶっちゃけた話をすると、メディアがインタビューしている女性ほど痴漢に選ばれそうにない。
つまり容姿でそういう選択肢が出来るのだから、呼吸が荒い、目線があっただけで痴漢だというのはおかしいってこと。
なんかまとまらなくてすまんけど、電車を乗りにくくされるのは通勤にとても不便なので事実が発生した時にワイワイやってください。
無意識に「いただきます」ってつぶやきながら合掌していたのだけれど、
「合掌」は宗教的な動作として、(特に外国人から見たら)なかなか強烈なヴィジュアルだと思う。
もっとも私は無宗教で、別に特定の神に対して祈りを捧げていたわけではない。
弁当を調理した工場の人や、食材の生産に携わった農家や、食べられるために死んだ生き物に祈ったのだろうか。
幼稚園や小学校では、だいたいそんなニュアンスの動作として教え込まれたような気もする。
「お残し」という戒律破りをすると、
どんな悪党でも、心のどこかで多少は彼らに対する罪悪感にさいなまれるわけで、
現に「いただきます」教は、いまでも食品ロス問題への効用があるはずだ。
しかしこの「いただきます」教には、少なからぬデメリットも存在するように思う。
たとえば、
①「いただきます」教の原理主義的教諭による、なかば拷問的な完食の強要。
②食品生産者への盲目的な礼讃により、消費者が「買わない」「食べない」という意思表示を示すことの困難(昨今のウナギ問題など)。
などなど、色々思い浮かんでくる。
客の金を持ち逃げして破産宣告して返済踏み倒すフラグ立ってるようだ。わら。
「VR通貨」とか言っていればなんだか怪しい感じになるので被害者も少なかっただろうに。多分。
基本的に普通の常識があれば「ちょっと下調べすれば虚業の可能性が高い事がわかる」ので引っ掛かるほうが悪い懸案だが、コインチェック事件はテレビで大々的に宣伝していた最中での事なので、長い人生で悪人に出会った事の無い微温湯人生を送ってきた人と年金持て余す呆け老人は引っ掛かっても仕方がない悪質なものだ。多分これから露呈していくことになると思うがコインチェックのコアメンバーは相当黒い連中の筈だで、破綻して踏み倒すことも計算ずくだった筈だ。職業詐欺師の間ではマニュアルの1ページ目に書かれている事だからだ。コインチェックの背後に何者がいるのかで事件の深刻度は変わるかもしれない。
取引所の問題というより「仮想通貨という概念ビジネス」に不信感を抱かない被害者が問題と思う。
…仮に仮想通貨を「ゼニー」としよう。
ゼニーはネットゲームのRMT(リアルマネートレーディング)が出来ます。
…まぁネトゲ重課金ユーザーなら100万1000万出すのかもしれないけど(笑)。
仮想通貨はこれを貨幣価値が主張できる程度のシステムを整えただけのものだ。しかし概ね前例のなかったもので、あるとすれば出資金詐欺とか幸運を呼ぶ壺とか新興宗教のお布施とかだ。仮想通貨はそれらとは違うといったポーズを取っているだけのもので、現時点で合法なのも単に法整備が追い付いていないだけだ。
そういった仮想通貨は未完成ゆえに穴だらけだし、そういった新興事業に即座に手を出すのはチンピラかゴロだけだ。DMMだって元々はアダルトサイトだし、もちろんコインチェックのクソガキ社長も見るからにウェーイ系クズだ。
別に仮想通貨が悪いわけじゃない。スマホゲーのガチャだって別に悪くないんだし。
しかしこういった事件は、被害者が悪党に追い銭投げつけて文句言っているような、悪い奴がのさばる原因になる事なので、被害者の馬鹿さ加減には少々腹が立つ。
基本的なストーリー構成は毎回毎回暴力によって悪を懲らしめる過激な内容なのに幼稚園児向け作品として受け入れられてるなんて異常だよ。
プリキュアですら暴力描写を抑えていこうと方針転換してしまっているのに、何十年も前から変わることなく悪党を殴って倒す物語を描き続けてるんだぜ。
しかもそれが暴力的というイメージではなく暖かく牧歌的な物であるかのように扱われているんだ。
こんなのって他の国にもあるのか?
現代文の授業で山椒魚を初めて読んだとき、この捻くれ者は、私によく似ていると思った。だが決定的に違うところがある。それは山椒魚は世界の神であったが、私は神にはなれなかったという点においてだ。その違いとは些細なようであって、とても重大なことであると私は思う。それは、私が誰かの神に、世界になりたいのに、なれない不完全な出来の人間であるからだ。
まず前提として、この文章はすべて、井伏鱒二氏の短編小説である「山椒魚」を借り、私が私について語るだけの、極めて主観的でくだらないものであるということを示しておく。恐らく十八の人間が書く文章なんてたかが知れていると思うが、それでも私は山椒魚にとてつもない親近感を抱いているのである。それについて少しばかり、私が今まで思ってきたことを書けたらいいと思う。
まず「山椒魚」とは一体何かということを明確にしておく必要がある。山椒魚とは前述したように、井伏鱒二氏による短編小説である。山椒魚は自身の身体が成長しすぎてしまったことによって、住処である岩屋から出られなくなってしまう。外に出ようと幾度となく繰り返す山椒魚だが、それが叶うことはついになかった。外の世界を自由に生きる生物たちに嫉妬を抑えきれない山椒魚は、ついに悪党となり、山椒魚は岩屋に入ってきた蛙を閉じ込め、自身と同じ状況に追いやることで、自身の精神の安定を保とうとしたのである。蛙は屈することなく二匹は岩屋の中で激しい口論を二年にも及んで繰り広げるが、空腹で動けなくなり、死しか望めない蛙に対して、ようやく山椒魚は友情を感じるのだ。山椒魚は聞く。「お前は今、何を考えているようなのだろうか?」と。それに対し蛙は、「別に今でも、お前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのだった。
この山椒魚を初めて読んだ時の感想は、「二年も口論を繰り返していたのか」とそれに尽きる。だが数回これを読み深めていくうち、山椒魚とは、ただ友達が欲しかっただけの、普通の人間なのではないかと思うに至ったのだ。山椒魚には寓意が込められており、簡単に例えを出すならば「うさぎとかめ」のように、ほかの生物やもので真意や本質を遠回しに伝えるというものだ。私の中で山椒魚は普通の人間であるし、出られなくなった岩屋は肥大した自意識であり、蛙はそれらをすべてわかっていた人間なのだ。これらも前提に、本題へ入ろうと思う。
何故この文章の題名を「山椒魚は世界の神であるか?」にしたかは至極単純である。私にとって山椒魚は、世界の神であるからだ。もっと突き詰めて言えば、岩屋の中に閉じ込められた蛙の世界であり神であるということだ。まず先程書いたように、岩屋は肥大した自意識であると私は思っている。山椒魚はその自意識に閉じ込められた、或いはそこから出ることを拒んだ所謂可哀想な人間に過ぎない。蛙はその山椒魚の自意識を満たすため利用された、こちらも可哀想な人間であるという認識をしている。山椒魚は蛙を利用し監禁することによって、死の間際に、世界となり神となることに成功したである。
人間が人間の神になるために必要なことは、その標的からすべてを奪うこと以外に存在しない。山椒魚は蛙を自分の住処に閉じ込め取り入れることによって、蛙からありとあらゆる自由を奪うことに成功している。それがなければ山椒魚は神になれなかったし、もしかしたら山椒魚は図らずも神になっただけかもしれない。だがそれだけ、人間が人間の神になるということは難しいことなのだ。それが善悪のどちらに所属するかはまず置いておくとして、私はそれをやってのけた山椒魚を素直に尊敬する。山椒魚は悪党となることで蛙を閉じ込めたが、この時の山椒魚の心境を鑑みるに、標的が蛙であった必要はなかったのだと思う。よくニュースで聞くような、無差別殺人犯の言う「誰でもよかった」と同じように。ただこの「山椒魚」にとって、この蛙が蛙でなかった場合、二年間口論が繰り広げられることも、最後にようやく友情が芽生えることもあり得なかったのではないだろうか。
しかし、だからといって山椒魚が神であるということに相違はない。閉じ込められた蛙にとっては、憎むべき対象も、愛すべき対象も、結局は山椒魚しかいなかったのである。蛙は最後に「今でも別に、お前のことを怒ってはないんだ」と言った。それはおそらく、蛙自身も、山椒魚を神とすることで救われた一人の人間だったからだと思う。山椒魚が蛙を閉じ込めたとき、蛙は、閉じ込められた岩屋の中で堂々と「俺は平気だ」と宣言する。それは山椒魚を見くびってのことだったのか、それとも逆に、山椒魚ならば…という、敬愛の証だったのかもしれない。ただ私が思うのは、おそらく蛙も、もしかしたら山椒魚と同じような立場になっていた可能性があるということだ。メタフィクションのような話になってしまうが、蛙は山椒魚よりも体が小さいので、少なくとも岩屋から出られなくなってしまうということは考えにくい。なので、自由に飛び回ることのできる外の世界―要するに「山椒魚」の世界観で「社会」で、同じ立場になっていたかもわからないのだ。山椒魚は肥大した自意識から出られなったが、それはあくまでも人間の内側で起こっている出来事に過ぎない。自身の激しいナルシズムが引き起こす極端な自己評価と他者評価のギャップに悩み、それを見栄で隠そうとしたために発生した、ある種一時的な反抗期のような、よくよく考えてみれば、我々も通ったことのあるような道でしかないのだ。だが蛙は人間の内側でそれを発生させてはいない。人間と人間が大量に入り混じる、失敗の許されない、いわば監獄のような世界でそういった問題に悩まされていたとしたら、それはきっと山椒魚よりも可哀想で哀れな姿になっていたに違いない。山椒魚は蛙を閉じ込めることで、自身と同じ状況の人間を作成し、その結果精神の安定を保とうとしたが、それは蛙も同じだったかもしれないということだ。蛙は山椒魚に「わざと閉じ込められる」ことによって、可哀想な人間に捕らえられ逃げられない自分を作り出し、自分の社会に対する折り合いのつかない問題から逃げ出そうとしたと考えれば、最後の「今でも別に、お前のことを怒ってはいないんだ」というセリフにも納得がいく。
この文章を書くにあたって、自分の「山椒魚」に対して抱いた如何ともし難い薄気味悪さというのは、蛙によってもたらされた山椒魚への許しが生み出したものだと気付いた。小説であると一言言ってしまえば確かに終わりなのだけれども、例えば自分が身勝手な理由で他人に監禁され、しかもそこで死を迎えなければならないとなった場合、最期に相手を許すことが出来るものだろうか。それが愛する人や家族ならいざ知らず、どこの誰ともわからない人間にいきなり監禁された時点で、普通に考えて怒りなんて言葉では済まない。それこそ二年間によって繰り広げられた喧嘩でさえ、この最期によればおつりがくるほどだと思う。最初こそ「二年間も口論していたのか」なんて暢気な感想を抱いたけれど、少し考えてみたら、最期の蛙の言葉は、私にとっては最早呪いだ。もしも私が山椒魚だったとして、自分が閉じ込めた相手が死の間際に自分を許す旨の発言をしたら、嬉しさも喜びも何も感じることは出来ない。むしろ、「この人は今まで何を考えて自分の思い通りになってくれたのだろう」という不信感すら残ってしまうだろう。自分という一人の人間を殺したという事実から逃げるなよという、怨念のようなものさえ感じさせる。それを考えると、山椒魚が蛙を閉じ込めたというよりも、蛙のほうが、山椒魚を好きに操っていたようにしか考えられないのだ。蛙は山椒魚のことを、自分と似た人間だと思い、自身が社会に出たことで削られてしまった自尊心や自意識を回復するために、「わざと山椒魚と一緒にいた」ようにしか思えない。物理的にそこから出られなかったとしても、こころだけでも自由になることは出来たはずなのだ、山椒魚と違って自由に泳ぎ回ることが出来ていた人間ならば。だがそうではなかった。ということは、蛙は自由に泳ぎ回っているように見えて、その実、社会という檻から逃げられず、自分を肯定するために必死だった、ただの哀れな、普通の人間でしかなかったのだ。
最後にもう一度、これは私が井伏鱒二氏によって描かれた短編小説「山椒魚」を借りて書き殴っただけの、主観的で陳腐な文章であることを明記しておきたい。ここに書かれていることはすべて、私が勝手に作り上げた妄想であって、おそらく山椒魚には、これよりももっとポジティブなメッセージ(寓意)が込められていることだろうと思う。しかし私にとって「山椒魚」は、どうにもポジティブなものとは受け取れなかった。可哀想な人間が寄り添って、互いの削れた部分を埋めるために、互いの世界になろうとする。そんな常人には理解出来ない、孤独で閉鎖的でどこまでも自分本位な人間の本質を描いているように見えたのだ。
私は山椒魚に似ている。けれど私は誰かの世界にはなれなかった。私にとっての「蛙」がこれから現れることはあるのだろうか。山椒魚が蛙を操っていたのか、蛙が山椒魚を操っていたのか。本当のことは、誰も知らない。
了