無意識に「いただきます」ってつぶやきながら合掌していたのだけれど、
「合掌」は宗教的な動作として、(特に外国人から見たら)なかなか強烈なヴィジュアルだと思う。
もっとも私は無宗教で、別に特定の神に対して祈りを捧げていたわけではない。
弁当を調理した工場の人や、食材の生産に携わった農家や、食べられるために死んだ生き物に祈ったのだろうか。
幼稚園や小学校では、だいたいそんなニュアンスの動作として教え込まれたような気もする。
「お残し」という戒律破りをすると、
どんな悪党でも、心のどこかで多少は彼らに対する罪悪感にさいなまれるわけで、
現に「いただきます」教は、いまでも食品ロス問題への効用があるはずだ。
しかしこの「いただきます」教には、少なからぬデメリットも存在するように思う。
たとえば、
①「いただきます」教の原理主義的教諭による、なかば拷問的な完食の強要。
②食品生産者への盲目的な礼讃により、消費者が「買わない」「食べない」という意思表示を示すことの困難(昨今のウナギ問題など)。
などなど、色々思い浮かんでくる。
いただきますって免罪符と化してるよね うなぎが絶滅しても「いただきますって言ったからOKw」みたいな、そういう雰囲気あるわ