はてなキーワード: インスパイアとは
「お肉屋さんで肉を買うというライフハック」https://note.mu/reitanaka/n/n07c9f0c26ef5
これにインスパイアされた。
町のお肉屋さんで「ハム」を買うのにハマっている。元記事にあるような夫婦でやってる個人店には置いてないかもしれない。
自分が住んでる町には個人店というには大きいけど大型店とは言えない程度の大きさ肉屋がある。
肉屋の見習いっぽい若い男の子とレジにはパートのおばちゃんがいるぐらいの規模と言えば想像がつくだろうか。
スーパーでよく見るロースハム。真空パックの加工ハムと一緒なはずなのに、ハムが筒状になって置いてあるだけで美味しそうに見えてしまう。
スライスされたものが用意されているので、お店の人に「ロースハム4枚」と言えばそれだけもらえる。料金はグラム単位で計算してくれる。
この他にもピーマンとパプリカのみじん切りがまばらに混ざったカラフルで見た目も美味しそうなハム
黒こしょうが入って少し固めでサラミみたいなハム。ニンニクが混ざって香りがガツンとくるハム。サンドイッチに挟みやすそうな極薄スライスハムなど。
この中から気になった3種類を4枚ぐらい買う。お気に入りがあれば5枚でも6枚でも良い。
4枚ずつ買えば全部で12枚、値段は500円しないぐらいだっけかな?
ハムは丸形なのでいつも4等分して扇状に切る。ハムなので味はしっかりついているのでこれぐらいの大きさで十分。
どうせ全部食べきれないので、半分は残してまた翌日にビールを飲みながら食べる。
なんとなく大学の講義っぽい名前にしただけなのでIIはない(なお各論はあり)
https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B9%B3%E8%A2%8B
ここを見てもらえれば明快なのだが、乳袋は実在するか?と言う問には一言で言うと存在しない。
まず乳袋とは通常なら乳房の形が出たりしない素材、縫製の衣服で乳房の形が現れている様、あるいはその状態の胸を指す。
ここで重要なのは通常なら乳房の形がでない衣服で、ということ。欧州のドレスやビキニ水着など、乳房の形が現るような物を殊更乳袋とは言わない。
つまりセーラー服、ブレザー、あるいは巫女装束、ブラウスなどで乳房の形がありありと現れるものであると言うこと。
そして、主に成人向けゲームやそのコンシューマー版、性的な要素が売りの漫画やアニメゲームなどで主に男性の性的好奇心を刺激する物という文脈で使われていた。非オタクの人には意外かもしれないが、ポル産アニメと同じ様にその非現実性とエロ要素に対して否定的(と言っても自虐、揶揄、嘲笑の類)文脈で言及されることもままあった。
その源流はアメコミや特撮の女幹部、あるいはビキニアーマなどであろうが起源ははっきりとしない。
1994年8月26日発売のラングリッサー2のヒロインのりアナの服装はまさに乳袋という感じであるが、異世界なので、そういう材質、縫製なのだと言われると辛い。
という点では胸元が大きく開いているが下乳脇乳の1995年11月22日発売のEVE burst errorのシリア・フラットだろうか?
また非現実性と言う点では難があるがアンミラインスパイアの1996年7月26日Pia♥キャロットへようこそ!!もかなりの影響があったと思われる。
改めて、最初の乳袋は実在するか?は、通常のセーラー服や巫女装束やブレザーを、胸が大きい人が着用してはっきり胸の形がでる、ということなので存在しない。
ありえるのは、胸の形が出るような衣服を着用すればいいが、非現実性という条件を無視するならビキニ水着を着ても乳袋と言うことになってしまう。
そして、重要な点だが、乳袋は性的要素の強調という点を無視できない。
それを踏まえて、胸が大きい人が無理なく快適に着られる服のブランドを乳袋と呼ぶのはそもそも誤りであるし、ことさらセクシーさを強調してるわけでもないのに性的な示唆を含む乳袋という言葉は使うべきではない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
『辛くないラー油』からインスパイアを受けて、オマージュしたのだ。
アイデアはすぐに出たが、完成までの道のりはとても辛かった。
ハラペーニョという緑色の唐辛子があるのだが、これを何度も改良してな。
そこまで辛くないものができたら、その種からまた作っての繰り返しさ。
そして最終的に、全く辛くない唐辛子ができたのだ。
しかも身も大きくすることで見栄えをよくし、お得感も上げた。
だが、全く意図しないところでカブってしまい、パクりだと言われてしまったんだ。
辛いな。
何となく分かるが、“プラスチックのあれ”とはロックピンのことを言っているのか?
いや、タグファスナーだっけか。
ああ、部屋に転がっているのは君がちゃんと処分していないからだ。
猫とかを飼っているなら、ちゃんと捨てておきたまえ。
それができないなら、猫の方を捨てろ。
或いは君自身か。
「どれもできませんでした」というのは道理じゃないぞ。
せっかく私が選択肢をいくつも提示したのだから、決断する責任くらいは取りたまえ。
今回学ぶべき教訓は、「疑ってはいけない」ということだ。
疑りつつも首を突っ込んでいる時点で、既に片耳を貸していることに気づきたまえ。
……ああ、すまない。
既に両方とも持っていかれて聞こえないのか。
これでは耳が万単位あっても足りないな。
男オタクが利用者人口の大半を占めるコミュニティに女性として参加すれば女性である利益や不利益は当然ある。女性である利益を存分に享受してる女性もいる。
もちろん、例えばガールズチャンネル等に見られるようにその逆も当然ある。ただことネットにおいては黎明期に理工系のギークを初めとしたインテリやブルジョワの男性達が築いたコミュニティを土台にした文化が連綿と今に至るまで引き継がれている為に、通常用いられる一人称が「俺」や「ワイ」であることが当たり前になっている様に基本的に男性が利用する前提の文化が成熟している。
また、貴女はまるで自分達女性オタクだけが特別の迫害の対象だった様に言っているがそれは私の認識とは違う。
恐らく貴女が迫害の加害側に認定している匿名掲示板においては、ありとあらゆるものが時に加害され、時に賞揚され得るのだから。
例を挙げると5ch、つまり旧2chにはなんでも実況jという掲示板がある。
この掲示板の成り立ちについてここでは説明を避けるが、野球を愛好し、猛虎弁と呼ばれる似非関西弁を用いてレスをする利用者が多数を占めることで有名な掲示板だ。
ここではかつて、貴女のような女性オタクを含めた「オタク」そのものが押し並べて差別されていた歴史がある。
オタク達が立てる声優やアニメのスレッドは嫌悪され迫害の対象だったのである。
しかしなんでも実況jへのオタク達の流入とその活動は止むことがなく、遂には相次ぐオタク迫害の波を退けることに成功し、今ではなんでも実況jにおいてほぼ恒常的に何らかのオタク関連スレが立っているという状況にまで好転せしめたのである。
この事例から得られることは、迫害にあっても折れることなく自己主張を続けることで迫害を退け自らの地位を獲得することが可能になることもある、という教訓である。
貴女は一部の男性オタク達に対して、傍観しているだけだった、と批難しているが、そういう貴女達女性オタクこそ迫害に対して傍観しているだけだったのではないか?
男性オタクに擬態して会話などせず、自らの女性性を存分に主張して活動すれば良かったのではないか?
迫害に屈することを選んだ貴女達女性オタクには何らの責任も存在しないのか?
それとこれは蛇足であるが萌え絵が少女漫画にインスパイアされているという話は、結局手塚やメビウスの話から始まり黄表紙にまで遡ったりするので、そういった起源を主張するのは言うだけ野暮であると思う。
またコミケの起源の話についても同様だが、初期のコミケが女性を主体としたイベントであったことから現在のコミケ文化を男性側の盗用のように批判することは、例えば少年漫画誌における男性読者の女性向け批判の様な水掛け論に回収されるのでやはり言うだけ野暮であると思う。
https://www.google.com/search?q=こち亀 不良
ときどき見かける「イケメン/美少女に勝手に惚れられる主人公のマンガ/ライトノベル作品が都合よすぎなのでキモイ」論、共感したことなかったんだけど、ようやくその気持ちがちょっとわかったわ
ディズニー映画やその亜流などに顕著だが「偽りの勝利」→「どん底/敗北/最大のピンチというクライマックス」というパターンを踏む作品が多いのは周知の事実で、本作でも「麻薬の運び屋になる」→「大金を手にする」「最初はおそろしかったヤベー奴らに一目おかれるようになる」→「ヤベー奴らが代替わりしてもっとヤベー奴に締められる」「家族との亀裂深まる」「順風満帆に見えた犯罪稼業もDEAに嗅ぎつけられいつ逮捕されるかわからない」という風に展開していく。
その展開は「間違った価値観に基づく悩み(疑似問題)」→(最大のピンチ)→「真の問題に気づくことと、問題解決のセット」というプロセスによって挟まれていることが多い。(ファインディングニモ然り、シュガーラッシュ然り、インクレディブルファミリー2然り…)
『アメリカン・スナイパー』『15時17分、パリ行き』『ハドソン川の奇跡』『インビクタス』あるいは別監督の同年作品『グリーンブック』みたいな、実話に強く寄せた話ではない(一応、実在の事件にインスパイアされてはいるが、左記作品群のようには実名を使用していない)。
花卉栽培に熱中し、実益があるもんだから家族を顧みず全米を飛び回る。ところがインターネットの発達により実益が消滅、畑は差し押さえになる。みんな金がないのが悪いんや…から始まる物語。
ハッピーエンドというと、多くは「生きるか死ぬかの賭けに勝つ」「優勝してチャンピオンになる」「絶体絶命のピンチに遭遇し知恵と勇気で切り抜ける」「悪者をやっつける」「宝石を手に入れる」「一か八かの挑戦をして成功する」「追手から逃げ切る」といったものになり、「死ぬ」「負ける」「やっつけられる」「大金を手に入れられない」「失敗」「捕まる」で終わるものは通常バッドエンドとみなされることになる。
ところが『グラン・トリノ』は最後に主人公クリントイーストウッドが撃たれて死ぬが、ハッピーエンドなのである。これは「生命を失わない」ことより高い価値を持つものを主人公クリントイーストウッドが手に入れたというによって達成される。すなわち「他者との精神的つながり」が、生き長らえる、物質的な豊かさを超える至上の価値としてアピールされているのだ。(もっとも一般的なのは童話の昔から定番の男女間のカップル成立だが、『グラン・トリノ』の場合はアジア人の少年とのつながりを得ることができれば死んでもいいという価値観)
本作では、「間違った価値観に基づく目標と偽りの勝利」は「(悪いことをして)カネを稼ぐ」「それによって、家族ではなく、在郷軍人仲間(ベトナム戦争に参加していたという設定)や園芸職人仲間から称賛される」「モテる」で、成功=偽りの勝利シーンに”ああ、こいつ(クリントイーストウッド)あかんやつや”という通奏低音がいやというほど鳴り響いている。
ところが、このじじいがいろんなところで調子よすぎるのである。
前述の「ヤベー奴らに脅されたりスマホ(SMS)も使えなくてバカにされたりもしたが、持ち前の気骨ある行動とイケメンぶりで一目置かれるようになる」もそうだが、
家族とのディスコミュニケーションがマイナス要因で「妻からは冷たくあしらわれ、娘からは12年間口をきいてもらえず、家族の中では唯一孫娘だけが味方」
からの「妻が病気で倒れたと孫から連絡を受けるも、コカイン運搬中であり、どうしても駆けつけられないし事情も説明できない。そのためついに孫娘からも敵に回る宣言を受ける」という最大のピンチの後には、
「どうにか一仕事終えて家に駆け付けたら死にかけた妻に”あなたはひどい夫だったけど、最後そばにきてくれて看取ってくれるなんて超最高よ愛してるわ”と言われる」のだ。
妻の葬式、娘とも和解。葬式優先したために、グレードアップ後の、一目置いてくれていたやつらよりさらにワルいやつらに殴られる。(唯一のダメージらしいダメージはここだ)
そして逮捕。
裁判では無罪を勝ち取ろうとする弁護士を制して「わしゃ有罪じゃ」
最後は、刑務所の中で再び大好きな花育てを行うクリントイーストウッド。
引いて、終わり(ゲットワイルドは流れない)
っていやいやいやいや。違うでしょ。
何(1)妻が死んだ(2)ちょっと殴られた だけのダメージで 幸せいっぱいに園芸やって終わってんだよ。(服役中だけど)
娘もなんで最後にちょっとふらっと現れて口先で謝っただけで受け入れてんの?
涙まで流して「なるべく面会に行くわ」「(犯罪で稼いだお金で)取り戻したお父さんの大事な畑は私が守るわ」と抱きしめてたの?
「わしゃ有罪じゃ」宣言、そりゃ万ドル単位で犯罪マネーを蕩尽しといて当然でしょ。
前半にはアジア人を差別するクソ白人至上主義野郎だった『グラン・トリノ』の主人公が、見終わったらいい奴だったと心に残るのは、撃たれて死んだから。
(自分が東欧系移民でややカースト低め、非WASP白人だったということもある)
最初の話に戻ると、「空から美少女が降ってきて惚れられるし俺はTUEEE」な話を叩く人は、等価交換を重視してるのかもしれないと思ったよ。
という論法。インスパイアされたのは、しろくま先生の記事『どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠』 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20181220/1545290310
しろくま先生のエントリでは、「A = タバコへの嫌悪, B = 児童相談所設立反対運動, X = 社会基盤の変化」といったところか。
やはり、ネットで議論するのは困難が伴うのだ。エントリは明らかに X について話している(ついでに言えば、A, B, C, D,....と並置させるものをたくさん挙げている)。多くのコメントは、A についてのみ議論しているし、A と B が違うという主張をしたがっている。
当然、A と B は違う(A - A∩B ≠ φ, B - A∩B ≠ φ)。違うが何らかの共通点があり (A∩B ≠ φ), その共通点は、別の社会構造の現れである可能性が高い(∃x x |= A∩B)。これを敷衍すると、もっと様々なことが現れるのではないか?(∃y x |= y)というのは、抽象化・一般化 といってもよい。
一般化した社会問題を扱うには、タバコや児童の声などというのは、ブクマカには身近すぎて踏み台にされたくないんだろうな。まあ、それ自体個別的な解決を必要とする社会問題であることには変わらないのでその気持ちはわからんでもないが、そう思うなら先生に突っかかるのは頭悪いとしかいいようがない。あなたとは次元が違う問題意識について話しているのだから、だまってろよ、としか思わない。
昼飯食べていなかったし別になんでもよかったので近くのラーメン屋に入ったら二郎インスパイア系?だった。
食券を買って適当にカウンターに座ったら一緒に並んだ他人が次々とカラメとかナントカマシマシとか順番に唱えている。
都内住みだが俺は二郎はコピペを読んだだけだし、積極的に行きたいとも食べたいとも思っていない。
毎日完食していたジロリアンのツイートがある日、予告もなしに止まってしまったという怖いうわさも聞いていたので。
さて、困った。考える間もなく俺が呪文を唱える番がまわってきた。呪文なんて知らんがな。意味わからんし。
咄嗟にじゃあぼくはウンコモリモリコーントッピングでなどとアドリブで言える機転がない俺は「あ普通で」と小声で言うだけだった。
幸いだったのは俺の次の客も普通でと言ってくれたことだ。なんだ、普通って言っておけばよかったのか。
以上レポっす。
実を言うと、一般人は大勝軒以前の拉麺も理解できないんだけど、あれらはまだ昼食的な要素を内在してるから、そっちだけを受け取ることはできる。
それまで昼食的な要素+拉麺的な要素だった中華料理屋(中国)が、ラーメン二郎へと移行する時に大衆的な要素を切り捨てたのね。より純粋な拉麺に進化するために。
だから、それまで昼食部分だけを受け取って喜んでた一般人は急に食べきれなくなりゲリピーを起こした。
だけど、拉麺理解者は大勝軒以前にも拉麺部分しか見てないから一般人が何を騒いでるのかわからない。
一般の人って、盛付けの凄いやつがラーメン二郎になるとか勘違いしがちだけど(二郎=豚エサ論もその変奏)、全く質の違うもの。
意識高い系ラーメンって、スープをひすたらゴミひとつなく綺麗にアク取りするようなもの。食った気がしない。
日本のエリート(慶應大学三田キャンパスを除く)って教養がない極東の田舎者だから、ラーメン二郎を理解できない。すぐに「意識高い系」を持ち上げる。怖いんだろう。自分に理解できない拉麺が。二郎インスパイアですら大多数は完食できないんだもの。あんな初心者向けなものですら。
とにかくアジア(三田近辺除く)って拉麺後進国なのね。トップの日本ですらこうなのだから。新横浜"ラーメン"博物館が野菜ポタージュと焼き醤油を脈絡なく展示してマシマシしてるレベルだもの。
まず日本(三田近辺除く)に生まれた時点で、ラーメン二郎を理解するには圧倒的に不利。こんなこと言うと、「一般人にもわかやすく(量を)説明できるのが一流ダー」みたいな恥ずかしい駄々っ子が沸いてくるけど、二郎って歴史上一度も少食を相手にしてないので。
暖簾分けの恩恵で、関西人も京都でラーメン二郎を数百円で食えるようになっただけで泣いて喜ぶべき。
そしてあれは、将来のジロリアンと店長の入り口としてやってるの。1000人に1人、将来二郎に貢献する人材がいるかもしれないと信じて。