はてなキーワード: 衛生状態とは
Go To キャンペーンの開始日決定、7月22日以降の旅行から、予約済みでも後日還付、地域共通クーポンは9月以降に
https://www.travelvoice.jp/20200710-146622
しかしレジ袋有料化と言い、政府や官庁はこの様などうしようもない事ばかり率先してやるのだから救いようがないよね。
以下に中央の人間は今の時点ですら危機感がないかがこれを見ても良く判る。
そりゃ5月当時感染者数が減りだした途端に平時の感覚に戻り、コロナ対策をさて置いて、コロナ対策とは関係ない法案を優先して成立させたり、挙句の果てには元法相の話題ばかりしている人達だもの。
この様なズレた事ばかりするのも当たり前と言えば当たり前かもしれない。
その緊急事態自体早期に解除せざる得なくなったのも麻生大臣が3月の時点で企業への粗利補償とかきちんとしなかった事や対応自体が遅すぎ、家賃補償等にしても妙にケチ臭い対応をしたからだしね。
結果経済的にも着実に悪化しているし、倒産件数も300件を超え始めたからね。
恐らく経済的観点から見ても緊急事態宣言を出すのをためらう結果になっているので、後手後手になり、手遅れの事態をも招きそう。
現状、ただでさえ東京周辺は200人超えとどうみても5月以前よりもヤバい事態になってきているにも関わらず、政府は全く危機感がないのは報道を見ていても良く判る事だからね。
それに当時ですらこれから梅雨やら台風やらの時期で衛生条件も悪化する事は指摘されていたし、実際この大雨でヤバい事態になり、今後着実に衛生状態の方面でも悪化する事は目に見えている訳で。
シンガポールはこれまでコロナウイルスの封じ込め作戦で成功していたのに、最近になって急に新規感染者が増えている。その内訳の大半は、移民労働者向けの密集したドミトリーに住んでいた人らしい。
日本でもこの手の出来事は対岸の火事とはいえなくて、特に都市部のシェアハウスで暮している人たちがさらされているリスクは、このシンガポールの移民労働者とどれだけ違うかわからない。
シェアハウスの中でも一番安いのは個室ではなくて、狭い部屋に2段ベッドを何台も入れてカーテンで仕切りをつけただけのドミトリーがふつうだ。シェアハウスのなかのあらゆる設備を共用していることによる接触感染リスクに加えて、ドミトリーで暮している人たちはお互いに距離が近すぎるので、飛沫感染あるいはエアロゾル感染から身を守ることができない。
シェアハウスの運営会社は自分たちの運営する施設で集団感染が発生したら終わりだと思っているので、仮にそのようなことが起こっても公表したがらないだろう。かといって、もともと安い利用料で暮している人たちのためにそれほど徹底した感染防御策を取るだけのコストをかけたくない、かけられないという事情がある。
また、都市部で安いところに住んでいる人はさまざまな事情を抱えた人が多いので、適切に身を守る手段を知らなかったり、少しぐらい体調が悪くても電車に乗って仕事に行かなくてはならない場合が少なくないと思う。
これまでクラスター感染が起こるときに家庭内での感染が語られることが多かったが、東京をはじめとする都市部の、一般家庭よりも衛生状態が悪いシェアハウスでどれだけクラスター感染のリスクがあるか、自治体で考慮した人たちはいるだろうか。
武漢ウィルスとか武漢肺炎とかいうのはアホだが、それと同時に中国は情報を統制し、告発をシャットアウトしたせいで、結果として全世界にコロナウィルスを広めたのだ。
この景気の冷え込みはほぼ中国初の恐慌であり、自分だけあっさり封じ込めに成功したぞとか勝利宣言してるのを見ると、いい加減にしろと世界各国がキレるのもわかる。というか、完璧に世界の初動が遅れて、世界中にウィルスをばら撒いたのは中国の衛生状態が悪いことと、情報統制が裏目に出たことの2点による。
タイトルの通りだが、これはどういう心理なのか、詳しい人がいたら教えてほしい。
東日本大震災のとき、私は被災者だった。そのときも楽しかった。
余震も多く、電気もガスも水道も使えない、スーパーに物がない、衛生状態も悪化していく。住んでる家も一部倒壊。身近な人の安否も不明。
それと同時に沸沸と湧き上がってくる強い興奮と高揚感があった。
日に日に少しずつだが改善されていく暮らしに「なんだこんなものか」とつまらなく思ったのを覚えている。
旅行先で似たような規模の地震に巻き込まれたときも、一瞬興奮したが「どうせ何週間かで立ち直るんだろう」と思うと萎えたし、前回の経験のせいで冷静な行動をしてる自分や、前よりもスムーズで穴のない各所の対応、すごくありがたく嬉しかったが、それと同時にすごく萎えた。
日に日に激化する普段は穏やかな両親の言い争いに「もうやめて」と泣きながら心の中ではそれ以上に興奮し、借金がたくさんあると聞いた時もショックと同時に胸が高鳴った。
親しい人であればある程亡くなったと聞いた時、血の気がひいて涙が出て、いなくなってしまったと理解すると同時くらいに、ブワッと高揚感が押し寄せてくる。
どれの最中も不安で、つらいし悲しいが、それが極まっていくほど楽しくて堪らなくなる。
これはなんなのだろうか...。
ちなみに並の不幸じゃこうはならない。命に危険があればある程、そしてそれが誰のせいでもなくて逃げ場がないほうがいい。
もちろん今回の新型コロナの騒動もすっごく不安で嫌だけど心の底ではすごくワクワクしてる。
呼吸器・気管に持病があるから感染したら健康な人より重症化リスク高い。生活圏に感染者もうでてる。今毎日が心底楽しい。
同じような人いませんか。
以下に書くことは信じるも信じないも、あなた次第。
WHOは表向きの見解と違って、新型コロナウィルスが世界に蔓延することを防ぐのはほぼ不可能であることを知っている。
このウィルスは風邪やインフルエンザと見分けがつきにくく、感染力が強いうえ、世界がまともに対応し始めたのが1月下旬からでは、すべてが遅すぎる。
現に、日本よりも防疫をしっかりしていたはずの韓国で大量感染が発覚している。ということは、中国人の往き来が盛んだった欧米が安全であるわけがない。カメラの前でいくら防護服を見せてみたって意味がない。
例えば新型コロナウィルスがまずどういう病気か分からないといけないが、幸いというべきかなんというか、日本のような西側先進国で数百人単位の感染者の経過を観察できたのは良いことだった。
この病気は先進国のほとんどの人間にとっては風邪と同様の扱いで構わない。実際、感染に無自覚だった人たちはそれで治って、何も気がつかないまま普通に生活している。もちろん、高齢者や、癌や糖尿病などの既往歴のある人は確かに危ない、でもそういう人は遅かれ早かれどうせ死ぬ。
問題はそこではない。貧困国に流行した場合にどういうことになるか分からない。衛生状態も栄養状態も悪い国の人たちは免疫力も低い。また、これは先進国でも無縁な話でない。
欧米諸国は検査数を絞ることで、感染者を過度に少な目に発表している(パニック予防)が、最貧困層や不法移民、ヨーロッパのロマのような人たちに流行するとどうなるか。日本のように戸籍でほぼ国民全員を把握していて、国民皆保険で医療制度が極めてハイレベルに維持されている国ばかりでない。
これらに加えて、もちろん経済問題も極めて重要。新型コロナウィルスで死ななくても、恐慌で民衆の衛生状態が下がるとそれで死ぬ。
ここの調整がつかないと、WHOは、国際機関として、新型コロナウィルスの世界的蔓延を公に認めることができない。
手を洗えとあれほど言われているのだから、そのようにしたら良い。マスクは意味がない。大抵の人は正しく使えていないし、予防にならない。医者ですら面倒がってマスクしない人がいるくらいだ。美味しいものを食べて(飲み過ぎはダメ)、夜はしっかり寝る。風邪だと思ったら無理せず休む。
それが、結果的には近所のお年寄りや、ひいては最貧国の人たちを守ることになる。
信じるも信じないも、あなた次第。ばか騒ぎしたけりゃしときゃいい。
ちなみに、アメリカのCDCが日本に対して新型コロナウィルスでレベル1の「注意」(よく手を洗え)を出したが、今年の1月3日に風疹でレベル2「一層の注意」を出している。ワクチンもろくに打たないのに、何が新型コロナウィルスだよ。バカらしいったらないよ。
身の回りの清潔を保ち、食事前・帰宅後の手洗いうがいを徹底していればマスクなんてつけなくても風邪を引くことはめったに無い。
子供はいま爪を噛む癖が真っ盛りなため、1シーズンに1回は風邪を引く。
風邪を引いて弱っているときに、慰めつつ、爪を噛むことが原因だと言い聞かせているので少しずつ減ってはいるが、油断すると噛む。
そのような状況で身近に風邪を引いたりしている存在があっても、自分自身が風邪を引くことはまずめったに無い。
みんなしっかり手洗いうがいをしよう。
外食するときも、無闇矢鱈にその辺を触らず、さわっても直接手で触れてものを食べたりしないで、加熱されているものを箸で食べる。
外出したくないからってデリバリーなんて調理後から食事までの間に時間がかかるものを頼むのはもってのほか。
その間どんな保存状態で、調理場や配達員の衛生状態なんてわかったものではない。
加熱に勝る消毒なし。常温保存に勝る危険な状況はなし。
文字通り解釈すると、「気持ち」の「表明」。気持ちを表に出すこと。
つまりある事象に対して嬉しい悲しい楽しい腹立たしい…などの感情を出すことだ。
しかし、ネットでの使われ方を見ると、「楽しい」「嬉しい」のようなポジティブよりの感情表明にはこの言葉は使われていない。「悲しい」「不快だ」など、マイナスの感情の発露にのみこの言葉は使われている。
さらに、「感情発露」でもなく、「気持ち表明」でもなく「お気持ち」と、気持ちに接頭語「お」がついていることがポイントだ。
この「お」は丁寧語の「御」だろう。「お気持ち表明」という言葉が流行りだしたのは天皇陛下が生前退位の意志を示す際に使用されたのが始まりだ。天皇陛下に対し敬称がついているのを今でもそのまま使っているだけと言われればそれまでだが、一般人の気持ちにも「お」を付けるのには、別の意味があるのではないかと感じている。
「自分が天皇とでも思っているのか?」「天皇のように偉そうだな」という、皮肉の気持ち。
「何『様』のつもりですか?」の『様』という敬称と同じ意味が、「『お』気持ち」の『お』に含まれているのではないかと思う。
さらに、「お気持ち表明」の亜種として、「お気持ちヤクザ」という言葉もある。これは「お気持ち表明」を明確な攻撃手段として使用する人のことを指すと思われる。五七調の言いやすさもあるのだろうが、ヤクザにつけられているのに消えていない「お」を見るに、やはり何らかの揶揄の意味が「お」には含まれているように思う。
これは私個人の解釈であり、皆が私の解釈に従え!という意味ではもちろんないのだが、インターネットでの「お気持ち表明」の使い方を見たうえでの私の中での「お気持ち」の定義は「自分の感情によって他人の行動を動かそうという気持ちが含まれている感情」であり、それを表明するのが「お気持ち表明」である。
つまり、「悲しい」「不快だ」では単なる感情でありお気持ち表明にはならず、「私は悲しい(からお前は○○しろ)」「俺は不快だ(からお前は××するな)」という()内の気持ちが言外に表れている感情の発露に限定して、感情で他人を動かすなんてお前は天皇並みに偉いのか、という皮肉を込めて「お気持ち表明」が使われているのではないかと思っている。
もちろんこれは自分の個人的な解釈であり、単なる「ネガティブな感情の発露」を「お気持ち表明」と定義している人だっているだろう。それなら私と世間の定義違いの問題であり、話はそこで終わる。ネガティブな感情の発露はいくらしてもいいし、それをお気持ちとまとめるのも勝手だ。以下の長文は読まなくてよい。
しかし、私が懸案しているのは、本当に「自分の感情によって他人の行動を動かそうとすること」が「お気持ち表明」と定義されているとしたら、何が単なる「感情」で何が「お気持ち表明」かを文章で判断できるのか、ということだ。
もちろん声に出したり文章に書いたりで明言されていれば別だ。
ケーキにハエがついていた。私は不快だし衛生状態に不安を感じた。『だから保健所に指導してほしい。』と、他人にしてほしい行動が明言されていれば、「お気持ち表明」だと定義できる。しかし、『』内の言葉がなければ単なる感情の発露である。
しかし、ネット上で「お気持ち表明」と揶揄されている発言のほとんどは、自分の感情によって他人を動かそうとする主張部分が、明言されていないことが多い。
他人どころか、自分自身でも、自分の怒りや悲しみに「私は悲しい(から○○してほしい)」「おれは不快だ(から××しなければいいのに)」という他人の行動に関与する(したい)感情が、一切含まれていないと、本当に判断できるのだろうか。
私は、自分でも判断できると思えないし、ましてや他人の感情なんかを文章だけで、正確に読み取れるとは思えない。
しかしネットにあふれるお気持ち鑑定士の皆さんは他人の感情に「お気持ち」が含まれているか否かを勝手に判断し、「お気持ち表明」としてまとめる。
他人をどうこうしようという意思のないただの感情の発露まで、「お気持ち」認定されるとマイナスの感情を抱いている人は傷口に塩を塗られている気分になるだろう。
これが進み、マイナスの感情の発露を「お気持ち」だと他人に認定され、「お気持ち表明」が悪いことだという風潮ができると、どうなるか。
ネットの中ですら、マイナスの感情はすべて「お気持ち」となり、それを発露するのは『マナー違反』となるのではなかろうか。それはかなり、息苦しい世界だと思う。
なお、マイナスの感情ではなく、「自分の感情により他人を動かそうとする」という定義の「お気持ち」については、私はあまりいい印象を持っていない。
自分の感情を発露するのは自由だと思っているが、他人に行動を強制するのは他人の意志が入ってくるため、行動を強制された他人に拒絶されたり反発されるリスクがある。しかし、「お気持ち」の形で行動の強制を明言せず、他人が怒ると「私は私の感情を伝えたに過ぎません。強制はしていません。私の感情に行動の強制を勝手に読み取ったのはあなたです」とノーリスクで逃げ道を取れる状態で命令するのはとても卑怯だと思う。卑怯な行動を止めさせたいと感じて「お気持ち」と定義して反撃したいという気持ちは理解できる。
しかし、それを勝手に判断して、「お気持ち」とレッテルを張り、単なる感情の発露である可能性のある人までまとめて叩くのは、やはりよろしくないと思う。
それに、感情の発露に勝手に行動の要求まで読み取ってくれるという風潮は、当の「お気持ちヤクザ」に対してはむしろいい効果に働いている可能性もある。感情の発露には「行動の要求」が伴うのが常識という風潮になれば、行動の要求までくみ取ろうとする心優しい人はますます増えていくのではなかろうか。「お気持ち鑑定士」は、「お気持ちヤクザ」を攻撃しているようで、実は「この人は感情ではなく他人にこのような行動を要求しているんですよ」と、(間違っている場合もあるが)「お気持ちヤクザ」の意志を通訳し、主張を広げるお手伝いをしてしまっている、という可能性もある。
例えば、とある連載漫画の人気キャラが作中で死んだとする。「まさか死んでしまうなんて。悲しい」との感情の表明に、本人の本心はどうであれ、「生き返らせろというのか。「お気持ち」だ」「キャラらしい素敵な見せ場だったじゃないか。あれをなしにしろと?「お気持ち」だ」と批判が出て、炎上したとする。
それが広まると、その「お気持ち」に賛成する者も、反発する者も出てくるだろう。すると最初はなかったはずの「お気持ち」が形になって出てきてしまう。やはり、「お気持ち」は存在するのだということになる。
もしも最初に感情を表明した人が、たんに死亡を悲しんだだけだったとすると、ただの悲しみにいちゃもんをつけられ、自分の感情の発露が大論争を巻き起こしてると知ると傷口に塩をぬられた気持ちになるだろう。
そして、もしも本当に「お気持ちヤクザ」だったとすると、自分はただ感情を吐露しただけだと言い訳ができ、さらに自分に同意する人を見つけられたし作品を知らない人にもこの騒動を届けられた、こんなに話題になるなら原作者も自分の意見に従ってくれるかもしれない、と考えるかもしれない。
どっちみち、「お気持ち表明」と決めつけることは良い結果にならないのだ。
ではどうすれば感情で他人を動かそうとする人に対抗すればいいのか。
私は、感情からその人のしてほしいことを読み取るのをやめた方がいいのではないかと思う。
本人にその意思があろうがなかろうが、「私は悲しい(から○○してほしい)」から()内は一切受け取らない。彼(彼女)が悲しかったという事実は受け取るが、感情に対しいかなる行動をとる義務はないと考える。もちろんそれを慰めるのも慰めないのも自由だし、悲しむ原因を遠ざけるのも遠ざけないのも自由だ。
そうすれば、単に感情を発露したい人は感情を発露できて満足するだろうし、他人の行動を期待している人は我慢できずに他人に要求を明言するだろう。
それが明言されて初めて、「その要求は妥当だ」「その要求は理不尽だ」と判断できる。
現実の世界では、悲しんでいる人に対して慰めないのは無礼だし、足を踏まれて怒って「痛いんですけど」と「感情」を言っている人に対して、「足をどかせ」とは言っていないなと判断し足をどかさないとさらに怒られるだろうが、ネット上では本人の顔色や状況などは何もわからないのだから、せめてネット上では「察する」文化をやめないと、ますます息苦しく、何も言えないインターネットになっていくのではないかと思う。
証明と根拠をごっちゃにしてるという事実は、増田もよくわかってないということの根拠(エビデンス)になる。
科学的証明なんてできるわけがない、証明できるのは数学の世界。
科学でやるのは、可能な限り再現可能な根拠を示して論理的に結論を出すこと。
科学にとって数学は道具であって、数学の世界が科学的に再現されることはまずないであろう。
例に挙げている「運動中に水を飲むな」は、「真水」を大量に飲んではいけないということで、スポーツドリンクがなかった昔の話。当時は生水の衛生状態が悪かったという事情もある。前提条件が変われば結論もリスク管理手法も当然変わる。
いかがわしい論理で科学を振りかざすのは害悪でしかないが、科学的根拠に基づく論理全般を忌避するのは、勉強不足の言い訳としか言えない。
今日、飼い犬の老犬が死んだ。
炎天下の中で水を求めて、苦しみながら死んだ。
安楽死させてやればよかったのだ。
犬は三半規管を悪くして自力で起き上がれず、半年くらい寝たきりのオムツ生活だった。
水、エサも自力で口にできない。
水を注射器で吸い上げ、口元にもっていく。それを1日に数回しなければならなかった。
オムツは気持ち悪いのか、つけようとすると手足をバタバタさせて嫌がった。
でも、オムツをしないとコンクリートの上に糞尿がぶちまけられて掃除に1時間以上かかる。
嫌がる犬をなだめてオムツをつける。
オムツをしていても、大便はいつのまにかオムツの外にもれている。
暖かくなると犬にもハエが飛び回った。
世話をしに行くと、ハエ数匹がいっせいに飛び立っていった。
自分は虫が苦手なのでこれはこたえた。
さらに夏が近づくと、皮膚に卵を産み付けたハエの卵が孵化してウジになるだろう。
それをピンセットでひとつひとつ除去していくのだ、とどこかのブログに書いてあった。
老化による吠え声も、家族を苦しめた。
中型犬なので、吠え声も大きく、苦しいのか甲高い声で吠えまくる。
夜鳴きもひどかった。
水をやっても、オムツをかえても、目が回って苦しいのだろう。
苦しいし、寂しいのだ、と犬好きの友達が言っていた。
そばにいて頭でもなでてやればいいのだろうが、1日中つきっきりで介護できる者はいなかった。
犬が鳴いていなくても犬の鳴き声がする。幻聴だった。
目が覚めると犬が吠えている。
仕事を中断して、料理を中断して、食事を中断して、犬の世話をしなければならなかった。
寝不足状態だと、攻撃的になるし、頭は働かないし、食欲もなくなり、IQが2くらいになるので本当によくない。
介護殺人、乳児殺しが起こるメカニズムが手に取るようにわかってしまう。
他者をケアする能力がない者は、はやく介護現場、育児現場から逃げ出してほしい。
母は昔に病気をして痩せているので、中型犬でそこそこ大きい犬の世話をするのも一苦労のようだった。
夜中に吠えまくるので、寝不足で仕事に行かなければならなかった。
もう世話をするのが限界だった。母も私も。
母や私の介護も限界で、犬も生きているのが苦しそうで見ていてつらかった。
しかし、安楽死反対派の父親に安楽死を何度も打診したが、すべて無視をされた。
父は、自分が死ぬことや、自分の知っている命が死ぬのが怖いのである。
家を出る覚悟もした。
しかし、ツイッターでデスハラスメントがバズっていて、自分は死の押し付けをしているのかもしれない、と思い直した。
「勝手に犬を安楽死させたら、自分のお気持ちゴリ押し主張マンの父親と同じ土俵に立つことになる」
「どれだけ劣悪な環境でも犬に生きる権利はあるかもしれないし、獣医に殺生の罪をかぶせるかもしれないし、死の押し付けでデスハラスメントになるかもしれない」
「けど、父親の介護はお粗末だし、劣悪な環境で苦しんで死んでいくことが予想されるぞ」
そんなことをツイッターに書いた。
脱水状態は、死ぬ時は頭の中がボーっとして気持ちよく死ねるというデータもあるけど、自分には楽に死んだようには見えなかった。
これは、看取る側の意見だ。
看取られる側も、同じ意見だろう。
しかし、犬は苦しんで死んだように見えた。
吠えないように口輪の上からヒモグルグル、ヒモがこすれて赤い肉が見えて、ハエの卵をビッシリ生みつけられハエ数十匹ブンブンの中で、苦しんで泡を吐き、脱水で死んだ。
ずっと苦しんでいた。
水をやっても、エサをやっても、動かない不自由な体に苦しんでいた。
苦しみを除去するために、安楽死があるのに。
適切にそれを使えなかったのだ。
死っていうのは綺麗なもんじゃない。
綺麗にパッケージされた死ばかり見せられてるけど、死んだらみんなハエブンブンなんだよな。
死ぬっていうのは本来、こういう残酷で惨めで惨たらしいものなんだろう。
そして、死には必ず苦しみが伴う。
でも、もっと苦痛を取り除いてやれる方法があったのではないか?
父のやり方は、苦痛に目を向けず、息さえしていればいいという感じだった。
後悔している。安楽死で楽にさせてやれなかったことを、後悔している。
命日の2日前でも安楽死させてやればよかった。
でも、父も母も積極的安楽死反対派であり、父に関してはどんな惨めたらしい姿でも生かしておきたいようだった。
家族の意見を押し切り、自分が勝手に安楽死させる罪までかぶれなかった。
犬は話せるわけではないので、犬の意見も聞けない。
でも、人間だってこんな状態になったら生きていたくないはずだ。
今日は例によって睡眠リズムが狂っていて、目覚めたら15時だった。
暑い。喉がかわいている。ペットボトルの水を乱暴に口に流し込む。
犬に注射器で水をやらなければいけない。
ベッドから起き上がれなかった。
犬に水をやりにいかなきゃいけないし、オムツも替えなきゃいけない。
でもハエブンブンの中で介護することで、その日の1日が最悪な感じで終了するのだった。
眠れなくなる、病む、自傷行為に走る、安楽死安楽死安楽死。昨日は安楽死について6時間くらいネットで調べていた。
自分のお気持ちを防衛しなきゃ、体が動かないな。動きたくない。
日記にそう書いてあった。
水をあげたらよかった、という気持ちと、水をやらずに死ねてよかったのだ、という気持ちが交互に襲ってくる。
犬が死んでしまった虚無感と、
7月に入る前に、卵が孵化しウジに変わる前に死ねてよかったのだ、という安心感と、
やっぱり安楽死させてやればよかったな、という後悔と、
もう世話をしなくていいのだ、という解放感と、
安楽死が適用される犬にも安楽死を施しにくい遅れた文化への絶望感と、
犬が死んでもなお、自分の死や家族の死について向き合わなければいけないしんどさと、
色んな負の感情がないまぜになっている。
何が正解だったのか、わからない。
これは、答えを出す作業ではない。
犬、苦しかっただろうな。
ごめんな。
文章にしてみてハッキリわかったのだが、これは、犬の介護の問題だけではない。
自分ひとりで犬を飼っていたら、お別れを言って楽に旅立たせてあげられていたのだ。
自分が無力で、決定権が父親にあり、逆らえないがゆえに犬は苦しんで死んだ。
母は「どうしたらよかったのか、家族で話し合いたい」と言っていたが、父は貝になったままだんまりを決め込んでいる。
犬の死に顔が頭に浮かんできてキツい。
当分、寝れずに悪夢をみるんだろうな。
口ヒモグルグル、歯を食いしばって、目は濁っていて空洞の穴ぼこみたいだった。
体はまだ暖かかったが、蝋人形のように手足が硬直していた。
動いていた犬が、動かない時のあの心臓が冷えたような感じを、忘れられないだろう。
コンクリートの糞尿の掃除をしていると、父が会社から帰ってきた。
「お父さんが世話するから」
いや、もう生きてないんだよ。
犬が死んで悲しい気持ちが100点、父への憎しみ1万点、安楽死が後進国文化の日本への怒り10億点、無力な自分への虚無感100億点ってかんじだ。