文字通り解釈すると、「気持ち」の「表明」。気持ちを表に出すこと。
つまりある事象に対して嬉しい悲しい楽しい腹立たしい…などの感情を出すことだ。
しかし、ネットでの使われ方を見ると、「楽しい」「嬉しい」のようなポジティブよりの感情表明にはこの言葉は使われていない。「悲しい」「不快だ」など、マイナスの感情の発露にのみこの言葉は使われている。
さらに、「感情発露」でもなく、「気持ち表明」でもなく「お気持ち」と、気持ちに接頭語「お」がついていることがポイントだ。
この「お」は丁寧語の「御」だろう。「お気持ち表明」という言葉が流行りだしたのは天皇陛下が生前退位の意志を示す際に使用されたのが始まりだ。天皇陛下に対し敬称がついているのを今でもそのまま使っているだけと言われればそれまでだが、一般人の気持ちにも「お」を付けるのには、別の意味があるのではないかと感じている。
「自分が天皇とでも思っているのか?」「天皇のように偉そうだな」という、皮肉の気持ち。
「何『様』のつもりですか?」の『様』という敬称と同じ意味が、「『お』気持ち」の『お』に含まれているのではないかと思う。
さらに、「お気持ち表明」の亜種として、「お気持ちヤクザ」という言葉もある。これは「お気持ち表明」を明確な攻撃手段として使用する人のことを指すと思われる。五七調の言いやすさもあるのだろうが、ヤクザにつけられているのに消えていない「お」を見るに、やはり何らかの揶揄の意味が「お」には含まれているように思う。
これは私個人の解釈であり、皆が私の解釈に従え!という意味ではもちろんないのだが、インターネットでの「お気持ち表明」の使い方を見たうえでの私の中での「お気持ち」の定義は「自分の感情によって他人の行動を動かそうという気持ちが含まれている感情」であり、それを表明するのが「お気持ち表明」である。
つまり、「悲しい」「不快だ」では単なる感情でありお気持ち表明にはならず、「私は悲しい(からお前は○○しろ)」「俺は不快だ(からお前は××するな)」という()内の気持ちが言外に表れている感情の発露に限定して、感情で他人を動かすなんてお前は天皇並みに偉いのか、という皮肉を込めて「お気持ち表明」が使われているのではないかと思っている。
もちろんこれは自分の個人的な解釈であり、単なる「ネガティブな感情の発露」を「お気持ち表明」と定義している人だっているだろう。それなら私と世間の定義違いの問題であり、話はそこで終わる。ネガティブな感情の発露はいくらしてもいいし、それをお気持ちとまとめるのも勝手だ。以下の長文は読まなくてよい。
しかし、私が懸案しているのは、本当に「自分の感情によって他人の行動を動かそうとすること」が「お気持ち表明」と定義されているとしたら、何が単なる「感情」で何が「お気持ち表明」かを文章で判断できるのか、ということだ。
もちろん声に出したり文章に書いたりで明言されていれば別だ。
ケーキにハエがついていた。私は不快だし衛生状態に不安を感じた。『だから保健所に指導してほしい。』と、他人にしてほしい行動が明言されていれば、「お気持ち表明」だと定義できる。しかし、『』内の言葉がなければ単なる感情の発露である。
しかし、ネット上で「お気持ち表明」と揶揄されている発言のほとんどは、自分の感情によって他人を動かそうとする主張部分が、明言されていないことが多い。
他人どころか、自分自身でも、自分の怒りや悲しみに「私は悲しい(から○○してほしい)」「おれは不快だ(から××しなければいいのに)」という他人の行動に関与する(したい)感情が、一切含まれていないと、本当に判断できるのだろうか。
私は、自分でも判断できると思えないし、ましてや他人の感情なんかを文章だけで、正確に読み取れるとは思えない。
しかしネットにあふれるお気持ち鑑定士の皆さんは他人の感情に「お気持ち」が含まれているか否かを勝手に判断し、「お気持ち表明」としてまとめる。
他人をどうこうしようという意思のないただの感情の発露まで、「お気持ち」認定されるとマイナスの感情を抱いている人は傷口に塩を塗られている気分になるだろう。
これが進み、マイナスの感情の発露を「お気持ち」だと他人に認定され、「お気持ち表明」が悪いことだという風潮ができると、どうなるか。
ネットの中ですら、マイナスの感情はすべて「お気持ち」となり、それを発露するのは『マナー違反』となるのではなかろうか。それはかなり、息苦しい世界だと思う。
なお、マイナスの感情ではなく、「自分の感情により他人を動かそうとする」という定義の「お気持ち」については、私はあまりいい印象を持っていない。
自分の感情を発露するのは自由だと思っているが、他人に行動を強制するのは他人の意志が入ってくるため、行動を強制された他人に拒絶されたり反発されるリスクがある。しかし、「お気持ち」の形で行動の強制を明言せず、他人が怒ると「私は私の感情を伝えたに過ぎません。強制はしていません。私の感情に行動の強制を勝手に読み取ったのはあなたです」とノーリスクで逃げ道を取れる状態で命令するのはとても卑怯だと思う。卑怯な行動を止めさせたいと感じて「お気持ち」と定義して反撃したいという気持ちは理解できる。
しかし、それを勝手に判断して、「お気持ち」とレッテルを張り、単なる感情の発露である可能性のある人までまとめて叩くのは、やはりよろしくないと思う。
それに、感情の発露に勝手に行動の要求まで読み取ってくれるという風潮は、当の「お気持ちヤクザ」に対してはむしろいい効果に働いている可能性もある。感情の発露には「行動の要求」が伴うのが常識という風潮になれば、行動の要求までくみ取ろうとする心優しい人はますます増えていくのではなかろうか。「お気持ち鑑定士」は、「お気持ちヤクザ」を攻撃しているようで、実は「この人は感情ではなく他人にこのような行動を要求しているんですよ」と、(間違っている場合もあるが)「お気持ちヤクザ」の意志を通訳し、主張を広げるお手伝いをしてしまっている、という可能性もある。
例えば、とある連載漫画の人気キャラが作中で死んだとする。「まさか死んでしまうなんて。悲しい」との感情の表明に、本人の本心はどうであれ、「生き返らせろというのか。「お気持ち」だ」「キャラらしい素敵な見せ場だったじゃないか。あれをなしにしろと?「お気持ち」だ」と批判が出て、炎上したとする。
それが広まると、その「お気持ち」に賛成する者も、反発する者も出てくるだろう。すると最初はなかったはずの「お気持ち」が形になって出てきてしまう。やはり、「お気持ち」は存在するのだということになる。
もしも最初に感情を表明した人が、たんに死亡を悲しんだだけだったとすると、ただの悲しみにいちゃもんをつけられ、自分の感情の発露が大論争を巻き起こしてると知ると傷口に塩をぬられた気持ちになるだろう。
そして、もしも本当に「お気持ちヤクザ」だったとすると、自分はただ感情を吐露しただけだと言い訳ができ、さらに自分に同意する人を見つけられたし作品を知らない人にもこの騒動を届けられた、こんなに話題になるなら原作者も自分の意見に従ってくれるかもしれない、と考えるかもしれない。
どっちみち、「お気持ち表明」と決めつけることは良い結果にならないのだ。
ではどうすれば感情で他人を動かそうとする人に対抗すればいいのか。
私は、感情からその人のしてほしいことを読み取るのをやめた方がいいのではないかと思う。
本人にその意思があろうがなかろうが、「私は悲しい(から○○してほしい)」から()内は一切受け取らない。彼(彼女)が悲しかったという事実は受け取るが、感情に対しいかなる行動をとる義務はないと考える。もちろんそれを慰めるのも慰めないのも自由だし、悲しむ原因を遠ざけるのも遠ざけないのも自由だ。
そうすれば、単に感情を発露したい人は感情を発露できて満足するだろうし、他人の行動を期待している人は我慢できずに他人に要求を明言するだろう。
それが明言されて初めて、「その要求は妥当だ」「その要求は理不尽だ」と判断できる。
現実の世界では、悲しんでいる人に対して慰めないのは無礼だし、足を踏まれて怒って「痛いんですけど」と「感情」を言っている人に対して、「足をどかせ」とは言っていないなと判断し足をどかさないとさらに怒られるだろうが、ネット上では本人の顔色や状況などは何もわからないのだから、せめてネット上では「察する」文化をやめないと、ますます息苦しく、何も言えないインターネットになっていくのではないかと思う。
誰かimakita頼む
他人を動かそうとするときに感情だけで論理が伴っていない場合に「お気持ち」と言われるんだぞ。