はてなキーワード: 現実とは
AIでエロ絵を作らせても、まだ現実に囚われた裸の女ぐらいしか作れないんだよな
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
理由として、男性は女性から痴漢行為や冤罪行為を受けたと被害を主張するケースが殆んど無いからです。
女性専用車の設置理由は、男性から直接痴漢被害を受けたくない女性が選択出来る車両だからです。(過剰に被害意識を持つケース等)
痴漢加害者の冤罪を気にする余り、男性専用車両の選択肢は常軌を逸した措置と考えます。(現実にはあり得ません)
通勤時間帯に限り、連結車両(約8〜12両)の中央部に設けることは必要であり効果があります。、全鉄道会社が 『方式を統一』 した実施を要望します。
通勤時間帯の混雑は、乗客が車両内を自由に移動出来ない物理的状況に問題があります。(近くに不快な人物が居ても退避出来ない等)
最近の最新最強のキモオタコンテンツはVtuberだと思う。業界の勢いも金の動きもファンの楽しいそうな感じもとてもいいと思う。
正直あんなに熱中して追い続けられてるのはとても羨ましいし眩しく見える。とても素晴らしい事だしぜひ続けて欲しい。色々あるけど負けるなVTuber業界
ただそこに乗ってけない枯れた?ズレた?オタクもいる。そんなオタクがハマってる人への憧れとハマれない疎外感と悲しさを抱えてマジで適当に書き散らすので読みにくいと思う。多分現代のオタクと呼ばれるものではなくなってしまった。俺はただの懐古厨に成り下がってる。
VTuberの動画も配信も全くもって興味がわかないし見ようとも思えない。リリースしてる曲を勧められて聞いても、インターネットっぽい曲だね!歌上手いね!で終わる。他も聞くかとか、リピートするかとはなってない。
なんでかわからないが何かの拍子に見た人のでなんとなく見続けてるのはある。一体なんの差なのか。不思議
多分、興味がない根底にはVOCALOIDとかニコ生とかあの辺りの文化に触れどもハマらなかったから距離があったり、アイドル売りというか百合売り?関係売り?とにかくそんな絡み的な?関係性的な部分に全く興味がわかないし関心もないのがある気がする。
そもそもVTuberはキャラクターとしてみるのか?配信者として見るのか?しかもわからない。最初の設定はあるけどそのうちなあなあで関係なくなってくらしい。それはもうただの配信者では?と思うが、Xの流れてくる二次創作を見る限りキャラクター成分が0ではない気がする。だから立ち位置が全く腹に落ちない。
VTuberはキャラクター性の部分は確かにあるけど基本はライブ感?なんだと感じてる。配信時の反応返しとかそういうのがウケてるのかな?となるとやっぱり「生」を感じてしまう。そうなるとVTuber同士の百合絡み、イチャイチャ、仲いいです的な(悪くいうと仲いいアピール)これがほんとに受け付けない。キモいとも感じてしまう。キスだ百合だ尊いだなんだと流れてくるがそれで盛り上がるのが理解できない。「生」を感じると現実が見えてしまうし、実際そんなもんありえないでしょ?オタク釣るのにそういうのいいもんね?とか思っちゃう。ついでにそういうのにほんとに興味を持てない。ひねくれクソオタクの自覚はある。
キャラクターにリアルタイム性とか現実感とか求めてないし欲しくないからダメなのはあると思う。キャラクターはあくまで外から見るものであってこちらからのアクションに反応はいらない欲しくない。これが今のところ一番理由っぽい理由かなとはおもう
結局キャラクターっぽく皮被ってるけど中の生が透けて見えてたりでてきてたりするのがダメなんだと思ったり思わなかったり。「生」が見えるとキャラクターじゃなくて現実が見えるから幻想じゃなくて現実の配信者になるそうするとキャラクター設定とか他との関係とか全部キツくサムくなる
戦争とは教科書通りに行かないもので、ロシアの無計画性と核恫喝の効き目などを与件に入れた結果、21世紀に塹壕戦による押し合いへし合いが現実に行われている。
機甲部隊による突破がドローンで封じられると「安上がりなトライ」としてバイク特攻が試みられる、このグロテスクさ。
ところで塹壕を守るのは人である必要性があるのだろうか。カメラ付き据え置きリモコン機関銃(自爆スイッチ付き)は不屈の守備兵よりよっぽど頼りになったりして。
今から書き連ねるのは知識の偏ったエアプの適当な雑語りなので、例に挙げた作品・キャラが好きな人は話半分に見るか「死ねクソ野郎」や「長い三行」や「読んでないけど」とトラバとかブコメしてくれたらいい
ただし俺は間違いを指摘されても俺は態度を改めるつもりはないし、傷ついた人がいたとて「誤解を招いてゴメンネ」という誠意のない謝罪しかできない
最近だとオタクに流行っている「しかのこのこのここしたんたん」と「ダウナー系お姉さんに毎日カスの嘘を流し込まれる話」
それ以前なら「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」「ボボボーボ・ボーボボ」「荒川アンダーザブリッジ」「あそびあそばせ」「ピューと吹く!ジャガー」「増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和」…とまあ、こんな感じかな
こういう感じの「登場人物が破天荒、無責任、無秩序、非常識、頓珍漢、素頓狂な漫画」が、いつも一定層の人気を得ている
そうだね、世間で「全裸中年男性」と言われるような、有り体に言えばキジルシのやばい人達だ、おまわりさんこっちです案件な存在だ
そうしてみると、「創作かつキャラクターである」という要素は、そういうアレさを薄めてくれるいいフィルターになる
逆説的に言うと、だ
「全裸中年男性じみたアレな存在」も美少女やイケメンの皮をかぶせた途端に、キャラクターとして「愛される」って事になる
じゃあ、「往来で全裸になって変なことをするタイプのアレな人」以外のアレなパターンはどうなるんだろうか
まずネット民が嫌って嫌って仕方なく、一部層からしたらトラウマでしかないであろう「イジメっ子」だ
昨今の漫画・ラノベ・アニメ・なろう系ではイジメへの報復をする作品も多いが、キャラクターとして人気な「イジメっ子」もまあまあいる
わかりやすい例だとちょい前に完結した「僕のヒーローアカデミア」のライバル枠キャラ、爆豪勝己だ
まあ本当に好き嫌いが…というか嫌いな人も多いであろうキャラなんだが、それにしたってこのキャラを好きという人も多く見る
「聲の形」の川井みきも嫌ってる人は多く見るが、その中に普通に好きだという声もある
現実でもやはりというかこういうイジメっ子ってのは、それこそネットにイジメ返されるレベルで忌避され嫌われるんだが
キャラクターの皮を被せるととたんに「ヒールな魅力を感じる」「苦悩の中であがいている」みたいな味付けがなされて、人気も得られてしまう
次に「犯罪者」だね、まあ「泥棒」とか「殺人鬼」とかなんでもいい
現実じゃ近寄りたくない存在No1で、前科があるだけで距離を置く人だってたくさんいる、俺だってそうする
だが、キャラクターの皮を被ると「ダークヒーロー」「我が道をいく無頼漢」と急に好かれてしまう
日本の作品なら「ルパン三世」のルパン三世と仲間たちだ、泥棒だったり暗殺者だったりと血まみれの存在だが、おとぼけ怪盗チームとして現実では好かれている
街道で全裸になる変態は、キャラクターになれば「コミカルで面白いやつ」に
人を追い詰めるイジメっ子は、キャラクターになれば「Sっ気があってステキ!」に
この前アメリカ人の同僚と食事をしていると「日本人女性は少食だ」という話になった。
以前から「日本人女性は話す声が高い」「女性は幼い方がいいという偏見を内面化しているからではないか」と言っていた彼女だが、
似た理由で日本人女性は少食になってしまっているのではないか、とのこと。
日本では女性は少食であるべき、スリムであるべき、という風潮が強すぎて、女性が内面化し、少食になってしまっているのではないだろうか
先日「日本人女性は少食」と言っていた同僚が牛角の件で腹を立てていた。
あれは「女性は少食」というイメージを強化し、女性は少食であるべき、スリムであるべき、という抑圧的風潮を強化するものだと。
例えばこういう投稿がSNSで拡散された時、フェミニズムとしては同調する可能性もある。
「イメージの強化」や「それによる女性への抑圧」はフェミニズムの頻出テーマだし、女性の方が少食だとしても海外の女性と比べるとその度合いは結構異常な可能性がある、だとすれば日本特有の部分は抑圧によるものの可能性も。
それに例えば実際に統計的に「女性の方が食べる量が少ない」というデータがあったとしても、それが抑圧の結果であればそれは是正すべき事態であって、
抑圧を是認してイメージの強化を続行するべきではない、というフェミニズム的視点はあり得る。
ただ、実際にそうなるかというと・・・・難しいというのが現実だとも思う、だから「実はフェミニズム的にもこういう観点もあり得るよ」とだけネットの片隅に書き残しておく。
現代社会において、私たちが直面する最大の憂いの一つは、日々の情報が馬鹿げた話題で溢れかえっているという現実である。このような状況は、私たちの精神を蝕み、深遠な思索を妨げるものとして、静かに、しかし確実に私たちの生活に影響を及ぼしている。
情報技術の発展により、私たちは膨大な情報にアクセスできるようになった。しかし、その多くは浅薄で一過性の話題に過ぎない。メディアは視聴率やクリック数を追求するあまり、センセーショナルで軽薄な内容を優先し、本質的な問題から目を逸らさせる。このような情報の洪水は、私たちの注意力を散漫にし、深い思考を阻害する。
このような環境下で育つと、知識や教養を追求する意欲が薄れ、知性が衰退していく危険性がある。私たちは、物事の表面的な部分だけを捉え、深く考えることを避けるようになってしまう。哲学や文学、科学といった深遠な分野に対する関心が薄れ、代わりに短絡的で即時的な満足感を求めるようになる。
この知性の衰退は、社会全体にも深刻な影響を及ぼす。複雑な問題に対する議論が浅くなり、短絡的な解決策が優先されるようになる。民主主義の根幹である熟慮と対話が失われ、極端な意見が台頭する危険性が高まる。
しかし、このような状況に対して私たちが無力であるわけではない。知性を尊び、深い思索を重んじることは、個人の選択に委ねられている。私たちは、意識的に質の高い情報を選び取り、深く考える習慣を身につけることができる。読書や対話を通じて、知識を広げ、視野を深めることが可能である。
馬鹿の話題ばかりが溢れるこの時代において、私たちが失ってはならないのは、知性と深遠な思索への渇望である。それは、私たち自身の内なる豊かさを育むだけでなく、社会全体の健全な発展にも寄与するものだ。私たちは、浅薄な情報の波に流されることなく、自らの知性を磨き続けることで、より良い未来を築くことができるのである。
この夢は、自己の願望や内面的な欲求を反映していると考えられます。以下の要素を分析します。
夢の中で「別の世界の自分と入れ替わる」という儀式は、現実逃避や新しい体験への渇望を示しています。特に、アニメやゲームの世界に行くことを望むことは、現実のストレスやプレッシャーからの解放を求めていることを意味します。
長老が「ハイハイ…」と呆れ顔で反応する部分は、自己評価や他者からの評価に対する不安を示唆しています。この反応は、夢の中の自己が他者にどう見られているかを気にしていることを示しています。
儀式を通じて望みの世界に行くことができるのは、希望や願望が実現する可能性を示しています。これは、現実の中で自分の理想を追求する意欲を反映しているとも解釈できます。
現代の日本社会の病理、目を背けたくなるようなグロい現実が描写されていると感じます。結局、オウム、統一教会、創価学会のようなカルト宗教団体の信者は奴隷なんですかね。
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いつも思っていた事なのですが、パチンコ中毒と同じく、集団ストーカーも中毒ですよね。
今まで私なりに観察をしてきて思うには、
① 生まれた時から、親の集ストに付き合わされ、当たり前の事として参加する。
② 2~3才位から、ターゲットの前で、奇声をあげたり、飛び跳ねたり、歩くのを邪魔したり、少し使命感を持ってやらされ、達成すると、こんな簡単なことで、異常なくらい褒められる。
③ 幼稚園、小学校、中学校と創価学会の集会に真面目に参加し、「今日も頭に手を乗せ、アンカリングしてやりました。」「笑ってやりました。」「咳をしてやりました。」「くしゃみをしてやりました。」「異常な行動をとってやりました。」「仄めかしてやりました。」等々 発表などして、「今日も勝ちました。」(爆笑)とか言って、またまた簡単な事で、異常に褒められる。
④ 高校生以上になると、もう集スト無しでは生きていけません。体が脳内麻薬を求めてしまいます。
(他人に自分がどんな風に見られようが、集ストが欲しくてたまらなくなります。)
⑤ しかし集ストには限界が有ります。警察に捕まるような事、又は自分がターゲットに殺されてしまうような事までは出来ません。ここで問題なのは、どんどん今までの脳内麻薬の分泌量では足りなくなってくると言うことです。覚せい剤と同じです。
(創価学会員の家の子息は、熱心な家ほど、引き篭もりや、統合失調症が多いそうです。脳内麻薬の量が足りず、常に不安感が付きまとい、精神が安定しません。)
⑥ 犯罪者になるか、廃人になるまで続けるしかありません。被害者の皆さんが、「ゾンビのようで気持ち悪い。」と言うのは多分、薬切れの状態か、脳内麻薬が効いている状態かどちらかかも知れません。
(年寄りほど、そして女性ほど、中毒から抜け出すのは難しいと思います。)
不幸な病人を次々と作り出す、創価学会という金集めの組織。人間なら赦してはならない。
(書き足りませんでした、笑)
現代の脳科学では、人間の脳が大人の脳として確立するのは、36歳前後なのだそうです。
まだ成長過程の大切な若い脳に、「過剰な使命感」「過剰な達成感」「過剰な選民意識」「題目とやらを長時間唱えることによる過剰なトランス状態」「過剰な集団での喜び(集団催眠)」等々、脳内麻薬漬けの日々。
それだけに留まらず、今度は集団ストーカーという行動を行わせることによる、体への快感の刷り込み。
ほぼ絶対に見つからない状態からの「電磁波等の科学力」を用いて、人間をいたぶる「過剰な黒い喜び」
ターゲットが、「社会的に再起不能」か「自殺」「病死」「事故死」等した時の「勝った」という大きな勘違いの「過剰な達成感と黒い喜び」
これだけ脳内麻薬漬けになれば、もはや抜けられない「中毒患者」です。
ちなみに、薬物中毒に例えると、
50代以降はもうきっと、集スト無しでは生きていけませんよね。
40代 う~ん 命懸けでギリギリ。30代、20代、10代と若くなるにつれて、自分自身の強い精神力で抜け出せる。という処でしょうか。
ところが、創価学会という所は、この中毒から抜け出せない年寄りジャンキー達が、若者にしがみつき、自分と同じジャンキーに仕立て上げようとする。
実に目も当てられない、「負のスパイラル構造」になっているのでしょう。
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牛角の件で男性差別が注目されてるけど、年金周りの話で男女の寿命差に言及する人もちらほら見るようになった。
ようやく女性が男性から何を搾取しているのかの本丸に近づいてると思う。
平均寿命差とか健康寿命とか自殺率とかデータを見るとわかるけど、結局女性は男性の"命"を搾取してるんだよね。
より具体的に言うと健康とか。
根本的に男性の命を吸い取って女性は生きてるんだけど、ここに気づいてもその差分があまりにも大きすぎて見逃してしまうんだと思う。
男女が平等にならないのであれば年金を女性に多く払ってもらったりする必要があるんだけど、なかなか気づきづらいよね。