はてなキーワード: 外貌とは
都知事選のポスター問題について、実効性があり、なおかつ選挙の自由を脅かさない規制にはどんなものがありうるだろうか。
(中略)
皆さんが知っておかなくてはいけないことは、心理学というのは人間の心の秘密を解き明かすような学問ではない、ということです。
心理学者はかけがえのない個人ではなく、平均化された、つまり「データ」としてしか存在しない個人 (実は人間以外の動物であろうとロボットであろうと、心理学者にとっては全て等価なのだが) を研究しています。
心理学者はこの平均化するやり方が大好きです。
例えばある人のパーソナリティ (性格) を測定する際には、いくつかの項目への回答や、これまでの行動履歴などを平均して算出します。
あるいは、男性と女性の違いについて論じる際には、男性実験参加者と女性実験参加者の刺激への反応パターンをそれぞれ平均して比べます。
さて、平均化して (いくつかのパタンに分けて) 人間を見ていくやり方は、「モデル」という考え方です。
「モデル」という職業がありますが、あれも「どこにも存在しないような美人」という意味ですから、まさに「モデル」なわけです。
こうしたモデル型の研究パラダイムは19世紀の後半に心理学が誕生してから、われわれがずっと一貫して採用しているものです。
心理学の屋台骨を支える重要なモデルは、刺激―反応 (S-R) です。
新行動主義ではその間に媒介変数を採用することになった、なんてことはどうでもいいことです。
相変わらず心理学者がやっているのは、刺激と反応の関係についての関数の研究です。
こうした研究パラダイムは研究業績を大量に生み出すことに貢献してきました。
おかげでわれわれ心理学者は大学に講座を得て、国から研究費をいただき、多くの研究成果を蓄積していくことができたわけです。
「『タイプ』『モデル』的な結合、つまり述語結合を諸々の接合や離合の軸に置く考え方は、機能主義心理学の人間観です。
多くの心理学者にとって「機能主義」は過去のものであり、「私の心理学は単なる機能主義ではない」と主張する人が多いと想像されます。
多くの心理学の教科書では「機能主義」はウィリアム・ジェームズによる構成主義批判として生まれ、過去のものとして扱われていますが、
刺激を条件間で統制して、それへの反応の差異を検討するという最も心理学者の好きな研究手法 (=実験) が、まさに機能主義であるわけです。
「外面性の強度は、内面性の強度と『相関』しているというのが、機能主義=行動主義の論理的な帰結」 とあるように、
心理学者にとって重要なのは、外部からの刺激に対してどのような反応が観察されるか、ということに尽きます。
要するに、ある刺激をある反応に変換する「関数」がどのようなものかを明らかにするのが心理学 (機能主義) の目的です。
その意味で、心理学者にとって人間と同じ振るまいをするものは、それがロボットだとしても人間と等価だし、人間の病気と機械の故障は区別ができない。
behaviorを「行動」と翻訳するのは誤りであり、「要するに外見=外貌」が中身を決めるという考え方が行動主義であると断言します。
心理学者にとっては「外から観察可能な行動のみを研究対象にする」というところでしょうか。
確かに、私自身もbahaviorismは「行動主義」よりは「外貌主義」と翻訳した方がよいと同意します。そして、全く確かに心理学者が扱っているのは <心> ではありません。
心理学の学会でこうした機能主義批判に関わる内容が扱われることはほとんどありません。
学問の根本を成り立たせている原理についての議論は、学会では通常なされません。
「こんなところで言うかよ」という反応をされてしまうのが普通です。
じゃあどこで言うんだよ、と思うことも多いわけですが、「われわれの学問を成り立たせている最も重要な前提については疑わずに議論しましょう」というのが学会大会の暗黙のルールです。
「『先生、先生』と言われ続けて何十年にもなる。そうすると『先生』は大体がバカになる」 と言うように
論文を書けば書くほど、学会大会に参加すればするほど、学生を教育すればするほど、学者はバカになります。
専門的になればなるほど、学者がバカになる要素は増えていきます。
自分たちがどのくらいバカなのかを知るためには、自分たちをバカにする人を見つけることが重要です。
心理学者にとって、自分たちを掛け値なしにバカにしてくれる存在というのは、たいへん大きいものだと思います。
3段落目にいきなり「断言」って言葉が出てくることとか「私」がいきなりでるとか文章のつながりが気持ち悪いと思ったけど、ぐぐったらamazonレビューの引用なのね。なるほど。
正解。
このコメントが出てくるまでに430人もの人がだれもググらない。すごい。
見た目の年齢が低いなら規制対象にすべきだ。
では、「若く見える見た目の人が出演しているエロコンテンツ」はどうか。たとえば30を過ぎてなおミドルティーンにしか見えない外貌のAV女優がセーラー服を着てAVに出演するのを規制するのか?(セーラー服を着用しているだけで、学生とかJCとかJKとかの単語は一切用いていないものとする)
それは、外見による差別ではないのか? なぜ、年齢どおりの見た目の人や老けた見た目の人が職を得られるのに、その人は就業の機会を奪われねばならないのか?
さらに、東アジア人は白人よりも若く見られることはよく知られている。20代のアジア人がティーンと間違われるというのはアジア人にとってはよくある笑い話だ。これは人種の違いというやつで、これ自体は良くも悪くもない。
では、白人がマジョリティを占める国で、アジア人の成人が出演するAVが「未成年に見える」という理由で規制されたとしたらどうか?
それは人種差別ではないのか? 白人にとっての「普通」のものさしでアジア人の年齢を推し量り、不利益になる措置を下しているのだから、白人中心主義に基づく差別と呼ばれても仕方ないんじゃないのか?
「見た目の年齢が低いなら」という理屈だと、こういう差別を認めることになっちゃうんだよな。素直に出演者の実年齢で区切るべきだよ。
外貌にやけどやケガ痕が残った場合は障害認定って、こんな容姿差別が許されてよいのかね。
「顔がそんなじゃ会社の窓口とかレストランのウェイター、ウェイトレスとかできないでしょ」ってことなんだろうけど、
これは例えば「男の保育士とかロリコンの変態っぽいからやだ、やめてほしい」とかの
偏見を育ててるのと変わらん。「醜いやつには接客業むり」って言ってるようなもん。
国がやるべきは容貌がどうであっても差別的な取扱いを許さないように法整備することでしょ。
そもそも火傷痕や傷痕を「醜状」と呼ぶのがまあひどい話だ。
折しもオリンピックの演出の件で渡辺直美が「私自身はこの体形で幸せ」、「体型のことを
どうこう言う次元じゃない」とルッキズム否定を述べたけど、国の認識は「オリンピッグ」のまま。
「顔に火傷痕がある?それじゃあアンタは醜いね、そんなツラじゃ他の人と同じように働けないね、アンタ障害者ね」