はてなキーワード: 弾圧とは
こういう記事書きました
https://anond.hatelabo.jp/20220710140016
なるべくして腑抜けになった感じ
まんまと皆騙されてて哀れに思うわ
いつ目が覚めるんかね?
一言で言えば、自民党内の党内闘争で勝たなければならないため。
id:hokke-ookamiが、政党の姿勢でいえば、性的少数者を漫画などの悪影響とみなす支持団体は軽視され、表現の自由市場にまかせる表明が表現弾圧あつかいされることが不思議 - 法華狼の日記というエントリを書いている。
ここでは、神道政治連盟をはじめとする宗教保守が、マンガなどの表現の弾圧を表明しており、その団体が自民党の主要な支持団体であることを問題視していないこと。また、あくまで、表現の自由市場の中での淘汰を主張したに過ぎない日本共産党を問題視すること。この二つを批判している。確かに、一見すれば変な話だ。
しかし、これは、自民党と日本共産党の基本的な性質の違いというものを無視している。
ご存知のとおり、自民党は政権与党である。また、この政権与党の地位は、かなり盤石なものであるとも見て取れる。そして、そうである以上、自民党が「マンガを規制する」と決めてしまえば、止めることは難しい。つまり、自民党が「マンガを規制する」と決めないようにする必要がある。
さて、では、自民党は「マンガを規制する」という方向で一枚岩なのだろうか? そんなことはない。これは他の問題でも同じである、農業、福祉、医療、財政…様々な政治課題について、全く意見の異なる議員が同居して、それぞれが党の意思決定に関与するかたちで動いている。
だから、オタクたちは、自民党に組織内議員を送り込んで、「マンガを規制する」と決めさせないように動く必要があるし、それができなければ、野党が何を言おうとも規制されるのである。
その意味で、今回の参院選において、自民党の赤松健の主敵は、立憲も共産でもなく、宗教保守の組織内候補である自民党の山谷えり子である。
対して、日本共産党は、良くも悪くも一枚岩の政党である。民主集中制に基づき、議論を経た意思決定に逆らうことは許されず、党官僚が強く統制している。これは一貫した政治行動をとる政党組織としては非常に正しい。
しかし、そうであるがゆえに、吉良良子が「“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」とテレビで発言したことは、日本共産党がそのような価値観で動いており、末端の党員までその決定に従うように統制されていると考えられる。そうである以上、それをオタクが支持することはできないのである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20220708/k10013707601000.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20220708/k10013707681000.html
元々、表現の自由といったらナチスドイツのSSやソ連のKGBがやったみたいに国家から弾圧されるものだった。だから、表現の自由は一般的に消極的自由に分類されてそれに基づいて立法や議論がなされてきた。
でも今は状況が変わりすぎた。
今も上記のような古典的な表現の自由の侵害はあるし、起こりうる。でも、今の民主的と言われる国々ではこれらよりも強力な私人による表現の自由の規制の方が遥かに危険性として高い。
例えばクレジットカード会社が決済を拒否すれば、インターネット上のプラットフォームは立ちいかなくなるし、GAFAを敵に回したら対抗出来る人などいないだろう(国レベルでもかなり厳しい)。
現にトランプは元アメリカ大統領の大富豪という圧倒的強者だが、GAFAやTwitterから締め出された結果ほとんど表舞台に現れることができなくなってる。
こういう私人間での規制のやり合いが激しくなってきてる現状で国家からの規制にばかり怯えて、それしか議論しないのはさすがに視野が狭すぎる。
特定の強者や大企業が自由に表現を規制するのも経済活動の自由だと言って認めるならそれも1つの立場だろうけど、表現の自由は国家が侵害するものだと盲信して国家が関係しないところで特定の強者や大企業が表現の規制をおこなってること自体を認めないのは現在の世界の分析としてあまりに稚拙すぎる。世界恐慌直後に闇雲に自由主義を盲信して何も対策をしなかった政治家や経済学者の二の舞になるぞ
正直俺は表現の自由は既に消極的自由の枠を超えて積極的自由の枠にも入りつつあると思ってる。俺はこれに対してどうやって対策すればいいのか、そもそも対策するべきなのかは分からないけど戦前日本が憲兵を使って取り締まるみたいな古典的な表現の自由を考えるだけの時代はもう確実に終わった。
これについて、哲学でも憲法学でもなんでもいいからこの手の問題に触れてる書籍とかがあったら読んでみたいから何か知ってたら教えてほしい。
他にも表現問題を掲げている人はいますが、ここはひとまず赤松健に票を集中させましょう。
他にも表現問題を掲げている人はいますが、ここはひとまず赤松健に票を集中させましょう。
他にも表現問題を掲げている人はいますが、ここはひとまず赤松健に票を集中させましょう。
他にも表現問題を掲げている人はいますが、ここはひとまず赤松健に票を集中させましょう。
赤松健に100万票入れば「オタクは票田になる」と認識され不当な二次元弾圧を止めることができます。
まあ、本格的にやろうと思えば骨相学だとか日本の水野南北研究が必要になるが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AA%A8%E7%9B%B8%E5%AD%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8D%97%E5%8C%97
いかにして人間は独裁や虐殺に走るかという、人相からひも解く再研究は今の時代に必要だと思う。
市〇市の前市長と、18歳パパ活議員だろうか。いずれも人相的な「素養」を持っていたと思う。
できればそのまま継続して、どのように「出来上がる」のかを観察したかったが、
いずれも辞職してしまった。民主主義の自浄作用によるものだろう。
若い時の人相・骨相で未来を占うというひそかな楽しみだっただけに残念である。
もちろん人間は数年で変わることもあるので、好転の期待ということでもあった。
彼らは熱血さがあり、トップになったときに暴走しそうな感じがあったが、
いっぽう正反対の例として、酷吏のような冷血な顔の議員も気になっている。
具体的には香港の女性長官や台湾の野党党首のような目つきである。
日本の政治家は、宗教性の高い団体にこちら寄りの人が多いようで、判別がつきやすい。
どちらかというと独裁で暴走するというよりは、集団性の中で冷血さをいとわない、
といったイメージで、やはり歴史に見る「酷吏」という表現がぴったりに思う。
像や彫刻を飾るのも当然に表現の自由だ。ましてや私有地ならばなおさらだ。
たとえば人口の2%のみを占める『マイノリティA民族記念館』があり、その記念館の入口にA民族を代表する彫刻の『A民族の子孫繁栄を願う彫刻』があることについて、
「露出が多いわけでもないし性器や乳房が強調されているわけでもないが、子孫繁栄という時点で性的な要素を感じて不快になるから撤去せよ」とマジョリティの大半が言い出しても撤去されるべきではないのは明らかだ。
だが一方で、ネオナチの金持ちが町の至るところに土地を買い、その土地に誇示するようにヒトラーの銅像をあちこちに設置して、そのことへの不快感をユダヤ人たちが訴えても、市長や市議会議員もネオナチではないにせようっすらと反ユダヤ的な考えを持っていて「そうは言っても私有地に設置されている私有財産ではどうにも」とのらりくらりと躱し続けたら。それは事実上の「我々はホロコーストを肯定します。だからユダヤ人はこの町に来るな」というメッセージであり、不当である。条例で撤去させない町は差別主義の町である。
同様に、市の至るところにネイサン・ベッドフォード・フォレスト(KKK創設者)やベルギー王レオポルド2世やセシル・ローズの銅像が飾られていたら
「我々は黒人差別を肯定します。だから黒人はここに来るな」という事実上のメッセージになり、
市の至るところにウルバヌス2世の銅像が飾られていたら
「我々は十字軍を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という無言の主張になり、
市の至るところににコロンブス像が飾られていたら「我々はネイティブ・アメリカン弾圧を肯定します。だからネイティブ・アメリカンはここに来るな」という事実上のメッセージになり、
市の至るところにダンテ像が飾られていたら
「我々は神曲におけるムハンマドの扱い(聖書を歪めて解釈したとして地獄に落とされている)を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という事実上のメッセージになり、
「我々は脱亜論を肯定します。だから中国人や韓国人はここに来るな」という事実上のメッセージになり、
市の至るところにオリバー・クロムウェルの銅像が飾られていたら
「我々はアイルランド虐殺を肯定します。だからアイルランド人はここに来るな」という事実上のメッセージになり、
「我々は性的客体化を肯定し、牟田和恵氏や小宮友根氏の主張を否認します。だからツイフェミや性嫌悪はここに来るな」というメッセージになる。撤去させない方が不当である。
・多重下請けビジネスは江戸時代の普請奉行のしぐさを基にしている
・江戸時代は、儒学を活用して「お上に逆らうことは人間的倫理に反逆する」と教え込んだ
・そのことで長期にわたり安定政権となり、将軍の権威も失墜しなかった
・同じことは、軍隊+マルクス主義のセットで隣国でも現在進行形で行われている
・江戸時代は町人文化など良い点もあったが、ベースは独裁と暴力・洗脳であった
・精神面における「江戸しぐさ」は、民主主義と対照的であり、精神の停滞と人権弾圧を肯定することになる
・多重下請けビジネスは、日本に根付いた江戸しぐさを悪用し国力を停滞させる目的で電〇によって発明された
支配は、はっきりと見えない方が反抗しづらい。一番いいのは「同じ仲間だ」と思わせること。本当は超えることのできないカーストの違いがあっても、「ここは共通点がある、仲間だ」と思わせることができれば、支配されている人間を満足させることができるさもしれない。
たとえば、表現の自由なんてどうだろう。「おれたちの好きなものが弾圧されようとしている」と言えば、色々な性質の違いを超えて、団結の幻想を共有できるかもしれない。
自分は憲法とか不勉強だから不備があるかもしれないけど、選挙前で大事なことだから書く。
この映画にはピエール瀧が出演していて、彼がコカインの使用により捕まったことを理由に日本芸術文化振興会は内定していた1千万円の助成金を支払わなかった。
行政機関が作品の好悪によって金を出すか出さないかの判断をしたんだから、これは「表現の自由」案件である。当然映画製作会社は不交付取り消しの訴訟を起こし、第一審ではそれが認められた。
しかしこの度たまたま知ったのだが、これが今年の第二審ではそれが覆されたのである。
https://www.asahi.com/articles/ASQ335WZQQ33ULZU00V.html
「薬物乱用の防止という公益性の観点からされたものであり、芸術的観点からされたものではないから、文化的芸術的価値を軽視したということはできない」
というのが理由だそうだ。出演してるんだから当然映画を撮っている時にピエール瀧は犯罪者ではない。コカイン摂取歴がある人間の作品を全て否定するなら日本は随分窮屈な世界になるだろうな。ロックもジャズも映画も多くが禁止。文化的で自由な国なんて言ってられんよ。
この映画の製作会社はスターサンズという。そしてこの映画のエグゼクティブプロデューサーはスターサンズ代表河村光庸氏。他に「新聞記者」や「i-新聞記者ドキュメント-」、菅元総理を題材にした「パンケーキを毒見する」なども企画、制作、プロデュースを手掛けたりしている。要は(はてなーの好みかどうかは別として)割と強めに政権批判の内容を含む作品を企画制作してきた人だ。
そしてこの人はついこの間、今年の2022年6月11日に心不全で亡くなった。
この二、三年の事実を並べただけだ。自分は宮本浩次のファンで、彼がこの映画の主題歌を手掛け、原作のモデルとも言われてるのでたまたま知ってる。
「表現の自由」ってのは言ってみりゃ時の政権を自由に批判できることとも言える。そしてそれが民主主義の基盤とすら言える。それができないのが中国やロシアな訳で。あれだけ抵抗してきた香港の自由があっさり飲み込まれるのを見ただろう。ロシア市民が戦争反対すら自由に叫べないのを今正に見ているだろう。
正直安倍政権はそういう志向だったと思う。興味なきゃ気付かないだろうが。自民である限り今も続いてるだろうし、既にもうだいぶ流れてきてしまってるし、もっと根深い問題ではあるだろうけど。一つの政権、一人の人間が権威を持ち続けることの危険性がもっと周知されるといいと思う。
そして「宮本から君へ」の原作者である新井英樹氏のツイートで知ったのがこの改憲案。
https://twitter.com/arai_h_official/status/1543625167385292800
国が「公益と公の秩序を害する」と判断したら合法的に弾圧ができてしまう。そんなの民主主義であるはずがない。
もちろん戦士たちにだって無関係じゃない。エロを「公益と公の秩序を害する」と判断するのは難しいことじゃないだろう。
だから共産党とかを仮想敵にしてる場合じゃなくて、戦士が戦うべきなのはむしろ自民であり権力側なんだよ。しかも緊急に。
その流れでたまたま見たツイートだけど、自分は赤松健氏については漫画を読んだことがなかったし、例の冊子もピンとこなかったので追いかけてなかったけど、
https://twitter.com/zkurishi/status/1542764926351327233
これを読むとむしろ批判されてた「自民党改憲草案にあるような変更が発議された時には体を貼って阻止する。失敗したら議員を辞める」という発言は好意的に受け止めるべきではないだろうか。これが本当なら自分は応援する。
表現の自由戦士とか揶揄って悪いとは思うけど、どう呼べばいいのかわからないので戦士と呼ぶ。エロを含め本当に表現の自由を守りたいなら敵を見誤ると滅びを早めると思うよ。それどころか利用されちゃうよ。でも同じ危険を感じてるなら、ちゃんと「表現の自由」真ん中の意味で戦おうよ、という提案でした。