はてなキーワード: 帰結とは
(中略)
皆さんが知っておかなくてはいけないことは、心理学というのは人間の心の秘密を解き明かすような学問ではない、ということです。
心理学者はかけがえのない個人ではなく、平均化された、つまり「データ」としてしか存在しない個人 (実は人間以外の動物であろうとロボットであろうと、心理学者にとっては全て等価なのだが) を研究しています。
心理学者はこの平均化するやり方が大好きです。
例えばある人のパーソナリティ (性格) を測定する際には、いくつかの項目への回答や、これまでの行動履歴などを平均して算出します。
あるいは、男性と女性の違いについて論じる際には、男性実験参加者と女性実験参加者の刺激への反応パターンをそれぞれ平均して比べます。
さて、平均化して (いくつかのパタンに分けて) 人間を見ていくやり方は、「モデル」という考え方です。
「モデル」という職業がありますが、あれも「どこにも存在しないような美人」という意味ですから、まさに「モデル」なわけです。
こうしたモデル型の研究パラダイムは19世紀の後半に心理学が誕生してから、われわれがずっと一貫して採用しているものです。
心理学の屋台骨を支える重要なモデルは、刺激―反応 (S-R) です。
新行動主義ではその間に媒介変数を採用することになった、なんてことはどうでもいいことです。
相変わらず心理学者がやっているのは、刺激と反応の関係についての関数の研究です。
こうした研究パラダイムは研究業績を大量に生み出すことに貢献してきました。
おかげでわれわれ心理学者は大学に講座を得て、国から研究費をいただき、多くの研究成果を蓄積していくことができたわけです。
「『タイプ』『モデル』的な結合、つまり述語結合を諸々の接合や離合の軸に置く考え方は、機能主義心理学の人間観です。
多くの心理学者にとって「機能主義」は過去のものであり、「私の心理学は単なる機能主義ではない」と主張する人が多いと想像されます。
多くの心理学の教科書では「機能主義」はウィリアム・ジェームズによる構成主義批判として生まれ、過去のものとして扱われていますが、
刺激を条件間で統制して、それへの反応の差異を検討するという最も心理学者の好きな研究手法 (=実験) が、まさに機能主義であるわけです。
「外面性の強度は、内面性の強度と『相関』しているというのが、機能主義=行動主義の論理的な帰結」 とあるように、
心理学者にとって重要なのは、外部からの刺激に対してどのような反応が観察されるか、ということに尽きます。
要するに、ある刺激をある反応に変換する「関数」がどのようなものかを明らかにするのが心理学 (機能主義) の目的です。
その意味で、心理学者にとって人間と同じ振るまいをするものは、それがロボットだとしても人間と等価だし、人間の病気と機械の故障は区別ができない。
behaviorを「行動」と翻訳するのは誤りであり、「要するに外見=外貌」が中身を決めるという考え方が行動主義であると断言します。
心理学者にとっては「外から観察可能な行動のみを研究対象にする」というところでしょうか。
確かに、私自身もbahaviorismは「行動主義」よりは「外貌主義」と翻訳した方がよいと同意します。そして、全く確かに心理学者が扱っているのは <心> ではありません。
心理学の学会でこうした機能主義批判に関わる内容が扱われることはほとんどありません。
学問の根本を成り立たせている原理についての議論は、学会では通常なされません。
「こんなところで言うかよ」という反応をされてしまうのが普通です。
じゃあどこで言うんだよ、と思うことも多いわけですが、「われわれの学問を成り立たせている最も重要な前提については疑わずに議論しましょう」というのが学会大会の暗黙のルールです。
「『先生、先生』と言われ続けて何十年にもなる。そうすると『先生』は大体がバカになる」 と言うように
論文を書けば書くほど、学会大会に参加すればするほど、学生を教育すればするほど、学者はバカになります。
専門的になればなるほど、学者がバカになる要素は増えていきます。
自分たちがどのくらいバカなのかを知るためには、自分たちをバカにする人を見つけることが重要です。
心理学者にとって、自分たちを掛け値なしにバカにしてくれる存在というのは、たいへん大きいものだと思います。
3段落目にいきなり「断言」って言葉が出てくることとか「私」がいきなりでるとか文章のつながりが気持ち悪いと思ったけど、ぐぐったらamazonレビューの引用なのね。なるほど。
正解。
このコメントが出てくるまでに430人もの人がだれもググらない。すごい。
自分が25歳までは「美」側にいたから美醜を気にする必要が無かっただけで、26を越えて「醜」側に足を踏み入れてから気にし始めて、30越えたあたりからリアルに「醜」側の人生を感じて辛くなってるだけだろ
そうなんだろうか。そういうことなんだろうか?
25まで「美」側にいたのか?
自他共に認める全盛期は26だった。26で初めて「自分にも美というやつがあるのかもしれない」と思えたし、初めて人から綺麗だと言われたのでそういうことにしている。体重も今よりだいぶ軽かった。
それより前に美側にいたとはちょっと思えない。
最後に彼氏()いたの小6だった。イチャイチャどころか手もろくにつないでない、おしゃべりするだけのパピーズラブ。初めての「好きな人」。中学上がって自然消滅した。以降は恋人とかずっといない。恋人が欲しいという感覚が非常に薄い。そもそも恋人って何?定義してからじゃないとよくわかんない。発達あるあるじゃないでしょうかこういうの。
しかし30超えて醜側に行ったというのは否定できない。太ったからな…全盛期比で8キロくらい…腹の肉がたるんでてみっともないのはイヤでもわかる…
ただそもそもの話として、「美側」「醜側」がピンとこない。
「醜側」に行くというのはどうやってそれとわかるものなのか?
太ると衣服とかで冒険できなくなるので自意識が醜側に傾くというのは話としてはわかるが、今どき太ったら太ったなりに服を似合わせる手段はあるし、自分に限れば太ってなかった時期も服で冒険は別にしてなかった。「ああ…これが…美か…」みたいになるトリガーとしては弱い。
だいたい「自分が醜くなると美に対しての感性が鋭くなる」というのは理屈としてなんか意味不明じゃない?
お手数ですがもうちょっと詳しくしてほしい。「美側」「醜側」って何?
ついでに言うとそれがさらっと「強側」「弱側」にすり替わってるのもよくわからない。
美しいと強いは常にイコールじゃないし、醜いと弱いも常にイコールではない。強さが醜いことも弱さが美しいことも普通にあるやつでは?美しい側は常に強いとか、醜い側は常に弱いとかもちょっと怪しい。「同じスペックならかわいい方よ」のコピペが示唆する通り、「他の条件が同じである上のプラスアルファ」の域を出ないんじゃない?
「弱い側としてやっていく」もちょっと意味がわからない。弱い側って何?
普通に考えれば、発達障害絡み以外では(まだ)大病もしてなくて五体満足で、不満がないとは言わんが職があって、貯金もゼロではなく奨学金含む借金もない、という時点で、私はあんまり弱者ではない。ので税金免除されたりしてない。いや、自立支援取ってるから発達関連に関しては病院代は安くなってるか。あと女性なので「女性であるが故」系は全部被っているし今後もある程度までは被らざるを得まい。
そしてそれは26のころと今とで変わってない。
であるのになにゆえに、美に対して鋭敏になった今、醜側で弱側として「諦観」せねばならないのか。何もわからない。
実家が太い旨を書いたのは「みんなビンボーが悪いんや」的な帰結になるのはアレだったからです。そりゃみんなビンボーが悪いとは思うが、私個人は幸いにも貧乏ではなかった。だから原因は貧乏ではない他の点にあるはずだということ。そも親ガチャSSRはマウントにはならんしょ…親からすれば子ガチャ大失敗ってことなので恥の開陳に近い心境…
# リチャード・ローティと長渕剛の討論:「長渕剛と猫カフェ」
## ローティ
早速ですが、あなたは真実や正義というものが存在すると思っていますか?それらはどこから来るのですか?神からですか?理性からですか?それらは普遍的に適用されるものですか?
## 長渕
そんなこと聞く必要あるか?真実や正義は心から感じるもんだろうが!神でも理性でもねえよ!俺たち一人一人が持ってる感情だよ!感情!それらは普遍的じゃねえかもしれねえけど、俺たちはそれらに従わなきゃ生きてけねえんだ!
## ローティ
感情だけでは不十分だと思いませんか?感情は時々間違ったり変わったりしますよね?あなたが今感じている真実や正義が明日も同じだと保証できますか?あなた以外の人々が感じている真実や正義と一致しますか?
## 長渕
間違ったり変わったりすることもあるさ。でもそれでも俺は感情に従うしかねえんだよ。俺は自分の歌でそれを伝えてきた。俺の歌は俺の感情だ。俺の歌は真実だ。俺の歌は正義だ。
## ローティ
あなたの歌はあなたの感情を表現しているということですね。それは素晴らしいことだと思います。でも、あなたの感情が真実や正義と同じだということには疑問があります。あなたの感情はあなたにとって有用で幸福な物語かもしれませんが、他人にとってもそうでしょうか?他人があなたの歌を聞いても、同じように感じるでしょうか?
## 長渕
そりゃ人それぞれだろうよ。でも俺は自分の歌を聞いてくれる人々に寄り添ってやりたいんだよ。俺は自分の歌で人々に勇気や希望や愛を与えたいんだよ!
## ローティ
それは素晴らしい目的ですね。でも、その目的を達成するために、真実や正義という言葉を使う必要がありますか?それらの言葉はあなたや他人を束縛したり対立させたりする可能性がありませんか?もっと柔軟で多様で開放的な言葉を使えば、もっと有用で幸福な物語を作ることができませんか?
## 長渕
柔軟で多様で開放的な言葉?そんなもんどこにあるんだよ!俺は自分が思ったことや感じたことをそのまま言うしかねえんだよ!それが真実や正義じゃねえかもしれねえけど、それでも俺は嘘つきになりたくねえんだよ!
## ローティ
嘘つきになりたくないという気持ちはわかります。でも、真実や正義以外の言葉を使うことが必ずしも嘘つきになることではありませんよ。例えば、「長渕剛」と「猫カフェ」という言葉です。「長渕剛」はあなただけではありません。「長渕剛」は私や他人が作った物語です。「猫カフェ」も同じです。「猫カフェ」もまた私や他人が作った物語です。
## 長渕
物語?物語って何だよ!俺は物語じゃねえよ!俺は俺だよ!猫カフェも物語じゃねえよ!猫カフェは猫カフェだよ!
## ローティ
あなたはあなたですか?猫カフェは猫カフェですか?それらの言葉にはどんな意味がありますか?どんな感情がありますか?どんな価値がありますか?それらの言葉はあなたや他人にとって有用で幸福ですか?
## 長渕
意味だ感情だ価値だ…そんなもん考える必要ねえよ!俺は俺でありたいんだよ!猫カフェに行きたいんだよ!そこにいる猫たちと触れ合いたいんだよ!それが有用で幸福じゃねえか!
## ローティ
あなたはあなただけでありたいということですね。でも、あなただけではありませんよ。あなたは私や他人と関わっています。あなたの言葉や行動は私や他人に影響を与えます。私や他人の言葉や行動もあなたに影響を与えます。それを無視することができますか?
## 長渕
無視する必要ねえよ!俺は自分の信念を貫くだけだよ!俺は自分の歌で自分の思いを伝えるだけだよ!それが他人にどう影響するか知ったこっちゃねえ!
## ローティ
自分の信念を貫くことは大切ですね。でも、自分の思いを伝えることも大切ですね。でも、その両方を同時にすることが難しいこともありませんか?自分の信念が他人に伝わらないこともありませんか?自分の思いが他人に反発されることもありませんか?
## 長渕
難しいこともあるさ。伝わらないこともあるさ。反発されることもあるさ。でもそれでも俺は止まらねえよ!俺は前進するしかねえんだよ!
## ローティ
前進することは素晴らしいですね。でも、前進する方向や目的地が明確ですか?前進する過程や方法が適切ですか?前進する結果や帰結が望ましいですか?
## 長渕
正直言うと猫カフェは動物虐待だと思ってるよ…猫カフェは猫を金儲けの道具にしてるんだよ。猫カフェは猫にストレスや感染症を与えてるんだよ。猫カフェは猫の適正な管理を怠ってるんだよ!
## ローティ
そうですか。でも、すべての猫カフェがそうだと言えますか?すべての猫カフェが動物愛護法に違反していますか?すべての猫カフェが劣悪な環境で営業していますか?すべての猫カフェが金儲けしか考えていませんか?
## 長渕
そりゃ全部じゃねえかもしれねえけど、多くはそうだろうよ。俺は自分の目で見たことがあるんだよ。6畳ほどの展示スペースに62匹もの猫がいたんだよ。7割が病気にかかってたんだよ。
## ローティ
それはとても悲しい光景ですね。でも、それはあなたが見た一つの例ですよね。それを一般化することはできますか?それを証拠とすることはできますか?それを根拠とすることはできますか?
## 長渕
証拠だ根拠だ…そんなもん要らねえよ!俺は自分の感覚でわかるんだよ!俺は自分の直感で判断するんだよ!俺は自分の経験で語るんだよ!
## ローティ
あなたの感覚や直感や経験は大切ですね。でも、それらはあなただけに有効ですよね。他人にも有効ですか?他人にも共通ですか?他人にも説得力がありますか?
## 長渕
俺はそんなこと気にしないよ。俺は自分の信じることを言うだけだよ。俺は自分の好きなことをするだけだよ。俺は犬カフェを経営したいと考えてるんだよ。
## ローティ
犬カフェを経営したいと考えているんですね?それはどういうことですか?犬カフェとは何ですか?
## 長渕
犬カフェって知らねえのか?犬カフェってさ、犬と一緒に遊んだりご飯をあげたりして楽しめるカフェのことだよ。
## ローティ
そうですか。それは楽しそうですね。でも、それは動物虐待ではありませんか?猫カフェと同じではありませんか?
## 長渕
原因が発表されました。
アンビリカルケーブルを構成する5本のラインを同時にオフにしたことによって発生したノイズが原因とのこと。対策は、発生する電位差(によって発生するノイズ)を平準化するために5本のラインを一定間隔でオフにする、ということだそうです。
また、同様の処置を、他の系統にもほどこす必要があるとのこと。
そもそもアンビリカルケーブルをオフにするテストをおこなっていなかったということなので、原因はテスト不足による考慮漏れということでしょう。さらに、なぜテストをしていなかったのか、ということまで原因をさかのぼると、予算やスケジュールの問題に帰結しそうな感じがします。
>俺達から搾取してきたものがあの人たちの肌の栄養源にもならず、歌の潤滑剤にもならず、膝の軟骨にもならずに
>ただまたきらびやかなステージにテラテラの服着させられてトラウマ満載のデビュー曲歌わされることに帰結してんだとしたら
>だとしたらそれこそが成長コンテンツというものへの解答なんだろうね。
こいつら酷使されてんやろなあ、を考えるだけでなんか動画切りたくなる。
韓国系列なんか、普通に自殺がどうこうのニュース流れて来るしな。
そのあたりのこと見えないフリしてるファンたちって、実はなんか特別な感性とか才能もってんじゃないの。
俺が気にし過ぎか?
いろんなアイドルがいる、とか
そういうんじゃわかんねえんですよね
アイドルってのは成長を眺めるコンテンツだってちゃんと言わないと
『いや大物芸能人のカキタレを探す為にアイドルやらせてんだろ』とか
『いや本人の承認欲求とキモオタのキモいワンチャン精神がアイドルという気色の悪いものを産んでるんだろ』とか
言い出される訳です。
まぁそれもこれも含めて最終的に『やっぱ〇〇ちゃんの歌下手だなぁ、踊りも雑だなぁ、笑顔もできてねぇし、どうせこの後セフレとよろしくやるんだろうなぁ』『でもあの子が楽しくアイドルできてるならそれが一番嬉しいなぁ』にたどり着くためのものだったりする。
『アイツの歌がすごい!』も
『あの方の可愛さは業界一だ!!』も
単なる付随品でしかないし
もっと言うなら
年老いたら全部無くなる
俺達から搾取してきたものがあの人たちの肌の栄養源にもならず、歌の潤滑剤にもならず、膝の軟骨にもならずにただまたきらびやかなステージにテラテラの服着させられてトラウマ満載のデビュー曲歌わされることに帰結してんだとしたら
だとしたらそれこそが成長コンテンツというものへの解答なんだろうね。
若い女が乳繰り合うのなんて今だけよ
モー娘。とかあんだけあんなだったのに今でもゴマキが出てくるだけで全てが陰っちゃうもん。
俺は韓国の子達がどうなんのかは知らないし、中国の子達がどうなるのかは知らない
絵画なんかは文脈依存も強いから単に教養に欠ける部分もあるんでしょうけど。
定量化できないものの評価が非常に苦手。「適切な評価」をつけるのではなくて、そもそも評価そのものをするのが。
だからと言って、定量化できる部分だけを見て、マックは世界一売れてるから世界一美味しい、とかは思いませんが。
「適切な評価」は、「これが世間的には良しとされるんだろうな」というのが過去の経験から何となく察しがつくのですが、自分自身の思う「良し悪し」は全く浮かんでこない。
しかし、例えば食事なら気分による所が大きい。唐揚げの口の日に望みのものを食べてざっくり90点の満足度だなと思っても、別の日には全く同じものを食べて70点だったりもする。この数字も、他の料理の満足度とざっくり順番に並べ、相対的な整合性から適当に弾き出したきわめてアバウトなものです。
料理としての完成度も、何を以て良しとするかは「人による」としか言いようがない。人間なんて個体差はあれほぼ同じ構造なので、ある程度の普遍的な感覚というものはあるのでしょうけれど。
例えば映画なら、この映画は面白い。面白いが、☆がいくつかと言われると困る。「普通の面白さ」なら3つで、「手放しに全てを褒められる面白さ」なら5つなんでしょうけど、そうはっきりする事なんてそうそうない。そのグラデーションに境界を引くのはあまりにも難しい。
ましてや「良し悪し」となれば、恐らくは個人の「好き嫌い」から離れ、普遍的な視点に立たなければならない。
1点刻みの100点満点で評価するとか絶対に無理です。5段階でも怪しい。悪い、普通、良いの三段階でも、大半が普通に入ってしまいそう。
その辺の人を捕まえてその場で描かせた漫画と週刊連載されてる漫画を比べたら、流石に優劣はつけても良いだろうとは思います。しかし「なぜ優れていのか」を突き詰めていくと、結局「好き嫌い」に収束してしまうのではないかと。この例での「好き嫌い」にはかなり普遍性がある(ほとんどの人が恐らく後者を評価する)でしょうけど、そう極端な比較ばかりではありませんし。
ファッションに興味を持ってから、今まで変なのと思っていた服や靴をかっこいいなと思うようになった事なんかはあります。
しかしそれはネットでよく言われる「情報を食べている」状態なのではないかと自問した時、違うとはっきりは言い切れない気がします。
実家が割と余裕のある方だったので、色々なものに触れる機会は与えられてきました。それが「適切な評価」を下すのに役立ってはいるのかもしれませんが、「私の評価」の基準にはなっていない気がする。
自分自身があまりに「良し悪し」が分からないもので、世の中の人間もそこまで分かってないんじゃないかと勘繰ってしまいます。
やれこの映画は名作だの、この料理は不味いだの、点数をつけてはいるものの、ざっくりの印象を10点単位でつけて、詳細の加点減点部分を表すそれっぽい1点単位の数字を合わせているだけなのではないかと。
他者の顔色を伺わず、プリミティブな感性と積み上げてきた経験だけで瞬時に「あ、この料理は87点だな」なんて浮かぶ人がいるとは信じがたい。いるのかもしれませんけど。
イデアなんて言葉がありますが、物事に本質的な良し悪しなどなく、(例えば服なら耐久性や透湿性、手入れの手間といった明確な評価軸であらわせないような)あらゆる評価は突き詰めると「個人的な好き嫌い」に収束するのではないかと思っています。「社会的な選好」もまた個人のそれの最大公約数的なものに過ぎないとも。あるいは、誰かしらの好き嫌いがその人の立場によって権威づけられたか。
批判、批評においても、対象の細部について検討はされるものの、その細部を何を以て良しとするかは価値判断がついてまわり、つまる所は好き嫌いの問題になるのではないかと思います。
どれだけそれらしい理由を並べて普遍性、正当性を強調しても、根底は個人の好き嫌いでしかない。
しかし遡及的に見出された理屈であれ、それを言葉にして他者の「好き嫌い」を知り、時に理解し歩み寄る事は大事なのかもしれませんね。
(追記)
この世で本質的に存在する絶対不変の軸なるものはないんじゃないかと思ってはいますが、個人の好き嫌いが積み重なって形成されたある程度普遍的な評価軸の存在は否定していませんし、対外的には尊重しますよ。
究極的には全てに意味がなければ物差しもない、ハイ終わり。というニヒリズムではなく、無意味を認めた上でそこから価値を積み上げていく実存主義的なスタンスという事です。冷笑と言われ少々カチンと来たので、念のため。
(追記)
・定量化できないものを数字にしたり相対評価したりするのは難しい
・評価対象について知識を積み重ねて吟味することは、他者のモノの見方、感じ方を知り、時に自分の中に取り入れる事で捉え方が重層的になるかもしれない
一方で、「情報を食べる」と言われるように、良し悪しを考えるという事が他人の評価軸に合わせる、他者の顔色を伺うような事にもなってしまわないか(それが全面的にダメだとは一言も言っていない)
・評価対象にまつわる知識を積み重ねても、結局良し悪しを決める軸は好き嫌いに帰結しないか
・「世の中一般で好かれる≒良いもの」でもない、「私が好きなもの」でもない、「私が良いと判断するもの」なるものは、何を以てして決まるのか
まとめると私が思っているのはおおよそこんな所です。
それに対して、初めから好き嫌いとはまた異なる「良し悪し」なるものが存在する事を前提として、それが分からないのは理解が足りないからだ。という反応が多かったので、あまり噛み合っていないのではないかと思いましたね。
その「良し悪し」が人々の好き嫌いが集まって作られたものを指すのなら、それは好き嫌いと同じとは言えませんが、全くの別物とも言い難い。さらに、では結局良し悪しとは「情報を食べる」事に過ぎないのではないか、という話に繋がる。
しかし、全ては好き嫌いに過ぎないという態度では美という概念をいささか否定するようで、矛盾するようですがそれもまたどうなのかなとも思ったりします。
colaboを持ち上げているフェミニストもこれと同レベルなんよ
https://web.sekaishisosha.jp/posts/4193
リーマン・ショック以降、日本の貧困はマスコミにも取り上げられてきていましたが、それまで、番組で取り上げられたのは、ほとんどが男性のケースでした。2008年末の「年越し派遣村」にメディアが殺到した時も、派遣村にいたのはほとんど男性でした。女性の方が男性よりも貧困率は高いですが、それまでも、それからも貧困の女性はスポットライトを浴びることはなかったのです。だからこそ、「女性の貧困」に焦点があたったことは画期的な一歩でした。
「若年女性」?
クローズアップされたのは10代後半や20歳代の若い女性ばかりだったのです。ちなみに、新聞やテレビ番組では、私が推計した図1の「一人暮らしの女性」の貧困率の数値も引用されていました。しかし、図1の年齢層は、20歳から64歳です。「女子」とか「若年女性」といった言葉が、どの年齢層の女性のことを指しているのか不明瞭ですが、通常、こういった言葉から連想される10歳代、20歳代に限った数値ではありません。なのに、いつのまにか、これが若い女性の問題として取り上げられてしまったのです。そして、彼女たちの貧困問題の帰結として語られたのが、「生きていくのに精いっぱいで、家族を持つことなんか考えられない」ということでした。つまり、彼女たちの貧困が社会問題であるのは、彼女たちが家族を持てないからだ・・・すなわち、子どもを産むことができないからというストーリーが作られていたのです。
確かに、少子高齢化に悩む日本にとって、若い女性たちが貧困によって家族形成ができないようになるのは問題かもしれませんが、それよりも何よりも、彼女たち自身が貧困であるというそれ自体が問題なのではないでしょうか?将来、その人が子どもを産むかどうかにかかわらず、今現在、彼女たちが貧困で苦しんでいること、それが問題なのです。彼女たちの将来の「出生率」なんて、まったく関係ないことですし、女性の貧困問題をこのように理解してしまったら、今後、子どもを産む可能性がない女性の貧困は「社会的に注目するに値しない」となってしまうのではないでしょうか。
日本で、なぜ、高齢女性の貧困が問題とならないのか。高齢どころか、中年であっても、30歳代以上の年齢の女性の貧困について、社会的に関心が薄いのか。
社会は、女性を「産む人」としか見ておらず、「人」としては見ていないのです。
一人の出産年齢を過ぎた女性として、これには大きな衝撃を受けました。
考えれば当たり前のことなのですが、日本の女性の大多数は、今後、子どもを産む可能性がゼロかかなり低い人々です。まず、年齢構成的には、日本の成人女性の76%は40歳以上です(総務省統計局「人口推計の結果の概要」各月1日現在人口「全国:年齢(5歳階級)、男女別人口」)。このうちの多くは、かつて子どもを産んだことがありますが、今後、子どもを産む可能性はかなり低いです。また、そもそも一生子どもを産まなかった女性も急増しています。図2は、先進諸国におけるChildlessness(子どもがない人)の割合を生まれ年別に示していますが、日本の1970年生まれの人のChildlessness率は25%を超え、先進諸国の中で最も高くなっています。すでに、女性の4人に1人は、子どもを持たないのです。ですが、(「ですが」という接続詞を使うことにも腹が立ちますが)、女性一人一人が貴重な社会の構成員です。女性の貧困を語る時に、将来の出生率の話をするのは、すべての女性に対してきわめて失礼だと思うのです。
そんなもん「女をあてがえ」に全部帰結する
女の子に「(現地語の)◯◯◯◯語を全部話せるようになったら、僕と結婚してよ」とプロポーズしてみた。
現地語の例文をいくつか一緒に読んでいって、その最後にそのプロポーズを付け加えたので、女の子は照れたのか、少し俯いて聞こえないフリをしたようだった。
明確ではないが、おそらくOKということなのだろう、その子はすぐ隣の宅なのだが、日に3、4回 私の名を呼んで呼び出してくれていたのを、その回数が3倍くらいになった。宅の敷地の境は竹でできていて、その垣根の隙間越しに、(昼食や間食を)ここで一緒に食べようよ、とも言ってくれるようになった。
睫毛の長い南国の容貌の、細身のとても可愛い子なのだが、問題が多々ある。
数日前、ある数字に11を足すこともできないことが発覚した…。
私はこの国に生活を移して もうすぐ7年になるので、これが何に起因して、それが何の帰結をもたらすか、ということを私は十分に理解している。これは、単に「算数ができない」ということではなく、その上位の、「何かを我慢したり、努力したりする。それを継続する」ということができない、ということを示しているのだ。それがどのような望まない結末に至るか、は言うまでもない。
さらに昨日もその女の子が歯を磨く習慣を持ち合わせていないこと、そして家族5人全員が同様であることが判明した…(村の他の家がそのようなことはほとんどないと思う)。父母ともさして歳がいっていないのに、フガフガとした口調で、片方または双方が酒を飲んでは時々夜中に口論している。
彼女の前歯も黒く蝕まれており、半分くらいになってきている。このまま行けば、数年のうちに歯はボロボロになるだろう。
くだらない話で申し訳ないが、この元日、別の女の子にフラれてしまい、今回の女の子も全く顔を見せなかったことから、年初の2、3日は本当に廃人みたいな歩き方になっていた。自分の中で生活に対する女の子の比率がこんなにも高かったのかと思い知らされ、これ以上あの枯渇感を味わうのは御免だ、と今回のプロポーズに至ったわけだ。男ってアホだなぁ。
そんなわけで、これまでの独立独歩の日本人といった位置から、同化政策へと大きく舵を切ることに決めた。現地の人と同じ言葉を使い、同じ仕事をする、ということだ。
自営業を営む程度ならどうでもいいのだが、結婚をして家庭を持つとなるとそうはいかないだろう。特に現地語が話せないと何かあったときに全く介入の余地がなくなる。これまではそうだった。
そうして、彼・彼女らの内面に入っていく、ということなのだが、上記のような文化・習慣を持っている南国の人たちの「内面」が私の理解・許容できるものかといった点については非常に疑わしい。当初に現地語の学習はほどほどにして見切る、としたのもこの理由による。しかし結婚を視野に入れたとは、それを学ばざるを得ないだろう、ということだ。
私への呼び出し回数があからさまに増えたが、さして彼女の側に特段の話題があるわけでもなく(理解できる言葉は限られているのでそもそも会話らしい会話とはならない)、他愛もないやり取りが続き、私は家事や仕事の準備があるのに、呼ばれるたびに出向いて相手をするわけなので、プロポーズして3日で少しウザいように感じるようになってしまった。未熟の青マンゴーに臭い酢とバゴオン(アミエビの魚醤)をつけたものを供されて「おいしい?」と訊かれたときにはさすがに答えに窮した。
歯が無くなり、ゆくゆくは皺もよる彼女の「内面」をそれでも私は愛せるだろうか。
呼ばれて行くと稀に、わざとだろう、バスタオル一枚だったり、水浴びをしていたり、着替えの最中だったりするので、まぁ今のところはシアワセ、現地に倣って先のことは考えないでおくか。