はてなキーワード: 偽善とは
女だと思って読んでたら途中で「おれ」だとか言い出して本当にびっくりした。
怖がっちゃう自分優しいみたいな偽善で書いてるの?って思ってしまう。
なんか現行の法とか見てても、レイプほどローリスク・ハイリターンな趣味ってないよね。
今でも性犯罪の被害を公に訴えるってものすごい精神力削られるけど(まあ経済的にも体力的にもだけど)
昔なんか婚姻前の非処女なんてまともな縁談が組めないキズモノだから、被害者は死ぬ気で隠し通しただろう。
もう、男に生まれたからにはレイプのひとつやふたつしなきゃ損くらいの勢い。
被害者は死ぬほどの、死んだほうがマシくらいの恐怖を誰にも言えず怯えて生きて行かなきゃいけないけど、
加害者はちょっと酒が入ったらべらべら何度でも何十回でも武勇伝として自慢して言いふらす。
んで実際、レイプって微罪なんだよね。3年ほど税金で食わして貰ったらハイ終わり。
震災のときだって、刑務所から「刑の軽い者」として解放されてるしね。万引き犯くらいのもんよ。
男女で罪の軽重が全然違う。
先日「レイプ被害者のほとんどは訴えない」って調査結果がニュースに出たときも、
男側は「なーんだ、じゃ女ってレイプされても怒んないんだ、大したことじゃないんだ」って反応だったもんね。
テレビを見なくなって久しい。今ではいつどんな番組をやっているのかさえよく知らない。だから今年の24時間テレビがもう終わってたことも知らなかった。2ちゃんねるのまとめブログで「出演者にギャラはらってチャリティーって言いながらクズばっか」みたいなエントリーがアップされるのを見て、あぁこんな季節にやってたっけなと思い出したくらいだ。昔は僕自身も「へっ偽善者番組がっ!!」などと思っていたがテレビを見なくなってテレビ文化から離れてしまった今となってはそんな怒りはわかなくなった。距離を置いたことで冷静に見られるようになったのかもしれない。
さて、出演者のギャラについてだが結論から言えばこれは悪いことだとは僕は思わない。むしろタレントへのギャラがよくないという意見に若干の違和感を感じる。
番組制作の枠組みとか流れを考えてみよう。ネットで見た意見の中には「募金をタレントのギャラに使ってる」などというのもあったがこういったのは誤解であると思われるし。まず24時間テレビに限ったことではなく日本のテレビというのは広告主(スポンサー)、放送局、視聴者という三つの要素から成り立っている。
これに電通、博報堂などの広告代理店とか番組制作会社とかあといろいろが絡んでくるわけだけどそれは一旦置いとく。このように日本のテレビというのは広告媒体として発展してきたわけだ。ただCMとか流しても見てもらえるわけないから面白い番組を放送してその合間にCMを流すことでコマーシャルの質を高めてる。
さて広告主から資金を得て効率よくコマーシャルを流すのが放送局の役目。得た資金を元に「番組」というコンテンツを作らなければならない。コンテンツが面白く視聴率がよくないと広告主は資金を出す意味がないからね。コンテンツを作るために放送局は製作会社に依頼する。制作会社はコンテンツを作るための場所と物と人と企画を用意する。たとえば武道館という場所を借りるにはお金がかかる。タレントという出演者をに出てもらうにもお金がかかる。もちろんこれにかかる費用は広告主から出された資金を元にしている。こうして番組が作られている。そして番組とともにコマーシャルを流す。24時間テレビであっても変わらないはずだ。24時間テレビでもコマーシャルは流れるよね?(もし流れないんだったらこのエントリー自体の意味がなくなるが笑)
番組の制作費は広告主から出ている。これ重要。けして視聴者から集めた募金から番組を制作しているのではない。
http://www.ntv.co.jp/24h/contents/how2012.html
募金は全額福祉環境災害活動に使うという方針らしい。(収支報告を出しているかどうかまではわからなかった。)つまりコンテンツの制作にかかる費用は全くの別会計、別の流れがあるということだ。で、問題になっているタレントのギャランティーだがこれはコンテンツの製作費に含まれるということになる。「タレントにギャラを払うのはおかしい」というのは何となくわかる気がしながらも違和感を感じていたのはここにポイントがある。コンテンツ制作の流れを見てわかる様に24時間テレビにおける「タレントのギャラ」は「武道館のレンタル料」と同じことだ。調べた限り証拠はなかったがたぶん武道館にはレンタル料払っているのだろう。これは人を用意するのと場所を用意するのの違いだけで基本的には同じ費用の類だ。でも今まで見た批判の中に「武道館へのレンタル料を払っているのはおかしい」という意見は見たことがない。あったら教えて欲しい。タレントがチャリティーで儲けるなと批判するなら武道館はチャリティーで儲けるなという批判もあるべきだ。結局はタレントへのギャランティーの問題は視聴者の「タレントはテレビの人」というイメージの問題に収斂するのではないだろうか。タレントはコンテンツのソフトとして”使われている”だけで本来は放送局と同じカテゴリーのものではない。もちろんそういった「テレビの人」というパブリックイメージを用いて経済活動をしている限りチャリティーのギャラには節度が必要という意見はあってしかるべきだとは思う。
たとえば平々凡々な一般人たる僕がチャリティーをしようと思う。そうだ、Tシャツを作って売ってその収益を寄付しよう。拙いながらデザインを起こしてTシャツを買い、印刷会社にプリントを発注する。かかった経費の3掛けで売ろう。なんとか作った分完売。交通費や販売に関しての諸経費は考えないことにして収益は全額赤十字に寄付した。領収書はスキャンしてブログで公開。
さて、批判されるところはあるだろうか?偽善と言われるのはしかたない。だって偽善だもの。でもTシャツのメーカーや印刷会社を批判する人はいないと思う。24時間テレビにおける出演者はまぁこの印刷会社と一緒だ。Tシャツ売るってチャリティーで儲けてるやつらがいるぜ、糞と味噌の区別もできずに批判しているのと同じだ。ギャランティーを支払われるのは批判されることではない。と思う。
最後にはなるが「チャリティー」と銘打ってる限りイメージや収支に関する説明責任とかは大事だ。それは番組の内容にも係わってくるがそれはこの日記のテーマの出演者のギャラとは別の問題だ。そしてそれに関しては僕は語る言葉を持たない。
悲しいニュースが多すぎてもう「悲しい」という共感さえ無くしてしまった
スレ数やRT数はてブ数でしか「悲しさ」を図ることができなくなった
何日で「誰かがいじめられて自殺した」というニュースを忘れてしまうのだろう
もうね、誰かが「SOS」発していてもその人数が多すぎて「フーン」としか思えなく
なってしまっているのです
悲惨な追い詰められ方をした子どもは少しは記憶に残るけど、大人はまず記憶に
すら残らない
生きてる内にSOSを発してもスルーか罵倒が返ってくるだけ、自殺してやっとコンテンツとして
注目される
「人権、人権」と呪文をつぶやき続ける人たちは自殺した子どもがマイノリティで差別的言動が
いじめの過程にあったら憤ってくれそうな気がするけど、亡くなったらのが日本人ならスルー
して、加害者の人権を守れという方に向かうんだろうな そっちの方が人権運動には都合が良いから
日本では「他の皆と違う」ということは「面倒臭くて手間がかかって皆に迷惑をかけるから強者が優越感ゲームの
的にしても良い」という暗黙のコンセンサスがある
かといって長期不登校にでもなったら内申響いてレールから外れ、優越感ゲームの的にますますなるだけだし
大人は「我慢しろ」「同じレベルになるな」「時が経てば忘れる」「いじめている側は将来不幸になる」「見返してやれ」といってるけど
要は「めんどくさい事起こすな、泣き寝入りしろ」と言ってるだけ
いじめてる側は公務員などになって結婚して子どももできて一人前と世間に認められる社会人になり
いじめられる側は程度によっては「お空キレイ」と空を見続ける廃人となるか、コミュ障となってろくな
夜中に憎しみで歯軋りして起きて寝汗をかいている自分に気づくことさえあるのに
悲しみはすぐに消えるけど怒りや憎しみは年月が経っても死ぬまで消えないものです
散り積もった皆のストレスを引き受けて誰にもぶつけずられず死ぬ人それはいつも
敗者です
一人に集団で長期間に渡って石を投げないならばそれは許されるべき
皆少しづつ心の弱さを他人に押し付け日々の辛さを支えあいながら暮らしている
それが駄目だというのはポジティブ教信者と左翼教師と人権屋かいじめられている人に反抗されるのが嫌な
「怒り」に立ち向かわずひたすら我慢させ目を背けさせる日本の事なかれ主義がどれだけ卑屈さに甘んじる事を
いじめられる側に強いてきたことか
増田はネットにネガティブなこと書くなというポジティブ教信者たちはこれまでの人生で弱者をさぞかし踏みにじってきたことを思い出したくなくて後ろ暗いんだろうなと思ってる
一時期、
全部「子供の頃に親の愛情が不足しててさびしかった」になってたんだけど、
(ナルト、サスケ、ガアラは勿論、割と冷血悪党ポジションのサソリや大蛇丸すらそうだった)
更にその全部に「実は勘違いだよ、上手く伝わらなかったけど愛されてたんだよ」というオチがつく。
今週とうとうサスケの過去まで「実は両親にも兄にも愛されてたんだよ」で決着してしまった。
やめてほしい。
便所でクソと一緒にひりだされて嫌々面倒見られながら生き延びて
少なくとも小学校卒業ぐらいまでは誰にも目をかけられずに大きくなった子、
そういうのを描いて欲しかった。
一人ぐらいは。
本当はナルトがそういう奴なはずだった。
里中の大人から嫌われて憎まれて、親のそういうのが子供達にも伝わるから友達ができなくて、
里の上層部は別の意味では気にしててたまに人が見に来る(実は強力な兵器だから)っていう、
初期設定ではナルトはそういう奴だった。
開き直って馬鹿な事や迷惑な事を繰り返すパッと見明るいワルガキ、
でも中身はどす黒くて真っ黒の黒黒、
自分を一番可哀相だと思ってたサスケがナルトの内面に気付いたら「えっ?」てビビるとか、
火影の爺さんがなんかケツ持ちしてくれるので
ごまをする為に&いつものみんなの気を引く癖で「火影になるってばよ!」を口癖にしてるけど
もちろん木の葉の里になんてなんの愛着も無いから上っ面で言ってるだけ。
根底の本音はむしろまるっきり正反対、
みたいな人間のはずだった。
超エリートのお父さんと慈愛にあふれるお母さんが時空を超えて愛情を伝えてくれるようなぶったるい夢はもちろん夢で、
子供の頃は毎晩そういう夢を見て泣きながら目が覚めては暗い部屋に自分しか居ない子の筈だった。
そんなナルトの友達であり家族であるのは自分の中に居る九尾だけの筈だった。
誰も認めてくれなくても九尾だけは自分のそばに居てくれて、
檻としてだろうがなんだろうが互いに一対一の関係で、
なによりある日特別な力を与えてくれる。
里を滅ぼせるほどの!
特別な力を自覚したときに、
まず「これで里の奴等を皆殺しにしてやるのはどうか」と悩むナルトであって欲しかった。
「ああ、おれがずっとやりたかったのはこれだった!」と感動するようなナルトが見たかった。
サスケやサクラに話を合わせてるけど内心密かに大蛇丸のビジョンに打ちのめされてるナルトの筈だった。
幸せや家族を奪った兄(後期はその黒幕たる木の葉の里)に憎しみを抱くわかりやすいサスケと比べて
はるかにあいまいでスケールの大きい負のポテンシャルを持ったナルトの筈だった。
カカシのように自分を鍛えてくれたわずかな人間の思い出を糧にして
里を守る側に立つっていうならそれはベタだが泣ける。
もっと酷い話にするなら、
木の葉の上層部が派遣した女(アカデミー低学年からずっと密命を帯びてる同級生とか)に騙されてて
操られる形で里の側に立つならそれはそれで忍者らしい話になる。
が、実際のナルトは
初期設定から当然ある筈だった辛い境遇からも負の人格からもほぼフリーになる。
ほぼ序盤から。何の説明も無く。
街を歩いてて嫌な視線や陰口に悩まされてた事もないし、
誰もナルトに対して軽口以外の、侮蔑や疎外の態度なんか取ってない。
なんだこれは。
せっかくの初期設定が
何の葛藤もカタルシスもなくボンヤリと薄まって解決してしまった。
これは本来一番おいしいところを手をつけずに捨てるような物では無かったか。
単に「成績悪かったおちこぼれがど根性でこんなに出世しました」程度のカタルシスになっていた。
ナルトも大して感慨も戸惑いも持っていない(とっくに受け入れられていたから)。
なんなのこれは。
お前が読みたがってるような暗い漫画じゃねーんだよと言われたらそれまでだが。
今思い出した余談だけど
「人間を食わないと死んでしまう」「生きる為に食ってるだけの俺を殺すのか正義の味方が!」という設定のパピヨンが
後に「なんか人間以外の食料でも生存できるようになった」とか言い出して、これも心底呆れた。
昨夜、おとなしく地に座している鳥を発見した。体のどこかしかを負傷したらしく、上手く飛べなくなっているようだった。特に気にする必要も無いし、そのまま放っておいても問題なかったのだが恐らくの垂れ死ぬのだろうと思い、気まぐれで連れ帰ることにした。動機としては、私の心に内在する少量の善意や同情なる心理的情動機能がものが作用した為だろう。半日程度世話を焼いてみたが、どうやら餌を食べられないようで、何を与えても口に入らない。このままでは外でも中でも関係無く死ぬと判断し、結局野に放して自由にさせてやることにした。飼育が困難なのも理由の一つではあったが、何より鳥自身が外に出たがっていたことが最大の理由となった。やはり空を飛び、空を愛する存在にとって建築物のような閉鎖的な空間は息苦しく感じるのだろう。この鳥の行動を見た時、私は判断を誤ったと感じた。そもそも動物を保護しようとする行為自体、偽善行為なのである。普段我々は鳥はもちろん、牛や豚の命を殺し、料理の材料として扱っている。それは、我々にとって生き物ではあるが、食べ物としても認識しているからだ。何かを食べる時、その食べられる物質に命が宿っている場合は、その命を殺傷しなければならない。人はこうした殺伐とした生存的事情から、生き延びるために生物の命を原始時代から狩り続けてきた。命を弄ぶ魔の手は陸上の生物だけでは飽き足らず、海上の生物の命まで奪い、無惨に横たわった肉を調理し、欲の限り貪ろうとする。猟師は自らの殺傷行為を職業として正当化し、身を隠しながら己の飢餓を満たしてくれる野生の動物を虎視眈々と付け狙う。漁師は海上に捕獲用の網というトラップを張り巡らし、獲物が引っ掛かって人間の為の供物と成り果てることを満面の笑みで待ち構えている。動物園では野生から拉致してきた動物を見世物として扱い、サーカスでは人間を喜ばせるために動物自身の意志とは無関心に芸を仕込み、ペットショップでは金銭的価値を付加し、奴隷扱いする。このような半ば常識とされている事態を直視すれば、動物を保護するということが如何に欺瞞に満ちたものであるかは周知の事実であろう。まして動物愛護など所詮個人的な自己満足である。鯨を保護し、鮪を保護しない愛護団体にどれほどの善意が存在するのだろうか。そんなものは個人的劣情に基づいた偽善だと気付く筈である。ひとたび鯨が致死性の高い病原菌に感染すれば、愛護団体は彼らの愛する鯨達を鳥インフルエンザにかかった鶏の如く、容赦無く殺処分し捨てるだろう。まして愛護する対象が百獣の王とまで呼称されているライオンともなれば、恐怖に支配されてムツゴロウでもない限り近寄ることすら困難だろう。利己的な彼らの心に愛などという高尚な成分は含まれていない。愛という概念は常に利他的、自己犠牲的であり、決して個人的欲求のみを満足させるものではない。特定の動物を愛し、保護しようとする彼らの行為はまさに個人的欲求が反映された結果であろう。愛とは、生きとし生ける全生物に反映されるファクターでなければならない。人は、偽愛をもって動物の命を弄んでいるのである。この観点で進めると、私の行為も所詮は偽善ということになる。結論として私は判断を誤った、ということだ。全てではないかも知れないが、人間が語る愛とは、大抵が自身の身の安全保障が約束された、ご都合主義に則ったものだと言えるのではないか。現実に存在する人間の心は、ドラマや映画のように美化できるものではない。しかし、「やらない偽善よりやる偽善」ということわざが存在するように、時と場合によっては同情に駆られて衝動的な行動を形成することもあるし、何より人の善意が全て偽善だと一蹴するのも暴論だろう。それでは救われないし、そうした偽善で命が救われるのも確かである。従って全否定するスタンスまでは取れないが、「善意が如何なる成分で構成されているか」を吟味しようとする姿勢ぐらいは覚えておきたいものである。この論述は非常に理想的である。現実的でもなければ実存的でもない。この文章はただ自身の体験を交えて、安定を求めて嘘や欺瞞をバラ蒔きたがる人間の心理という厄介なものに少々メスを入れてみただけである。
今日は大学の入学式だった.国内の大学に通う増田と同様に,私もまた東大生である.
そこに,新入生として出席してきたのだ.
入学式は例年日本武道館を貸しきって執り行われる.(昨年は余震を警戒し,大幅な縮小があったが)
入場前,武道館へと向かう道,式終了後,武道館から地下鉄の駅へ進む道,いずれもLECや新聞社などが東大新入生の勧誘を行なっていた.
勧誘だけでなく,テレビや新聞の取材も多い.実際にテレビやインターネットニュースなどのメディアでも今日の記事が大きく取り上げられていた
私は取材に備え,前日晩からしっかりとネタを考えこんできたのだ.
ただ,取材されなかった.
確かに私は画面映しない顔である.
ボランティアに行きたい気持ちはあるが,勇気も出ないし根性もないので,増田や2ちゃんで偽善偽善と叩くのみの日々を過ごしてきた.
部活は中学の途中でやめたし.勉強についてほめられることがあっても人格についてほめられることは一度もない.
基本的に街中を歩くときは勿論右の人も左の人も内心見下しながら歩いている.
単位をとって遊ぶだけの生活.
944 ソーゾー君 [] 2012/04/04(水) 21:56:54 ID:D.qgNUc6O Be:
バーベキューを奪われた九人が一人分のバーベキューを奪い合うの
を腹抱えて笑いながら見て奪ったバーベキューを五人分程寄付して調整する…
人数分は渡さない…減らしたり増やしたりしてコントロールする。
構造が解ると逆になる…
泥棒に財産を奪われた被害者が奪った泥棒の施しを受け感謝する…
腹抱えて笑ってるわな…何時まで笑いを提供し続けるのかな?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/business/9191/1329613996/
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1203/13/news104.html
この騒ぎを見ていて思うのが、子供たちのネット上での居場所なんて大人の胸先三寸なんだな、ということだ。
見たところアメーバピグのウェブサービスの収益源は広告収入か直接課金が主で、それがなければ事業が継続しない。つまり、サイトを閉鎖しなければならない。だからピグにとっての優良顧客は広告をクリックしてくれる人、直接課金をしてくれる人になる。けれど、普通子どもが直接課金できる額なんてたかが知れているし、広告だってだいたいは購買力のある社会人に向けて発信されているものだ。当然運営は社会人のユーザーを逃がさないような方向へ進む。
じゃあ、最初から子供なんてユーザー登録させなければいいなんて思うんだけど、子供でもユーザーがたくさんいることはそれだけでアピールになるし、おそらくアメーバやそこに広告を置く企業は子供たちを将来の顧客として捉えている。サービスの賑わいが演出できて将来の顧客であるところの子供たちへのプロモーション効果を狙った企業が高い広告費を払ってくれるなら、多少の行儀の悪さは大目に見ようという判断だったのだろう。けれど、そんな行儀の悪さも度を過ぎてくると、他のユーザーからの苦情に対応が追いつかなくなってくる。優良顧客の社会人は嫌気がさして他に移ってしまう。収益を優先するなら今回のような対応を取るのがベストと運営は判断した、と、背景はおそらくそんな感じだとおもう。
ピグに限らず他のサービスだって同じだ。運営にはサーバ代がかかる。人件費がかかる。最近はソーシャルゲームの収益性が話題になったりして、ウェブって儲かるんだ、なんて思われるのかもしれないけれど、実際ウェブで儲けるのはとても難しい。多くのユーザーで賑わうサービスが蓋を開けてみると赤字だったなんてよく聞く話だし、今何億と売り上げるウェブサービスも3年後にまだ存在するかどうかすら分からない。だから企業は事業存続のために収益化に躍起になる。そんな企業が、広告をクリックしてくれてあわよくば有料課金してくれるユーザーと、他のユーザーに害を及ぼすだけで金をほとんど落とさないユーザーのどちらを取るかなんて火を見るより明らかだ。
けれど、それでいいのかという疑問はウェブサービスを生業とするものになら常に誰にでもあるだろう。アメーバの運営掲示板に寄せられたコメントを読むと、ただただフラストレーションをぶつけただけのものも多いには多い。そんなコメントを頭の悪い厨房の戯言と嘲るコメントも、また。しかし、そんな中でも目立つのは今まで友人とコミュニケーションをとっていた場が無くなることに対するやりきれない思いを綴って、なんとか運営者の考えを変えてやろうとするコメントたちだ。年齢を偽ればいいじゃないかなどというずるがしこさも見えず、そんなコメント一つで企業の姿勢が変わるわけがないとわかっているから痛々しい。
個人的には今回のアメーバの対応はある程度正しいと思う(ベストは個別のアカウント停止だろうけれど、主に文章をやりとりするSNSに比べると対応が線引きしづらくコストが掛かるという判断だろう)。どんなウェブサービスにも存在するには理由(大人の事情含む)があるし、人と人が関わる以上ルールがあってしかるべきだからだ。それを偽って子供の楽園と化してもそれは偽善だろうし、なによりサービスが継続できなくなるんじゃないかと思う。でも、悲痛なコメントたちが語る、コミュニケーションの場としてのピグは運営者にとってもある意味やりがいに通じるものであることは確かだろう。この対応の裏にある、収益を優先しなければならないやりきれなさを想うのは考えすぎだろうか。
しかし、今回の対応でネット上の子どもたちの居場所がひとつ消えることは確かだ。そこで行われた考えの足りない数々の愚行は消え去るだろう。同じように、子供たちの日常を支えたであろうネット上での会話もなくなってしまう。都市部に子供たちの遊び場が無くなったと言われて久しいけれど、経済主義によって動くネットも同じだ。そこでは、子供たちの居場所を守ろうなんていうインセンティブは働かない。子どもはいつも隅に追いやられて、隔離される。何が間違っているんだろう。経済優先の資本主義のせいだろうか。いつの時代も変わることのない子どもの愚かさのせいだろうか。
子供たちよ、ネット上におまえたちの居場所はない。それは僕たち大人のせいだ。大人を恨めばいい。好きなだけ罵声を浴びせればいい。
そして何が問題なのか考えて、今の不甲斐ない僕らよりもたくさん、子供たちに居場所を作ってあげられるような大人になって欲しいと思う。
瓦礫を押し付け要請を受けている大分県の市町村の住民(私)が考えていたこと
「思いやり?」何それ私ら大分県民が働いて集められた税金や寄付を元に支援した
「思いやり」の形をなんで元増田に「偽善」とかいって批判されたりするだけでなく
嫌なことまで押し付けられなきゃならないの、ペッ 「同調圧力」うざ、激しくうざい
生鮮食料品で定評のある県に、放射能まみれの瓦礫を持ってくるなんてとんでもない
「ネトサヨっぽい人たちはネットのあちこちで風評被害煽り立ててたしな」
瓦礫を受け入れてああいう風に煽り立てられて風評被害出たらやだもん。
「思いやり」や「絆」という言葉は寄付を募るとき役に立てばそれでいい
私はそう心の中だけで思っているのだけれども実際に大分県の瓦礫受け入れ反対してるのは
反原発っぽいサヨクな活動をしている人々だけであって私ら大分県民の間では新聞やローカルニュースその問題
見たなあぐらいで日常の話題にすらなってないよ。
「いまのぼくには無理」とか自分勝手に判断していた。
判断のそのときそのときが、人生でもっとも最悪な時期だと思っていた。
いつも最悪だと思っていた。自分のなかでは正しく論理的に考えて、ダメだった。
けれど振り返ればここにきて、本当に今が最も最悪な状況になっているかもしれない。
しなければならない人生の訓練をちゃんとしてこなかった結果だ。
※人生の訓練とは、女とか仕事(仕事ってもバイトだけど)とか人付き合いの話。以下、説明とぼくについて少し。
過去に彼女がいなかったわけでもないし、バイトをしなかったわけでもない今もしてる。
だけどぼくはあまりに怠けすぎていた。ただ「自分が弱い」という理由だけで。
何年も彼女がいなくて、バイトもしてない時期があった。それが良い状態ではないと思っていたが、あまりに世の中は怖いことだらけだった。
あと働くことで得られる自信なんてものはクソッタレだと思ってるけど、人間的に強くないからやっぱり働くことは勇気を得ることでもあるわけさ。
ぼくは精神的に弱い人間だ。小さなころから一人でいることが多かったせいだと思う。
もちろん今でも友だちは極端に少ない。いるのかいないのかよくわからん状態だ。
一時期は、玄関まで行っても扉が開けれない状態だった。軽く鬱病だったんだろうな。毎日死にたいとか思ってたし。でも病院は行かなかった。
今はそんなことないし、根暗だけど元々楽しいのは好きだから、周りの人間にはぼくが賑やかしみたいに見えてるだろうな。
そんなぼくのことを羨ましがるひとが何人かいたけど、たぶんぼくと同じことで悩んでいたんだろうな。
ぼくはそれを乗り切ったわけじゃないし、今でもずっと孤独だ。だからといってむやみに悲しむほど繊細な心は鬱時代に置いてきた。
ただ時々生きるための理由を偽善的につくろわないと「死んでもいい」という思考回路につながってしまうからしんどい。
「死ぬ覚悟より生きる覚悟のほうがずっと大変」だとは偽善的でなく本気で思ってる。
RPGの話をする。
RPGっていっても、テーブルトークRPGやMMOとかじゃなく、ドラクエやFFみたいな俺が青春を費やしたやつだ。
ストーリーってもう出尽くした気がするんだよね。
かつては、ストーリーに出尽くしなんかないと思ってた。
もちろん、定番のネタというのはあるけれども。
でもさ、思えばRPGにおけるストーリーの制約はけっこう厳しい物がある。
町の平和を守るとか、そういう小さな目的から、世界を救うといった大きな目的まで、その流れに沿って話を進めないとならない。
ハードと媒体の進化によって、グラフィックや容量に制限はなくなった。
いくつもの国があり、それぞれの国にはいくつもの町があり、それぞれの町には何百人、何千人、時に100万人以上の人間が住む大都市まで登場する。
そんな世界では、一人の魔王を勇者が倒せば諸問題が全部解決する、なんてことはありえない。
現実と同じくらい複雑な世界では、その世界の諸問題も現実世界の諸問題同様に複雑で、誰か一人をやっつければ解決するほど単純なものではない。
独裁者、魔王、そういった一個人をラスボスにすることが出来ないとなれば、ラスボスは超存在とか概念となる。
スーファミ時代から、いやファミコン時代の後期からそういう傾向はあったけどさ。
でも、そういうのってしっくりこないんだよね。
昔話、神話で刷り込まれた勇者が魔王を倒すっていう基本のストーリーははやっぱり強力。
そういう単純な話、敵をやっつけて一件落着というラストに落とし込めるような、箱庭的な小さな世界観のゲームのほうが結局面白い。
「世の中には善と悪だけじゃなくて、偽善やら偽悪やら、善のつもりで悪をしてたり、その逆だったり、頭じゃわかっても憎しみは消せなかったり、いろいろあるんだ」
などと説教されても
「うるせーバカ」
となっちゃうだろ?
最近になって、糸井重里がMOTHER3の開発が頓挫した理由を「大作主義に陥ったため」と説明した理由が理解できてきた。
フラッグシップハードのRPGは大作である宿命が義務付けられている。
グラフィックは美麗でないといけないし、美麗なグラフィックは古典的で単純なターン制では許されない。
誰得な複雑でわかりにくく珍しさだけで楽しくもないシステムを抱き合わせさせられる。
世界は壮大でないといけない。
敵の目的も壮大でないといけない。
ちっぽけな主人公の存在が世界の大きさに押しつぶされてしまうのだ。
(じゃあ主人公をちっぽけじゃなく、特別な存在にすればいいのか?そんな特別な存在に感情移入できるのか?)
ずいぶんと後に、ゲームボーイアドバンスでMOTHER3が発売された。
物語の全てが小さな島のなかで進行した。
人類が生き残っているのはその小さな島だけだった。
それでも、大作を目指してしまった痕跡と言うか、いろんなものを詰め込み過ぎた痕跡が見え隠れして、MOTHER2ほどの面白さがなかった。
「他の犬は知らないかもしれないけど、君達が世界を救ったこと僕は知ってるよ」
と言ってもらえるような冒険がしたいんだよ。