はてなキーワード: 不可能とは
https://anond.hatelabo.jp/20220125192916
人々が仮想空間に求める「自由」とはきっと、身体の自由じゃなく思想の自由なのだ
昔にもあったよ。
2chっていうんだけどさ。「どうも違うな」と思う人には別の板行けば、って思ってたかな。
昔にもあったよ。
ワールドワイドウェブ(WWW)といったんだけどさ。個人はハイパーリンクで結ばれ蜘蛛の巣のような世界ができるけど、どこにも中心はない、だから民主的とか言っていたね。
昔にもあったよ。
パソコン通信って名前だったけどさ。フォーラムっていう会議室があって主宰者に変わり者は多かったけど、まあきれいに言えば自律社会ふうな島宇宙だったかもね。
あとパソコン通信時代の富士通HabitaとかインターネットになってからのHabitat IIとかって今でいうメタバースだったかもね。「オラクル」っていう神がいたのは今となっては笑えるのか笑えないのか。
https://pr.fujitsu.com/jp/news/1997/Sep/habitat/habitat2_concept.html
【現実では不可能なことを実現した、もう一つの世界『富士通Habitat』】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E9%80%9AHabitat
当方:JAXA関係者(広い意味で。それこそJAXAで体験イベントに一般人として参加したレベルも関係者と含むレベルで考えてくれて良い。その方が身元がバレにくくなるから)
権威と立場がそろえば漫画がクソだからと出版社と敵対関係も取れる。
人によっては「分をわきまえた上で」JAXAの看板を掲げながら出版社と喧嘩することも出来たのである。
ウンチャラ機構とついているお役所は研究を外部に丸投げするタイプと自分らでも割とやるタイプに別れるのだが、JAXAは自分らでも割とやる方に属すると思う。
全ての独立行政法人について完璧に詳しいのかと言われるとコチラもほぼ門外漢に近いのだが、体感だとJAXAはかなり自分たちで研究している方だ。
そして、研究を自分らでやっている組織は権威主義が組織全体、それも個々人の中にまで根深く蔓延っている。
外部に委託している部分が多い組織では、書類や企画に権威主義が蔓延っていても、個々人の感情の中では「看板と名札がどうだってんだよ?なぁ?」みたいな気持ちが強い傾向にある(と思う。知り合いに聞いた話の平均とかで)。
逆を言えば、権威が滅茶苦茶強ければ自分とはかなり無関係な分野に対してもズイズイ意見を押し通すことが出来るのである。
まあつまりは、普通の会社において営業部の部長であれば製造部の係員に「おい。服装がだらしねえぞ」と多少喧嘩腰に怒鳴っても許されるが、相手が科長ぐらいになると表向きは従順な板度をとってもいなくなった数秒後には「あんたにそこまで言われるもんすかね?」と若干冷めた空気が流れたりするアレの度合いである。
これはお役所だからということもあるし、研究組織だからである。
会社というのは究極は利益追求が目的であるが、お役所は組織が綺麗に回っていることが最優先なため、ハンコの序列が持つ力は尋常ではない。
恐ろしいのはここである。
え?マジ?と思ってしまうかも知れないが、やれる人がやろうとすれば「この出版社さんとはJAXAは付き合いませんよ」をぶっかますことが不可能ではなかったのだ。
電話をとっても繋ぐな知らんぷりをしろと言われたらそこで終わるのである。
もちろん正当な要求であれば受ける必要があるだろうが、お願いベース程度ならガンガン弾かれてしまう。
役所は、契約をしている案件なら丁寧に対応するが、そうでない内はなあなあなご近所づきあいが基本を締めており、「公僕なので国民のために全てを差し出しましょう」なんて態度は取らない。
むしろ「我々の労働は税金で賄われているのだから、一企業に対して安易に労力や知識を提供するのもね。正式な手続きでの資料要求ならコピー代で対応するかもだけどそれ以上は……」と冷たい態度を取ることも多い。
なので今回のようなことがあったときに機嫌を損ねた人間が然るべき立場であれば「こんな奴らとはもう付き合わないようにしましょうね」とお触れを出すことも出来てしまうのである。
「分をわきまえる」ってそもそもなんだ?と思った人も多いだろう。
だが、これは役所のシステムを考えればおかしいことは言っていない。
役所のシステムに染まっていなければ出てこない発想なのかも知れないが、役所にどっぷり染まっているとその事に気づけ無いのである。
恐ろしいねえ……。
そもそも世の中の人は他者をなんでもかんでも羨んで生きてはいないという視点が欲しい
ちなみになんでもかんでも他者を羨んでいないのは、
徳が高い人物であるとか己を律する気持ちが強いからではなくて、
生まれつきそういう機能(なんでもかんでも羨ましがる)が元々無いか、
そういう機能(なんでもかんでも羨ましがる)があってもとても薄いだけである
羨まずに生きることは不可能であるとまずは受け入れた方がいいと思う
個人情報と個人のストーリーをネット上に載っけないとアカンねんって話なのですわ
持ち回りで会社のエンジニアとして記事を書け・イベント開け・参加しろとに命じられて
Facebook垢をイヤイヤ作ったけどね
すべて同じ人物から得たものだけどね。ここでは仮にA氏としておこう
ここまでの流れを自分なりに整理したくなったのでまとめてみた
増田A...…どうして優生学がタブーとされるのか知りたい増田。すべての始まり。
増田B...…集団遺伝学の視点から優生学に意味がないことを諭す増田。この議論の流れを作る。
増田C...…増田Bの議論に科学的に怪しい点を多数発見し指摘。人の手の介入により人間は遺伝的に強い生物になれるという立場。ちょっと口が悪い。
増田D...…かつて集団遺伝学の論文の投稿経験もある実力派。増田Cの反論に対して、より現実的な立場からの意見を述べる。
某ミュージシャンの「国がスーパースターの遺伝子を管理して、スーパースター同士で子供を作らせればより強いスターができるじゃない!」という発言が炎上したことに対し、増田Aが違和感を抱く。
「個人レベルでは優秀な遺伝子でパートナーを選別するのはみんな当たり前にやっているのにどうして?」
これをはてな匿名ダイアリーに投稿したところ、「なにをいまさら……」みたいな感じで軽く盛り上がってしまう。余談だが、ここで増田Aが「優生学」と「優生思想」という言葉を混ぜて使ってしまったことで議論が少しややこしくなった気がする。
反応の多くは倫理的な批判だったが、その中で目を引くトラックバックを投稿したのが増田B。ゲノム科学者と名乗るBは、集団遺伝学的な以下の点から優生学は突出した人類を生み出すことは不可能と述べる。(私はここでちょっと納得しちゃいました)
拍手喝采!増田Aも「こういうのが読みたかった!」と追記し、物語は終わりを迎える……。ように思われたが、よくよく調べると増田Bの言っていることは科学的に怪しいということがわかってくる。
その代表が増田Cの投稿だ。CはBの投稿を精査し、一文一文について真偽を確かめていった。
Cが「間違い探し?」と言っているように、指摘の多くはBの自論を補強するための根拠に誤りがある、というものなので割愛するが、最も大きな意見の違いは以下のBの意見が完全に誤りだと述べている点だろう。
動植物の育種に代表されるように、遺伝的に有利な集団を作り出すことは人間でも可能というのが増田Cの意見である。
そこで現れたのが増田Dである。当初は増田Cと同様、増田Bには反対する立場だったが、トラバを眺めてるうちに「意外と合ってるんじゃね?」となってCの議論に意を唱える結果となったらしい。
個人的な感想だが、増田Dはより「ヒト」という種全体での形質について着眼しているように感じた。
増田Cの意見としては、「背の高い人同士で子供を作らせて、背の低い人は子供を作らせないようにすれば種全体として平均身長が上がる」って話だと思うんだが、増田Dの意見は自分は以下のように解釈している。(間違ってたらゴメンナサイ)
Cの意見はBの意見を否定する材料としては十分だが、以下の理由から優生学的に人類を選別するメリットはあまりないというのがDの意見かなと思う。
淘汰圧に上限を設定するというのが増田Dの意見の大きな根拠かと思いました。集団遺伝学は難しいですね。
Aさんの「ほんとに優生学って悪なの?」という疑問に集団遺伝学的な面からメスを入れるという議論が見られて面白かったです。この流れを作ったBさんに感謝ですね。
増田Cさんはかなり議論を具体化してくれたんのですが、立場がいまいちわからなかったのがモヤモヤポイントでした。増田Bさんの誤りにイライラして投稿したのは伝わってきたのですが条件設定が非現実的で、ちょっと極端な思考実験的にも感じました。あと思想として優生学的な手法を是とするか否とするが気になったところです。(もう少し優しい感じのサイエンスコミュニケーションを見たいかもね……)
Cさんの意見がその他の条件を一切排除した場合の考察に対し、増田Dさんは現実的な条件設定のもと選択圧を適用したという仮定について考察されてよみやすかったです。
たしかにこういう議論になると極端な設定を考えてしまいますが、絶滅しても淘汰圧かけるぞ!とはなりませんもんね。勉強になりました。
結局のところ優生学がなぜ悪か、という一番知りたかったテーマにはたどり着けていないのですがいろんな人が取り上げてた本を読み漁ってみます。
Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、その他のみなさん、ありがとうございました
北朝鮮のミサイルの性能が向上して、M10でジグザグ飛行して目標に命中させる能力を獲得しているとするともはやイージスで補足して撃ち落とすことは不可能。
https://anond.hatelabo.jp/20220126232324
今日も今日とて無敵の人増田がホットエントリに入ってブコメ民が群がっていた。
しかし改めて思うのは、無敵の人増田自体じゃなくて、それをスルーできない一般ブコメ民の存在のほうがよっぽどヤバいんじゃないかと思う。
それが増田に屯する。現実で屯されるより治安上はよっぽどマシだし別に良い。
しかしそこに暇を持て余したブコメ民が集まってきてつつきはじめる。
しかもその応答は「同じレベル」というか、いちいち相手の世界観に乗っかって言い返すようなものばかりだ。
お前サバンナでも同じこと言えんの?やれるもんならやってみろ、ってな具合に。
そんなことを言ってもなんの得はないし、無敵の人を刺激してよろしくないことになる可能性もある。
ご存知なのにやめられない。
言い返したくて仕方ない。
その欲求の源泉は多分無敵の人の動機と似たようなものであり、しかもそのヤバさは自覚のないものなので修正不可能なのだ。
彼らは自分が無敵の人予備軍だとは露ほども思っていないだろう。
無敵の人に対峙しているまともな一般人だと思ってブコメしているだろう。
笑えない冗談みたいな話だ。
最近某お悩み相談系ラジオを聴いていてたまに気になるのは、モラハラ夫や毒親などに対して「逃げろ」「離れろ」というアドバイスが圧倒的に多いこと。一言で言うと、「クズ人間とは一切関わりを断つこと」だ。
目の前の相談者に対するアドバイスとしてはもちろん圧倒的に正しいんだけど、モラハラ夫や毒親は別に社会から消えてしまうわけではなく、そうした人はどこかで社会生活を送り続けることを考えると、結局別の誰かが「犠牲者」になっているであろうことを想像してしまう。
象徴的なのが、その全く逆の、周囲の友人や近親者の関与や説得などによって、モラハラ夫や毒親の行状を改めさせるべき、というアドバイスがまったく皆無なこと。それやろうとかえって疲弊するだけだ、というのはとてもよくわかる一方で、悪人やクズ人間は所詮は変わりようがないから一切関わるな、という人間観はどこかヤバいものを感じる。それは「差別」「排除」につながる発想ではないだろうか。
共同体が強い昔であれば、「クズ人間とは一切関わりを断つこと」は、そもそも現実に不可能だった。だから「クズ人間」をまともな人間に改めようと周りが頑張った。良し悪しはあったかもしれないが、社会全体で「クズ人間」そのものを減らしていく論理にはなっている。
しかし個人主義社会となって、「クズ人間」と一切関わりをもたなくすることが、比較的可能になった。しかし、全ての人が「逃げろ」「関わるな」で対処するようになると、社会全体で「クズ人間」自体が減ることはない。実際、人間はクズだが仕事ができて金儲けはうまいとか、パワハラで出世している人物はいくらでもいる。
陰謀論で信者を騙して大儲けしている奴とか、ネットの反フェミニストの連中とか、典型的な「クズ人間」が減らずに増殖しているようにも見えるのは、みんなが「逃げろ」「関わるな」という、その場限りでは極めて合理的な行動選択をし続けた結果ではないだろうか。
地方でポケモンGoしてるとさ、ほぼ出会う人が複アカや位置偽装なわけよ。コミュの半分も単垢いないんじゃないかな。
別に単垢で楽しめればそれでいいんだよ。わざわざ複数メアド管理するのかったるい。
だけど運営はそんなこと理解していないから、交換だとか対戦だとか、明らかに複アカじゃないと厳しいことを導入してくる。
単垢では攻略が無理、複アカで頑張ろう、ってゲームの仕様にしてる
特に地方で単垢で楽しむなんて不可能に近いのがいまのポケモンGo
なのにさ、ときどきをそれを指摘してくる連中がいるんだよ。
たとえばチラシを作りたいと思ったら、昭和や平成の時代は、近所の会社を電話帳で探す必要があった。
体育の時間に運動場に集まって授業をはじめるかというタイミングで女生徒が「お手洗いに行かせてください」と手を上げたそう。
これは生徒全員が見てる。
入口の扉はクラスの全員が気にしてたので見られずに出ていくのは不可能。
自分が記事を正しく読めていない、一部飛ばし読みしているところもありますが、些末な点で言いたいことがあります。
大谷翔平、長嶋茂雄、野村克也が周りより一歩も二歩も抜きんでてたのは遺伝形質(身体的特性)に加えて本人が努力したからに決まってんだろ。努力の結果が遺伝するわけがない。遺伝疾患や体格と一緒にするな。わざとか。どっかの詭弁のテンプレートにこういう例があるのか。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24957535/
そして、努力したことがのちの世代に影響する(これを「遺伝」、と言っていいかは素人のため不明ですが)かもしれません。エピジェネティクスって言うんですけどね。
ゴルトンの観察が平均に回帰した(ように見えた)のは実験の条件が一定じゃなくて子供のサイズが親のサイズよりも環境から受ける影響の方が大きかった(つまり親のサイズという変数に対して無作為抽出になっていた)からだろ。
結局これがすべてで、逆に考えると、集団ではなくひとりひとりを取り出してみてみると「遺伝子だけではその人の性質や将来はわからない」というのが素人の感想です。遺伝子で説明できる行動や性質(表現型、というのが正しいんでしょうかね)は、集団で見れば有意差ありかもしれないけれど、特定の1人を取り出した時はよくわからない差だったり、他の(社会的)要因に埋もれてしまう程度なのかなと思っています。何より、遺伝子だけでは分からない病気や障害は多いなと思っています。
ちなみに元元増田の
親の身長とその子の身長を比較すると、極端に身長の高い親の子は、どちらかというと平均側、普通っぽい身長の方にシフトする、と言う現象です。
は、「極端に身長の高い親の子は、極端に身長が高くなる確率と平均的な身長になる確率を比較すると、平均的な身長になる確率の方が高い」としておけば、平均への回帰についての正しい説明になります。
元元増田の
多遺伝子型の遺伝構造はまだわかっていないことも多く、「優生学的操作」をしてどうなるかすらわかっていないんですよ。形質に遺伝的因子があるなら、優生学的操作をすれば人類は必ず優秀になる・・・というのが元増田の議論の開始点だと思いますが、そこ、すでに間違ってるんです。
というのは、一般の人が想像するデザイナーベビーは今の技術では難しい(成功が保証されない)、という意味では、人々が持つであろう感想と一致するかもなと思います。「優生学やら遺伝子操作でも、案外思い通りにならないじゃん」ということ。
(この部分は優生学の善悪の話をしているのか、可能不可能の話をしているのか、元増田と元元増田でずれはありそうですけど)
ここから先は元増田・元元増田とは関係ない話です。元元元増田の話に関連した話です。
ので、社会政策的に(ナチスドイツのように)優生学を進めていくというのはおかしなことになるのではないかと危惧します。が、実際は子供が生まれる前に出生前診断に加えて着床前診断(これは流産防止の措置ですが)をしているので、優生学の支持者どころか実行者(いわゆる「リベラル優生学」かもしれません)です。
今の日本(もっと極端な例は中国都市部)って、それなりにお金がある人しか子供が持てないので、ある意味「金がある、優れた人だけ子供を持てる」消極的優生学というべき状況が進行しているように感じます。遺伝子操作が~優生学が~というのは確かに倫理的に重要な問題ではありますが、こういう優生学が問題になるならば、今現在進行中の、より大きな、かつ社会的に解決策がありそうな問題も無視できないですよね。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220125/k10013449901000.html
あまりに愕然とする話だし、ネットもテレビも頻繁に取り上げていて、加害者の人柄だとかも報道されているようだ。
つくづく理不尽だと思うし、勇気ある行動をした被害者を応援したい。
被害者さんは顔面骨折って話だけれど、それが治ってもその後PTSDだとかを発症する可能性って十分考えられるよね。
フラッシュバックを起こして電車に乗れなくなってしまったりする可能性だとかもあると思うし。
そういう事を考えると何か具体的に役に立てることは何かと考えてしまう。
寄付というか、お見舞金を贈るということはできないだろうか。
加害者を非難する書き込みをする代わりに、1クリックで10円なり100円なりを贈れるシステムだとかがあればいいのに。
現実的にはプライバシの問題、手数料の問題etcでほとんど不可能に近いのかな、と思うんだけれど
もしできたら被害者の役に立つし、一人当たりの金額が微細でも集まれば何百万円とかになるかもしれない。
そういうことが可能だったら、少しは被害者の方も救われる・・は大げさか。救われはしないかもしれないけれど、でもともあれ少しは役立ててもらえて生産的じゃないかと思うんだけど
ゲームの歴史や文化への推測で物が書かれてそうだったので補足したい。
こういった攻略情報を見ないで遊ぶプレイヤーの可処分時間時間を尊重しているとはとても思えないゲームが増えた
~
昔よりも今のゲームの方がギミックが複雑になっていたり、プレイ時間が長くなったのには理由がある。
こういった物が積み重なり、ユーザーもゲームに慣れていった結果、今の複雑なゲームがある。
そもそもゲーム開発において、ゲームを難しく作るのは簡単。易しいゲームを作ろうとすると沢山の知識や技術が要求されるので、難しいゲームは必然と増えていく。
難しくておもしろいゲームは生まれるし、難しくてつまらないゲームも生まれるので、すべての難しいゲームを一辺倒に悪と切り捨てるようなイチかゼロかの話ではない。
今はネットなんて皆使えるし、ネットがないなら攻略本があるわけだから攻略情報はいくらでも集まる。
~
結局さ、攻略情報見ないこと至上主義のプレイヤーが時代に取り残されているだけなんだよね。
~
たとえばスト2で遠征先で戦った強敵と情報交換し合うことでそれぞれの地域だけじゃ見つけられなかった知識を深めることでゲームをより深く楽しめてたわけじゃん。
攻略情報の交換がゲーム文化の一部になっているのはその通りだと思う。
昔のゲームセンターには白紙の攻略本が置いてあり、ユーザーが攻略情報を好きに書き込み情報交換をしていたし、雑誌に攻略情報の投稿をしていた人もいる。
今も同様に、ネットに攻略情報を書き込み情報交換するのはそういった文化の発展があるから。
「自力でゲームクリアーを目指す人が時代に取り残されている」というのはかなり疑問。
ゲーム配信者が高難易度のゲームを自力で解いて配信が盛り上がるような例もあれば、ひとりでコツコツと頑張り楽しんでいるユーザーもごまんといるはず。
ネットのいざこざや、大規模な放火事件などを見るにつけ、自分の思い通りに生きられないことの苦しみはいよいよもって高まってきていると言える。
一方で、技術的進歩により人々は仮想的な空間に自らの存在を移し、その中で遊ぶことができるようになった。
このことを、世の偉い人たちは人々が求める身体的解放の一形態だと捉えているようだ。
しかし、人々が本当に求めているのは、そんな意味での物理的な仮想空間なんかではなく、思想的な仮想空間の方である。
この「思想的な仮想空間」とは、具体的に言うなら、お互いが思う正しさが矛盾なく存在する仮想的な世界といった意味だ。
つまり、誰もがその自分の思考通りに生きられ、そのことによる対立や争いが生じない世界。
まあ、そんなことが現実の世界では不可能なのは、一番最初に挙げた例からでも理解できるだろう。
間違っちゃいけないのは、そのことが、高速で走れるとか空が飛べるとかの身体的自由を求めてではないこと。
冷静になって考えればわかるが、そんなことは人々にとって根本的にどうだって良い。
そうじゃなく、自分の思想に抵抗の無いという意味で自由な世界を求めるから、人々は仮想空間を目指すのだ。
このことこそ、これから仮想空間を考える上で大事な視点となるはずだから、思い付いたその瞬間に雑多な文章のまま書き残しておく。
(追記)
「思想的自由」というフレーズは、若干誤解を生む表現だったかもしれない。
トラバやブコメを見ると、人々は思想的な議論ができる自由を求めて(インターネット上の何かと同じように)仮想空間を目指すのだ、みたいな理解を与えてしまったようで申し訳ない。
そうじゃなくて、言いたかったのは、前半にある「誰もがその自分の思考通りに生きられ、そのことによる対立や争いが生じない世界」の部分で、
仮想空間のニーズはまさにその部分にあるのだろう(なのに、身体的自由ばかり強調されている)と思ったから、思いつきを書き残したのだ。
仮想空間なら、そこに居る「他人」はリアルな人間でなくたっていい。だから、そこに対立が存在しない「人間関係」を作れる。
また、アバターのように、利用者にとって見たいもの、見せたいものだけ存在する環境も作れる。
そういったものが、平行世界、観測者効果みたいなものを想起させて、仮想空間が先述の「誰もが~世界」となりうるだろうと考えたのだ。
結婚願望がない、今のところはまったくない。
子供が欲しいと思ったこともなかったが、いつのまにかアラフォーになっているので今さら子供が欲しいと思ったとしても無理だと割り切っている。
今のところその兆しもないが、数年後にふとした切欠で子供欲しいと思ったら後悔するんだろうなーって漠然とした不安はある。
その時になってはじめて婚活なりなんなりしておけばよかったなーと後悔するような気もするけど、かといって現時点で既に手遅れだからな。
あくまで今まったく願望を抱かないだけで、将来孤独に耐えられなくて人と一緒にいたい、とか思うかもしれない。
親の介護目当てにパートナーが欲しいとかいう寝言だけは絶対に言わない自信があるけど、幸い家事は得意なので。
ともあれ、将来パートナーが欲しいと思う日が来たら、その時はやっぱり、もう手遅れだしと後悔するんだろうって気がする。
でも、だからといって将来後悔しない為に今動くってことができないんだよね。
欠片も婚活しようって気がおきないし、そもそも成婚できるような気がまったくしない、もう1人で生きる運命なんだってなんか確信に至っちゃってる自分がいる。
せめてやる気さえあればスペック不足を覆すことだって不可能じゃないかもしれないけどさ、そもそもやる気がないんだもん、こればっかりはしょうがない。
幸か不幸か、今のところ後悔する兆しはない。
結婚願望は相変わらず湧かないし、コロナも手助けして人と会いたいって気分にすらならない毎日を過ごしている。
でも、なんとなく、いざその時が来たら後悔するとは思っているけどね。