ネットのいざこざや、大規模な放火事件などを見るにつけ、自分の思い通りに生きられないことの苦しみはいよいよもって高まってきていると言える。
一方で、技術的進歩により人々は仮想的な空間に自らの存在を移し、その中で遊ぶことができるようになった。
このことを、世の偉い人たちは人々が求める身体的解放の一形態だと捉えているようだ。
しかし、人々が本当に求めているのは、そんな意味での物理的な仮想空間なんかではなく、思想的な仮想空間の方である。
この「思想的な仮想空間」とは、具体的に言うなら、お互いが思う正しさが矛盾なく存在する仮想的な世界といった意味だ。
つまり、誰もがその自分の思考通りに生きられ、そのことによる対立や争いが生じない世界。
まあ、そんなことが現実の世界では不可能なのは、一番最初に挙げた例からでも理解できるだろう。
間違っちゃいけないのは、そのことが、高速で走れるとか空が飛べるとかの身体的自由を求めてではないこと。
冷静になって考えればわかるが、そんなことは人々にとって根本的にどうだって良い。
そうじゃなく、自分の思想に抵抗の無いという意味で自由な世界を求めるから、人々は仮想空間を目指すのだ。
このことこそ、これから仮想空間を考える上で大事な視点となるはずだから、思い付いたその瞬間に雑多な文章のまま書き残しておく。
(追記)
「思想的自由」というフレーズは、若干誤解を生む表現だったかもしれない。
トラバやブコメを見ると、人々は思想的な議論ができる自由を求めて(インターネット上の何かと同じように)仮想空間を目指すのだ、みたいな理解を与えてしまったようで申し訳ない。
そうじゃなくて、言いたかったのは、前半にある「誰もがその自分の思考通りに生きられ、そのことによる対立や争いが生じない世界」の部分で、
仮想空間のニーズはまさにその部分にあるのだろう(なのに、身体的自由ばかり強調されている)と思ったから、思いつきを書き残したのだ。
仮想空間なら、そこに居る「他人」はリアルな人間でなくたっていい。だから、そこに対立が存在しない「人間関係」を作れる。
また、アバターのように、利用者にとって見たいもの、見せたいものだけ存在する環境も作れる。
そういったものが、平行世界、観測者効果みたいなものを想起させて、仮想空間が先述の「誰もが~世界」となりうるだろうと考えたのだ。
セルクマアゲだな
https://anond.hatelabo.jp/20220125192916 人々が仮想空間に求める「自由」とはきっと、身体の自由じゃなく思想の自由なのだ 昔にもあったよ。 2chっていうんだけどさ。「どうも違うな」と思う...
仮想空間っていうのは、現実世界を再現するものなんだから、現実世界で起きることはたいてい起きる。 起きなかったらそれは仮想化に失敗している。 なんか勘違いしているよね...
勘違いというより、失敗の歴史を述べたまで。 仮想化→身体からの分離→民主化、非中央集権だからよいといったタイプの理想主義はことごとく失敗してきたという話を列挙したまでで...
ああすまんすまん。 君が勘違いしていると言ったわけじゃなかったんだ。 主語ちゃんとつけないとだめだよね。
了解。あわせて、こうやって応答のある世界がまだ残っていること自体にも感謝。
すべてが自分に都合がいい世界だな
「なろう世界」とか「なろう空間」とか
tobalno1 大体の人間の思想の中には「自分の意見を他者に納得、賛同させたい」があるからまあ無理だよね。その思想がない人はそもそも自分の思想をネットじゃ無くてチラシの裏に書い...
ニートは休日は出かけるらしいね
ヘルマン・ヘッセの『荒野のおおかみ』(1927)にそのことは書いてあるのに
人々が仮想空間の中に求めるのは、果てしのないオナニーだよ。
それってようするにポストトゥルースだろ。 自分たちの都合の良い思想で寄り集まって、他の"真実"と接触しないことで共存していく。
World Wide Webが一般 (研究者、技術者以外) に広まってきたときに、「Webは身分や立場、年齢の関係ない自由な言論空間!」とか、考え事と議論が好きな人たちが騒いでたなぁ。
仮想に自由があったとして、自由を求めて仮想世界に乗り出した自我があったとして 自分と他人の境界線はあるのでしょうか? 自由なのに、不自由を感じる結果になりませんか?
積極的自由と消極的自由
思想だけじゃなく「自己実現」とまでしぼりこめればよかったね。
めちゃくちゃえっちな体験を期待してるにきまってるさ! つまりフェミ的思想はNG
ヒッピーやニューエイジ崩れの戯言と同じだな