はてなキーワード: スキーとは
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その「現実」とやらを見ていたらアメリカの国外脱出の申し出に飛び乗って
アフガニスタンの大統領よろしくソッコー逃げ出して今頃ウクライナ自体無くなってたんじゃねえの?
まあこの増田ならそうしてたんだろうけどw
玉城沖縄知事「ゼレンスキーです」 基地問題有識者会合前、委員に発言 「冗談」と打ち消し
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米軍基地問題に関するアドバイザリーボード会議であいさつする玉城デニー知事=25日午前、県庁
沖縄県の玉城デニー知事が25日午前、県庁で開いた基地問題に関する有識者会合の入場時に、「(ウクライナ大統領の)ゼレンスキーです。よろしくお願いします」と述べる場面があった。ロシアによるウクライナ侵攻を踏まえた発言とみられるが、出席した委員からは苦笑が漏れる程度で反応は薄く、直後に「冗談です」と打ち消した。
ウクライナ侵攻による国際秩序の不安定化が米軍基地の集中する沖縄にも影響する中、当事国の指導者を冗談に持ち出した玉城知事の認識が問われそうだ。
発言は、県が主催する米軍基地問題に関するアドバイザリボードの第2回会議での一幕。会議は専門家から国際情勢などの意見を聴くことを目的に、オンラインで開催した。会議は非公開だが、玉城知事の冒頭あいさつまでは報道陣に公開されていた。
冒頭あいさつで玉城知事は、ウクライナ侵攻に触れて「生命の尊厳という観点からも、この戦争に向かう危険という意味からも看過できない。一刻も早い両国の平和の回復を、多くの国々の支援によって達成できることを強く望む」と述べた。
これは・・・
一旦はロシアを止められたかもしれない、しかもアメリカがジャブジャブ使ってくれるお金のおかげで
でもさぁ、大攻勢に至らないようにアゾフ大隊を捨て石にしたりして足を引っ張ってるってだけで、反転攻勢に出るとか夢のまた夢だし、アメリカの支援が一生続くわけではないだろ?
アメリカだって余剰の軍事物資を吐ききってもう支援できませんという日がいつか来る
というかジャベリンがそうなってるって話じゃん
ロシアは最悪ウクライナに勝てればいくら軍備や兵力を吐き出そうがそれで終わりにできるけど、アメリカはウクライナがロシアに勝って終わりではない
なのに「クリミアを含めた領土を取り戻すまで停戦しない」だろ?
そんなの無理に決まってるだろ
ゼレンスキー氏は戦争を招いたという意味で政治家としてはその能力に疑問符がつくが、武将としては超一流である
請願拒否は、出ていく者を止めたいというよりも、国のために戦ってくれている者に対してのメッセージが含まれていると思われる
彼が逃げていいと許可したのならば、それは国に残り戦うと決めた者の戦意を挫くものになったであろう
もちろん国外に逃れたいという人間の自由を制限する行為は世界人権宣言に背く行為であるため人権侵害に当たるだろうが、それを守ることはゼレンスキー氏の中にある優先順位の上位にはないことなので、泣いて馬謖を斬ったのであろう
そもそも祖国を守るために戦いに参加したい者は出国を禁止されなくても自由意志で残るだろう。
請願を拒否するということは国家が国民の自由意志を認めないということになる。
国民の自由意志によって国家から離反する国民が大量に出た場合、それは国民が悪いのではなく、国家をそのような状況から脱することに失敗した政権の責任である。
失敗のつけを国民の自由意志に反して国民に押し付ける政権はフェアではない。
とはいえ、基本的に国家の国民に対する義務は国民の安全を守ることだが、
国によっては国民の義務に国家を守ることもふくまれることになるだろう。
昔はチンポでピアノ弾いてたけどキメるところはキメるリーダー、みたいな面白がり方してた人たち、それ、開戦前までプーチンのこと愛嬌と冷酷さが同居する面白マッチョとして消費してたのと方向として同じだと思うから、もうやめた方がいいと思う(もう廃れてるのかもしれないが)。
ゼレンスキーを評価するときに政治家としての手腕じゃない部分でよく言及されるチンポピアノ、なんか気持ち悪いトレンドだな、と思ってたけど、ようやく言葉になった。いま地球上で最大級の悪とされるアイコンのかつての楽しみ方と、同じことをその相手にもやってんだもん。しかも、開戦後に。
良い悪いは別にして、戦闘中の為政者はみんな純度100の「怖い人」なんだよ、たぶん。この人たちは一つ一つの命より国體の方が大事で、国土と国家が守られてはじめて命がその中に入る余地が生じるって考えてるんだと思う。完全に停戦するまで、戦時の首脳にとって命には戦力に変換して消費する以外の意味はないし、消費できない命には価値がないんじゃねえかな。
何度も言うけど、人間としての良い悪いは別だし、ゼレンスキーを悪党とは思わないけど、チンポでピアノとか、やっぱ楽しんでちゃダメだった。ましてや、かつての「面白おじさん」が侵略者になったときに、そのカウンターに同じ消費のしかたを転用したここ数ヶ月は、知性として最悪のタイミングだったと思う。
”ゼレンスキー氏、男性の出国求める請願書に「故郷守ろうとしてない」”のブコメ欄
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASQ5R1SQ2Q5RUHBI001.html
zyzy まぁ古来から出産と兵役は対なんでこの性的役割にはなってる。何故かと言うと国土は極論そこに属する母体とそこから発生する子孫を国土に属する男性が保有する権利の為にあったから。女性には国土を守るメリットない
他、「やむを得ない」「仕方ない」「きれいごとは言えない」等、男性の出国(脱出)禁止措置を消極的に肯定するブコメ多数。
戦地ではない安全な場所に避難して安全に生き続けたい、死にたくない、ていう「自己の生命」「自己保存本能」を制約する国家の措置って、これ以上ない究極の人権侵害だと思うのだけど、そう捉えない人もいるんだ。
国家がなくなっても人は生きていけて、個人にとっては「死んでしまえばその後に国家がどれだけ永らえようが栄えようが、死んでしまえばそれで終わり。だから俺にとって国家の価値は俺の命の価値より軽い。とにかく俺は死にたくない」という人がいてもいいし、俺自身がそういう思想なんだけど、それは認められず「国家を永らえるためには国家権力による個人(男性)への死の強要も仕方ない。男は甘んじて受け入れろ。命をかけて国を護れ」て考えの人が、はてブにこれだけ多かったんだ。全体主義そのものじゃないか。
「外部からとやかく言えない」?いや、同じ人間だろ。当事者が「国(戦場)から逃れさせてくれ」と要望してるだろ。
ウクライナ人である前に人間だろ。なんで同じ人間としてでなく「あいつウクライナ人男性、ワタシ日本人、チガウネ。ワタシ何モ言エナイ」と思考放棄してんのよ。人権てそんなものじゃないだろ。
「国家存続の危機の前に国家が取る手段に対して、外国から何も言えない」ならアメリカからいつイラクのように攻撃されるかビクビクしてハリネズミになってる北朝鮮国内の全体主義にも何も言えなくなっちゃうだろ。
ウクライナは良い人権侵害で北朝鮮は悪い人権侵害か?その違いは何なんだよ。
「出産と兵役が対」で、かつ「兵役の強制(徴兵制)も仕方ない」のなら、
ウクライナ政府が「女性は国に残って、国家が指示した強い男性兵士と性行して子を産み次世代の兵士として育てよ」と徴妊制を導入して妊娠出産を罰則つきで強制したとしても、今回と同様に「やむを得ない」「仕方ない」「きれいごとは言えない」て反応になるのかよ。
不妊症で子供産む可能性がない女性だけ徴兵されて戦場に送られて「なぜ私たちだけ!」と嘆いても「兵役の対になる出産ができないから仕方ない」で済ませるのかよ。
そんな反応は想像できないんだけど…絶対にはてブは批判・非難だらけになるよね。
(あと「重度の障碍児や障碍者は、国を護ることができず生産もできず、国家存続の前に負担にしかならない。国がなくなれば終わりだから緊急避難として全員強制収容する。生かすのに人手がかかるから少しでも兵士を確保するため労働力にならない者から処分する。」も「やむを得ない」になっちゃうよね。ナチスのように。)
「徴兵制」と「徴妊制」のどちらも肯定するか、どちらも反対するなら筋が通ってるけど、前者に賛成しつつ後者の導入となると「それは酷い、女性を産む機械扱いか、やめろ」と思っちゃうでしょ。いや、男性だって「戦う機械」じゃないから。死にたくない一人の人間だから。
結局のところ、女性の貞操・性的自由よりも、男性の命のほうが軽いと。
「徴妊制」まで行くと極端な考えだけど、「出産と兵役が対」なのであれば、
「男女ともに徴兵し前線に行かせる。ただし妊娠している女性だけは、子を出産し立派な兵士に育てあげるまでの期間は徴兵を猶予する」て制度くらいは導入しないと「平等でない」と思うけどな。
(さらに言えば、生まれた子を優秀な兵士にするため、ポルポトのように親元から引き離して集団で兵士として育てることだって「国家滅亡の前ではやむを得ない」「仕方ない」「きれいごとは言えない」で肯定できちゃうよね。)
片方の性にだけ命の危険を強制することを是認して、もう片方の性には何も強制しないのを良しとするって、結局は性差別主義者だよね。
国家滅亡の危機だからといって、女性に強制的に妊娠出産させて兵士生産装置にするのは許せない、ひどい人権侵害だ。
戦力や労働力にならない障碍者を絶滅収容所に入れるのも許せない、ひどい人権侵害だ。
優秀な兵士を増やすため子を強制隔離して国家が洗脳教育しポルポト式集団養育するのも許せない、ひどい人権侵害だ。
だけど成人男性が安全地帯へ逃げたいと言っても避難を禁止したり、成人男性だけを本人の意思に反して強制的に軍隊に入れ戦場に送って人を撃ち殺させたり、撃ち殺されたりさせるのは「仕方ない」「やむを得ない」「きれいごとは言えない」だって。
こうやって並べてみると、どれだけ「男性の生命に関わる事だけが"仕方ない"で切り捨てられ、男性の人権が軽視されてるか」がよくわかるね。それをやってるのがはてフェミなのよ。
エヴァの新劇場版やシンゴジラ、そして今話題になっているシンウルトラマンがヒットしているが、その理由は『作品に求められていることを描いた』ということだと思う。エヴァにはエヴァに、ゴジラはゴジラに、ウルトラマンはウルトラマンに求められたことを描いた。
しかしマトリックス レザレクションズだが、自分個人の感想としては、駄作ではないが決定的な面白さもなかった。良くも悪くも凡作だが、上映時間が長いため、総じて見ると面白くない側になってしまう。
この面白くない理由だが、おそらく『内容が、マトリックスに求められている内容ではなかった』ということが大きいと考えた。なんとなくウィシャウスキー姉妹が、描きたいこと/重視したいことが変わったんだろうなぁ、と思った。
庵野監督ではやれという意味ではなくて、マトリックスが求められている内容を描いたマトリックス。所謂『シン・マトリックス』を観てみたいなぁ、とシンウルトラマンのヒットを横目に見ながら思いましたまる。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。