はてなキーワード: 左派とは
同性婚なんで賛成なのかって答えが、同性婚を認めても自分の権利が侵害されるわけじゃないからみたいな、なんの積極性もない理由で
夫婦別姓もそう
自分には関係ないけどしたいひとがいるならってなんで積極的理由じゃないんだよ
挙げ句、夫婦別姓支持で出てきたやつが自分は2回離婚して名前変えるの大変だったからとか言い出したけど
それこそ他のやつには関係ねーよ
誰が自分には関係ないからって理由で、一票を左派政党に投票するんだよ
もっと真面目にやれ
chatGPT の回答
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左派の人々が平和や人権の重要性を主張しながら、中国の人権侵害やロシアのウクライナ侵攻を批判しない理由は多岐にわたります。以下は、一般的な理由の一部です。
まず、左派の中には、アメリカや西欧諸国など、先進資本主義国家の影響力に反発し、彼らが支配する国際社会に対して批判的な立場を取る人々がいます。このような人々は、中国やロシアなどの社会主義・共産主義国家を、資本主義諸国に対する反抗の象徴として見ることがあります。そのため、中国やロシアが人権侵害を犯したとしても、彼らに批判的な立場をとることができず、あるいは批判することができないという場合があります。
また、左派の中には、日本の過去の戦争犯罪についての反省と謝罪を求める立場にある人々もいます。彼らは、日本が他国に対して犯した人権侵害や戦争犯罪に対する反省と謝罪を求める立場をとっているため、他国の人権侵害について批判することができないという場合があります。
さらに、左派の中には、国際社会の力関係によって、一部の国々が人権侵害を行っても批判されない現実に対して、懐疑的な立場をとる人々もいます。彼らは、人権侵害を行っている国々を批判することが、その国々への敵意や攻撃を助長することにつながる可能性があると考えている場合があります。
これらの理由以外にも、個々の人々がそれぞれの立場や信念に基づいて、批判するべき問題や、批判しないべき問題が異なる場合もあると思われます。
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日本共産党が今、党首交戦制を公に主張した党員を除名した件で各方面から激しい批判を浴びている。
批判の道筋はもっともな内容であるけれど、日本共産党がそういう組織運営を行ってきた政党であることは、多少知識のある者なら昭和の昔からみんな知っていることだ。
それが朝日新聞や東京新聞まで批判の論陣を張る大きな流れになっている。
結論から言うと、広範囲な左派・リベラル圏の主導的地位をめぐる大綱引き合戦が起こっているのだろう、と思われる。
戦後の左派ムーブメントは大きく、共産党系と非共産党系に担われてきた。朝日などが推す左派リベラル系の運動は、どちらかと言えばより間口の広い非共産党系人脈に軸足を置いていた。共産党は場合によっては共闘相手にもなったが、新左翼などにとっては不倶戴天の敵だった。要は本流じゃなくクセの強い独自路線の傍流だった。
それが今、左派リベラル圏の軸として期待されてきた立憲民主党あたりがどうもあてにならなくなって、その分共産党系の比重が増してきている。そんな状況に対して、非共産党系の支持者から「左派リベラル全体を仕切りたいなら、党内体制どうにかしろや。今のままじゃ認められん」という声が起こっているのだろう。
屠殺されるまでは、エサを食わせてくれ、健康にも気を使ってくれる「右派=体制派」と、
「豚小屋からの独立闘争」を無責任にけしかける口先だけの「左派=反体制派」ならば、
当然のごとく「豚」は前者を支持する。
檄
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
やや逆説的だけど、たぶん
という主張が広がれば広がるほど、ドン引きして結婚したがらなくなる人(特に女性)は増えると思う。
特に政府が正面から「婚姻制度は生殖のためです」みたいに公式見解を発表したら、逆に世の人々の結婚意欲に相当なダメージがくるのでは
世の人がすんなり結婚しているのは、ある意味、婚姻制度が何のためにあるのかが曖昧な感じで美化されてるおかげだと思う。
同性婚を否定するために「婚姻制度の目的は〇〇だ!」みたいなのを厳しく主張すればするほど、逆に世間の人は嫌気がさして、異性婚の意欲も失われていくんだよね。
堀先生も最近は本当にだめだなあ。保守派を「論破」したいという以上の意味がない、理屈にならない理屈ばかり。左派のひろゆきになっている。
「生殖」という言葉をストレートに使えばそりゃドン引きだけど、普通の言葉で言えば「子どもが欲しいから結婚したい」だろう。そして、このように言う女性は今でもたくさんいるでしょ。この点では男性の方がむしろ結婚に消極的。
https://president.jp/articles/-/66175?page=1
「フェミニズムは大嫌いで、巨乳キャラは大好き」日本社会でジワジワと存在感を増す"萌え系保守"の正体
石原慎太郎はそんなことは言っていないし萌え絵とかもいってない。こういう低レベルの思いつき、これでお金を取るのか。
これも相当異常。むしろフェミニストの方が遥かに酷い。トイレを借りるだけで成人雑誌が不愉快とか泣きわめいていた。
ついでに太陽の季節とか書いててよく言うわ。というのが本当。
その前にも、弁護士の太田啓子氏が2018年、NHK「ノーベル賞まるわかり授業」でVチューバーのキズナアイを起用した際に、キズナアイのイラストが性的に強調されていると批判して、論争になっている。
社会学者千田有紀のキズナアイ批判の悪質な印象操作。日本の社会学の惨状に対する、社会学者太郎丸博氏の危機感表明
こういうのを知らないのは嘘つきか狂っているかのどちらか。プレジデントも頭がおかしいのです。
タイトルからして主観に過ぎない。これも白人至上主義、キリスト教至上主義です。
当のG7は少子化で滅びます。ロシアや中国もにひざまずく運命です。
どちらの表現の自由を認めるべきかという戦い
こんな問は成立しない。バカはだまってろ。
最近の言論が非生産的とされるのは、政治に対する考え方が敵味方と関係していると判断されることにある。社会はどのような立場をとるかによって左右のスペクトルに位置づけられるという感覚に陥っている。
左端は「共産主義者」、左中央は「進歩主義者」と「リベラル」、中央は「穏健派」、右は「保守派」、そして右端は「ファシスト」である。従来の常識では、政治にはいろいろな立場があるように見えるが、その根底には「変革」「現実主義」「社会正義」など、一つの理念や主義があり、それを束ねるイシューがあるということだ。
多くの人がこの「スペクトル」モデルの政治を信じているが、左派や右派のあらゆる政治的立場が、根底にある一つの根源イシューから生じていることを示す証拠はあるだろうか。政治には、他のあらゆる複雑な領域と同様に、何千もの問題があり、それらについて考える方法はたくさんある。
では、一次元のモデルに魅了され、多次元的な政治的現実を見ることができなくなっているのだろうか。それともそのような一次元化がまさに本質なのだろうか。
例えば共和党が何をやっても、たとえ正反対の政策をとっても、必ず "右傾化 "と呼ばれる。自民党でも同じである。では、「右翼」というレッテルは、共和党の政策について何を伝えるのだろうか。まさに何もない。しかし、共和党を嫌う人々は、共和党をヒトラーと一緒にすることでレッテルを貼れるのである。
「左翼」あるいは「右翼」と呼ばれる一連の信条の背後には、統一的な原理や哲学が存在しないため、この左・右のイデオロギー観から生まれる用語(「進歩的」「自由主義」「保守」「反動的」)は、部族の意味以外には意味をなさないと心理学者は考える。ある人が保守派に属していると言うことはできても、それが政策的に何を意味するかは、その部族がある文脈で何を支持するかに完全に依存する。
では、なぜ「リベラル」や「保守」が信じていることの背後に単一の哲学や世界観があるという集団妄想が蔓延しているのだろうか。一部の人はある人を「ネトウヨ」と呼ぶかもしれない。それは、教育に対する不信感を表明するような態度から「低学歴」を想像するからかもしれないし、中国の脅威を叫ぶことが「差別主義」と同じように見える人もいるのかもしれない。「イデオロギーとは、ナルシスティックな時代における自己満足の道具なのだ。」という言葉そのものが、イデオロギー対立をする人々を敵と見做したナルシストであることは興味深い。
心理学者は長い間、人間には帰属意識と意味のあるコミュニティが必要であることを理解してきたが、イデオロギーのおかげで、我々は自分たちの部族が信じていることすべてに賛同し(それが常に変化しているとしても)、自分たちの部族が支持していることが実は「保守主義」や「進歩主義」の哲学に縛られていることを事後的に料理して説明できるのだ。このような話術は、占星術師が誇りに思うだろう。
二項対立のレッテル貼りはドーパミンを放出し、部族を結びつけるが、民主主義の健全性にとってはどうだろうか。スペクトルの観点から考えることは問題を通して考えたり、別の視点を考慮したりすることをできないようにするだろうか。
「もし二項対立のレッテルを貼るのをやめ、他のあらゆる複雑な領域でそうしているように、粒度の細かい説明を使うことができれば、現代の公的生活を特徴づけている混乱と敵意を払拭するために大きな前進を遂げることができるだろう。」と希望的観測を述べる人もいるが、部族主義よりももっと根本的なことがある。
それは、緊縮財政に陥った社会のゼロサムゲームがスタートしていることが挙げられる。その場合、「どうやってパイを分けるのか」についての騙し合いが始まり、その騙し合いこそが「イデオロギー」という最大の綺麗事に変換されるのである。
自称教養人は「スペクトル」を包括的に考えることを笑い飛ばすだろうが、そのスペクトルの背後の経済学(つまりゲーム理論)について真剣に考えるべきだろう。部族主義、なんて怪しい言葉を使うのは胡散臭い心理学者だけで十分である。
会話型AIの政治思想:ChatGPTの親環境、左リバタリアン志向に関する収束的証拠
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2023arXiv230101768H/abstract