最近の言論が非生産的とされるのは、政治に対する考え方が敵味方と関係していると判断されることにある。社会はどのような立場をとるかによって左右のスペクトルに位置づけられるという感覚に陥っている。
左端は「共産主義者」、左中央は「進歩主義者」と「リベラル」、中央は「穏健派」、右は「保守派」、そして右端は「ファシスト」である。従来の常識では、政治にはいろいろな立場があるように見えるが、その根底には「変革」「現実主義」「社会正義」など、一つの理念や主義があり、それを束ねるイシューがあるということだ。
多くの人がこの「スペクトル」モデルの政治を信じているが、左派や右派のあらゆる政治的立場が、根底にある一つの根源イシューから生じていることを示す証拠はあるだろうか。政治には、他のあらゆる複雑な領域と同様に、何千もの問題があり、それらについて考える方法はたくさんある。
では、一次元のモデルに魅了され、多次元的な政治的現実を見ることができなくなっているのだろうか。それともそのような一次元化がまさに本質なのだろうか。
例えば共和党が何をやっても、たとえ正反対の政策をとっても、必ず "右傾化 "と呼ばれる。自民党でも同じである。では、「右翼」というレッテルは、共和党の政策について何を伝えるのだろうか。まさに何もない。しかし、共和党を嫌う人々は、共和党をヒトラーと一緒にすることでレッテルを貼れるのである。
「左翼」あるいは「右翼」と呼ばれる一連の信条の背後には、統一的な原理や哲学が存在しないため、この左・右のイデオロギー観から生まれる用語(「進歩的」「自由主義」「保守」「反動的」)は、部族の意味以外には意味をなさないと心理学者は考える。ある人が保守派に属していると言うことはできても、それが政策的に何を意味するかは、その部族がある文脈で何を支持するかに完全に依存する。
では、なぜ「リベラル」や「保守」が信じていることの背後に単一の哲学や世界観があるという集団妄想が蔓延しているのだろうか。一部の人はある人を「ネトウヨ」と呼ぶかもしれない。それは、教育に対する不信感を表明するような態度から「低学歴」を想像するからかもしれないし、中国の脅威を叫ぶことが「差別主義」と同じように見える人もいるのかもしれない。「イデオロギーとは、ナルシスティックな時代における自己満足の道具なのだ。」という言葉そのものが、イデオロギー対立をする人々を敵と見做したナルシストであることは興味深い。
心理学者は長い間、人間には帰属意識と意味のあるコミュニティが必要であることを理解してきたが、イデオロギーのおかげで、我々は自分たちの部族が信じていることすべてに賛同し(それが常に変化しているとしても)、自分たちの部族が支持していることが実は「保守主義」や「進歩主義」の哲学に縛られていることを事後的に料理して説明できるのだ。このような話術は、占星術師が誇りに思うだろう。
二項対立のレッテル貼りはドーパミンを放出し、部族を結びつけるが、民主主義の健全性にとってはどうだろうか。スペクトルの観点から考えることは問題を通して考えたり、別の視点を考慮したりすることをできないようにするだろうか。
「もし二項対立のレッテルを貼るのをやめ、他のあらゆる複雑な領域でそうしているように、粒度の細かい説明を使うことができれば、現代の公的生活を特徴づけている混乱と敵意を払拭するために大きな前進を遂げることができるだろう。」と希望的観測を述べる人もいるが、部族主義よりももっと根本的なことがある。
それは、緊縮財政に陥った社会のゼロサムゲームがスタートしていることが挙げられる。その場合、「どうやってパイを分けるのか」についての騙し合いが始まり、その騙し合いこそが「イデオロギー」という最大の綺麗事に変換されるのである。
自称教養人は「スペクトル」を包括的に考えることを笑い飛ばすだろうが、そのスペクトルの背後の経済学(つまりゲーム理論)について真剣に考えるべきだろう。部族主義、なんて怪しい言葉を使うのは胡散臭い心理学者だけで十分である。
会話型AIの政治思想:ChatGPTの親環境、左リバタリアン志向に関する収束的証拠
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2023arXiv230101768H/abstract
スペクトルってなんですか
spectrumを日本語化したときにしばしば使われる語。スペクトラムとも言う。2点の間に任意位置を取ることで何かを分類するようなことを指す。