はてなキーワード: マリオとは
こちとら初代スーパーマリオをリアルタイムでプレイした40代のオッサン。
ネタバレありかつ、批判的かつ否定的な内容なので、これから観に行く人は読まない方が良いと思う。
これから観に行く予定がなく、ネタバレオッケーで、否定的な感想もオッケーな人達だけ読んでほしい。
で、正直言って、「ネタバレあり」とは書いたものの、大してバレできるネタがない。
1時間半トムとジェリーを見続けても、バレるようなネタはないだろう。これはそういう映画だ。
これが世界中で1000億円の大ヒットを飛ばしているというのが、オッサンにとっては最も不可解な点と言って良い。
評論家に酷評を受けつつ世界中で大ヒットしてるなら、評論家の方が間違ってるんだろうと思ってたのだが、
観終わってみたら、俺は評論家側だった。
なんでこれが大ヒットしてるんだ。
シン・仮面ライダーこそが今年見た最もつまらない映画だろうと確信していたのに、ワースト1位の座は本日更新された。
観ている間中、終始真顔だった確信がある。とはいえ子供の姿もないレイトショーの劇場中に、笑いも起きなければどよめきも起きなかったところから、多分周りのオッサンやニーチャン・ネーチャンの感想も似たようなものなのではないかと思う。
実に静かな1時間半だった。終わった後も、皆なにやら内輪でコソコソ話したり、ポップコーンをこぼしたのという話しかしてなかった。
実のところ、導入部分はそんなに悪くなかったと思う。
ニューヨークからキノコ王国に行くのは、異世界召喚もののようでちょっとワクワク感もあった。
正直、この筋立てを考えた脚本家に感心すらした。
が、キノコ王国に行ってからは、単なるゲーム実況動画以下の代物でしかなかった。
一つには、「この世界の人間が異世界に召喚された」際にあるはずの諸々の衝撃や葛藤が皆無だった事。
マリオあっという間に馴染んでたし、人間ではありえない身体能力を発揮しても、それが魔法的な力なのか、マリオの素のスペックなのかが区別がつかなかった事。
絵柄上、血もほぼ出ないし。ダメージ受けても効果音と共にパワーアップが解除されるだけである。この辺、ゲームに忠実過ぎて緊張感もクソもない。
キノコ王国もその他の国々も、街や民衆がかなりふざけた連中で、もともと国家の体を成してなかったので、クッパの侵攻を受けても遊園地が壊されてる程度の印象しかなかった事。
クッパ側も含めて、世界観がわけわからず「何この世界」という感があった。ディズニーランドがそのまま世界になってるような、とでも言えば良いのか。
でたらめな世界で、でたらめなキャラが、でたらめな事をしている。
それを楽しめるのは、よっぽど病んでるか、よっぽど健康な人だけだろう。
感情の起伏がほぼゼロ。ひたすらアスレチックで暴れているだけ。
そのまま最終決戦へ。
クッパと戦ってるんだから最終決戦なのだろうが、余りに何もないストーリーなので『まさかこのまま決着付けて終わるのか?』とうろたえていたら、
最終決戦の舞台はなんやかんやあってニューヨークへ。ここでまた印象は少し持ち直した。
キノコ王国で決着付けてたら、もはや擁護の余地もないほどの駄作だっただろう。
ニューヨークでクッパが暴れてくれたおかげで、おおっという場面がちょっとだけあった。
しかし、その後はお寒いもので、なんかもうクッパを倒しただけである。
脚本家は、書き上げた脚本を前に首をかしげなかったのだろうか。
ヒットして悪い事はないが、なぜこれが大ヒットなのか。
多分、この作品は元ネタのゲームを知ってれば知ってるほど楽しめるのだろう。
俺は初代のスーパーマリオくらいしかまともにプレイしてないが、その後のマリオシリーズを何作も何作もやってれば、
多分ニヤニヤできる場面も多かったのだろう。
良かった
ただ、なんというか、微妙に物足りない
メインのストーリーは全然いいんだけど、脇役とかでファンにグッとくるような小ネタがもっとほしかった
(というかほとんどなかった)
幼少期におりがみで遊び、親となって子どもとおりがみで遊び、祖父母となって孫とおりがみで遊ぶということらしい。
マリオは今まさに、誰もが当たり前に遊ぶ遊びとなるべく、三度目の出会いを目前に控えている時ではないだろうか。
ファミコンの「マリオブラザーズ」が発売された80年代に小学生だった世代は、今40代から50代へと差し掛かっている。
私も二度目の出会いを子どもたちと迎え、三度目の出会いまであと少しというところまできた。
正直に言ってしまうと、ずっとマリオで遊んでいたわけではない。
プレステに衝撃を受けて、任天堂のゲーム機から離れた時期と、結婚出産子育ての時期が続いたこともあり、64とゲームキューブはスルーした。
今日、「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を観に行った。
良いことばかりではない。
積み重なっていたこともあった。
映画の内容に触れない程度で言えば、泣く要素はどこにもない。
でも、ずっと涙が込み上げてきた。
どれだけお願いしても買ってもらえなかったファミコン。
お小遣いをためて、親の目が届かない旅行先で買ったゲームボーイ。
Switchは、どんな奇跡が起きたのか、店頭にあった最後の1個を滑り込みで買うことができた。
アドバンスやDS、3DSは、今も家族の分が引き出しにしまわれている。
ゲームの話ができる友だちは皆無だった。
そもそもゲームをするなんて、しかも女の子がゲームするなんて……と言われた時代だ。
ピーチ姫だって、クッパにさらわれてマリオの助けを待つばかりだった。
でも、時が経ち時代は変わった。
そして、ピーチ姫は勇敢に戦う人となった。
私もたくさん戦ってきた。
私たちはここまでよくやってきた。
色々なことがたくさんあったけれど、よくやってきたのだ。
がんばった人もがんばってない人も、ゲームで遊んだ人も遊んでいない人も、みんな私たちはここまでよくやってきたのだ。
あとひと踏ん張りなのだ。
映画を観ながら、そんなことを考えていた。
残念ながら同じ世代でこんな話ができる人は身近にいない。
同世代でも家人はゲームをしない人だし、友だちたちもゲームをする人は皆無だ。
ゲームの友だちは年若いか、海外勢のためこの映画を観たとしても、同じような感情になることはないだろう。
なので、駄文ではあるがここに書くことにした。
もしも、同じ時代を過ごしてきた人の目に留まるようなことがあれば、これだけは伝えたい。
私たちはここまでよくやってきた。
あとひと踏ん張りなんだよ、と。
最後に。
マリオ、本当にごめん。
これからもっともっと手元がおぼつかなくなるけれど、よろしくね。
でも、「スーパーマリオブラザーズ35」では何度も1位取ったんだからね!
まだまだいけるよ!!たぶん。
素晴らしいゲーム、映画を本当にありがとうございます。
また観に行きたいと思います。
ラテン系俳優ジョン・レグイザモ、アニメ版『ザ・スーパーマリオブラザーズ』を批判 「包括性の点で後退」https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a43690055/john-leguizamo-would-consider-super-mario-bros-230425/
で、過去の実写版ルイージ役の俳優が批判してるんだけど、お前イタリア人じゃなくてコロンビア人じゃねーか
130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。
マリオと言えば変身。
キノコを食べて大きくなったスーパーマリオ、フラワーを食べて火を出せるファイアーマリオなどがいます。
産みの親である宮本茂だって、色々なものを食べて変身できるに違いありません。
変身した宮本茂さんにもっと色んなマリオを作ってもらいましょう。
遊ぶたびにステージが変わり1000回遊べる不思議なマリオを作れる。
・秋元才加を食べて広井茂
ハイクオリティな映像美が堪能できるアニメーションが流れ大正桜に浪漫の嵐なマリオ大戦を作れる。
高速感が売りの時代が求めた16ビットなマリオザヘッジホッグを作れる。
ボールに入ったマリオを動かすたべごろなマリオボールを作れる。
16連射でなんかする。
今日からマリオの映画が公開された。まだ見てないけど、ゴールデンウイークのどこかで見に行くと思う。
ところでこの映画って、CGだけで作られてるっぽいけど、分類上はアニメ映画なんだな。
少し前にソニックの映画があって、こっちもソニックとかその他諸々はCGで描かれてるけど、分類上はアニメ映画じゃないよな。俳優が出てるし。
映画に年単位で取り組むのなんて今日び当たり前なのかもしれないけど
6年ってエグいよなあ
そうだよな5年以上ともなると何回か壊してるよな
あれって子供の頃から温めてたネタだろうし、5年以上かかってそう
高校生の時に都立青山高校っていう東京都ど真ん中の高校に通ってた実情を書いてみる。
都会にいるっていうのが、どういう文化レベルなのかの一例となれば幸い。
青高は東京メトロ銀座線の外苑前駅の近くにあって、ヤクルトの本拠地の神宮球場の目の前の高校。
高校生クイズ選手権時の予選会が神宮球場にあったりしたんだけど、そこで一番近い学校だっていう事で注目されてた時もあった。すぐに敗退してたけど(笑)
国立競技場も近くて、僕は高校生の時はサッカー部だったんだけど、「いま一番国立近い学校だから(物理)」みたいな冗談はことは友達には言ってた。
まぁ、もっと近くに國學院高校っていう学校があって嘘なんだけど。
僕は大江戸線の国立競技場前って駅から青高まで歩いてたんだけど、国立競技場の敷地内を歩きながら学校に通ってたのは、なんか誇らしかった気持ちがあったかな。
あと高校生の時はお金がまじでなかったから(お小遣いが月3000円〜5000円だったから)滅多に行かなかったのだけど、ホープ軒で食べるラーメン美味しかった思い出がある。(今思うと全然美味しくないが)
立地はこんな感じ。
次にイベントについて書いていく。
確か5、6月ぐらいに体育祭があってその一環とし、応援団を作って、応援合戦みたいなのをやるのがあった。
応援団をやる人は2、3週間くらい応援団の練習をするんだけど、練習場所が代々木公園だった。
定期がある人は電車乗っていくんだけど、みんながみんな定期あるわけじゃなくて、代々木公園までは歩いていくってのが恒例になってた。
外苑前から原宿超えて代々木公園まで行く道ってのは結構面白くて、
インテリアショップとか眼鏡屋とかブラジル大使館とかあったり、
表参道を歩いたりとか、原宿の竹下通を歩いたりとかしながら、代々木公園まで行ってた。
今はなき原宿のコンドマニアで「お前買ってこいよ」「やだよ、お前いけよ」「なんでだよ!じゃあ一緒に行こうぜ」みたいやりとりをやってたりした。結局買わないんだけど、当たり前だけど。しょうもないけどそういうの楽しかったような気がする。今思うと全然面白くないが。
11月には外苑祭っていう文化祭があるんだけど、外苑祭では1年生から3年生の全部のクラスが劇だったりミュージカルをやるってのが伝統になってて、夏休みから外苑祭の前までは、「神宮外苑の絵画館」前のちょっとした広場的な場所で練習をしてた。
正直僕は外苑祭に乗り気じゃなかったから、全然練習参加しなくて数回だけしか行ってないくても、なんか思い出にはなってるね。
文化レベルって観点では、絵画館の建物自体がすごい美しい建物だったし、絵画館と銀杏並木の風景っていうのはすごく美しかったのは、高校生でも感じる部分があった。
イベント的にはそんなもんがメインで、その他の時期は普通に駅と学校を行ったり来たりするだけの生活してた。
個人的には、学校に自転車を置いたのもあって、学校サボって自転車乗って、原宿行ったり、246を赤坂方面まで走らせて、皇居らへんまでいったりとかは楽しかったな。
あと僕は部活やってたからバイトはしてなかったけど、周りの人とかは学校周辺でバイトやってる奴もいた。そういう奴は結構大人な世界を垣間見えたんじゃないかな。お金も増えるしね。
僕は遊ぶ金なんて全くなかった。だから高校生の場合、都心のど真ん中にあったとしても、そこまでは楽しめてなかったんじゃないかな。
まぁでも表参道とかの建築を見て、建築学科に進むっていう決断をしたので影響は大きかったのかもしれない。
あと仲良かった奴が、「スイスでヘルツォークアンドドムーロンの建築観てきて良かった!青山にもあるから観に行くと良い」って言ってくれたりして、周りの人間の文化レベルたけぇなって思った。
お金が無いなりに楽しんだって思えるのは、原宿の古着屋でHanjiroっていうお店が全盛期だったんだけど、そこで100円になってる服を買ってた。てかそれしか買えなかったんだけど、あれは楽しかったな。
あとはまぁ、今はもうない明治公園でフリマがやってて、そこで 安く売られてる服とかを買ってたりしたな。
もちろん高校時代を都会で過ごした影響はかなり大きかったんだけど、僕の中で影響が大きかったのは、やっぱり大学ですね。100倍くらい大きいんじゃないかな?
高校の時は受動的にやること っていうのが多くて、能動的には動けなかった記憶があるけど、
大学生になったらぼぼ全部自分で考えて、行動するから大学生の時の方が、濃密な時間を過ごせたと思ってる。
まぁ今なら、文化ってインターネット発なのが多いし、都会にいなくても、最先端な文化に触れられるのじゃないかな?
僕が好きなVtuberのぽこぴーとか滋賀県出身で電車ない土地に住んでそうだけど、最先端いってる。
僕が高校生の時は、まだスマホとかなかったし(シャって開くタイプの携帯とか、インフォバーとかが流行ってた時期だったし)、高校生の時は家族パソコンしかなかったし、ニコニコ動画も知らないし2ちゃんねるも知らない。パソコンの授業の時に友達が「スーパーマリオのTAS動画」見せてくれた時も「おもしれー!TASさんって人まじで超マリオ上手いやんけ!!!」って思ってたレベルだったから、住んでる場所の影響大きかったと思うが、今はどんどん差が縮まってきてる。