はてなキーワード: ノーマンとは
https://www.tokyo-sports.co.jp/social/412057/
“教会を持たない教会”というのは意外だが「イエス・キリストは心の中にいるので、どこで祈るかは関係ない」ということらしい。看板はいつから、何枚ぐらい張られ、その資金源はどこなのか。
ノーマン氏は「私たちはよく仙台で英語を教えています。コンピューター会社もあります。そのお金を使って看板を作っています。45年間でだいたい35万枚。ステッカーも含め40万枚以上張りました。フォント(書体)はコンピューターで作っています。看板は、すべて許可をもらって設置しています。古い倉庫であっても誰か持ち主がいるのですから、黙ってやれば違反。看板に書かれている文言は、相手の方に選んでもらいます」と明かした。
看板は勝手に張られているわけではなく、家主に交渉をしてから張られていたのだ。
「私は米国で空軍に入った。結婚して間もなくの昭和30(1955)年ごろ日本に来ました。その後、私生児や孤児を引き取ってここに小学校を作りました。日本に帰化しています。酒も飲まないし、たばこもやらないから体は神様のおかげで恵まれてます。今日もこの近くに設置した看板を掃除してきたところ。古くなったものは張り替えるですね」
2)待ちます
3)……出来あがり!!!!
【6月13日 AFP】「ノーマン(Norman)」──これは新しいホラー映画のなかの話ではない。
米研究者らにによってこのほど公開された初の「サイコパス」人工知能(AI)だ。
ノーマンを開発・公開したのは米マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者らだ。
その狙いは、アルゴリズムがどのようにして構築されるのかを一般の人にも分かりやすく説明し、AIの潜在的リスクを広く知らせることだという。
結果は控えめに言っても恐ろしいものだった。従来のAIには「2人の人が互いに近寄って立っている」ように見えるイメージが、ノーマンには「窓から飛び降りる男の人」に見えたのだ。さらに、ノーマンが「叫ぶ妻に射殺された男性」と判断したものは、他のAIには「傘を持つ人」に見えていた。
続きはURL先で
今回はロボット(AI)でサイコパス風のものが出来たっていうけど、人間でも同じだと思うんだよね。
抜けてた。
ちょっと前に「記事をスクショされてtwitterで拡散されると本記事にアクセスが入ってこない!やめて!」と叫んでいるブロガーがいた。
彼の主張は正しい。許可無く誰かの著作を切り貼りしてアクセスを吸い上げるのは隣家からパイプで電気や水道を盗んでいるようなもので、ことによると法にさえ抵触するかもしれない。
だが、その主張のやりかたが正しくない。もっといえば、主張という行為自体が正解といえない。
なぜならネット民は野蛮だ。倫理がない。そんな懇請記事などまず読まないし、読んだとしても「なるほど。では明日から行いを改めるか」とはならない。
彼らはカルフォルニアンイデオロギーを知らずしてその精神を体現している。ネットとは、そもそもがそのように設計されたものだから。
よって、彼らをシヴィライゼーションするにあたっては「お願い」などではなく、法律かシステムによって縛るしかない。
いうまでもなく法制化はハードルが高い。整備に時間がかかるし、ロビイ活動にも励まなくてはならない。あなたが孫正義か誰かならあるいはこれが一番の近道なのだろうが、ブロガーは孫正義になり得ないからブロガーなのであって、一個人に世の中を動かす力など無い。
というわけで、ユーザーを縛るシステムを構築するしかない。Webのいいところは、住居のオーナーだけでなく、借り主にも一定の装飾の自由が付託されている点である。
たとえば、現状でも一部歌詞サイトではコピペ不可能な仕様を取り入れている。
もちろん突破しようと思えばいくらでも手のある他愛のない防壁だが、闕乏した精神を持つ蛮人はそこに壁がそびえているだけでめんどくさがるものだ。
twitterで手慰みに他人の生産物を万引きしているような輩をくじけさせるには十二分以上だろう。
問題はスクショを撮影不可にする技術は現存しているのかということだが、あったとしても、すくなくとも現状ブロガー程度の知能を持つ生き物が弄することのできないのはたしかだろう。
彼らはtwitterの万引き犯と同程度に無能かつ怠惰だ。あらかじめブログにビルトインされた機能しか使えない。
そんな彼らに何かしらの新しいシステムを期待するなど無理な話だ。スクショ禁止にかぎらず。
ではもはやどうしようもないのだろうか?
やはりネットとは常在応仁の乱、野盗と鼠賊が持ちたるノーマンズランドなのだろうか?
いや、もうひとつだけ手はある。
日本人が殺人を犯さないのは刑罰を受けるからではない、村八分にされる恐れがあるからだ、と去年まで近所の雑貨屋であやしい北欧アイテムを売っていたロブは言っていた。
空気さえ作れれば最強になれる。
ところが現代は同じ等質の空気をみなで吸うということが難しい社会だ。クラスタ化だ。大きな物語の消失だ。
そもそもブロガーの説く倫理が蛮族に通じないのは互いに違う空気の場所で生きているからだ。
いや、ある。
あるのだ。
アイドルになればいいのだ。
日本人はアイドルに弱い。アイドルの言うことならなんでも訊く。アイドルの発する言葉はデルファイの巫女の託宣に似ている。アイドルとは現代のブッダだ。ブドーカンの壇上にならぶ、数十のブッダ。(ウィリアム・ギブスン『あいどる』より引用)
アイドルのファンは慈悲深い。かつて、彼らを裏切ったある人気アイドルが公衆の面前で頭髪をすべて剃り落として許しを乞うたとき、その哀れな姿を見たファンたちは本来衆合地獄に相当する罪を犯した邪淫の女を涙ながらに寛恕したのである。慈悲、慈愛。これからのネットに必要な倫理とはつまりこれらである。
しかし、輸入することはできる。
アイドルになることで。
その輝きの向こう側へ至ったとき、あなたは三つの真理を悟ることだろう。
色即是空。
諸行無常。
一切衆生。
アーメン。
海外ドラマの中でも特定のコミュ二ティの人々が生き残りをかけて奮闘する物語みたいなので、
その傾向は特に強くでてくると思う。
ここで例を紹介しよう。
マジで観るのやめるぞおらと思うくらいすごかった、ここ最近で一番すごかったあるドラマの主人公の『妻A』
・主人公が死亡したと聞いて、ちゃっかり主人公の親友の男とそういう仲になる。
(心境:えっこんな大変な時に?よりにもよって自分の旦那の親友と?ま、まぁ不安を忘れたいのかな?それは仕方ないNA)
・主人公が生きて自分の元に戻ってきた途端、散々守ってもらった主人公の親友に「金輪際私と息子に近づかないで!」宣言
(心境:いやいやいや、今まで助けてもらった恩があるDE)
・主人公の親友が、泣く泣く主人公の妻Aに関わらないようにAやその息子を避けると、「その態度なによ!」と怒る
(心境:あんたが言うたんやDE)
・主人公に妊娠したと告げるも、主人公の親友との子かもしれないのを一切否定「絶対にあなたの子よ!」
・助けにきてくれた主人公の親友に、礼のひとつもなしで「あの人(旦那)はどこよ!」と怒鳴る
・なんやかんやあって、丸く収まりそうになったたのに、自己満足のために主人公の親友を呼び出し、「あなたがいてよかった」的な
ことを言い、ネガティブな方向へ励まされた主人公の親友は、主人公に決闘を挑むことに。→結果、無事に主人公の親友死亡
(心境:後味最悪じゃないKAI)
その他諸々。ほんとにそのシーズンは観るのがしんどかった。
きれいな女優さんだったから、パニックのときや人を責めるときに見せる表情がすんげえ迫力があったのも原因のひとつなんだろうけどさ。
とにもかくにも目が離せなかったから、あのゾンビドラマは成功なんだろうけどさ。ノーマンリーダスかっこいいしさ。
同じ女で、何一つ共感できなかったのも初めてだよ。
女性は強い!男にも負けない!ってことを言いたいの?こういうキャラは。
感情的になってひっちゃかめっちゃかにする系ヘルタースケルター女が、向こうでは結構スタンダードな感じなの?
・以下の7つのおすすめ漫画ランキングに登場しなかった漫画を選びました。
おすすめの漫画ベスト100をランキング形式で紹介する - しっきーのブログ
http://skky17.hatenablog.com/entry/2014/03/09/214250
ランキング形式で、オススメの漫画ベスト100を紹介する - はてなで語る
イッキ読み出来る!今まで紹介した おすすめの漫画ベスト100 をランキング形式で紹介してみる - だから漫画はやめられない
http://mangacomic.hateblo.jp/entry/manga-best100-1
おすすめの漫画ベスト100をランキング形式で紹介する - 必需品ブログ
http://hitujyuhin.hateblo.jp/entry/2014/12/13/152803
おすすめ漫画ベスト100冊をランキング形式で紹介する | @raf00
http://ikdhkr.hatenablog.com/entry/2015/01/28/120500
おすすめの漫画をランキング100位まで紹介 - きりんの自由研究
http://giraffyk1.hatenablog.com/entry/recommend-manga-ranking-100
・もし「漏れてないよ!ちゃんと選んでるよ!」って漫画があったらごめんなさい。
・もちろん、他にも面白い漫画は山のようにありますが「その作品について、ある程度の熱量でもって語れるかどうか」を最低基準として選んでいます。
・50選にしなかったのは、①くくりが思いつかなかった②これ以上夜更かしすると明日の仕事に差し障るため
・そもそも面白い漫画が多すぎる。100や200に絞れるわけがない。
・みんな漫画読もう
バットマン・キリングジョーク - アラン・ムーア/ブライアン・ボランド
ウォーキングデッド - ロバート・カークマン/トニー・ムーア/チャーリー・アドラード
バチバチ - 佐藤タカヒロ
私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥ったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他ひとの後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。
自意識こじらせてもいいんだと思わせてくれました。
中二ごころに「なにこれ違う」という感じを味わいました。
これがなかったらいまご飯食べられていません。
どうでもいいけど、俺も社長やってるけど、俺の周りにはノーマンしかいない。何を言っても否定される。もう疲れた。俺には才能がない。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
ttp://tameike.net/comments.htm#new20100225090117
○トヨタにとって、問題の本質はモノづくりにあるのではなくて、おそらく広報の問題なんだろうと思います。でも、「広報を改善します」と言うと、まるで反省していないように見えてしまう。そこでこう言ったらどうか。「再発防止のために、トヨタはこれからコーポレートガバナンスを改革します」
○最近のThe Economistに典型的な記事があった。いわく、日本型のコーポレートガバナンスに問題がある。トヨタには社外取締役が一人もいない。同質経営のために、対応が遅れたのではないか。硬直的な年功序列制のために、悪いニュースがトップに届かない。そもそもトヨタの29人の取締役は全員が日本人男性である。こりゃいかんわ!
○それが正しいかどうかはさておいて、「日本企業はコーポレートガバナンスに問題あり」というのは、西側メディアから見ると非常に腑に落ちるストーリーになっている。ワシ個人としては、トヨタがソニー式のボードメンバーを目指すのは、ちょっとツライんじゃないかと思うのだが、普通のアメリカ人の感覚から行くと、「世界第1位の自動車会社の役員が29人全員日本人男性」ってのは、とにかく不気味に感じられるだろう。
○とりあえず豊田社長はこんな風に言ってみたらどうか。「これからトヨタは社外取締役を導入します。例えばノーマン・ミネタさんのような方に、当社の経営へのアドバイスをお願いしたい」。
○ミネタ氏は、クリントン時代に運輸長官になって、ブッシュ政権でもそのまま居残ったというめずらしい人物である。つまり民主党にも共和党にも受けがいい。日系アメリカ人だから、日米関係にも良い。ワシントン的には、「お、分かってるじゃん」ということになるだろう。アメリカの消費者にも、「自分たちが知っている人がトヨタの経営に参画する」ことで、大いに安心感を与えることができるのではないか。
ここら辺あたり推薦。