はてなキーワード: イカ臭とは
なんでそんなことしたかっていうと、俺のは結構でかいもんで、ズボンがモッコリするんだよな
背中だったら、ちょっとコブがあるとか何とか言ってごまかせるし
誰しも真っ先に思いつくのはトイレだろうな
やりにくいんじゃないかって
でも、意外とそうでもない
狙いが定まらないってのはあるが、慣れれば割と当たる
それは練習あるのみだな
まあ、うんこの時は若干難ありだが
正常位は無理だわな
一度やってみたが、背中が痛くなった
うつぶせになって、女またがらせて、腰ふらすだけ
顔見たり、乳もんだりできないのが残念だが、マッサージしてもらってるみたいで落ち着く
途中で寝たりとかな。怒られるんだけど
移植直後は後ろに立ってる人に、「なんかイカ臭くねーか?」って言われたことが何度かある
「そうか?」って適当に流しておいたんだけど、あとでトイレ行ってちんこ拭きまくった
ウェットティッシュは手放せないな
これが一番厄介だ
背中が盛り上がってくる
冬場はコートなんかを着てたから分からなかったんだけど、夏場はやばいと思う
蒸れそうだが仕方ない。通気性だけは最低限気をつけないと
手は使えないんだけど、床に擦り付けるのが楽
うつぶせになって横向いてAV見ながら、背中を床に擦り付けるの
気持ちいいし、楽だし、こんな快適なことはない
最近話題の「彼女できないぞ日本死ね(http://anond.hatelabo.jp/20160220112047)」を読んだ。ぶっちゃけ反応もふくめてネタだと思ってる。非モテは自虐芸みたいなもんで本当はみんな付き合ってる人いるんだろ?
俺も見てくれは片山祐輔そっくりだし昔から安い服しか着たことないが彼女なんてふつうにできたぞ。それこそ中高生のころから。たしかにエロにたいしては奥手だったからDT卒業は学生になってからだけどなw
もし本当に彼女ができない男がいるんだとしたらやっぱし理想が高いんだよ。これマジ話で。学校なり職場なりで知り合う普通の女の人と普通に仕事して仲良くなっていけば絶対に付き合う流れになるはず。逆にそうならないのはおかしいだろ。
べつにオサレなレストランとか連れて行かなくてもそこらへんの味のある居酒屋なり結構ファミレスとかでも全然嫌われたりしないだろ。そんなんで相手男きらいになる女って絶対スペック高い。てか女だって下手にオサレな店いやがる子多いよ。だから小めんどくさい策をつかわないと仲良くなれない女なんて最初から狙うなよw俺もいやだ。
普通に会話して「~さん、その話おもしろいなー。俺はこう思うんだけど」みたいな感じで話くりかえしていけばお互いにわかりあえてくる。そのタイミングで相手の家なり自宅なりに呼べばまあ普通身体の関係になるじゃん。そこまでいって相手に裸みせられない女ってめんどうだから相手にすんなよ。そいつは何か裏があるんだw
ようは心を丸裸にして接してれば裸の体みせるのなんて大したハードルじゃないだろ。そんで俺の周りみんなさえないヲタっぽいのとかハゲデブばっかだけど彼女いない男なんていない。つーことで「彼女出来ないぞ日本死ね」はネタ認定だ。
追記:ブックマーク見てちょいびっくりしたけど、お前らどんな砂漠地帯に住んでんだよ。もしくは東京都心ってそんなもんなのか?(俺はシラコバト市在住←わかるな?郊外だぞ)あるいはカッコ付け過ぎなだけじゃない?
俺がDT卒業したときのシチュエーションなんて、仲の良いヲタ女子(年上)とエヴァ映画版いっしょに見に行って、相手の自宅で感想言い合って、その話の勢いで「そういや俺DTなんだよなー」っつたら「マジでwww二十歳すぎてDTとか終わってる奴www」的にガチ大爆笑された後に「じゃ、今からやってみっか?」って男前な声で聞かれて、俺が「え?ほぉうあ、ぶひひ」とか言ってるうちにキスされて押し倒されて、、ってな無残なもんだぞ。つまみにスルメ食ってたからキスからしてイカくさかったし。
予約したオサレなレストランで食事、完璧なエスコート、雰囲気のいいバーで飲んだ後にシティホテルへ、、みたいなのは高スペ男女の夢世界で、俺ら普通の低スペは缶チューハイがころがった殺風景なヲタ部屋でイカ臭く合体。そんなもんだ。ゴムのつけかたすらわからず一発目はゴム亀頭につけた瞬間に圧で暴発だからな。たいていの付き合いなんてそんなカッコいいもんじゃないよ。もっとみっともなく生きようぜ。
スーパーマリオってゲームは不平等なわけ。俺は茶色い物体を飛び越えることができないの。
タイミングが合わない運動神経をもって生まれた人間からしたら、マリオこそ最高に不平等なゲームなわけ。
スプラトゥーンとかイカ臭いクズゲーで、指先コントロールテクニックを振りかざしてドヤ顔かましてる人間の皆様聞いてますか?
そもそも世の中は不平等なわけ。
そしてソシャゲというのは、ガチャという人類の能力差をリセットする機能を備えた最高に平等なゲームなわけ。
ちょっと操作がうまくて、ソシャゲになってドヤれなくなったからって騒ぐんじゃねえ!
その間に俺らは汗水たらして金稼いできたんだバカやろう!
ガチャの前では五体不満足の乙武もプロ・ゲーマーウメハラも平等なんだ。
ファシズムよろしく排外的思考で弱者を排除しようとしている○○○○○ちろうは死ね!
話題になってたので読んだが、俺も思春期に性的に搾取された経験を告白する。
http://anond.hatelabo.jp/20150610104616
中学に上がりたてのころ、俺も満員電車で毎朝通学していたのだが、
その日は偶然きれいなお姉さんが目の前に立っていた。
髪さらさらでちょっと汗ばんでて、香水と混じってすごいいい匂いしてた。
電車が急カーブにさしかかったところで、お姉さんがよろめいて、俺に体を密着させてきた。
おっぱいの谷間に顔がうずまった。
それだけだったらドキドキ甘酸っぱい思春期体験で済んだと思う。
誰かの手が俺の性器をまさぐっていた。
始めは何をされているのかよく分からなかった。
制服のズボンの上から亀頭を執拗に撫で回すこの手が、目の前のお姉さんのものだと気づいた時は衝撃だった。
これが俺の精通だった。
俺に射精させたお姉さんは、停車したタイミングでそのまますっと目の前から消えた。
見るとズボンの前半分が濡れていた。
おしっこを漏らしたんだと思って、慌てて通学かばんで隠したが、臭いが車内に立ち込めるのは隠しようがなかった。
誰かが、
「くさっ」
っとつぶやいた。
全身から脂汗が出た。
この記憶が染み付いている脳細胞をメスでズタズタに切り裂きたくなる。
こんな思いをするぐらいだったら、事故かなにかで男性機能が失われていればよかったのに。
何が言いたいのかというと、女性だけが被害者というのは間違いですよ、ということ。
決めつけてかかる女性には猛省を促したい。
http://anond.hatelabo.jp/20140826184227
その主張が周囲にどのように受け止められるのか、
また、人権問題の被害者がどういった影響を受けるのかには興味が無い。
ひたすらズリネタのシェアに励んでいるため周囲のイカ臭さはパない。
なお、隙の多い奴を狙ってBUKKAKEに来る習癖があるので、
ザーメンまみれにされたくなければ近寄らないようにしよう。
「ここ10年20年のアニメは所謂癒し系みたいなものだとか女子系と言うようなものに比重が偏りすぎてると思うので」
と言っていた。
所謂とか言いながら使われている所を見たことが無い女子系とかいう単語を使っているがこの表現が上手い。
数年前なら萌え系とか日常系で済んだんだろうけど、それではまどマギやらガルパンやらを言い表せない。
そこで女子系。
まあ美少女アニメという単語でもいいんだけどけどこれは長くて言いにくいし、なによりイカ臭い。
女子系アニメってのは女子力が求められるのよ。そこで美少女とか言っちゃうのはあくまで男視点な感じがしてダメ。
これ聞いて「ごちうさとか?」としか思えない奴はその時点で時代見えてないワケ。
まあ実はみんなわかってたんだけど物売るためには対立煽らなくちゃいけないので、
同じフィールドで戦ってるのに違うモノとして評論家や業界が言葉にしないようにしてきたってのもあるだろう。
それに一般人も含めみんながみんな女子系ブームだからね。敵に回すと怖いってのもわかる。
富野も批判的に見せかけて「比重が偏りすぎている」とか女子系自体は否定しないような置き言った表現してるし。
http://anond.hatelabo.jp/20140529201235の増田。
増田たちのアドバイスどおりクエン酸粉末を買ってきて3袋いれて待つこと数時間。
回して様子を見てみた。
うーん。
灰汁みたいな臭いは消えた・・かな?別の悪臭があるっぽいが形容できない微妙さ。
しかし乾かしたらそれも消えた。
効いてるってことなんだろうか。
外出したついでにダ○ソーで洗濯機洗剤を買ってきて使ってみる。汚れ取れると色が変わるやつ。
カビとり目的の洗剤だが、仕上げ洗いにはいいかもしれない。クエン酸でだいぶ落ちてるはずだし。
すると、出るわ出るわ。
黒かびがぷかぷか。
以前洗ってだいぶカビ落ちたと思ってたんだが、まだだいぶ残ってるらしい。
それに加え、アンモニア臭が出てきた。
それが完全に取れてくれれば、猫しっこ臭根絶できるかもしれない!!!
少し希望が出てきて今二回目やってる。6時間後どうなるか・・・
(洗った後、かなりイカ臭かったので2回くらい洗濯機を空洗い(すすぎ含め)した。だいぶたまってたんだな・・・)
また報告するわ。
猫しっこに汚染された布団。
どうも天日はしっこに効果がないらしい。
元気があればコインランドリーまで雨の中布団かついでガス乾燥機にかけようかと思うが
元気がない&元気が出るまでにこの微妙な臭さの中暮らして部屋に染み付くのがイヤ
(羽根布団なのでぎゅうぎゅうに折りたためばコンパクトにできる)
猫しっこだけで下手すると2万円近くの被害・・・
何もしてないのに・・・
「発射した精液の処理方法、教えて。」
http://anond.hatelabo.jp/20140530130122
コノ増田です。
説明不足ですみません。
ちなみに、ティッシュを使いたくない理由は、
トイレに流すと溶けない、というので正解です。
で、前にも書いたとおり、しこるときはお風呂、トイレでスマフォか、
その部屋です。
ティッシュは前述したように水に溶けない、ので使いません。
ちょっと前まではトイレットペーパーを利用し、妻に見つからないようにトイレに流していました。
でも、トイレで大で流していたら、
水使いすぎ、と怒られてしまいました。
おしっこなら小にして、と。
またトイレに捨てる場合、妻に見つからないようにもって行く必要があるので、
それで思いついたのが、ペットボトル処理でした。
ペットボトルに水を入れ、その中に発射する。
よっしゃ!!完璧だ!!
と思って実際にやってみました。
精液が球体になって水の中を漂うんですよ。
あ、おれ殺してる。
なんかしらないけど殺してる。
殺しちゃった。
というとてつもない罪悪感が湧き上がりました。
信じられないなら、一度やってみてください。
すごく気持ち悪くてもう無理でした。
ということで、スマートな精液処理を教えてください。
切実です。
水に溶けるティッシュ、ウエットティッシュなど、わざわざ精液処理用に買うものとは思えません。
お金がもったいないです。コスパはトイレットペーパーと同等なら考えますが、どちらもお高いでしょ?
それと、ちゃんと読んで欲しいのは、トイレを流すときに大を利用しない、という点です。
大量に水を流すと怒られるんです!!!
だから小で流せるくらいのもの、ならティッシュでもオッケーなんですが、
無理げーでしょ?
ということで、この点を理解してくれていない人が多くて泣きました。
それと、あくまでも個人的なことなんですが、
精液って、
イカ臭いでしょ?
というか、イカ臭い、イカ臭い、イカ臭い、と言われて洗脳されちゃってるので、
ほんとはそれほどイカ臭くなくても、精液を出したティッシュってイカ臭いんじゃないか?
臭いに敏感な妻に悟られるんじゃないか、とどきどきなんです。
これは一度ゴミ箱に捨てておいたのを自分でちゃんとコンビニ袋に入れるのを忘れて、
だから、気軽にゴミ箱にポイできる勇者な妻帯者の人は尊敬します。
6月4日追記:
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
件の記事は以下を参照されたし
Amazon.co.jp: 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の ドリーさんのレビュー
このレビューがおもしろいことは認める。独特の切り口に歯に衣着せぬ物言いは、確かにとびっきり面白い。でも、ただ単に面白いだけで、作品の本質は何にも言い当てられていないと思う。
ネタにマジレスするなって怒られるかもかもしれないけど、好きな小説をここまでコケにされて、「これこそが正当の評価だ」みたいなブコメをたくさん読むと、何か一言言いたくなって書いた。
わざわざ嫌いな作家の作品を読んで、長々とレビューを書いたわけだから、
①俺は作品を正当な評価をすることができる
②世間では流行っているが、面白くない小説が流行っているのは許せない
③俺の読み方によると、これはつまらない作品だ
④その誤った評価を俺が正してやる!
このような思考の元、あのような前置きを書きつつ、批判を書いたのだろうか
しかし、話題になっているから読んでみて、何がいけないのだろうか?
作品を読んで元気付けられて何がいけないのだろうか?
作品をどういうきっかけで読もうと、読んでどういう気持ちになろうと、その個人の勝手だし、誰にも迷惑をかけていないのに、なぜそのような気持ちになるのか理解できない。
確かに、村上春樹の孤独は、本当の孤独を知ってる人からしたらオシャンティーなものかもしれない。
でもそれってお母さんが子供に、アフリカで貧困に苦しむ子供は飢えや病気に苦しんでいるのだから、お前も我慢しなさいって教えているのと同じで、
少なくとも僕やそのほかの人には普遍化できない場合も多いのではないかなって思う。
僕らはアフリカで貧困に苦しむ子供よりは豊かで恵まれている。とりあえず食うに困らないし、寝るところにも困らない、幸せのはず。
だけど、悩みすぎて病気になる人もいるし、自殺する人は日本にたくさんいる。
その鬱になる人や自殺する人に、お前より貧困に苦しむアフリカの子供の方が不幸なのだから、お前は幸せだ。
なんていってもその人の悩みや悲しみは消えない。
なぜなら幸せの尺度は絶対化できないから、その人の中でしか尺度は測れないから。
だからそういう意味では、飢えた子供の不幸と自殺しそうな人の不幸は、同じように不幸なんだ。
だから、多崎つくるの孤独は、たとえドリーさんを始めもっと強烈な孤独を知っている人にとっては孤独じゃないにしても、彼の中では真の孤独なのだし、その孤独に共感したっていいじゃないかって思う。
なおかつ、ドリーさんは、別に作品をしっかり読めてもいないと思う。
ドリーさんの批判の中心は、おシャンティすぎて、全然共感できない、あるいは孤独にリアリティーがない主人公、「くたびれ果てた男ども勝手に妄想」したような女性などなど、登場人物にリアリティーがなく、感情移入ができない、というところだろうけど
なんかそれって的外れな、あるいは表層的な批判だなぁと思う。
イカ臭い妄想と断じるのはたやすいけど、それって安易でもったいない考え方だなぁと
確かに、村上春樹の小説には、こういうリアリティーのない人物がよく出てくるし、批判の対象になりがちだけど、
つまり、あえて登場人物の虚構性を高めている。
それが村上春樹の小説の特徴の一つだし、面白いところの一つなんだ。
とくに本作品では、さらにその登場人物の虚構性が際だつように構成されている。
で、ここまでは従来の春樹作品によく出てくるパターンだなぁって感じなんだけど、
なんと本作品では、タイトルに「色彩を持たない」なんて言われ方をして、はじめから紹介されている。
付け加えて言うと、没個性なんて人格、正直ふつうに存在し得ない人格。病気ではない限り、だってみんななんかしらの個性があるし、もっともっと感情の動きがある。
つまり、これが虚構性の強い登場人物ですよーって、読者にはじめから提示しているというわけ。
ほかの登場人物になるとその傾向はもっと顕著になる。
つくるの4人の友達の名前は「アカ、アオ、シロ、クロ」、ほかにも灰田など、緑川だの、対照的に、多崎つくるの周りにいる人物は、わざわざ色を名前に盛り込んでいる。
これはつくると対照的になるように配置され、人物の虚構性を高めるのに十分すぎる効果を発揮する。
つまりもう、読者に登場人物の虚構性をこれでもかっていうくらい、分かりやすく説明してある。
たぶん今回村上春樹は、前回の作品「1Q84」が抽象的すぎて分かりにくかったっていう批判をいっぱい受けたから、今作品では読者のことを考え、わざとらしいくらいに分かりやすい構成にしたんだと思う。
では、虚構性を高めるとどんな効果があるかについて。
これにはいろいろな効果があるし、難しい部分なんだけど、一つの効果として物語の受け止め方が変わるんじゃないかなとにらんでいる。
多崎つくるの孤独は、確かに特殊で誰も経験したことがないようなものだけど、なんだか自分に当てはめることができるような気がする。
虚構化の強調により、無駄な情報が削がれ多崎つくるの孤独は、まるで神話や教訓話のように、自分のことに置き換えやすかったりする
そういった効果があるのに、ケミストリーだのという、そういった細かい部分で(実際この言葉を作ったのは多崎つくるは高校生の時に作ったものであり、作った当人も恥ずかしそうに述懐しているというのに)、小説自体をバカにするのは実にもったいないなぁと
ドリーさんは、ネタバレのあらすじを書いて、つまらないあらずじでしょうってレビューではコケにしているけども、そのあらすじだけで判断しないでほしい。
確かに、あらすじだけ読むとつまらなく思われてしまうかもしれないけど、
小説は、あらすじでは説明できないから、表現できないから、伝えられないから、たくさんの言葉を緻密に配置して作り上げているもの。
だから、あらすじだけを読んで、全部知った気になって、満足してしまうのだけはやめて欲しい。
以上長々と、ドリーさんのレビューの批判を書いてみた。僕は斜に構えて、誰かのことをバカにする人は嫌いです。
斜に構えてバカにするのは簡単だけど、それで見落とすこともたくさんある。そのことが伝わればと思います。