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Amazon.co.jp: 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の ドリーさんのレビュー
このレビューがおもしろいことは認める。独特の切り口に歯に衣着せぬ物言いは、確かにとびっきり面白い。でも、ただ単に面白いだけで、作品の本質は何にも言い当てられていないと思う。
ネタにマジレスするなって怒られるかもかもしれないけど、好きな小説をここまでコケにされて、「これこそが正当の評価だ」みたいなブコメをたくさん読むと、何か一言言いたくなって書いた。
わざわざ嫌いな作家の作品を読んで、長々とレビューを書いたわけだから、
①俺は作品を正当な評価をすることができる
②世間では流行っているが、面白くない小説が流行っているのは許せない
③俺の読み方によると、これはつまらない作品だ
④その誤った評価を俺が正してやる!
このような思考の元、あのような前置きを書きつつ、批判を書いたのだろうか
しかし、話題になっているから読んでみて、何がいけないのだろうか?
作品を読んで元気付けられて何がいけないのだろうか?
作品をどういうきっかけで読もうと、読んでどういう気持ちになろうと、その個人の勝手だし、誰にも迷惑をかけていないのに、なぜそのような気持ちになるのか理解できない。
確かに、村上春樹の孤独は、本当の孤独を知ってる人からしたらオシャンティーなものかもしれない。
でもそれってお母さんが子供に、アフリカで貧困に苦しむ子供は飢えや病気に苦しんでいるのだから、お前も我慢しなさいって教えているのと同じで、
少なくとも僕やそのほかの人には普遍化できない場合も多いのではないかなって思う。
僕らはアフリカで貧困に苦しむ子供よりは豊かで恵まれている。とりあえず食うに困らないし、寝るところにも困らない、幸せのはず。
だけど、悩みすぎて病気になる人もいるし、自殺する人は日本にたくさんいる。
その鬱になる人や自殺する人に、お前より貧困に苦しむアフリカの子供の方が不幸なのだから、お前は幸せだ。
なんていってもその人の悩みや悲しみは消えない。
なぜなら幸せの尺度は絶対化できないから、その人の中でしか尺度は測れないから。
だからそういう意味では、飢えた子供の不幸と自殺しそうな人の不幸は、同じように不幸なんだ。
だから、多崎つくるの孤独は、たとえドリーさんを始めもっと強烈な孤独を知っている人にとっては孤独じゃないにしても、彼の中では真の孤独なのだし、その孤独に共感したっていいじゃないかって思う。
なおかつ、ドリーさんは、別に作品をしっかり読めてもいないと思う。
ドリーさんの批判の中心は、おシャンティすぎて、全然共感できない、あるいは孤独にリアリティーがない主人公、「くたびれ果てた男ども勝手に妄想」したような女性などなど、登場人物にリアリティーがなく、感情移入ができない、というところだろうけど
なんかそれって的外れな、あるいは表層的な批判だなぁと思う。
イカ臭い妄想と断じるのはたやすいけど、それって安易でもったいない考え方だなぁと
確かに、村上春樹の小説には、こういうリアリティーのない人物がよく出てくるし、批判の対象になりがちだけど、
つまり、あえて登場人物の虚構性を高めている。
それが村上春樹の小説の特徴の一つだし、面白いところの一つなんだ。
とくに本作品では、さらにその登場人物の虚構性が際だつように構成されている。
で、ここまでは従来の春樹作品によく出てくるパターンだなぁって感じなんだけど、
なんと本作品では、タイトルに「色彩を持たない」なんて言われ方をして、はじめから紹介されている。
付け加えて言うと、没個性なんて人格、正直ふつうに存在し得ない人格。病気ではない限り、だってみんななんかしらの個性があるし、もっともっと感情の動きがある。
つまり、これが虚構性の強い登場人物ですよーって、読者にはじめから提示しているというわけ。
ほかの登場人物になるとその傾向はもっと顕著になる。
つくるの4人の友達の名前は「アカ、アオ、シロ、クロ」、ほかにも灰田など、緑川だの、対照的に、多崎つくるの周りにいる人物は、わざわざ色を名前に盛り込んでいる。
これはつくると対照的になるように配置され、人物の虚構性を高めるのに十分すぎる効果を発揮する。
つまりもう、読者に登場人物の虚構性をこれでもかっていうくらい、分かりやすく説明してある。
たぶん今回村上春樹は、前回の作品「1Q84」が抽象的すぎて分かりにくかったっていう批判をいっぱい受けたから、今作品では読者のことを考え、わざとらしいくらいに分かりやすい構成にしたんだと思う。
では、虚構性を高めるとどんな効果があるかについて。
これにはいろいろな効果があるし、難しい部分なんだけど、一つの効果として物語の受け止め方が変わるんじゃないかなとにらんでいる。
多崎つくるの孤独は、確かに特殊で誰も経験したことがないようなものだけど、なんだか自分に当てはめることができるような気がする。
虚構化の強調により、無駄な情報が削がれ多崎つくるの孤独は、まるで神話や教訓話のように、自分のことに置き換えやすかったりする
そういった効果があるのに、ケミストリーだのという、そういった細かい部分で(実際この言葉を作ったのは多崎つくるは高校生の時に作ったものであり、作った当人も恥ずかしそうに述懐しているというのに)、小説自体をバカにするのは実にもったいないなぁと
ドリーさんは、ネタバレのあらすじを書いて、つまらないあらずじでしょうってレビューではコケにしているけども、そのあらすじだけで判断しないでほしい。
確かに、あらすじだけ読むとつまらなく思われてしまうかもしれないけど、
小説は、あらすじでは説明できないから、表現できないから、伝えられないから、たくさんの言葉を緻密に配置して作り上げているもの。
だから、あらすじだけを読んで、全部知った気になって、満足してしまうのだけはやめて欲しい。
以上長々と、ドリーさんのレビューの批判を書いてみた。僕は斜に構えて、誰かのことをバカにする人は嫌いです。
斜に構えてバカにするのは簡単だけど、それで見落とすこともたくさんある。そのことが伝わればと思います。