はてなキーワード: 情弱とは
2月8日深夜、aki koniだかkoni akiだか、今は名前を変えているらしいユーザがリストカットをした。
まぁそんなことは珍しいことではない。
広いインターネット見渡せば毎日誰かしらがリスカをし自慢している。
aki koniだかkoni akiはそのうちの1人に過ぎなかっただけだ。
ちなみにaki koniだかkoni akiはいわゆる"炎上アカウント"で、中身は単なるオバハン。
女王のように振る舞い、自分が気にくわないことには執拗にケチや文句をつけ、
しかし一応Google+では初の例ということで注目を浴びた。
大半のユーザはリスカではほぼ死なねーよばーかといった感じで、中には頸動脈の正しい切り方なんて投稿も見受けられたが、
aki koniだかkoni akiはいうても東京でGoogle+飲み会や食事会などには顔を出すなどしていたので、「大丈夫?」と心配されたりもした。
ここまではまぁ正常。
つーか面倒なのでaki koniだかkoni akiは以下koniと表記する。
ここで発生したのがkoni信者である。いや彼らは潜在的に元々信者だったんだろう。
・koniを快く思わなかったユーザの、koniは死ねばよかったのに投稿に対する批判
・koniに他の人に見える形で「大丈夫?」「僕は味方だよ!」と言いまくる
前者はともかく後者である。数回言うのはまだしもこれがしつこい。異常なぐらい。
もちろん「大丈夫?」「僕は味方だよ!」ってのを快く思わない一般ユーザが現れるのも当たり前で、
「それがウザい」「なんなんのこれ?」という投稿で結構溢れかえった。
ここでの構図は
ネ申―koni
そしてそれが1週間経っても収まらなかった。
誰一人としてkoniに直接連絡が取れるユーザが居なかったのである。
「大丈夫?」「僕は味方だよ!」はkoniへのメンションだったが、
フォロワーの多いユーザに「koniを助けてあげてよ!」というメンションを飛ばし始めたらしいのである。
まぁメンションなので不明といえば不明だが、しかし複数ユーザの投稿から察するにこんなようなことがあった様子。
もちろんメンション投げられた方は「ウザい」と思うのは当たり前で、
とはいえこちらは大人なのでぼやかした形でウザいと言い出したのである。もちろん当たり前である。
そして「ウザい」に対する「確かにウザい」という投稿が増えるのも当たり前で、カオス化。
「浅い関係じゃない」「何も知らない奴は引っ込んでろ」
浅い関係じゃない?koniと直接連絡取れる間柄でも無いくせに?おかしいだろ?
そう思うのは普通で「koniに何求めてるの?体?w」みたいな投稿も増えてきた。
何かが変だ。話がかみ合わないのである。
ここで情報収集してみたらどうもこういう構図になっていたことが判明したのだ。
絶対ネ申―koni
「浅い関係じゃない」のはネ申で、ネ申が絶対ネ申と連絡とったりしようと努力していることを「茶化すな」と言っているのである。
じゃあ信者は一体何の存在なんだよwwwと言いたくなり、もはやそれは狂信者なわけだが、あれ?この構図って・・・
Google+といえばなんとか48が大量に居座りだしたSNSである。
なんとか48及び関係者及びファンはGoogle+のことを"ぐぐたす"と略すのは周知の通り。
ガチャピンが「Google+の略称はぐぐたすね、覚えたよ」と投稿したときは「違うよ、ぐーたすだよ」という投稿で溢れた。
ぐーたすというのも浸透してない気はするがさておき。
とあるユーザが(わざと)メンバーが丸刈りにした件について揶揄する投稿をしたところ、
しかしよく考えてみれば、丸刈りにしたメンバーの擁護は他メンバーと関係者がやればいいことで、
ぐぐたすと略すユーザがいちいち攻撃することに何も意味が無いのである。
つまるあたり、
狂信者―攻撃要員
信者―ファン
完全一致!最も、不祥事を起こしたメンバーと他メンバー及び関係者は連絡が取れるのでそこは一致しないが。
ネ申―狂信者という構図が全く同じで、批判すれば攻撃し、ことあるごとにヨイショする。
ぐぐたすと略すユーザは若年層なので若気の至りかで済む話だが、
Google+からぐぐたすと略すユーザを差し引くと6~7割が30~40代のおっさん・オバハンなので、もはや手の施しようが無い。
そして"そもそも直接連絡は取れないが浅くない関係とは一体何なんだろう?"という謎だけが残る。
さらにいえばリスカしたよ画像なんて検索すれば山のように出てくる状況下で、誰もkoniが本当にリスカしたか疑わなかった不思議。
お前が周囲にとって迷惑な存在だったとしても、お前が死ぬほどのことでもない。
愛さなくても良い。
お前は居ても良い。
自殺するヤツはバカだ。
賢い者だらけの今の世の中、バカが必要だ。
世の中にはお前が必要なはずだ。
お前が絶対に必要だ、と俺は言わない。
信じて生きるのはお前だ。
昔、2chに居た、山崎渉のように、例えばこんな文章をいたるところに張り付けまくるのはどうだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20130225181002
自分はこれを書いたものだけど、世の中、少なくともネットには息苦しさを感じるんだ。
相手にされるのは成功をした日なたの人間ばかりで、日陰に入ってしまった人は見向きもされないんだ。
でもみんながみんな生きるのが上手なわけではない。
自分の一切を肯定できない人間は多い。俺もそうだった。今はそこから抜け出しつつある。
バカでいいじゃないか。情弱でいいじゃないか。貧乏でもいいじゃないか。許せない奴が居てもいいじゃないか。
世の中が変わるにはまず、他ならぬ俺やあなたが変わらなきゃ意味がない。
うじうじしてるのにはもううんざりだ。
俺は楽しく元気に生きていたい。
だから、俺は自殺者が増えているなんてニュースを聞きたくない。
閉塞感に包まれた社会であって欲しくない。
日本って良い国だと思うし好きだから、みんなに自分自身に誇りを持って生きていて欲しい。
日本が嫌いな人も居ていい。でもみんなに誇りを持って欲しい。
有名な人に粘着したり、人を馬鹿にして「アスペ」と読んでみたり、「メタ」だの誰かのバックポジションを取り、相対的強者であったとしても、決して報われる事はない。
Gunosyってさ、はてぶのホッテントリが1日遅れで配信されてくるだけのサービスじゃん。
つまり、みんな忘れちゃったけどSummifyの劣化版。
でも、みんな意外と知らないで喜んで使ってるんだよね、そのこと。
元々みんなに人気のホッテントリを、はてぶを知らない人にカスタマイズして流しただけで
おみくじ当たった!凄い!って感じでみんな喜ぶから、中の人も勘違いして
こんなスライド作っちゃったり。
http://www.slideshare.net/YoshifumiSeki/world-ia-day-16506953
内容以前にet alの使い方間違えまくってるし、お前さ、院で論文書いたことも無いのかよっていう、ね。
で、Gunosyの中の人は「Gunosy=はてぶホッテントリメール」という事実を隠したいみたいだけど、
大笑いしちゃった、これ。
"Gunosyにはてなブックマーク数を表示するChrome拡張「hatebunosy」つくった"
http://yumulog.hatenablog.com/entry/2013/02/17/170303
まぁさ、騙されたと思って使ってみなよ、これ。
すごいから。
もうね、見事にぜ〜んぶの記事にはてぶがビッシリとついてるわけ。
例外1個もナシ。
いやー、前から「これはてぶで読んだな」「それもはてぶで読んだ」なんて思いながら見てたけど、
こりゃひどいわ。
「あなたの興味を分析し、興味にあったニュース・記事を推薦するスマートなパーソナルマガジン」ですって、
は?どこが??
皆が皆はてぶしたような記事を再編集して流してるけど、
はてぶ使えばもっといい記事たくさんリアルタイムで読めるんじゃん。
バッカじゃないの?
その情報は、どうせRSSとか、ニュースサイトとか、はてブとか
そういった所から拾ってきてるんでしょ。
それって、情報を与えられてるだけじゃないですか。
自分から情報をとりに行っているようで、一方的に取捨選択された
そんなもんどこが情強なんでしょう。
じゃあ仮に、はてブがトップページで表示しているホットエントリが
すべてAさんという人の手によって操作されてたらどうやってそれに気づくの?
ホットエントリ全部読んで、俺は最新情報を隅から隅まで知っていて
でも、Aさんに情報送り込まれてるだけですよねそれ。
しかもすべての情報読んでるわけじゃないんでしょ。自分が気になった情報だけ
かいつまんで吸収するわけでしょ。
どこが情強なんそれ。
滑稽だわほんと。
最近、Facebookを眺めていて、発言の限定公開が多いことに気がついた。当然その限定範囲に含まれている場合と、公開をしている所での発言両方を見ることになるのだけれど、温度差にちょっとモヤモヤするものを感じている。
もちろん愚痴や不満などを吐くのは構わないのだけれども、常識ある発言を良くすると思っていた人が、裏で特定個人(友だちになってる人ね)をそれと分かるような形で揶揄していたり、議論は広く行われるべきという主張をしている人達が3~4人でお互いイイネを付け合って満足しているのを見て、しばしばなんだかなという感覚に陥る。
以前からネットでは同じ意見の人達を見つけやすいというのは言われていたけれども、Facebookでは特に空気の濃縮感が早い。別にこれは悪いとは一概に言えず、例えば議論の質を高めるためにはノイズが入るのを防ぎたいだろうし、愚痴や不満もフルオープンで公開する必要はない。
しかし、自分でノイズを除去していくのではなく、最初からノイズの除去された空間に入っていくのとでは大きな違いがあるように思う。ノイズの全くない状態で、自分の意見が全て肯定される空間で育った人達は、自分たちの意見の正しさを疑おうとしない。
自分のフィルタリング機能を破棄して、自分に都合の良い情報のみを集め続ける人達が、メディアの意見を鵜呑みする人達などを情弱呼ばわりしているのを見るたびにやるせない気持ちが募る。
まあ、そういう言い分は言語マニアにとっては都合が良いから無条件で真実とされてるわけだが
そういう嘘だらけな世界になってるのもウンザリしてる理由だな、
俺に言わせりゃお前らこそ「かじってる」だけだからわからないんだと思ってるが。
つーか、プログラムで「何を」やったことあってそんなこと言ってんの?
俺のこと古い人間とか言ってる奴いるけど、
WebGL?OpenGLのオフセットじゃん。今更何年も前に話題になった機能の入門記事が溢れてるのが笑えるwww、とか
ちょっと前にOCamlマンセーが流行ってたけど、あれだけ賛美推奨しておいてF#(.Net版Ocaml)をどいつもこいつも無視してるはありえんだろwwwとか
クソ言語マニアのブログ、記事、Twitterはこんな情弱ばっか。
「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」
「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。
日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞(キョッポ)にそんなことを言う資格などない。」
「 私は僑胞の連中を信用などしていない。
徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、 日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。
以前にもこの発言は捏造ではないかと言うのを書いたけど、今日暇だったので自分で調べてみたところ完全に捏造だと分かったので、デマがこれ以上拡散しないためにも改めて注意喚起
このコピペの「03年6月の訪日時TBSのテレビ番組」とは具体的には2003年6月8日放送の「報道特集SP百人百熱 韓国・盧武鉉大統領 本音で直接対話」という番組のようだ。
番組HP上に掲載されていた盧武鉉大統領の発言の書き起こしは下記のようになっている。http://megalodon.jp/2012-0225-0000-46/www.tbs.co.jp/skorea_president/topic4_2.html
質問者(男) 私は在日韓国人ですが、今まで日本の社会から色んな物を受けて育てて頂いたと思っているんですが、将来はそれを自分が今まで受けた物を日本の社会に還元していきたいと思っています。それがひいては韓国と日本そして北東アジア、ひいては世界の平和と繁栄に貢献できると思いますが、それに対して大統領の感想をお聞かせ下さい。お願いします。
盧大統領 これまで韓国人が海外に出て、非常に多くの人々が海外で暮らしました。我々が幼い頃、ユダヤ人やそして中国には海外で暮らしていても、国籍を捨てず、そして言葉を捨てず、また家族の文化を捨てないというような事があり、それは非常に良いことであるといった教育を受けました。そしてそれが非常に良いことであると考えてきました。しかしながら世の中は変わっていきながら、世界が一つに統合していく過程の中で、必ずしもその国籍を守るということが称賛をするようなこと、称えることだけだと思いません。
どのような国の人でも自分の国の文化の誇りを捨てないにしても、現地の文化そして体制に適応して、またそこでその社会の一員として定着して、その社会に寄与することは非常に重要なことであります。したがってその李君がそのように話しをしてくれたことは、非常に進歩的な考えであると思います。自分の民族的なアイデンティティーは保ちながらも、この現地の一員として適応し、貢献していく考えはその二つの共同体を一つにつなげることのできる力になり、また架け橋になれるだろうと思います。私はその様な考えを持っており、国籍問題に対しても、もっと自由に考え、それで二つの民族をお互いに一つにつなげていく架け橋として、日本にいらっしゃる同胞の皆さま方が大きく寄与できるような、できたらという考えが良い考えだと思います。
見て分かるように、「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」に相当する発言はあるが、コピペのように在日を敵視した発言はしていない。
2ちゃんねるには放送当日の23時にコピペが投下される。(元々有ったコピペに追加されたものかも)
http://logsoku.com/thread/academy2.2ch.net/gogaku/1049668145/ (レス番号75)
http://www.logsoku.com/r/21oversea/1047336497/ (レス番号73)
75 : 名無しさん@3周年[] : 投稿日:2003/06/08 23:09:00
「在日同胞はいずれ帰化する運命にある」「在日は本国3千万の犠牲になれ」
「在日2・3世は完全に日本人となって日本に同調する社会人として生きることが望ましい」
「みなさんが日本国籍をとられたことについて、なにも恥じることはなく、
主体性の問題にも関係がないと思います。在日同胞は、住んでいる国にしたがって日本人、
「日本は兄の国、韓国は弟の国。劣ったものは力の強いものに対して嫉妬や羨望の感情を抱きやすいものだ」
「3世といえばもう日本人。彼らの問題をいつまで韓国政府が取りあげなければならないのか?」
そして…
「異国で国籍を死守することがいいとは思わない」
「同胞にはその社会で貢献して欲しい」
ただし、この時は実際の発言を要約した最初の1行目だけで、それ以降の在日を批判する文章は無い。
捏造された発言が追加されたコピペの初出は2004年3月10日、番組放送から半年以上経ってからである。
http://logsoku.com/thread/ex.2ch.net/korea/1076137626/
164 : マンセー名無しさん[] : 投稿日:2004/03/10 16:58:00 ID:IwGuoVRP [1/1回]
「在日同胞はいずれ帰化する運命にある」「在日は本国3千万の犠牲になれ」
「在日2・3世は完全に日本人となって日本に同調する社会人として生きることが望ましい」
「みなさんが日本国籍をとられたことについて、なにも恥じることはなく、
主体性の問題にも関係がないと思います。在日同胞は、住んでいる国にしたがって日本人、 アメリカ人、アフリカ人とならなければなりません」
「日本は兄の国、韓国は弟の国。劣ったものは力の強いものに対して嫉妬や羨望の感情を抱きやすいものだ」
「3世といえばもう日本人。彼らの問題をいつまで韓国政府が取りあげなければならないのか?」
「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」
「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。
日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞にそんなことを言う資格などない。」
「私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに
韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、
その後、2ちゃん内で韓国・在日関連のスレなどにポツリポツリとコピペされて行く。
・Wikipediaには2005年4月4日 (月) 18:07 の版で初登場する
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9B%A7%E6%AD%A6%E9%89%89&oldid=1670491
2003年6月6日から9日まで権良淑夫人とともに国賓として日本を訪問。この際筑紫哲也司会のTBSテレビの特別番組に出演し、日本の一般市民と交流を持っている。その時、在日韓国人について「異国で国籍を死守することがいいとは思わない、同胞にはその社会で貢献して欲しい」 「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。 日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞にそんなことを言う資格などない」「私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、いいとこどりではないか。私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞の連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」と、韓国政府が行ってきた在日韓国人の棄民政策を継承する考えを表明している。
これが2ちゃん外部のサイトで最初にデマが掲載された事例のようだ。
・その4日後に質問サイトのOKWAVEの質問に該当部分が引用されて回答される
http://okwave.jp/qa/q1317796.html
以後、知恵袋等の質問サイトやコピペブログに拾われるなどして「発言は真実」として爆発的に広まっていく。
しかし、広がっていく過程で誰もデマであるということに気付かなかったのか?というとそうではない。
Wikipedia上では、掲載から2ヶ月後の2005年6月26日 (日) 08:53の版でデマである可能性が指摘されている。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9B%A7%E6%AD%A6%E9%89%89&oldid=2195139
この後、版を重ねる内にデマの部分がそっくり削除されてしまったことが拡散に歯止めを効かせられなかった要因の一つではないかと思う。
さらに、質問サイトでも2009年にはとっくにデマである指摘がされていた
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5165119.html
にも関わらず、2012年も終わろうかという今日でも、この盧武鉉発言を真実かのようにコピペしデマが拡散し続けられている。
この記事を読んでくれた人の中にも、デマだと知らずに信じてしまっていた人はいませんか?
デマが検証もされないままセンセーショナルさだけで次々と広まっていく様子を見て「ネットで真実」と言って簡単に信用してしまうことの危うさを再確認することになった。
それによってデマが終息するのかを今後見守ってみたい。
音楽評論家の宇野功芳に「メータ(注:インド出身の指揮者)のブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」という言葉がある。
その言葉にならうのであれば、本作を過剰に批判する側にも、称揚する側にも、「ヱヴァンゲリヲンはそういうものなのだ。知らなかったとは言ってほしくない」の言葉を添えたい。
「Q」はアップデートされた「エヴァ」であるから「旧作の狂気が帰ってきた」と称揚する評は間違っている。「意味がわからない、映画としての書法をなしていない」との評価も間違っている。
その言葉は伊達ではなかったと、冒頭シーンで感じないものがいればそれは不感症なのだ。
あの冒頭シーンを見てこの作品を全否定するその神経が分からない。
状況の分からない空間戦闘からNノーチラス号の発艦シーンまでの息詰まる緊張感と圧倒的なヴィジュアルにため息をつかないものがいるとすれば、それはブーレースの演奏するマーラーを前に「精緻にすぎる」などと見当外れの批判をする童貞クラヲタのようなものだ。
圧倒的な美しさ、スタイリッシュさ、その疾走にはに頭を垂れるしかない。涙は追いつけない。
参照される古今東西の映像作品の断片に庵野の美意識が振るわれ、結晶として屹立するその様はベルント・アロイス・ツィンマーマンの音楽を思わせる。
あるとすれば、脚本、演出による。
いくつか代表的なものあげてみよう。面倒なので3点に絞る。
1.いみがわからない
私も意味がわからなかった。もう自己パロディとしか思えないほどのとっちらかった謎、伏線、設定に呆然とする気持ちはわからないでもない。
しかし、こうした要素は「わからない」ことも含めて、自らを「サービス業者」と規定する庵野の「サービス」であり、そのインタビューにもあるように「酒のツマミ」として楽しむべきものなのだ。すでに2ちゃんには解釈をめぐりいくつもの「名解釈」が登場している。そこにエヴァの本質はないのでその解釈論争の成立自体「そういうもんだ」と楽しむのが正解だ。「しらなかったとは言ってほしくない」
だいたい、我々が生きているこの世界自体、意味がわからないだろう。
2.登場人物の行動に整合性がない
そうだろうか。ある程度登場人物のおかれた状況に寄り添って、「補完」すれば整合性は保たれてはいないか?たとえば「破」で「行きなさいシンジくん」と煽ったミサトが「Q」で別人のように冷淡だというのも「ミサトの14年間の辛苦」といったものを忖度すればあながち整合性がとれないわけでもない。
だいたい、我々が生きているこの世界の人物自体、行動に整合性がないだろう。
3.リアリティにかける
ゲンドウと冬月の「二人のネルフ」はどんな金で動いてるんだとか、吹きっさらしのグランドピアノがなんであんなに綺麗なんだよ普通弦さびるだろとか、まぁ分からないでもない。
しかし、エヴァとは「私小説」なのだ。プライベートフィルムにおいて、美意識と表現される「わたくし」の前に「世界」のリアリティはある程度犠牲になるのだ。
つーか、あの廃墟、ぐっとくるじゃん。それでいいんだよ。
だいたい、我々が生きているこの世界の自体、リアリティがないだろう。
どこ見てんのかね。この「狂気」は完全に「作った狂気」だ。綺麗にまとまりすぎているし、旧劇場版のアドリブ奏法のようなどこに行くのかわからない狂気ではなく、計算された狂気だ。
「序」と「破」をいったんたたき壊すための仕掛けであり、旧劇場版の「狂気」に魅せられて未だに90年代から一歩も動けていないものへの「釣り針」だ。
この作品は「シン」へのかけ橋である以上、注意すべき点は以下の3点に絞られる
・旧劇場版とほぼ同じ立ち位置にいる「無限に後退していくシンジ」をQで再度設定しながら、決定的に違うのは旧劇場版のシンジの周りにはダメな大人と壊れたアスカしかいなかったのに、新劇では導き手としてのアスカとマリが設定されていること。
・旧劇場版で「鬱シンジ」を否定し、「序」、「破」で設定した、ポジティブな「シンジさん」(セカイよりもポカ波を選んだシンジ)も「Q」で全否定したこと。
・露悪的な破壊の中で、通奏低音のように「やり直し」「成長と大人になること」「社会とつながること」を流していること。
上記を踏まえると、庵野<旧劇場版で引導を渡したはずの「エヴァ」に依存するヲタク>をもう一回、別のアプローチで説教しようとしているように見えて仕方ない。ヒントは同時上映された「巨神兵、東京に現る」に流れていたようにも思える。
我々は上記3点の「伏線」に「シン」でどうオトシマエが付けられるのかを見守るべきであり、やはりつまらぬ結論ではあるが、それまで判断を留保すべきなのだ。
今日もだよ。
臨時出費が出たので数人でステーキのどん行ってテンダーロイン150g約2000円を食ったわさ。
いや、いい肉だったんだよ? マジで。脂身とかないし。ふにふにしてるし。
ほんとは脂身食べる方が好きで(たまにリブロインの脂身だけ交換してもらったりするし)、
しかも後半はレバーみたいに粉っぽかったけど、やらかい良い肉。
だのに、油にやられた。もう何度目だろ。
こう、喉の奥にべっとり塗られた感じ。それが食道の奥まで塗られきってて、
顔色悪くしながら水だの烏龍茶だのをすするんだけどやっぱり水で油は落とせない。しつこい。
つっても今回はとてもよい肉だったおかげか、食べ終わった直後にウッとはこなかった。
ほんと、皿に残ったティースプーン一杯ね。コーヒーに乗せる生クリームかミルク程度の量。
これでもう、うぇえええっっ!って。いや今回は吐かずに済んだけどさ。
トイレで安静にしてたら油分が引いてくれた。ありがとうございます。
もう、これなんかの病気なんですかね?
ググったらクローン病とかいう難病がヒットして軽くおののいたけど。
前科は今年に入って2度。
その場のトイレットペーパーなんかでどうにか固形物を除去してごまかしたのと、
ハンバーグ屋の駐車場の側溝というか草むらに向かって自然にかえしたのとで2回。
ごめんなさい、本当申し訳ありませんでした。二度と入店いたしません。
松屋の牛丼もたまに食べるけど、そこまで深刻な事態にはならない。
単なる食いすぎ?・・・・180g程度でも?
自分ではいい肉と信じてるけど、実は僕は貧困層で情弱でダンボールみたいな肉を食わされてるとか?
それとも虚弱体質?こんな時間まで無駄に起きてるから?運動でもするべきか?寝不足?
こんなんじゃますます友達づきあいで飲み食いするのがおっかなくなります。
おいしい肉が食べられるようになりたいです。もしよかったら助けてください。
あと「うしじまいいにく」ってなんでしたっけ。
10mほどの距離を置いてipad miniとnexus 7がモックがあり、交互に触ることが出来た。
どちらも偉大な発明だと思ったけれど。
結論としては、7inchタブを10inchタブと違って、「携帯して使うデバイス」とするなら、nexus 7の方が完成度が若干高いと感じた。理由は以下。
居間で座って使う時とは違って、立って使う、揺れている環境で使う事がある携帯デバイスでは、最も大切な事は持ちやすさだ。
いくらブックストアが充実していようが、ブラウジングが快適であろうが、画面と筐体を持つ事に気を取られては意味は無い。
15mmしか差は無いはずなのだが、ipad miniの方が横幅が広く片手で鷲掴みしにくい。出来たとしても第二関節が伸びた状態になり窮屈で、長時間は恐らくやってられない。
nexus 7は安定感をもって鷲掴み出来る。
では鷲掴みをやめて親指とその他で挟むように持つとする。
安定感を持って掴もうとするとipad miniはベゼルが狭いせいで親指が画面にかかる。
appleはこれを先取りして親指を検知しないチューニングにしているらしいが、操作時以外で表示面を触るのは精神的に気持ちよくないし、やはり指が邪魔。
nexus 7はベゼルに余裕があるのでこの持ち方でも問題はない。
さらにこの持ち方だと、nexus 7は裏側が滑り止めのような素材になっていて安心感があるのに対し、ipad miniはサラサラのアルミ。差は言わずもがな。
また蛇足であるが120mmと135mmという大きさは、ポケットに入るかどうかの微妙なボーダーライン上にある。
今近くに定規と衣類がある方は、ズボンの尻ポケットやジャケットの内ポケットを測ってみるといい。大体12~14cmくらいのハズだ。
「nexus 7は入るがipad miniは入らない」ポケットはかなり存在する。
その点でnexus 7がwifiモデルにもGPSを積んでいるは評価されるべきだ。
以上のように、携帯デバイスとして重要な点においてnexus 7の方が使いやすいと感じた。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51834635.html
だから少なくとも、nexus 7を買った人が「情弱」などと呼ばれる筋合いは無い。
そのとおり、少々持ちにくいという意味で。
携帯デバイスとしての着眼点がズレているから評価が反転している。
http://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1210/31/news036_2.html
これに関しては更にひどい。
らしいが、日本人がipad miniを携帯デバイスとしての使用シーンで片手操作などしたら、使い始めて一週間で落として傷をつけるだろう。
ただ単に「市場に流通しているいろいろなサイズのタブレットを見渡したところ7インチが1番売れ筋っぽいから7インチにした」と決まったものではない。
と謎の断定をしているが、僕は違うと思う。
7inch市場が注目されているから作る事を決めた → 7inch台を名乗りながら画面を大きさを売りとするためギリギリの7.9inchとした
→ 結果横幅が広くなりすぎた → ベゼルを削って横幅を狭めた → ベゼルが無い為の誤操作を防ぐために画面端のタッチを調節した
というのが一番ありそうな話ではないだろうか。
実際触ってみて、ipad miniのデザインや高級感は素晴らしいものがあったのですが、携帯用としてはちょっとウーンという感じでした。あとやっぱり画面は粗いよ。
ただまぁ繰り返しますが、nexus 7もipad miniも偉大な発明であることは疑いの余地は無く、どちらかを買って失敗ということは無いとおもいます。
別に家で使う事もあるだろうから、他にも色々な比較があり得るだろうしね。
ただ、2つ例を挙げたけど、まともなレビューが殆ど無く、他も含めてappleの広報なのかと疑うようなモノばかりだったのでこの記事を書いてみました。
それネットに書かれてる奴そのまま記載してるだけじゃんwどれも真偽は不明だが。。とか書いてあるしw
元々レーシックは強度近視には効かない可能性があるって元から言われてるだろうに。。
それで再手術してまた視力回復してるじゃんww