2013-01-06

ノイズフィルタを自ら捨ててしま人達

最近Facebookを眺めていて、発言の限定公開が多いことに気がついた。当然その限定範囲に含まれている場合と、公開をしている所での発言両方を見ることになるのだけれど、温度差にちょっとモヤモヤするものを感じている。

もちろん愚痴や不満などを吐くのは構わないのだけれども、常識ある発言を良くすると思っていた人が、裏で特定個人(友だちになってる人ね)をそれと分かるような形で揶揄していたり、議論は広く行われるべきという主張をしている人達が3~4人でお互いイイネを付け合って満足しているのを見て、しばしばなんだかなという感覚に陥る。

以前からネットでは同じ意見人達を見つけやすいというのは言われていたけれども、Facebookでは特に空気の濃縮感が早い。別にこれは悪いとは一概に言えず、例えば議論の質を高めるためにはノイズが入るのを防ぎたいだろうし、愚痴や不満もフルオープンで公開する必要はない。

しかし、自分ノイズを除去していくのではなく、最初からノイズの除去された空間に入っていくのとでは大きな違いがあるように思う。ノイズの全くない状態で、自分意見が全て肯定される空間で育った人達は、自分たちの意見の正しさを疑おうとしない。

自分フィルタリング機能を破棄して、自分に都合の良い情報のみを集め続ける人達が、メディア意見鵜呑みする人達などを情弱呼ばわりしているのを見るたびにやるせない気持ちが募る。

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