はてなキーワード: 伝統とは
あくまでも「自然に」そうなってくれるということを前提にしてるんだよな。
子孫を残さなければならないということ一つにしても
自由恋愛をして、素晴らしい人と出会い、すぐに妊娠し、男子を産み、人格者に育てる
という一連の流れを人為的にではなく「自然にそうなった」という演出をしていかなければならないとしているところ。
想像(陰謀論?)だけど、実際には不妊治療とか産み分けとかそういうことしてるんだろうなーとは思うけど
それを表にしてはいけなくて、あくまでも「自然にそうなった」と建前を必死に取り繕うことにしてるというのが
なんとも言えずに気持ち悪い。
Wikipedia読んで初めて知ったんだが、本来の沢庵は日干しした大根を糠漬けにしただけのものらしい。
自分が想像した「ターメリックで黄色く色付けした調味液付け大根」は似て非なるものなんだと。
中国はザーサイ、韓国はキムチ、イギリスはピクルス、ドイツはザワークラフト、イタリアはアンチョビ等々見ていって、日本の漬物はレベルが高くないと美味しくないが海外の漬物はそうでもない。
岡田斗司夫の元愛人を名乗る人物がtwitter上で暴露漫画を描いたことでネット上で物議をかもしている。
これが非常に面白いのだ。
そもそも岡田斗司夫は80人近くの女性と彼氏彼女の関係をもっていたと発言したのだが、ふたを開ければというかあけるまでもなくわかっていたことだが、それは愛人契約以外の何ものでもないということがわかった。
もちろんその事実がわかった段階では岡田氏を擁護する者は少なかったし、消極的に岡田氏を擁護する者はいても、全肯定したり、女の自業自得だ自己責任だと切り捨てる者は感覚的に少なかったように思われる。
しかし、この暴露漫画がtwitter上で話題になると岡田氏批判と擁護が拮抗しているように思われるのだ。(勝手に思っている)
何故なのか?
この疑問こそが僕の出発点だった。
僕の立場を言えば岡田氏のやっていることは100%間違っている。全否定派である。
のにだ。何故か批判派の論理はどこか矛盾しているように感じ擁護している側のほうにも正当性があるように感じてしまったのだ。これは考える価値のある疑問のように思われたので拙い知識で少し論じてみようと思う。
何故、岡田氏擁護側のほうにも論理的正しさを感じ、批判している側に矛盾を感じたのか。
これこそフェミニズムとネオリベラリズムのねじれ現象だと思うのだ。
批判派の論理はフェミニズム的思想によって行われ。擁護派の論理はネオリベラリズム的思想によって行われているのだ。
しかしこの二つの思想は僕にとっては共闘関係にあり手と手を繋ぎあっている仲間だと思っていたのだ!(書いてる途中でしったのだが、どうやらフェミニズムとネオリベラリズムはの関係性は大昔から論じられてきたらしい)
もちろんフェミニズムもネオリベラリズムも一枚岩ではないということは重々承知なのだが、もともと自由平等博愛という世界観を生み出した自由主義者たちが資本主義者と手を結びその中でで男女同権男女平等を唄うフェミニズム思想が生まれたのだと思えば、フェミニストは基本的に自由主義者だしネオリベラリスト達が掲げる国際化グローバリズム的思想とも
フェミニスト達は手を組めてしまうのだ。なぜならネオリベラリスト新自由主義者達は歴史、伝統、文化、国家などを解体し国境や国籍をなくし市場を開いて自由に! 平等に! 競争し貿易し取引し資本を儲けるという考え方なのだとしたら、
フェミニズムにとって邪魔な伝統や文化、家や血、身分や階級からの開放と非常に親和性の高いものだということがわかる。
つまりフェミニストの大半はおそらくグローバリストでありネオリベラリストなのだ。
ネオリベラリストたちの多くは自分のことをフェミニストだと思っている事だろう。
岡田氏擁護の論法はこうだ岡田氏はちゃんと見返りを与えている、それに選択肢も与えている、だったら女性の自己責任であろう、と。
これは男女の関係を金や権力または見た目の美しさかっこよさのみで取引できるという考え方が染み付いているのだろう。
さらに付け加えれば金や権力、美貌以外の価値観こそ女性を抑圧し束縛するものだと思っている可能性すらあるのだ。
最近togetterにまとめられていた「フェミニズムを拗らせた結果、レイプものや売春もの等しか受け付けなくなった人達(と、百合しか受け付けなくなった人達)」というのを読んだのだが、彼らは金、権力、美貌以外のもので男女が恋愛できるということを信じられなくなっているのだ! これは歴史でも伝統でも文化でも宗教でも国家でも家でも血でも身分でも階級でもなんでもいいんだけれど、そういったものにまったくリアリティを感じられない人たちに起こる現象ではないか? 彼らが異性と共有できる価値観なんてもはや金しかないと信じているのである。
そんな彼らがフェミニズムを拗らせたと名乗っているのだから面白い。
フェミニストがネオリベラリズムに正当性を与えネオリベラリストがフェミニズムの理論を武装したのである。
ネオリベラリズムの思想のなかには間違いなくフェミニズム的思想を取り込んでいるし。フェミニズムのなかにもネオリベラリズムと共有する価値観はあるということは間違いない。
しかしこの岡田斗司夫問題で、一見、僕からすれば同じグループの人間たちが喧嘩を始めるという奇妙さによって、フェミニズムとネオリベラリズムには価値観の多くを共有しているが、決定的に相容れない全く共有できない価値観があるということが浮き彫りになったのだ。(岡田氏本人がネオリベかどうかはよく知らない)
そんなの当たり前だろとおっしゃる方もいるだろうが、僕にとってこれは発見であり、フェミニズムという思想には大きな矛盾と逆説を抱えているように思ったのだ。
もちろん岡田氏を批判している多くの人は別にフェミニストなどではなくただ直感で不愉快に思ったからだろうが……。そのなかに紛れているフェミニスト達を見ていると(岡田はパワハラで性暴力で女性の敵! といった意見)岡田氏の様な恋愛資本主義的な思想に正当性をもたせたのはフェミニズムなんじゃないのかと思わずにはいられないのだ。
これまでフェミニストはどう考えてもネオリベラリストたちを利用してきたように思われる。
歴史、伝統、文化、国家からの開放という理念、男性社会からの開放という思想は
国家主導の経済政策ニューディーラーやケインズ理論のような社会主義的な政策を嫌うネオリベラリストをフェミニストは利用し、
男女同権をネオリベラリズムによる労働規制の緩和と非正規雇用や外国人労働者などを使った低賃金化といった改革によって達成した。
そして行き着いた先これである。
自由と平等を過激に極端に推し進め規制は悪であるという考え方が導き出した論理こそ弱肉強食なのだ。
クルーグマンもスティグリッツも最近話題のピケティも言っている格差問題はネオリベラリズムによるところが大きいが、
フェミニスト達にも米国におけるトップ1%が金融危機以来95%の富を得ている等の責任があるように思えてならない。
ネオリベラリズム的政策に正当性を与えたことは言うまでもない。
僕は今フェミニストがネオリベラリズムを利用したといったが、もちろんネオリベラリストがフェミニズムを利用したことも疑いようのない事実だとは思う。お互いがお互いをうまく利用してやろうとしたのだろう。
だからこそフェミニスト側が、ネオリベに裏切られた! 私達は被害者だというのはやめてもらいたい。ネオリベラリズムの思想によってフェミニズムの目的の大部分は達成したのだろうから。それが仮に弱肉強食にさらされるという事であっても……。
別に男と女が対立するのも結構だが、格差問題が深刻になりつつある今、フェミニストがやることはネオリベラリズム批判ではないだろうか?
フェミニスト達が今回の暴露漫画における岡田氏擁護派の論理、つまり弱肉強食という考え方を否定し資本による自由平等を批判しても、恐ろしいことにそれを望んでいたのは(少なくともそう見えた)フェミニストなのだから自分で自分を殴っているような滑稽さ、それが僕の違和感であり矛盾であり、擁護派にもそれなりの正当性があるように思えた理由なのだ。
家や見合いを否定し自由恋愛が生まれ、今度は家庭を否定し、恋愛資本主義にまでいきつき男女ともに恋愛による価値観は金と権力と美貌しかなくなるのも頷ける。
金と権力があればモテルやただしイケメンに限るなんてのもネオリベラリズムに毒されれば必然的な帰結だろう。
このような思考回路を持つ、岡田氏を擁護する人間や岡田氏の様な人間を作り上げたてしまった責任の一部にフェミニスト達が関係していることを考えるとなんともいえない気持ちになる。
男女の平等を達成するためにネオリベラリズムを利用したらネオリベラリストによって性的被害を受けた、なんと皮肉なことか。
弱肉強食と男女平等が共存する社会が仮にあるとすればそれは旧石器時代のようなものではないか? それこそがフェミニストとネオリベラリストの理想郷であることは疑いようもない。
うちの地元は、山奥でとある伝統産業をやっている通販企業が多くあるところだ。
観光客がいるような町じゃないので、通販で生計を立てている会社が大多数だ。
戦後から、通販の主なパートナーは郵便局であるが、彼らと二人三脚で町を発展させてきた。
そんな町にとって、今回の値上げは非常に辛い。
もちろん、うちも値上げすればいいんだけど、今回クラスの大きめの値上げは、一定の顧客離反を招くことになる。
ブランドロイヤリティの強い顧客はついてくるが、まぁ、近くの店で買えばいいや、と思う顧客も一定は必ずいる。
強いブランドであれば、多少の値上げなんぞ、関係ないだろうが、多くの地元企業がそんなに強いブランドを持っているわけでもない。
この影響で、おそらく、数社つぶれるように思う。
そうならないように努力するが、値上げするのホントやだなぁぁぁ。
そもそもこうなったのって、Amazonとの契約のせいでしょ?
うちらは翌日配達なんて無理なこと言わないし、郵便局が回らなくなるような多量の荷物なんて出さないから、中小企業にはちょっとは優しくしてよ。
>小学校だが、ベルマークやバザーは職業人には非効率極まるので保護者が相応の額を寄付することで代替、 学級便りなど配布物はクラスのブログに替えて廃止、集金は口座引落と手数料負担でのカード決済、を勝ち得た。まだまだ合理化してやるわ。
さらに
>教務主任ですね。伝統守れだのパソコンやネットが使えない人はどうすんだとかいってきます。自分のITスキルがないだけでしょ、主語をでかくすんなよで秒殺。スマホも使えない50代は去れと
と続く
これ見た時うわっ可哀想と思った
この意識高い系ジジイ(ババア?)に巻き込まれる先生たちと一部の保護者が
高校の進学校だと生徒の各家庭に一台はスマホとパソコンあって、ipadだって持ってるしプリンターもFAXもある家庭だってけっこういます、って感じなんだろうが
小中学校だと生活保護家庭、片親、パソコン持ってない、両親ガラケーで機械オンチ、
両親がいなくて祖父母に育てられてるとかまあ色んなのがいる
学校のホームページこまめにわざわざ開いてチェックするなんて億劫でやだって親もいるだろう
俺みたいなのがもし親になったら絶対ろくに見ない
宗教上の理由で家にゲーム機やパソコンどころか洗濯機も電話も冷蔵庫も置いてない家で育った少年の話があったが
日本にも数校にひとつくらいそんなトンデモ一家がいるかもしれない。いやたぶんいるだろ
現実見えてなさすぎ
俺は学校関係者だけどうちの学校では、例えば天気が微妙な時運動会の開催はどうするかとか台風が来てる時に休校にするかどうかとか
全校生徒の保護者に緊急の連絡がある時はメールとアプリで連絡を送信するようにしてる
でもいくつかの家庭は、さまざまな理由で連絡が受け取れない
詳しくは知らないが上で挙げた理由の他にスマホの容量圧迫したくないとか学校にメールアドレス教えたくないなんてのもいるかもな
とにかく連絡が受け取れない、もしくはちゃんと連絡を受け取って見てくれてるか不安な家庭にはどうしてるかって言うと
そして、だいたいそういう家庭って何か訳ありで時間置いて一日に何回電話かけてもつながらなかったりする
まだ○○さんの家に連絡取れないんですよ~って先生がぼやいてるのだって見たことがある
教師は社会経験がなくて世間知らずで頭が悪いからパソコンが使えないんだ!って本当に呆れる
教務主任とかパソコンでの資料作成やメール送信めちゃくちゃやってるだろ
学校のホームページやブログ更新だって教員の誰かがやってるんだぞ
教員じゃないクソ下っ端の俺でもパソコンでの仕事それなりにやってるのに
元ツイの奴の学校の先生はモンペに折れて裏では情報弱者家庭に個別に電話連絡したり紙のプリント刷って持たせてるんだろうなと思うと泣けてくる
こいつの子どもが卒業したらこれ幸いと元のシステムに戻しそうだ
ボクたちいじめられっ子の本気を見せてやる!ボクたち弱者だってやる時にはやるんだ!やられっぱなしはもう終わり!子どもの時、教師の理不尽ないびりに逆らえなかったボクとは違う!強者に立ち向かうぞ!悪の教師をぶっ潰せ!などと思っているんだろうが
相変わらずネットのオタクたちは爆サイにいるような貧困層、キモヲタくんとは別の方向性の社会的弱者ががまったく見えていないんだな
いや、もしかしてわざとなのか?
「スマホも使えない50代は去れ」はそういう保護者にも向けている言葉なのか?
連絡事項をホームページでチェックできないようなのは親子もろとも取り残されてしまえ、小卒どころか最終学歴ホイ卒で十分だ、と
非コミュでオタクでネット民、そんな奴らのカタルシスのために底辺はますます底辺に落ちる
手を差し伸べずに蹴落として、そうして行き着く先は生活保護受給者やヤクザ者
そんなの結局みんな損じゃないか
本当にいいのか、それで
「○○さんは宝塚を卒業したら、家庭に入って幸せになって欲しいわ」こういうことを言うファンがいる。こういうのを聞くたび、暗い気持ちになった。結婚=幸せという価値観にうんざりするのか、それとも、私たちのファンタジーのためにそういった人生の選択肢を諦めているのではないかという恐怖なのか。
そもそもそういった価値観を嫌という程体現している世界観を舞台でもシステムでも提供しているのが宝塚。
数々のストーリーは男役が主役で娘役はなれない、強い女や主役が女の場合はあえて男役が演じる
組のトップは男役しかなれない、女役だけ「娘役」表記等々・・・
ファンの時点でそういった世界観を受容できているのだから、女だけの世界で一見ポリコレ風でも
地元は自民党議員が強い地域なんだけど、最近野党の勢いが強くなってきたことに焦ってるのか、頻繁に保守系()の集会をやってる
親が勤務してる企業の社長が手厚く議員にコネ作ってる関係もあって、この前その手の集会に連れて行かれた
何か身ぎれいな恰好してるんだけどどっかギラついた目の女の人がいっぱいいて、戦後処理がどうとか極東国際軍事裁判がどうとかいう本の購入を勧められたりした
そんでまあやっぱりギラついた感じの自民党議員の奥様とか、保守系の学者だかが出てきて講演し始めて
「男女平等という幻想を捨てなければいけません。男は男らしく、女は女らしく生きることが日本古来の伝統なのです」
みたいなこと言ってまわりのギラついたおばさんたちが「そうだ!」とか言ってた。
なんだろうね。
保守系の人って宗教もそうだけど、自分の知ってる価値観から世界観が一ミリも動いてほしくない人たちの集まりなんだなって思った。
バレンタインとかいう司祭が恋人のために催しを行ったのが基とされているが、それは作り話だともいわれている。
いずれにしろ、真実があやふやに認識されている歴史というものは、得てして現代を生きる人間によって都合よく変換されることが多い。
歴史修正主義者みたいに思想的ではなく、その日にこじつけて何かを売りたい、資本主義だとか商業主義にあたる人間たちによってだ。
まあ、大局的に見れば経済を回すためだとか、それはそれで考えがあるかもしれないが、俺たちの国でそれがチョコレートである必然性がないことだけは確かだろう。
その日が個人にとって関係があろうとなかろうと、誰も知らないフリができない。
更にガメツイのは、バレンタインデーの約1ヵ月後にホワイトデーなんていう“お返しキャンペーン”まで普及していることだ。
さて、今回の話は、生憎だが甘酸っぱい要素は何一つない。
かといって、チョコを貰えない人間のほろ苦い話というわけでもない。
話はバレンタイデーに遡る。
その日は休日と重なり、俺は家でくつろいでいた。
去年のことを顧みると、これはとても快適なことだ。
俺の学校にはバレンタイデーに家庭科の授業としてチョコを作るという伝統があった。
男女関係なく班で作ったチョコを食べるという、一見すると何とも平和な授業だ。
だが、このタイミングを利用して“個人的に”作る人間も多かった。
恋人のため、想い人のため、ただ友達同士でワイワイやりたいだけ、と目的は様々だ。
そして、そういった人間の中には、ホワイトデーをアテにして無差別にバラまく奴も必ず出てくる。
面倒くさい話だ。
お返しなんてしなくてもいいと思いつつも、そんなのに律儀にお返しする奴が出てくるから、俺も体裁を整えるしかない。
チョコが食えない俺のいる我が家にとっては、2月14日は煮干の日のほうがポピュラーなのだ。
「2月14日は煮干しの日だが、バレンタインでもある。お前はいいのか?」
「なにが?」
「なにって、チョコだよ。外周れば貰える可能性あるんじゃないか?」
弟はバレンタインを学校の行事くらいにしか思っていないようだ。
「そうなの? じゃあ行ってくる!」
まだ、説明は終わっていない。
「貰えるとは言っても、タダではないぞ」
「貰えるのにタダではない、ってどういうこと?」
弟の疑問も尤もなんだが、そういう疑問のために「タダより高いものはない」という諺があるのだ。
「ホワイトデーといってな。バレンタインにチョコを貰ったら、何らかの“お返し”をしなければならない日があるんだよ」
「なんだそりゃ。ギブってのはテイク前提でやるもんじゃないだろ。それじゃプラマイゼロじゃん」
実の所バレンタインには様々な側面があって、安易に価値を推し量ることは難しい。
だが、世間に捉われない自由奔放な弟にそれが理解できるとも思えないので、俺はあえて省略して説明することにした。
「どういうこと?」
「ホワイトデーのお返しは、通説ではバレンタインに貰った物の3倍の価値とされている」
「3倍!?……バレンタインはチョコをあげるほうが得しやすいってこと?」
「そうだ。つまりバレンタインはチョコを貰わないようにしつつ、相手にチョコを押し付けるゲームってことだ」
全くのデタラメを言っているわけではない。
弟が安易にチョコを貰わないよう、遠まわしに釘を刺すための理屈だ。
だが、こういう“全くのデタラメではない”情報のほうが、弟にはかえって害悪だったのかもしれない。
自己肯定感は、他者からの「承認欲求」と自分の成功体験からなる「自信」によって生まれる。
まず「承認欲求」を満たせるなら、権利と責任を考慮した上で適切な場所や人を探すといい。そのような人といると肯定的でいられる。同じ意志を持った人と関わるのも良いかも知れない。人を褒めると褒め返してもらえる可能性があがるのでやるといい。ただ、八方美人になると痛い目を見るので信条にあったものを褒める。
もし、自分の生き方に他者からの介入で生きづらいと思うなら、「自信」を高めると良い。もしくは「対話」によって理解を求めることも「自信」に繋がる。
バランスが大事だ。いま偏っていると感じるなら生き方を意識して変えてみると良い。「自信」を高めるには目標に向かうための習慣を身に着けるのがオススメだ。成功したかどうかは自分が決めるので、これをやったので今日は成功に近づいたと思えれる。
伝統指向、内部指向(能力重視)、他者指向(集団重視)の考え方が交わる中で生きる私たちとしては、内部指向と他者指向のバランスを取って生きるのが最前かと思う。環境を考慮しつつ目標達成を目指す的なね。
中学の卒業式では、不良は刺繍入りの特攻服を着るのが習わしだった。先輩の不良から後輩の不良へ、マリみてのスールのように、あたしはアイツに引き継ぐよと、特攻服を引き継いでいく伝統があった。俺が中学のときはSNSなんてなかったから知らなかったが、なんと2018年になっても、しかも日本各地で続いてるらしいじゃないですか。なにげに胸熱。
GLORIOUS RO@Dを全体曲だと思いたくないって話は他にも見たけど
それで『伝統だ伝統だ@曲だ@曲だ』ってはしゃいでる他の奴らを黙らせることできるのかね?
歌詞の個々についての事なんてどうでもいい奴は思っている以上に多いぞ(特に伝統だって言ってる奴ら)。考察班が何言おうがあくまで「考察」なんだから。
特にMの前のシンデレラでCPが歌ったM@GICが今のライブでシンデレラガールズ全体の象徴曲みたいな扱いになってる以上、そういう『伝統の形』にしか興味のない奴らはこれでいいんだ文句いうな厄介って押さえつけてくるしバンナムもキャラとか知ったことかって扱いしてくるぞ。
幾ら言ってもどうせ何も変わらないよ。
そういうのはよくあるよ
新しいことしたいとか、
変わったことやりたいみたいな人が
行くところでしょう。
なら、そんな学閥あって
明らかに風通しの悪いところ
志望しなくていいような気がするけどなー
「○○という社会問題は人類にとって重大な議題であって、議論討論や是正運動への参加をしなければならない。参加しないのは人として終わっている」くらいの勢いで人格の否定をチラつかせながら迫ってくる連中が本当に嫌だし、そういう風潮も嫌いだ。
どんな社会問題であれ、好きに議論討論したら良いと思うし、是正しなければならないと思うのなら是正運動を頑張って欲しいと思う。
でもね?その運動に私を巻き込まないで欲しい。
私が参加したいものは私が決めたいし、深く考え議論したいものも私が決め、応援したい運動も私の自由意志で決めたいんだ。
「社会・伝統・文化的な教育やバイアスがどうので君の思想は云々」とかって言うけど、人格の否定をチラつかせて参加を半ば強要するってどうなの?
Arufabétto ga hyouonnmóji da to iwú kotó ha juuyou de ha nái. Juuyou na no ha tanngo to tsudzuri no aida ni taioukánnkei ga áru to iwú kotó de átte, kyokutánn na kotó wo iéba, hatsuonn to tsudzuri no kannkei ha mattakú fukísoku de mo kamawanái. Jissai ni kannzenn ni kisokuteki na hyoukihou wo mótsu génngo ha hotónndo nái. Nihonnjínn nara eigo no mechakuchasa ha yóku shitté irú darou.
Mottómo, "wa" ka "ha" ka to iwú no ha icchóu ittánn áru kara, dóchira ni shité mo monosugóku warúi to iwú wáke de ha nái to omówu.
Nihonngo no hyoukihou no kotó na no da kara, nihonngo wo shiranaí hitó no kotó made kanngáeru hitsuyou ha nái.
Mochíronn shitté irú. "ん" wo "nn" to hyóuki surú kotó ni ha sorenari no gourisei ga áru. "ん" ha nihonngo de ha kánari juuyou na ónnso de, tanndoku de ichi Móora wo tsukúru. Dákara, shikakutekini ni mo nágaku surú no ha nínnchi no tsugoujou íi. Matá, Aposutórofii ( ' ) ha shouryaku kígou to shité bénnri da kara, "ん" no tamé ni tsukatté shimawú no ha mottainái. "ん" daké tokubetsu átsukai shité kigou wo tsukawú no ha ninnchijou mo yóku nái to omówu.