はてなキーワード: 交通とは
先日、時差式信号の交差点で右折した際、自分の不注意で事故を起こしかけたため、自戒と反省の念も込めて記しておく。
その時、私はある交差点の右折レーンの先頭で右折のタイミングを待っていたのだが、対向車が途切れなかったため信号が青のうちは右折することができなかった。しばらくすると信号が黄色から赤に変わりつつあったため、これで対向車が途切れて右折できるだろうと思い、車を進めた。すると向こうから対向車が交差点に進入してきて、クラクションを鳴らしながら通り過ぎていった。幸い衝突は免れたものの、タイミングが悪ければ事故になっていてもおかしくない状況だった。赤信号で突っ込んでくるなよ、危ないなぁなどとその時は思っていた。
その後しばらくして、あの時なぜ対向車が突っ込んできたのだろうと気になり、Googleストリートビューで当該の交差点を見てみることにした。交差点をいくつかの方向から見てみたが、別に何てことのない、普通の交差点だ。ふと信号機を見てみると、「時差式信号」と書いてあるのに気づいた。恥ずかしながらその時の私は時差式信号についてよく理解していなかったため、Googleで検索して調べてみた。Wikipediaによると、時差式信号とは交通量の多い右折車側の青信号の時間を延長することによって右折をしやすくするものだということがわかった。つまり右折車から見て対向車線の信号は先に赤になり、こちら側はまだ青であるためその隙に右折できるというものだ。そして時差式信号の危険性として、「時差短縮側(先に赤になる方)の右折車が自分側の信号が赤になったのを見て対向車線の信号も赤になったと勘違いして発進し、対向車線の直進車両と衝突する事故が多い」という旨も記載してあった。
これを読んで、私はやっとあの時起きたことが理解できた。つまり、あの交差点では右折しようとした私側の信号が時差短縮側で先に赤になり、対向車側の信号は時差延長側でまだ青だったのだ。青信号で直進している相手から見れば、私は直進車を妨害して無理やり右折しようとする危険な車だったというわけだ。あの時の直進車に申し訳ないと思うと同時に、今更ながら恐怖を覚えた。あの時対向車と衝突しなかったのは、単なる偶然だった。もし対向車がもう少し速く交差点に進入していれば、対向車の信号が赤だと思い込んでいた私には避ける術はなかった。日頃から運転には気を付けているつもりだったが、気づかぬ内に思い込みで「対向車の信号は赤だろう」「対向車は来ないだろう」と「だろう」運転をするようになってしまっていたのだ。
今回の件は私の不注意によるものであり言い訳するつもりは毛頭ないのだが、このような時差式信号というものに対して違和感を覚えたのも事実だ。調べてみたところ、私のように時差短縮側の右折車が勘違いして発進し事故を起こすというケースが全国的に相次いでいるらしい。思い込みで運転するのが危険なのは今回の件で深く胸に刻んだが、それでもやはり人間はミスをする生き物である。それぞれが気をつけなければならないのは勿論だが、交通システムに関しても極力ヒューマンエラーを少なくできるような仕組みが望ましいのではないか。
ちなみに時差式信号の危険性については下記が参考になった。図3がまさに私が犯した過ちの状況を表している。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalip1984/19/0/19_0_869/_pdf
ということで国道17号、埼玉県庁前の時差式信号の交差点を進行する際は十分注意してください。南から北(大宮方面)へ向かう側が時差短縮(先に赤信号になる)側のようです。私のように思い込みで判断せず、右折の際はしっかり目視で対向車が来ないか確認して頂ければと思います。
30台後半を過ぎて初めて自動車免許を取得した。
これが最後のタイミングだと思い、なんとなく教習所に通い出した。
初めて運転した車はとても怖く、毎回毎回手汗でびっしょりハンドルを濡らしながら、
若々しい受講生の中でなんとなく肩身の狭さも感じながら、
取得した免許は、嬉しかったというよりもやっと取れたという開放感のほうが強かった。
それを無駄にはしたくなかった。
毎回、毎回、緊張しながら、手汗でハンドルを濡らしながら
そうこうして一年ほど経って、気がつけば運転が楽しくなっていた。
程よく緊張しながら、程よく集中しながら、リラックスして運転できるようになっていた。
1時間も運転すれば、心地よい疲労感とともに頭もスッキリするようになった。
もちろんまだまだ、緊張もするし、もし事故を引き起こしたらと考えると非常に怖い気持ちになる。
でも、運転が楽しくなってきた。
次はどこへ行こうか。
鹿児島って薩摩藩だったよな。九州出身の漫画家が、ギャグ漫画中で、鹿児島県の一軒家には必ず西郷隆盛の写真が飾ってあるのだが、子供心に怖かったという描写がある。
司馬遼太郎の『翔ぶが如く』で西郷隆盛が神格化されているのが分かる。これ以上の逸材は、もう出ないだろう。
私も現役団員ですが、
「非常時に駆けつけられる人員」
消防団員は普段、別の仕事を持ってます。そして、非常呼集がかかっても、赤信号突っ切って現場に駆けつけることはできません。
ポンプ車の運用最低人数が確保されるまでに、本職による消火活動が終了することもしばしばです。
それでいいなら、消火訓練すら意味はなく、むしろ交通整理や残火確認のボランティア登録でいいのではないですか?
各分団に配備されているポンプ車や消防団員の活動費、詰所の維持費を市町村予算で手当てするくらいなら、本職の増員や消防本部で器材の拡充を図る方が有益だと思うのです。
多分、我々の意見が一致するのは、
「操法大会はやりたい奴だけやればいい、操法の訓練など無益」と言う点だと思います。今回のコロナで操法訓練が無くなってホッとしている人も少なくないはずです。
火災発生時に本職の消防署員だけで対応できる場合と不可能な場合があります
現場と水利が離れている時に中継に入れるポンプ車が必要になります
安全になるかどうかではない
色々思う所あって一年間何もいせずにいようと決めた。
貯金を切り崩しながら生活している。今はそれプラス失業保険もある。
綺麗・駅近・閑静・交通の便良しで不満はないが、無職になった自分には家賃が高すぎる気がして引越したいと思っている。
外食するとしたら近所にある町中華・ラーメン・ハンバーガー等。
1食500円〜1000円程度。
自炊は(働いてないくせに)時間がもったいない気がして全くしていない。
コンビニでいつも同じようなものばかり買ってるのであだ名付けられてそう…。
楽なのでアウトドア系の服ばかり着ている。
石井スポーツで適当に揃えている。ヨドバシのポイントが貯まるようになったのが嬉しい。
多分年10万円もかかってないと思う。時間がもったいなくて(またかよ)家計簿をつけてないので正確に把握できてないけど。
人並みに映画を観たり本を読んだりもする。
ほぼない。
趣味の友人や前職の友人と数ヶ月に1回遊ぶかどうか。
ないし、予定もない。
欲しいけど駐車場代がネックで購入には至っていない。
駐車場代を含めて今の家賃くらい収まる所に引っ越せるなら、予算100万円くらいでアウトドアの趣味に使える中古車を買いたいなぁ、と思っている。
無職になる前は半分趣味みたいなものづくり系の仕事をしていたので、今は趣味として1日の大半それをやってる。
6月になったので徐々にジム通いも再開したい。無職は体を動かさないと病む。
山や川にもまた行きたいなぁ。
わざわざ特定のスタジオまで行って、録音のもろもろの準備をしてからようやく開始。その場でチェックしてダメならリテイク。
これ、家でやれるんならそのほうが良くない?
機材は貸与すればいい。交通の手間もかからない。現場での社交辞令や外出準備もいらない。時間もフレキシブル。リテイクは次の日に延ばすこともできる。
問題は録音の質なんだけど、後から修正することも含めて今は家でそれなりのができないのだろうか。詳しい人に聞きたい。
リモートでできないかなと思ったのは、ソシャゲで使い回しのボイスが多くて辟易したから。わずかのセリフの録音のために何人もの人を一同に集めて、一言収録して終わり、というわけにはいかないからね。リモートならちょっとした叫び声とか、特定新キャラへの呼びかけ台詞とか、そういうの気軽に収録できるんじゃないのかなと思って。
ある芸能人が自身のnoteでSNSに法規制を求める内容を記載してた。
そこに挙げられていた例えに「交通事故を起こした運転手は免停になる」というものがあった。
つまり彼はSNSを交通道路に見立て、著名人に誹謗中傷のリプライを送るアンチを交通事故の加害者に見立てていることになる。
ネットでは古くからネチケットと呼ばれる公共マナーが提唱されているが、これは人によって定義が異なる抽象的な概念だし、個別具体的な行為を規定してるわけでもなく、ネチケットを広く包摂する法律も存在しない。
限りなく妥当に近いのはSNSの利用規約だろうかと思ったが、例えばTwitterの利用規約にはこの様な一文がある。
――利用者は、本サービスの利用により、不快、有害、不正確あるいは不適切なコンテンツ、または場合によっては、不当表示されている投稿またはその他欺瞞的な投稿に接する可能性があることを、理解しているものとします。
字義通りに素直に解釈すれば、TwitterユーザーはTwitterを利用することでいわゆる″アンチ″ の投稿によって不快な思いを受ける可能性さえも理解して利用すべき、となる。
仮にこれをSNS(この場合はTwitter)の運転免許とした場合、「アンチ行為をしたユーザーからSNSの発言権を奪うべきである」と唱えるユーザー側からの言動は免許所持者として適切な言動と言えるのだろうか?
―― 当社は、Twitterユーザー契約に違反しているコンテンツ(著作権もしくは商標の侵害その他の知的財産の不正利用、なりすまし、不法行為または嫌がらせ等)を削除する権利を留保します。
という一文も記載されており、具体的には各々のユーザーが「このツイート/アカウントはユーザー契約に違反している」と考え運営に報告し、その都度Twitterの各種ポリシーに照らして個別具体的に判断されて、仮に違反が認められた場合にはアカウントの凍結等々の判断が為される、というプロセスになる。
ちなみにTwitterユーザーなら既知の事実だと思うが運営の判断は杓子定規的ではなく現状ケースバイケースでかなり判断に幅のある恣意的なものになっていると思う。
なので仮に運営の判断=運営免許とすると運営に尋ねるまではユーザーの免許の所持/不所持が判然としないシュレディンガーの運転免許になってしまうのではないだろうか。
そして当然のことではあるが、仮に利用上でユーザーによる触法行為が行われた場合には、それこそユーザーの報告やTwitter運営如何に依らず捜査機関による捜査や逮捕、起訴等が行われることもあり得るわけで、このケースを例に準えるとSNSの運転免許違反ではなく日本国の運転免許違反に妥当するのだろう。
正直な気持ちを書くと俺はSNSに法規制を与えるべきではないと思う。
名誉毀損や著作権侵害、児童ポルノの投稿等の触法行為に関してはこれまで通り国内法で対処可能であるし、個別具体的な暴言等の″マナー違反″に関しても運営に報告してその判断を仰ぐプロセスが用意されているわけで、仮に運営の裁定に納得がいかなければSNSの利用を停止する自由もあるわけである。
SNSの利用が強制されたものでない以上始める自由も辞める自由も行使できるわけである。
自分にとって気に入らないSNSを取り巻く環境に法規制を求めるのは自由だが俺は上記の理由から全く賛同できない。
なおメディアを賑わせている自死された女子プロレスラーの方に関して書けば、彼女は出演されていた番組プログラムの犠牲者なのではないかと思う。
リアリティショーだか何だか知らないが生放送でない以上当然事後に編集が加えられているわけで、そのことを思えば脚本や台本が全く用意されていないとも考え難く、言うなれば彼女は製作陣の指示に従って喜怒哀楽の演技をしていたら視聴者から嫌われ悪辣な言葉を投げかけられて精神を病み死を選んでしまったリアリティショーの犠牲者なのではないか、と思う。
赤の他人がどの面下げてご冥福を祈るんだ?という従前からの疑問があるので「ご冥福を祈ります」と書くのは気が退けるが、一方で強い社会規範に締め付けられているのが俺という人間なので、ここは素直に「ご冥福を祈ります」と書き込ませて頂く。
11話
あの日、この国のリーダーは、世界が二度ともとに戻らないことを宣言した。緊急事態宣言の解除。それが新しい時代の合図だった。
彼は“新しい生活様式”という言葉を使った。今後も人との適切な距離を取ること、通勤や通学をなるべく控えることを人々に求めた。
サタはその“号令”を聞くまで、この国がまた元の不合理な世界に戻ることを懸念していた。そのせいか、彼女はやたらと胸を踊らせてその言葉を聞いていた。私たちはこの国の盛衰を見てきた。サタの懸念も当然だった。
工業分野で一度成功を収めたこの国は、その後、情報通信分野で他国に後れをとっていた。その理由はいくつもある。成功体験を手放せなかったとか、政治家と特定の産業の癒着のせいだとか。権力者たちが発想のバージョンアップを怠ったせいだとか。
しかし本当のところは、工業分野での成功をもとに社会システムが構築されたため、新しい分野を受け入れる余地がなかったためだ。
たとえば子どもたちが義務教育期間中に学ぶのは、国語や算数だけではない。集団として生きていく術の習得さえ、教室という閉じた空間に一任されていた。彼らはやがて満員電車で通勤し、この国の経済に貢献することを期待される。これが古いシステムのバックボーンだった。
集団を前提とした教育から労働までの一貫した流れ、それに特化したかたちで社会システムは構築されていた。これまでの経済的な成功には、集団での活動が不可欠だった。
そこにリモートワークやオンライン授業が介入すればどうなるか。このシステムの、“集団での生産活動”という基本理念が崩壊することになる。つまり“それ”にとって、その手の技術は障害でしかなかった。通勤や通学ありきで敷かれた公共交通も無駄になってしまう。
本当は、誰もがその集団を前提とした古いシステムに疲れていた。柔軟性のなさに飽き飽きしていた。もっと本質的なところで効果的なやり方があるはずだと、みんなうすうす気づいていた。
しかし(本当の意味で)より合理的なシステムに作り変えるには、既存のものを一度壊さなければならない。壊すということは、そこ(特定の産業など)に深く携わっている人が犠牲になるということを意味する。
安定を好むこの国の人々にとって、その選択は難しかった。誰かに起こる悲劇は自分にも起こりうる。明日は我が身。共感性の強い人々のそういった思考習慣が、それを阻んでいた。そしてそれは、最終的には、為政者の政治判断に反映される。
政治家と特定の産業の癒着や、国家予算といった表面的な問題のその底に、この国に住む人たちのそのような集合的意識がひっそりと流れてた。ほとんど気づかれることなく。
実は一度、この古いシステムを再構築する試みがあった。しかしそれは犠牲を生んだだけで、何の成果も得ることなく中断された。多くの求職者と自殺者を生んだだけだった。
失敗の理由は明白だった。それぞれの人間の思惑が介入しすぎたためだ。古いシステムには当然のことながら、長年のしがらみが複雑に絡みついているが、新しいシステムの構想もまた、一瞬にして誰かの思惑に取り込まれる。
そして中途半端に壊れ、(一部の人の意図に沿って)中途半端に機能する、中途半端なシステムが完成した。完成したと言っていいのかすらわからないが。
ともかくこの国の人々は、その生殺しシステムの上で、前にも後ろにも行けずに30年、止まった時を彷徨うことになった。
それに終わりを告げたのがSARS-CoV-2だった。そこに人間の介入はない。ただ、自然の摂理、あるいは不可抗力と共存するためのシステムモデル、そして本当の意味での合理性の追求があるだけだ。
それだけが、完全なる破壊を遂行できた。特定の意図の介入を阻むことができた。
破壊の後の自由の上で、それぞれの技術は本来の能力を発揮することを許された。呪縛は解かれ、初めてリミッターが外された。為政者たちは、もう古い理念、古い技術による古いシステムに場を提供し続ける必然性がなくなった。逆に言えば、それらを護るために新しい可能性は制約されていた。
場は、新しい技術に明け渡され、ウイルスやその他の脅威から人を護るため、都市全体の空気を清浄化するシステムや、生体情報の管理調整を担うウェアラブルデバイスの開発が加速した。
変化は、テクノロジーだけではなく、人々の精神においても加速した。今まで科学や社会通念の“外”にあるとされていた物事が、“内”に組み込まれることになった。