はてなキーワード: ツイートとは
多分自分がそういうツイートばかり見てるからおすすめに出てくるのだと思うが
でもだんだん見てるうちに、ウワキモー…の気持ちがデカくなるんだが
よくよく考えてみれば自分の周りにそんなキチガイはいなかった!ということに気付いて、ホッとする っていうのを最近ずっとやってる
そういうツイート(性犯罪が〜とか冤罪が〜とか)見てると結構見覚えのあるアカウントとかも出来てきたりして
なんか救えねーーーー、、、となるな
実は現実でまともそうに見えてるあの人も、実はネットではそうなのだろうか
とか考えちゃうね
まあ実害なければよしだよねー
ちょっとツイートがバズった結果、ちょいちょいな数メンションが届くようになった。
別にオープンな場でクソリプしてくるのは気にしないんだよ。面白いクソリプならこちらもたまに返したりするんだけど・・・。
問題はDM。私はオールドタイプのインターネット老人会に片足突っ込むレベルの人間なので、「インターネット上ではオープンであるべきだ」と思っているので、基本的にDMは開放状態にしてるんだけど、そのDMにいちいちクソリプしてくるのが理解できない
インターネットなんだから堂々とオープンな場でメンション投げろよ。いちいちDMよこしてくるのってどういう心境なの・・・? もしかして最近のインターネット文化って、そういう感じになっちゃったの・・・?
そろそろ答え合わせをしたい。答え合わせをしたくて仕方が無い。
というかチビに聞きたい。
「本当にこの世界線でよかったんですか?」
結果論になってしまうが自分がもしチビなら思ってたんと違う世界すぎる。
確かに効果はあった。プロははく奪、ぼっこぼっこにたたかれ連日ニュースに。
自粛もするはめに。一瞬で築いていた?地位はなくなり無職の仲間入りをした。
暇すぎたのでもしよかったら暇な君も一緒に考えてもらいたい。
たぬかな炎上前
チビに対して特別何かミームがあったわけでもない。何より当時はまだ人権があった。
たぬかな復帰後
知名度を帯び、たぬかなは勢いを増した。(増したというかほぼ0からとんでもない知名度を手にした)
そして、何よりたぬかな復帰後で変わったことは
悲しいことがあるとすればチビ以外は人権発言に対してそれほど正義感もくそもなかったのである。
この前も都内でちびが人権が無いという話をしている学生を目にした。
炎上理由や当時の意見を見てみると「人権がないという発言は良くない。ちびにも人権はあるし、気楽にしてはいけないものだ」という内容が多かった。
しかし今となってはチビたちは人権をノリで奪われる日々になってしまった。
正直言ってたぬかなの功績はよくも悪くも確固たる持ちネタを取得し、世に広めたことだろう。
今じゃ若者で知らない人はいないだろう。だって普通にテレビでニュースになってたんだ。
なぜこんなことになってしまったのか?
一番引いたのはたぬかなのツイートのリプライに6000人のちびが終結して誹謗中傷していた
普通にひいた。
どんだけ攻撃性高いんだ。余裕なさすぎるだろ。
寄せられたリプライは
「プロはく奪ざまあ」
「160です。これでも頑張って生きてます」
などだった。
ねーよ。なんだよその質問。もう無いだろ。あるって言ってほしいのかよ。じゃあないよ!
これ面白いのをとったとかじゃなくて6000リプライをざっと要約するとほんとこんな感じだ(十件くらいしか見てないけど)
連日ツイートでもぶち切れお気持ち表明を繰り返したおかげで、ほとんどの人が「170センチ以下は人権が無い」というフレーズは知っている状態になった。
ほんとうにこれでよかったの?
前にとある有名人が「筋トレしてる人はバカ」とさんざんバカにしたインライがあったけどネットミーム化しなかった。
筋トレしている人がツイートで「俺たちが傷つけていいのは筋繊維だけだろ?」という流れが起こったからだ。
もし、これで腹を立てて粘着質に攻撃をしていたらネットミーム化し、筋トレしている人たちはバカにされていたことだろう。
むしろ有名人で影響力は数人しかみない配信者の比じゃない。それなのにミーム化しなかった。
しかし、攻撃性と余裕のなさが取り柄なとある集団が対象になったときは誹謗中傷を繰り返し燃やしに燃やして回った。その結果人権をはく奪された集団がいるらしい。
あの日に戻ってやり直そう。
やり直すのはたぬかなじゃない。誹謗中傷してしまう腐った根性を持った君たち一人ひとりだ。
もし、あの日燃やしていなかったらこんな気楽に「170センチ以下は人権ない」と言えるものではなかったはずだ。
前まではクラスで「170以下は人権ないだろ笑」と言ったならばよく思わない人が一定数ちび以外にもいただろう。というか言いづらいフレーズであった。
しかし、今となってはどんな人でも気楽に言える言葉の一つになってしまった。なんならどちらかというと笑顔になる魔法の言葉だ。
言った人をもし咎めようものなら「いや、ネタでしょ・・・」となり、至極まっとうなことを言っている人が空気読めないという流れになってしまう。
そんな世界線になった。
たぬかなを燃やして正解だったのか?意見があればぜひ書き込んでみてほしい。
当然、人の容姿を悪く言うことが良くないことだ。
要約するとz世代はごみばかり、仕事ができない、わりに自分のことを主張するカス。というツイートだった。
本当にそうなのだろうか?
自分のところの新しく入った子は物凄く物覚えが早い。デジタルネイティブであるが故なのか新しいことにも積極的で人付き合いも良く、将来のことをしっかり考えている。
何より仕事ができる。
正直この子たちより下の子たちがもっと優秀になっていくとしたらという恐怖すら感じ、なにか始めなくてはと意味もなく最近通勤時に本を読むようになった(仕事においては意味ないけどいいきっかけだった)。
そのため、「z世代=仕事ができない」とするポストには疑問を感じた。なにせ自分の感覚と異なるからだ。
他の反論する引用では優秀な子が多いなどもあり、意見が完全に割れていた。
なぜこうも意見が完全にz世代は優秀!z世代は無能!と2つに分かれてしまったのか?
どちらかが嘘をついている?
実際はどちらも本当なのだろう。
z世代について言及をしている人の環境によって見え方が変わっているのだと思う。
そもそも特定の偏った母集団から日本全体の特定の世代を言及するのが間違いだ。
z世代は優秀とする人が務めている企業は優秀な人が多いのだろう。
なぜなら新卒採用において無能はさっさと落としてしまえばいいからだ。
そんな無能ですら雇わざる負えなかった企業はそこまで人気が無く、そこに勤めている社員はそのz世代と同じで仕事ができなくて無能なんだろう。
(少子高齢化で普通の企業にも増えているという仮説のはなしは一旦おいておこう)
今回話したいことはz世代は無能かどうか?ではなくz世代について言及するとそれは少なからず自身の環境、能力を反映するということだ。
これは非常に面白いことだと思う。
とうぜんz世代は仕事ができるかできないかの答えは出ない。自分が勤めている会社の少ないサンプルで語ることがそもそも間違いだからだ。
しかし、その少ないサンプルで語ることで自身の環境、能力を反映し、z世代は無能としたら「自分はそんな無能が集まる環境で働いている無能である」と声高らかに宣言していることにつながる。これは残酷で「この人はおそらく低賃金なのかな」、「ブラック企業に勤めてそう」など言葉が強いほどいろいろその人の背景が連想できてしまう。
これはほかにも言えることだと思う。女性、男性についてクソだと語れば、ああそういう人しか相手にされないんだということが分かる。
なにか大きな主語をディスるとき気持ちは晴れるかもしれないがたいてい自分を下げていることに気づいたほうがいい。
オチがなくて申し訳ないがz世代のことを言及するときは褒めたほうがいいよ。自分はもう先にここの中で褒めといた。いい企業に勤めているように見えるでしょ。
しんじつはこうらしいよ。
https://benefitdmv.site/movie/honnoujihotel-makime
実は二年前から、とある映画の制作に携わっていました。原作ではなく、オリジナルの作品の脚本を担当するという話で。
準備のために、去年はシナリオ学校に通い、書き方を学び、今年になってから脚本を書き上げました。しかし、全ボツを食らいました。-18:40
監督・プロデューサーと何度も打ち合わせを重ねた内容を反映させたものだったのにダメでした。
プロデューサーの説明は最後まで要領を得ず、いまだに私は正確なボツ理由を理解していません。
ただ、一発で採用される内容を書かなかった自分の力量の低さも原因だと、自分を納得させました。-18:42
作家になって初めての全ボツだったので、かなりショックでしたが
「いつか小説というかたちで書き直したらいい」と半年くらいかけて気持ちを整え直したあたりで、
映画は進行していたわけですが、その出来上がった予告編を見て我が目を疑いました。-18:43
なぜなら、私の脚本の要素が残っていたからです。私が脚本に書いた非常に重要なフレーズが、
私が小説を書いても、「ああ、あの映画のあれね」とオリジナリティ・ゼロのものと扱われてしまう、つまり小説を書けなくなる。-18:44
即座に抗議しました。私はすでに自分の代わりに映画で本採用された脚本を読んでいました。
その際、全ボツ後のやり取りに消耗し、もう相手と関わりたくないと心底思っていたので、
新脚本に残された主人公の名前はじめ、中途半端に踏襲された私の要素は全て削除するようプロデューサーに頼んでいました。-18:46
前述の重要なフレーズについても同様です。しかし、こちらの抗議に対し、プロデューサーの回答は「聞いていません」でした。
二年もともに準備し、そのアイディアをどれだけ私が大事にしていたか知っているはずなのに、
小ネタで消化して、私の手から奪うことに何の疑問も持たない彼ら。呆然としました。-18:48
相手の会社でそれなりの騒ぎになり、偉い人たちから謝罪したいとコンタクトがありましたが全部お断りしました。
なぜなら、撮り直しはしない、公開は強行する、という部分は変わず、結局私は小説が書けないままだからです。
自分が提出したアイディアに邪魔され、小説を諦めなくてはならない間抜けさ。-18:49
私が二年かけて本気で書き上げた作品は、監督とプロデューサー含め、二、三人が読んでお蔵入りです。
本当なら、たくさんの読者を楽しませられる内容だったのに。それが何よりもくやしい。
いちばん仕事をしてはいけない相手と関わってしまったうかつさ。大失敗だった。今も毎日後悔を繰り返しています。-18:52
結論は泣き寝入りです。争うより次の作品に集中するのが大事だと考えました。
なら、ツイートもするなよ、という意見もありましょうが、ここは私のアカウント。
ゲイ活動家の小浜耕治氏は、性犯罪サバイバーのレズビアンに集団ネットリンチ、彼女が取り乱したら「こわしちゃった」とうれしそうにツイート
0ツイートなら鍵垢でも公開垢でもかわらんのでは
日和見ですわ
Twitterはアドレス帳から知り合いを探せたり、Threadsはインスタからインポートできたりしたけど
今んとこBlueskyにはそういう仕組みがないのでどうしようかな
東大の『人はなぜワクチン反対派になるのか ―コロナ禍におけるワクチンツイートの分析―』(https://research-er.jp/articles/view/130519)から明らかにされているように、「コロナ禍以前からワクチン反対派であった人々は政治への関心が高くリベラル政党とのつながりが強い」という傾向が存在していた。
実際に立憲民主党のあべともこ氏はコロナ禍以前より子宮頸がんワクチン反対運動をして(http://www.abetomoko.jp/data/archives/167 )おり、コロナ禍突入後も同党の原口氏がワクチンに関するデマを発信し続けたり、中島氏からもイベルメクチンの承認薬化を求める質問が出されている(https://cdp-japan.jp/news/20210217_0758)。また「自民党と創価学会USA、ワクチン接種で協力」とされる偽ニュースが政権批判の文脈で拡散され、日本ファクトチェックセンターから検証記事が出る騒ぎも起きていた(https://www.factcheckcenter.jp/fact-check/politics/ldp-soka-gakkai-usa-vaccine-collaboration-doctored-photo/)
反ワクチン団体であり、Qアノンの日本支部を自称する神真都Qが安倍元首相を『ディープステート(敵)』側に位置づけているため、ポジションでしか思考出来ない彼等が共通の敵を前に合流している傾向が見られる。
また原発処理水放出に関しても同じ傾向が見られ、AIを使った偽画像や科学的根拠を無視した偽ニュース・偽情報が数多く拡散されていた(https://www.meti.go.jp/press/2023/09/20230902002/20230902002.html)。更に欧米では数年ほど前から左派によってジェンダーなどの理由から生物学や遺伝学が非科学的な攻撃を受けており、以前は右派を論敵としていた学者が左派からの科学に対する攻撃に危機感を抱いている状態となっている(https://courrier.jp/news/archives/314782/)。
続きは長くて一度に載せれないのでツリーに。
人はなぜワクチン反対派になるのか ―コロナ禍におけるワクチンツイートの分析―|プレスリリース | UTokyo-Eng
反ワクチンクラスタを分析した結果、「コロナ禍以前からワクチン反対派であった立憲民主党やれいわ新選組、日本共産党を指示するユーザ」と「コロナ禍以降に新規にワクチン反対派になり参政党への支持を強めたユーザ」が識別されたとされていて、後者は陰謀論やスピリチュアリティ、自然派食品や代替医療への関心が強いらしい。
両者の違いとして、左派政党は(一部頭のおかしい議員や支持者はいるものの)党の公式見解としてワクチンを否定する立場を取っている訳では無い(れいわ新選組ですら、ワクチンそのものは否定していない)が、一方参政党は党全体として陰謀論全開である。
化学的な物質に依存しない食と医療の実現と、それを支える循環型の環境の追求
薬やワクチンに依存しない治療・予防体制強化で国民の自己免疫力を高める
(略)
このXの陰謀論アカウントのポストみたいな文章が重点政策(笑)である。
かねてより陰謀論にハマりやすい傾向のある特性として、熟慮的思考や科学的推論能力の欠如との関連を示唆する研究が発表されたり、統合失調症やパーソナリティ障害との関連がみられるなどの報告があった。もちろんどの政党の支持者にもそういった人は一定数含まれるのだろうが、党の重点政策としてスピリチュアルな論を掲げているのは参政党だけである。
人はなぜワクチン反対派になるのか ―コロナ禍におけるワクチンツイートの分析―
https://www.t.u-tokyo.ac.jp/press/pr2024-02-05-001
〈研究の内容〉
本研究はまず、2021年1月から12月までに収集された「ワクチン」を含む約1億件のツイートを収集し、機械学習を用いて「ワクチン賛成ツイート」「ワクチン政策批判ツイート」「ワクチン反対ツイート」の3クラスタを抽出した。次に、「ワクチン反対ツイート」を多くつぶやいたりリツイートしているアカウントを特定し、「ワクチン反対ツイート拡散アカウント」として定義した。そして、「ワクチン反対ツイート拡散アカウント」を多くフォローしているユーザを「ワクチン反対派」として定義した。
上記プレスリリースの中で「賛成」というワードは4回しか使われておらず、そのいずれにも「賛成派」の定義を示す文というものは存在しない。
幸いにも元論文がPublicで公開されているため、主にMethod項を見てまとめていきたい。
1. 「ワクチン」「vaccine」を含む日本語ツイート98,805,971個を取得する。
3. ツイートのクラスタリングを行い、20種のクラスターが作成される。
4. 上位3つ(検証ツイートの99%・リツイートの98%を占める)のクラスター(「ワクチン賛成ツイート;pro-vaccine tweets」「ワクチン政策批判ツイート;opposition to the government’s vaccine policy」「ワクチン反対ツイート;anti-vaccine tweets」)を検討する。
5. 上記3クラスターのツイートを行ったアカウントとRTしたアカウントを集計する(「ワクチン賛成ツイート拡散アカウント:1,382,065」「政府批判拡散アカウント:248,699」「ワクチン反対ツイート拡散アカウント:196,936」)。
6. 上記3種のアカウントからそれぞれ50,000アカウントずつ無作為に抽出し、フォロー中のワクチン反対ツイート拡散アカウントの割合を算出する。
7. "ワクチン反対ツイート拡散アカウント/総フォローアカウント"の割合でソートし、上位25%(全体の12.3%以上)を"High anti-vaccine group"、下位25%(全体の0.24%未満)を"Low anti-vaccine group"とする。
ということで増田冒頭の「フォローアカウントのうち、ワクチン反対ツイートをした/RTしたアカウントの割合が少ないアカウント」ということになる。
これを「賛成派」という言葉で表現するのは実態を表しているようにはみえない。
しかし、元論文においてはこのような表現がほぼされていないといっていい。
基本的に日本語プレスリリースにおける「反対派」「賛成派」は上記メソッドで出たHigh group/Low groupとして表現されている。「反ワクチン性が高いグループ」「反ワクチン性が低いグループ」といったところ。
ただ、「ワクチン反対派」に類するフレーズは度々使われている(元からしてHigh/Low anti-vaccine groupだし)。
一方のLow groupでは、anti-vaccineに対してpro-vaccineという表現が使われている。が、ほぼ全ての用法で発言・ツイートに対してのみ使われており人に対して使われるケースは殆どない(イントロダクションに一回だけある)。
論文では誤解がないような表現にしているにも関わらずプレスリリースで「賛成派」という適切にはみえない表現を使うのはミスリーディングと言われても仕方ないのではないかと感じる。
Toriumi, F., Sakaki, T., Kobayashi, T. et al. Anti-vaccine rabbit hole leads to political representation: the case of Twitter in Japan. J Comput Soc Sc (2024). https://doi.org/10.1007/s42001-023-00241-8
34歳婚活女性のやつ、モザイク掛かってるとはいえあれを放送する事にOKするとは思えないし、後々勝手に放送されたって被害ツイートとかも出てこないなら仕込み確定にみえる。婚活事業者か番組製作側かどっちか知らんけど。
共有したい話題はあり、日常で面白いことに出会い感動したりもする。
ネタツイのような笑わせる文章を思いつき、ニヤつきながらメモしたりもする。
勿体ない気がするのだ。
他人に見せるほど価値あるアイデアならば、どうせなら自分の評価に繋がる場所で披露したくはないか?
もしそのアイデアが評価されたとして、自分が何一つ褒めてもらえないならメモ用紙を破って捨てるのと変わらないではないか。SNSでは「これ面白いなー誰が書いたんだろう」とはなっても「その誰かはどんな人物なのかな?」とはならない。アカウントという私の代弁者はいても私ではない。
だからそのアカウントが評価されても私は何一つとして満たされないままなのだ。
一言で言ってしまえば"顔を出したい"。顔を出したうえで評価されたい。
私のX(旧Twitter)アカウントのフォロワーは200人。殆どは業者、フォロバ垢。
何もツイートしてないのでこの少なさは当然だ。
しかし、こんなアカウントでさえ自撮りを載せたいのに載せられない悔しさで悶々としている。
顔を出したら無限の引き出しを開けられるからである。絶対に面白いって言わせられるのに。
そうまさに、この“顔出し“という行為こそが「自分が評価されたい」気持ちの発露である気がしている。
絵師や実況者やら歌い手やら才能を評価された人間が、評価された後で顔を出す理由もこれで説明できる。
皆が憧れ敬意を抱く存在が「それ自分っす(照)」と公表するのが顔出しなのだ。
あわよくば顔も褒めてもらえたら嬉しいしな。
よーーーーく分かるよ気持ちは。
最近はネタツイッタラーも自撮りを載せるしな、みんな承認欲求に飢えているんだろう。
さて、こんなことを書いてはいるが本当は顔を出さずとも自己表現がしたいのだ。
処女作が名作になる人物はいない。だからいつか咲ける場所で咲くためにも、匿名で誰にも認識されない空間でも七転八起の精神で自分を磨くべきなのだ。アウトプットは大事なので、それは絶対に正しい。
けれどもイケア効果のように自分から生み出された発想、才能の断片が余りに美しく素晴らしすぎて、
それが、誰かに真似されて自分のものではなくなってしまうのを酷く恐れている。公共のものになることを酷く恐れている。今もスマホのメモ帳にルーズリーフに、無数のネタツイと小説のアイデアが窮屈そうに眠っている。
今すぐ、こいつらを解放してやりたいけどできない、何度も書いたように自分が評価されないので。
自己表現はむつかしい。自縄自縛なので頑張れば払拭できるくらいの難しさだが、むつかしい。
この文章を登録するときも指を押さえつけ歯を食いしばりながら悶々として5分、なんとか公開できた。
何かブログに書くべきだったか、そんなもの持ってないが、匿名で消費するには惜しすぎるな。
そんな価値がないなんてのは薄々知っていて、誰にも読まれなかった時に確信するのだが、
Twitterをぼーっと眺めていたら絵描きさんが "創作する過程を楽しめなくなった絵描きは終わり"だという旨の発言をしているのを見かけた。
別にその人のことは良く知らないし、その人がその発言をすること自体が悪いこととは思わない。思想は自由だし、その人なりにバックボーンやプライドというのがあるだろうから、そういったものは尊重したい。
でも私はこの言葉をひどく何度も反芻している。何度も反芻している。雪が降って鬱になってるだけなのかもしれないが作業中も何度も頭の中をよぎって止まない。
私は7年くらい前からあるプロの絵に一目ぼれしてそんな絵が描けたらいいなと思って絵を描いてきたのだが、同時にその時くらいから絵を描くことがあまり楽しくなくなったように思う。
たまたま精神や思想、ある程度の技量が成熟する時期と被っただけなのかもしれないが、時期的には、その時のはずだ。
これに因果関係があるのかはさておいて、現状も私は絵を描くことがあまり楽しくない。
一時創作と二次創作の違いだとかいった意見が発生しそうなので一応言及するが、私はここ最近一時創作しかしてない。でも絵を描いてるときは楽しくない。キツい。辛い。
設定を考えたり、ストーリーを考えたりしているときは楽しいが、キャラクターデザインをしているときとか、構図を作っているときとか、本当に楽しくない。
こればかりは断定するが、この感覚の原因は私の不勉強と努力不足でしかない。アイデアが湧かないのは観察力を鍛えることを怠ってるからだし、構図が出ないのも人体デッサン頑張ってないからだ。
創作する過程を楽しめなくなった絵描きは終わり。改めて、この言葉を反芻する。
私は終わっているのだろうか。
いいなぁ、キラキラしてて、フォロワー多くて、絵上手くて、いろいろな人から認められて。
私は全然だ、淀んでいるし、フォロワーいないし、全然魅力的な絵が描けない。
でもこれまで描いてきた。他の人より努力するのが下手で質も量も悪いから他の全てを投げ捨てて描いてきた。
楽しくない程度でやめてたまるか。
楽しくない程度でやめるのか?それは、お前、冒涜じゃないか。いったい何人の絵描きが苦しみながら芸術を生み出してると思ってるんだ。
創作的な活動をする人間を美化するから、絵を描く人が減るんじゃないのか?超えちゃいけない倫理を踏み越えるんじゃないのか?
苦しむのも楽しいんだなんて意見があるかもしれないが、それは言葉遊びに過ぎないだろ。
勿論絵を楽しむことは否定しない、好きにやればいい、勝手にして、その素晴らしい表現を続けてほしい。
どうか頼む、私に絵をやめろと言わないでほしい。
あなたよりも能力の低い人が必死に頑張って泣きべそかいてそうやって描いた絵にもきっとその人なりに価値がある。
楽しくないことを頑張ってる人を否定しないでほしい。