はてなキーワード: まぐろとは
自分Twitterにいる厄介の上に腐女子っていうカスみたいな存在なんだが、学生時代に相互になったリア友(以下リア友)がしんどくて仕方ない。いやそいつが嫌いなんじゃないのよ、あくまで私のTwitterスタイルに合わないだけなんだけど。なんでだろうね、元はリア友がいるからTwitter始めたはずなのに
※以下に出てくる作品は全て関係ないです。私が例えに使えると思った作品で実際とは異なります。
まずリア友がいるってだけで発言にかなり気を使う。新キャラに「むほほwwえっちだねえww」とか軽率に言えないし、別の相互とソシャゲに対する愚痴が言えない。なぜなら後でリアルで言及されるから。「鬼滅ってぶっちゃけツッコミどころ多くない?私全然ハマれない」みたいなこと別の相互と喋ったら後にリア友に「ハマれないのはよく知らないからだよ!今度全巻貸すから読んでみて!」と言われる。は??私が本誌派と分かって言ってるのか???みたいなことがザラにある。今までで一番しんどかったのがソシャゲで推しが所属するグループが2年近く干された時に「運営マジで頭大丈夫か?別グループ3連勤だぞ??」みたいなことツイで愚痴ってたら「運営だって頑張ってるんだからしょうがないよ、溜めの期間だと思ってさ」みたいなことリアルで言われてあとでちょっと泣いた
あとリア友とオタクとしての系統が合わない。それをTLに垂れ流しにされるとキッツい。ちなみにリア友は顔カプ総受け厨の夢女子である。リア友じゃなければカツオブシムシにしかいないような脳みそカスカスの読解力のカケラも持たない国語の偏差値2の畜生としてブロックしてたと思う。つまり地雷だ。普段なら「あーはいはいいつものやつね、物好きだなあ」で流せても調子悪いとマジで腹立つから困る。なんだよまぐろ総受けって。まぐろとラグナスのどこに関わりがあるんだよ。どこをどうしたらまぐろとハルトマンが相思相愛になるんだよ。本当に私と同じゲームの話してる?おいおいその状態で夢主と抱き合うのかよ正気か?みたいな。
でも別にリア友が嫌いなわけじゃない。学生時代に浮いてた私に一番良くしてくれたのはリア友だし、いつも失言をしても笑って許してくれるのは本当に助かる。本当は私が嫌いなのかもしれないけどそれを表に出さずに付き合ってくれる。今こんなんだからろくに会えないけどLINEも返してくれるしこの前オンラインで飲み会した。あと本当に性格がいい。なんでも前向きに捉えてずっと努力し続けることができるのは才能だと思うし、辛くてもそれをユーモアを交えて人に伝えられるから愚痴を聞いてても嫌な気分にならない。本人はもっとストレートに言いたいだろうに、そういうところは尊敬しかない。だから私のこんな厄介クソツイートを見せたくない。本人は「Twitterなんてチラ裏みたいなもんだからフォロワーとかに気にする必要なんてないんだよ」とか言うけど、本人の地雷とか考えるとそんなことはないはずだ。なんて人間の出来た友を持ったんだろう。私はそんなリア友には好きなものだけ見ていて欲しい。それでリア友が楽しんでいられたらそれでいいのに、私はリア友に甘えてサブ垢を作れない。申し訳ない。
リア友は最近彼氏ができたらしく、たまに彼の話をするようになった。まだ私の方が付き合いが長いが、これから彼の方がリア友の大切な人になっていくのだろう。その彼とどうなるかは分からないが、リア友の結婚式には呼んでほしい。多分すごく泣く。最後に、この文章をリア友が読んでないことを祈りたい。
異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々わざわざ其為そのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色ひいろの天鵞絨びろうどで張った深い肘掛椅子に凭もたれ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構まちかまえていた。
七人の真中には、これも緋色の天鵞絨で覆おおわれた一つの大きな円卓子まるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台しょくだいにさされた、三挺さんちょうの太い蝋燭ろうそくがユラユラと幽かすかに揺れながら燃えていた。
部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅まっかな重々しい垂絹たれぎぬが豊かな襞ひだを作って懸けられていた。ロマンチックな蝋燭の光が、その静脈から流れ出したばかりの血の様にも、ドス黒い色をした垂絹の表に、我々七人の異様に大きな影法師かげぼうしを投げていた。そして、その影法師は、蝋燭の焔につれて、幾つかの巨大な昆虫でもあるかの様に、垂絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら這い歩いていた。
いつもながらその部屋は、私を、丁度とほうもなく大きな生物の心臓の中に坐ってでもいる様な気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさを以もって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられる様に思えた。
誰も物を云わなかった。私は蝋燭をすかして、向側に腰掛けた人達の赤黒く見える影の多い顔を、何ということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面の様に無表情に微動さえしないかと思われた。
やがて、今晩の話手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっと蝋燭の火を見つめながら、次の様に話し始めた。私は、陰影の加減で骸骨の様に見える彼の顎が、物を云う度にガクガクと物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの生人形でも見る様な気持で眺めていた。
私は、自分では確かに正気の積りでいますし、人も亦またその様に取扱って呉くれていますけれど、真実まったく正気なのかどうか分りません。狂人かも知れません。それ程でないとしても、何かの精神病者という様なものかも知れません。兎とに角かく、私という人間は、不思議な程この世の中がつまらないのです。生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。
初めの間うちは、でも、人並みに色々の道楽に耽ふけった時代もありましたけれど、それが何一つ私の生れつきの退屈を慰なぐさめては呉れないで、却かえって、もうこれで世の中の面白いことというものはお仕舞なのか、なあんだつまらないという失望ばかりが残るのでした。で、段々、私は何かをやるのが臆劫おっくうになって来ました。例えば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にして呉れるだろうという様な話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やって見ようと乗気になる代りに、まず頭の中でその面白さを色々と想像して見るのです。そして、さんざん想像を廻めぐらした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびって了しまうのです。
そんな風で、一時私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮していました。そして、頭の中丈だけで色々な空想を廻らしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片端かたはしからけなしつけながら、死ぬよりも辛い、それでいて人目には此上このうえもなく安易な生活を送っていました。
これが、私がその日その日のパンに追われる様な境遇だったら、まだよかったのでしょう。仮令たとえ強いられた労働にしろ、兎に角何かすることがあれば幸福です。それとも又、私が飛切りの大金持ででもあったら、もっとよかったかも知れません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君達がやった様なすばらしい贅沢ぜいたくや、血腥ちなまぐさい遊戯や、その他様々の楽しみに耽ふけることが出来たでありましょうが、勿論それもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、あのお伽噺とぎばなしにある物臭太郎の様に、一層死んで了った方がましな程、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮す他はないのでした。
こんな風に申上げますと、皆さんはきっと「そうだろう、そうだろう、併し世の中の事柄に退屈し切っている点では我々だって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作って何とかして異常な興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、我々の仲間へ入って来たのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今更ら聞かなくてもよく分っているのだ」とおっしゃるに相違ありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方が、そんな風に退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話しようと決心したのでした。
私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入でいりしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人とも御心安く、大分以前からこの「赤い部屋」の会のことを聞知っていたばかりでなく、一再いっさいならず入会することを勧められてさえいました。それにも拘かかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつき相そうな退屈屋の私が、今日まで入会しなかったのは、私が、失礼な申分かも知れませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬ程退屈し切っていたからです。退屈し過ぎていたからです。
犯罪と探偵の遊戯ですか、降霊術こうれいじゅつ其他そのたの心霊上の様々の実験ですか、Obscene Picture の活動写真や実演やその他のセンジュアルな遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得うるあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。といいますのは、私は御主人からそのお話のあった頃には、もうそういうありふれた刺戟しげきには飽き飽きしていたばかりでなく、ある世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐しい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄を発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。
その遊戯というのは、突然申上げますと、皆さんはびっくりなさるかも知れませんが……、人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯を発見してから今日までに百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的の為ばかりに、奪って来たのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟かいごして、懺悔ざんげ話をしようとしているかと早合点なさるかも知れませんが、ところが、決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ何ということでしょう。私は近頃になってその人殺しという血腥い刺戟にすら、もう飽きあきして了ったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺す様な事柄に、あの阿片アヘンの喫煙に耽り始めたのです。流石さすがにこれ丈けは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢に我慢をして来たのですけれど、人殺しさえあきはてては、もう自殺でも目論もくろむ外には、刺戟の求め様がないではありませんか。私はやがて程なく、阿片の毒の為に命をとられて了うでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話の出来る間に、私は誰れかに私のやって来た事を打開けて置き度いのです。それには、この「赤い部屋」の方々が一番ふさわしくはないでしょうか。
そういう訳で、私は実は皆さんのお仲間入りがし度い為ではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いて貰い度いばかりに、会員の一人に加えて頂いたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に副そう様なお話をしなければならぬ定きめになっていましたのでこうして今晩その私の望みを果す機会をとらえることが出来た次第なのです。
それは今からざっと三年計ばかり以前のことでした。その頃は今も申上げました様に、あらゆる刺戟に飽きはてて何の生甲斐もなく、丁度一匹の退屈という名前を持った動物ででもある様に、ノラリクラリと日を暮していたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから多分二月の終りか三月の始め頃だったのでしょう、ある夜、私は一つの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとる様になったのは、実にその晩の出来事が動機を為なしたのでした。
どこかで夜更しをした私は、もう一時頃でしたろうか。少し酔っぱらっていたと思います。寒い夜なのにブラブラと俥くるまにも乗らないで家路を辿っていました。もう一つ横町を曲ると一町ばかりで私の家だという、その横町を何気なくヒョイと曲りますと、出会頭であいがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で慌ててこちらへやって来るのにバッタリぶつかりました。私も驚きましたが男は一層驚いたと見えて暫く黙って衝つっ立っていましたが、おぼろげな街燈の光で私の姿を認めるといきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく訊きいて見ますと、その男は自動車の運転手で、今そこで一人の老人を(こんな夜中に一人でうろついていた所を見ると多分浮浪の徒だったのでしょう)轢倒ひきたおして大怪我をさせたというのです。なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、その側そばに人らしいものが倒れてウーウーと幽かすかにうめいています。交番といっても大分遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさて置き先ず医者を探そうとしたのに相違ありません。
私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから、医院の所在などもよく弁わきまえていましたので早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点ついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起したらいいだろう」
すると運転手はすぐ様助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼等の後ろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って、――私は独り者なんです。――婆ばあやの敷しいて呉れた床とこへ這入はいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに眠入ねいって了いました。
実際何でもない事です。若もし私がその儘ままその事件を忘れて了いさえしたら、それっ限きりの話だったのです。ところが、翌日眼を醒さました時、私は前夜の一寸ちょっとした出来事をまだ覚えていました。そしてあの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考え始めたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。
「ヤ、俺は大変な間違いをして了ったぞ」
私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとは云いえ、決して正気を失っていた訳ではないのに、私としたことが、何と思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎ込ませたのでしょう。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点いた家がある……」
「ここを右の方へ一町ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」
と云わなかったのでしょう。私の教えたMというのは評判の藪やぶ医者で、しかも外科の方は出来るかどうかさえ疑わしかった程なのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近い所に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていた筈はずなのです。知っていたのに何故間違ったことを教えたか。その時の不思議な心理状態は、今になってもまだよく分りませんが、恐らく胴忘どうわすれとでも云うのでしょうか。
私は少し気懸りになって来たものですから、婆やにそれとなく近所の噂などを探らせて見ますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだ鹽梅あんばいなのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのは厭いやがるものです。まして夜半の一時というのですから、無理もありませんがM医院ではいくら戸を叩いても、何のかんのと云って却々なかなか開けて呉れなかったらしいのです。さんざん暇ひまどらせた挙句やっと怪我人を担ぎ込んだ時分には、もう余程手遅れになっていたに相違ありません。でも、その時若しM医院の主が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも、指図をしたなら、或あるいは怪我人は助っていたのかも知れませんが、何という無茶なことでしょう。彼は自からその難しい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです、何んでも噂によりますとM氏はうろたえて了って、不当に長い間怪我人をいじくりまわしていたとかいうことです。
私はそれを聞いて、何だかこう変な気持になって了いました。
この場合可哀相な老人を殺したものは果して何人なんぴとでしょうか。自動車の運転手とM医師ともに、夫々それぞれ責任のあることは云うまでもありません。そしてそこに法律上の処罰があるとすれば、それは恐らく運転手の過失に対して行われるのでしょうが、事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますまいか。若しその際私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかも知れないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺した訳ではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていた為にしくじったのですから、これもあながち咎とがめる所はありません。よし又彼に責を負うべき点があったとしても、その元はと云えば私が不適当なM医院を教えたのが悪いのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すことも出来た訳なのです。それは怪我をさせたのは如何にも運転手でしょう。けれど殺したのはこの私だったのではありますまいか。
これは私の指図が全く偶然の過失だったと考えた場合ですが、若しそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、一体どういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したものではありませんか。併しかし法律は仮令運転手を罰することはあっても、事実上の殺人者である私というものに対しては、恐らく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のない事がよく分っているのですから。そして仮令疑いをかけられたとしても、私はただ外科医院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。
皆さん。皆さんは嘗かつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件で始めてそこへ気がついたのですが、考えて見ますと、この世の中は何という険難至極けんのんしごくな場所なのでしょう。いつ私の様な男が、何の理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取止めることが出来た命を、不当に失って了う様な目に合うか分ったものではないのです。
これはその後私が実際やって見て成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車や自転車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行電車か何かが疾風しっぷうの様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気附かないでそのまま線路を横切って了えば何のことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽たちまち慌てて了って、そのままつき切ろうか、一度後へ引返そうかと、暫しばらくまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車も出来なかったとしますと、「お婆さん危いッ」というたった一言が、そのお婆さんに大怪我をさせ、悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。
(T氏はここで一寸言葉を切って、気味悪く笑った)
この場合「危いッ」と声をかけた私は明かに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。何の恨うらみもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味の為ばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いッ」という注意の言葉は、どんな風に解釈して見たって、好意から出たものとしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ決して恨まれる理由がないのです。皆さん、何と安全至極な殺人法ではありませんか。
世の中の人は、悪事は必ず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚にも安心し切っています。誰にしたって法律が人殺しを見逃そうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申上げました二つの実例から類推出来る様な少しも法律に触れる気遣いのない殺人法が考えて見ればいくらもあるではありませんか。私はこの事に気附いた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残して置いて呉れた造物主の余裕を此上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。何とすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代せいだいにこの私丈けは、謂わば斬捨て御免ごめんも同様なのです。
そこで私はこの種の人殺しによって、あの死に相な退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対に法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることの出来ない人殺し、ああ何という申分のない眠け醒しでしょう。以来私は三年の間というもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません。私は戦国時代の豪傑の様に、あの百人斬りを、無論文字通り斬る訳ではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。
今から三月ばかり前です、私は丁度九十九人だけ済ませました。そして、あと一人になった時先にも申上げました通り私はその人殺しにも、もう飽きあきしてしまったのですが、それは兎も角、ではその九十九人をどんな風にして殺したか。勿論九十九人のどの人にも少しだって恨みがあった訳ではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方を繰返す様なことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのが又一つの楽しみだったのです。
併し、この席で、私のやった九十九の異った殺人法を悉ことごとく御話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法を告白する為ではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈を免れ様とした、そして又、遂にはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話して皆さんの御判断を仰ぎたい為なのですから、その殺人方以については、ほんの二三の実例を申上げるに止めて置き度いと存じます。
この方法を発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人の按摩あんまがいまして、それが不具などによくあるひどい強情者でした。他人が深切しんせつから色々注意などしてやりますと、却ってそれを逆にとって、目が見えないと思って人を馬鹿にするなそれ位のことはちゃんと俺にだって分っているわいという調子で、必ず相手の言葉にさからったことをやるのです。どうして並み並みの強情さではないのです。
ある日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向うからその強情者の按摩がやって来るのに出逢いました。彼は生意気にも、杖つえを肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。丁度その町には昨日から下水の工事が始まっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来止めの立札など見えませんから、何の気もつかず、その穴のすぐ側を呑気そうに歩いているのです。
それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、
「やあN君」と按摩の名を呼びかけ、(よく療治を頼んでお互に知り合っていたのです)
「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」
と怒鳴りました。それを態わざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば、彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へはよらないで態と右へ寄るに相違ないと考えたからです。案あんの定じょう彼は、
「エヘヘヘ……。御冗談ばっかり」
などと声色こわいろめいた口返答をしながら、矢庭やにわに反対の右の方へ二足三足寄ったものですから、忽ち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に一丈もあるその底へと落ち込んで了いました。私はさも驚いた風を装うて穴の縁へ駈けより、
「うまく行ったかしら」と覗いて見ましたが彼はうち所でも悪かったのか、穴の底にぐったりと横よこたわって、穴のまわりに突出ている鋭い石でついたのでしょう。一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛切ったと見えて、口や鼻からも同じ様に出血しています。顔色はもう蒼白で、唸り声を出す元気さえありません。
こうして、この按摩は、でもそれから一週間ばかりは虫の息で生きていましたが、遂に絶命して了ったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃贔屓ひいきにしてよく呼んでいた位で、決して殺人の動機になる様な恨みがあった訳ではなく、それに、表面上は右に陥穽おとしあなのあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやった訳なのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉の裏に恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろう筈はないのです。
ああ、何という恐しくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出した時の、恐らく芸術家のそれにも匹敵する、歓喜、そのトリックを実行する時のワクワクした緊張、そして、目的を果した時の云い知れぬ満足、それに又、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず血みどろになって狂い廻る断末魔だんまつまの光景ありさま、最初の間、それらが、どんなにまあ私を有頂天にして呉れたことでしょう。
ある時はこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外の文化村とでもいうのでしょう。十軒余りの西洋館がまばらに立並んだ所を歩いていました。そして、丁度その中でも一番立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかった時です。ふと妙なものが私の目に止りました。といいますのは、その時私の鼻先をかすめて勢よく飛んで行った一匹の雀が、その家の屋根から地面へ引張ってあった太い針金に一寸とまると、いきなりはね返された様に下へ落ちて来て、そのまま死んで了ったのです。
変なこともあるものだと思ってよく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った Permalink | 記事への反応(0) | 22:33
お寿司って特別感もあって、ファミリー向けで注文も楽で各々好きなものが食べれる。私の弟は特に偏食で好き嫌いも多く、寿司屋でもサーモンかまぐろしか食べないから普通の寿司屋より回転寿司屋の方が良い。
でも23歳にもなって誕生日っていう記念日に家族で回転寿司屋行くのは嫌だな。しかも回転寿司屋の中でもくらとかスシロー系の超安価なところ。
特別な日に行く店じゃないよ、友達とも行くし何なら一人でも入れちゃう。
デニーズとか行くより安く済むし、何でもない日に友達とお出かけして食べるランチのが高くつく。
それに小さな子供がギャイギャイうるさくて憂鬱になる。全員成人している家族が行くような場所じゃない。
小さな子供連れた家族がごった返した待ち合いスペースにいるたび、周りからどんな目で見られているんだろう……と落ち込んでくる。周りはどうも思っていないだろうけど明らかに浮いている。
私の家は別に貧困層では無いし、公立高校の学費免除にならないくらいには親稼いでるのに何で……回転寿司屋を特別な店扱いするの………行くなら私抜きで行ってください……
RRD 皮や骨についた身は物理的に刺身に出来ず、貝殻や匙で剥ぎ取ったものがすきみ。剥ぎ取ることを古語で「ねぎ取る」と言ったところからネギトロという。
ところが、その肝心の金太楼鮨では「ねぎ取る」説が採用されていない。
ネギトロ巻きの誕生は、1964年(昭和39年)、浅草に本店がある『金太楼鮨』とされる。三ノ輪店で残った寿司種を手巻き寿司にして賄いで食していたが、鉄火巻きに使用する中落ち・すき身にネギを加えると、マグロの脂っぽさが打ち消された。それを客に提供したところ好評で、常連客を通じて本店にも伝わり、本店のメニューに採用された。
偶然にできた寿司ネタ「ネギトロ」その由来の秘密(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社
ねぎとろ発祥の店と言われているのが、東京浅草に店を構える大正13年創業の金太楼鮨。昭和39年、当時の会長だった間根山貞雄氏が考案したという。その開発の経緯はこうだ。
同店ではまぐろを毎日大量に仕入れていたが、筋の部分は食感が悪く、刺身や寿司に使えず、余っていた。叩いてペースト状にして食べれば、脂がのってトロトロで美味いが、今度は歯応えが皆無。
そこで仕方なく、巻きに使おうとしたところ、昼食用に茹でていたそばかうどんに使うネギやワサビなどの薬味を筋の部分にぶちまけてしまう。やむを得ず、ご飯にのせて醤油をかけて食したところ、これが美味い。そこで、大当たり間違いなしと、店で出すことに決めたという。
思いがけず生まれた新しい寿司ネタ。その命名について、間根山氏はこう語っている。
「浅草には『麦とろ』という名前のとろろ飯を売る店が戦前からあり、専門店としては珍しいので土地では一応知られていた。よし、これだと、麦とろ→ねぎとろと語呂を合わせて決定した」
というわけで、この説明によれば「葱」+「(麦)とろ」である。
例の「チコちゃんに叱られる!」でもこの説が採用されたらしい。
牽強付会な印象も無いではないし、「銀ブラ=銀座でブラジルコーヒー」のように店が積極的にデマを流している可能性もある。
この場合は、昭和39年(1964年)以前に「ねぎとろ」という用例があれば、金太楼鮨の説明は疑わしいということになるはずだ。
が、そう都合よく見つかるはずもない。誰か探してくれ。
追記。
青ジソは香りのよさが好まれてよく使われ、イカのにぎりの場合など、一葉添えられることが多くなった。この青ジソの葉を細く切っていりゴマを加えた、シソ巻ずしを台東区東浅草の金太楼鮨でやっている。また、生ネギとトロとを巻いた「ネギトロ」も、ここの名物である。生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかないことなのだが、このネギとトロというのが相性がいい。
浅草の東、鮨·金太楼本店。(中略)ちっと解説させて頂くなら、ねぎトロのトロとは、まぐろをさばいたあと、皮や骨についている肉をこそげ取った身を寄せ集めたものです。(中略)ねぎトロは、いまいったトロにきざんだねぎを混ぜ、ゴマを加えたもの。
信用金庫 29(1) - 国立国会図書館デジタルコレクション
先日、仕事の関係があって、浅草のあるおすし屋さんを訪ねた。そこで、ネギトロというものをたべた。たいへんおいしかったので、ほかであまりきかないけど、おたくだけのものかときいてみた。若いご主人は次のように話してくれた。そうです。実はわたしたちも、すしにネギは禁物だと教わってきたのです。ところが、ネギのとても好きなお客さんがいらして、ネギを巻いてみてくれというご注文なのです、ついでにトロも一緒に入れてくれというので、試しに巻いたのです。ところが、これがなかなかいけるのですね。それで、その後いろいろ工夫してみました。トロをよくたたいてアブラをうかし、スジをとって、それからネギと一緒に巻くのです。これをわたしのところのレパートリーに加えました。ですから、これはお客さんに教えていただいたものといえますね。
というより「生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかない」「すしにネギは禁物だと教わってきた」といった記述からすると、ネギを使うことこそがネギトロのオリジナリティのようである。
週刊文春の記述からは、いわゆる腹部の「トロ」ではなく、現在のように中落ちや皮ぎしの肉を使っていたことがわかる。
「浅草のおすし屋さん」というのはおそらく金太楼鮨のことだろうが、現在説明されているネギトロの誕生経緯とはだいぶ異なっている。
追記終わり。
別の方向から考えてみよう。
RRD氏は「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」と書いている。
ね・ぐ 【労ぐ】
ねぎらう。いたわる。
ね・ぐ 【祈ぐ】
祈る。祈願する。
「ねぐ」は、神社の「禰宜(ねぎ)」や、「労う(ねぎらう)」「願う(ねがう)」といった言葉の語源である。
ちなみにヤマトタケルの伝説で、景行天皇が、息子の大碓命が会食に出てこないことを懸念し、その弟の小碓命(=ヤマトタケル)に「ねぎ教へ覚せ」と命じた、という話がある。
この「ねぎ教へ覚せ」の「ねぎ」は、まさに「ねぎらう・いたわる」で、「(会食に出るよう)優しく教え諭せ」といった意味になる。
ところがヤマトタケルはこの命令を取り違え、兄の手足を引きちぎって殺してしまった。
「手足をねぎ取った」ということだろうか?
このときヤマトタケルがどう取り違えたかというのは「根切る」や「ねじ切る」といった説があるようだが、さすがに「剥ぎ取る」と結びつけることはないようである。
というわけで「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」という説はかなり怪しい。
しかし古語ではなくとも「ねぎ取る」という言葉があった可能性はある。
別の記事では「ねぎ取るは建築用語だ」とする説が紹介されている。
知ってた? “ネギトロ”は葱とマグロのトロの意味じゃない! “ねぎま”も焼き鳥じゃない | ガジェット通信 GetNews
元の語源は建築用語で、地下構造物を作る時、地面より下の土を掘ることを「根切り」と呼んでおり、それが寿司業界にも広まり「ネギトロ」が誕生。
そもそも「根切り葉切り」という言葉もあるように、「根切り」には「根こそぎ」という意味があり、骨から肉をこそぎ落とすようなイメージは分からないでもない。
そもそも「ねぎ取る」で検索しても「ネギトロ」以外の文脈ではほとんど引っかからない。
中間形態としてありそうな「根切り取る」などもやはり引っかからないのである。
こちらは「俺は寿司屋をやって数十年の者だが『ねぎ取る』という言葉は確かにあるぜ」という人が出てきてくれれば確かめられるはずだ。
というわけで、1964年以前の「ねぎとろ」用例や、古くから寿司屋で「ねぎ取る」を使っていたという人が出てこないかぎり、暫定的に「葱」+「トロ」説を採用したい。