はてなキーワード: 世界一周とは
聖地巡礼とは中世ヨーロッパの封建社会においてキリスト教徒のあいだで流行した、キリスト教の聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である。
転じて、現代においてはアニメや映画などの熱心なファンが、創作物やキャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。
私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組のロケで訪れたり雑誌等メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。
大塚の天祖神社やバッティングセンター、千歳船橋の喫茶店ぱおーん、五反田のデニーズ……
思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。
それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。
聖地巡礼には楽しさがある。
思えば私は日本史と世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画のロケ地を訪れることもある。
(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)
今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代にマゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊、フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。
そう、私はフランシス・ドレークの足跡を辿りたいのである。
乃木坂のメンバーが参詣した神社に自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分もバットを振るいたいのだ。
そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである。
この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。
バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティングの最中は乃木坂のことは忘れて純粋にボールをバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。
しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別な意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。
私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。
この違いは何に由来するのか。
まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼の動機に深く関わっている。
私は何も藤田ニコルや西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡に自分の足跡を重ねたいとは思わない。
フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)
では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。
恐らくは、その人物との関係性および距離感が聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ。
想像するに乃木坂のメンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地を巡礼したいという衝動はなくなるだろう。
同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ。
友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。
ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別」である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。
そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為を追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。
その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。
私は宮崎駿監督の映画が大好きで、監督がハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県の鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。
フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周にロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。
しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼランの足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。
(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)
「手の届かない「聖なる存在」である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。
ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターでバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂のメンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。
一年間彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアルに追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記:そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為に限定するべきだったかもしれない)
聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ちを自分も受けたいかというと難しい。
例えばメンバーの誰かが過去にイジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。
しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年間継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。
キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいね。はい。))
体験の総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。
心地よい感情が動きがあればよい。
郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。
いや、違うな。
上に述べたエモさは体験そのものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為を追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。
例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為そのもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋な巡礼っぽい)
先例のイジメのように行為自体は許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。
「追体験行為を包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼が追体験を包含する」よりも「巡礼に追体験が付随する(ことがある)」が正しい)
距離も重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理的距離感である。
遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。
私は電車移動含めて一時間もあれば十分である。しかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値は希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。
遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂のメンバーが訪れた場所の比較として、私の現在地から大塚のバッティングセンターとパリの街角にあるカフェとの物理的距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリのカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。
これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂のメンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理的距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェを目的に渡仏する気にはならない。
いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為そのものに乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味で巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記:日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的に行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係。目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋な巡礼価値は何によって決まるのか。))
これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行そのものに少なからず体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。
でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフで聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。
眠いし目も疲れたので「過去の自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。
おやすみなさい。
世の中には、ゲイサウナというものがあるらしい。男性が男性と出会う場。そこで出会って、そこでそのまま体を重ねたりする。
ゲイライターのサムソン高橋が、世界中のゲイサウナを渡り歩き、世界中の男と体を重ねたり、重ねられなかったりする「世界一周ホモのたび」という本でその存在を知った。
すごいなーこんな世界があるのかと、ふとぐぐったら、すぐ近所にある!ゲイサウナ。
有名なお土産屋さんと同じ名前で、路地にひっそりと出ている看板。ここ知ってる!
何度も前を通っているのに、あまりに地味で、そこが何なのかも考えたことがなかった。それなのに、中に入れば、きっと屈強な男たちがくんずほぐれつしているのだ。
高速に乗るたびに見えていた、コミカルなお城や自由の女神像。あんな楽しそうな場所が、実は男女が交わるためだけの場所だと知って、世界がぐるんと回った。あの時と同じ感覚。ぐるん。
そこから、ホモのたびシリーズを全巻買い、ゲイ情報をググっているうちに、最近ではスマホやPCに表示される広告がゲイ専用出会い系ばかりになってしまった。今日もPCの電源を入れれば、笑顔のツヤツヤひげマッチョが表示される。
BL本には何の興味もなく、腐女子要素ゼロだったのに、まさかのここにきてどハマり。
そう!その通り!
興味ありすぎる自分が気持ち悪くてゲイバーに行けてないの。だって初対面で私の性生活に興味津々な奴いたら、めちゃめちゃキモいもん。
実際にゲイの知り合いがいない現状で、私の中では、ほぼディスカバリーチャンネルみてる感じて、興味がある訳で。そんな自分を客観視すると、女性OKなお店でも、ゲイバー行けないな〜ってなる。あと単純にコミュ障。
え!ゲイバーにいる人と、ゲイサウナにいる人、客層違うの??すごい、また新しいことを知ってしまった。
あと、正直に書いたのでしかられるかと思ったけど、「いってみたらいいよ」っで意見が多くて安心した。いっていいのかぁ。いったら報告するね。
散々就活に振り回されて、何枚も無駄なエントリーシートを手書きした。
マナー講師や面接講師のアホな戯言を信じて無駄な努力を滅茶苦茶やった。
でも、現在の視点で、新入社員や就活生を見ると、「無理してるなあ。そんなことしなくていいのにな」とおもう。
断言して言うが、「まともな会社は就職一年目の一年生を即戦力」としては見ない。
きちんと研修させて、きちんと社会人の基本を叩き込んで、そして半年後、1年後に仕事をきちんと割り振る。そうじゃないと危なっかしくて困る。
ある程度、5年ぐらいして会社の流れが見えてくると、就職のマナー講師や面接の講師みたいな人が言ってることの大半は無視していいことだと解る。
②社会的な常識があるか?
これだけ。世界一周自転車の旅なんか、ぶっちゃけ無駄。それで、「行動力がある」とか「すごい」とかいうやつはいるかも知れない。そういう業界もあるかもしれないが、うちの業種ではむしろマイナスだと思う。
能力のある人材がほしければ資格欄を見る。自慢話なんか聞いちゃいない。
妙に挑戦的だったり、我が強かったり、偉そうだったり、他人を見下しそうだったり、陰口を言いそうだったり、そういう人間が落とされる。
盛った自慢話をすると、そういうタイプは落とされる。
人事が怖いのは「できないやつ」を採用することじゃなくて、「どうしてこんなアホを採ったんだ」と言われることだ。そのアホというのは、「遅刻して、偉そうで、職場の雰囲気を悪くして、ぶすっとしててありがとうございますも言えないし、周りの人間を見下してるようなタイプ」である。ようするに、はてなでたくさんのブックマークを集めたり、歴史だの差別だので遊んでるタイプである。
能力が高かろうが、こういうタイプは職場の能力を著しく下げるので、即落とすよね。
だいたい、新入社員が能力がないなんてわかりきってるし、盛った作り話をしてくるなんてことも、みんなわかってるんだよね。だから、そういうことを言うのが必要なのは、嘘をついてでも他人を面白がらせる職種だけでいい。例えば番組制作会社とか。銀行とか公務員とかでそれをやると逆に見栄っ張りの嘘つきだと嫌われる。
だから、人格で売ればいい。人柄で売ればいい。能力が少し足りなくとも人格が良ければ職場にとって一番良い。人柄である。
なぜ人事が性格の悪いやつだけは取りたくないか? そんなやつを採ると毎日9時間生活しなくちゃいけないという地獄を体験することになるのだ。
だから、まず性格で採る。性格のいいヤツだけを採る。これが最低ラインであり、最強ラインだったりする。
「こいつは能力は足りないかもしれないが性格はダントツだな」と思ったら迷うことなく採る。だって、性格がいいって最強だもん。そいつがひとりいるだけで職場に10%の能力アップがかかるんだから。
でも「性格が良い」という才能の良さを残念なことに、マナー講師も面接講師もプッシュしない。就活生もプッシュしない。それ、最強の武器だぞ、と思うのだが、だれも気づかない。
能力が足りなくとも性格の良い新人ならばいくらでも面倒を見るのだ俺たちは。当たりの新人は「性格」だし、それ以外のことはほぼ求めてない。
元エンジニア。男社会で働くかっこいい女……なんてリベラルな追い風もなく、珍奇な奴として変人に混じって働いてた。入院した先で会った研修医の男の子に一目惚れして結婚、結婚後も2人目までは頑張って勤めてたけど、旦那方のお家に昔から勤めてらしたお手伝いさんが亡くなって、三人目の育児もきつくなったので辞めた。それから四人目を生んでずっと専業主婦として生きてきた。今はその末息子がやっと就職したおばあさんよりのおばさん。
子育ては、やり出したらのめり込む気質だったから、ともかくとことん付き合おうって決めて育てた。長男妊娠中に読んだ、エジソンの母親の話にすごく感銘を受けてたのと、その頃ちょっと流行ってた教育研究者の影響ね。
子供のためなら海でも山でもコンクールでも海外でも連れてって、付き添って、送り出して、一緒に勉強した。
まさに自慢の作品たち!って感じなのよ
仕事を辞めて心血注ぎ込んで大事に育てたものだから、子供の成長が自分のキャリアみたいなとこあるのよ
子供なんて勝手に育つものだから手柄にしちゃうのも図々しいけど
立派に育ってくれて
長男長女は生徒会長を務めるし、部活や習い事も結果を出して官僚、医者、大企業×2と親としては自慢したくなるようなところに勤めてくれて
いやーやりきりました!って感じなの
だが、なんだか何も残らなかったなーと虚しい
言っちゃ恥ずかしいが、子育てって頑張ったら子供はエジソンになるんだと思ってた
どっちも東大行って
みたいな
医者って、世の中に山ほどいるし
あっ普通じゃん、って
就活だって勉強だって並々ならぬ努力してたのも知ってるし、すごいんだなってのは自分もわかる
けど、なんだろう
子供らは普通に幸せそうにしてくれていて、母親としては嬉しい限りなんだけど
普通に優しくて、普通にいい仕事について、普通に生きてくれてるけど
元が良くて、頑張っても
普通の人(特上)になるだけだった
子供に習い事させたり学費を出したりしてると、家計は普通に庶民。毎年海外旅行に〜なんて無理だし、一生堅実にコツコツ生きてローンを返そう、みたいな。せいぜい学校が私立になるぐらい。
スーパー経営者になって毎年海外旅行に行って欲しいわけじゃない。そうなってもきっと今とおんなじ気持ちだろう。
子育てって、普通に育って御の字だということを育てきってから知った。問題ばかりの子供だったら、今の姿にすごく感激するのかもしれないが、幸い特に問題児という子はいなかった。
自分の夢に向かって努力するのは相応の夢が見れたんだけど、なんだかなあ。
わたしが期待しすぎなのだけど、ほんと、こんなもんかーって拍子抜け感が半端ない。
というか何を期待して育てたんだろう……。
何になってもきっとこんなものだったんだろうな。
子育て、楽しかったけど残るものはないな。「お盆は車で帰省します🚗」とか長男のお嫁さんからLINEきてるから、またフツーの若夫婦がフツーに孫連れてフツーにやってきて
魔法使い、革命家、とんでも発明家…とかだったら楽しそうなのに。
歳のせいなのかな。サラリーマンも退職後、人生が虚しくなるっていうし。子育てを通して自己実現、とかわたしには無理だったわ。子育てで実現するのは子供の人生であって、わたしの人生ではなかった。こんなことなら、花道の先生にでもなりゃよかった。
再就職目指せるぐらい若かったらなーと思いつつ、Pythonを勉強してるけど昔ほど楽しくない。
この先も大したことなさそう。人生見通したっちゃって飽き飽きする。若いうちに世界一周とか、もっと素敵なことしてればよかった。この歳で、アフターコロナじゃ無理だわ。
平凡を望む性質でもないのに、平凡に生きて、平凡なハイスコアで、でもやりたいゲームじゃなかったから全然満足できない。
時代的に子供産んだけど、そんなに望んでなかったのよね。旦那大好きだけど、医者じゃなかったらなあ。
人生普通なのってつまらないのね。子供がいるうちは何かとバタバタしてて気付かなかった。子供の成長だけがギャンブルだったわ。あとは犯罪でも犯さないことを祈りながら消化するだけ。
ATMの前で震えたのは初めてだった。謎の中小企業に新卒入社して早3年、ようやく貯金が100万円を超えた。ヤバい。嬉しい。
だがこの場で喜びを表明するのはどう考えても人としてヤバい。ひとまず冷静になろうと領収書を引き出し三度見してからコンビニで一番高いスイーツを購入した。懐は痛くも痒くもない。だって口座には100万円あるから。
100万円はすごい。100万円は強い。なんせ100万円があれば世界一周旅行もできるし、車だって買える。
そこまで考えたところで、ふとどんな車が買えるか気になった。別にそこまで欲しくはないし、現に保有もしていないが、まああれば便利だとは思う。いい機会だし買っちゃおうかな。地元の友達はたしかトヨタのアクア?を買ったと言っていたな。
左手に吊り革を掴みながら、もたもたとスマホを操作する。検索ボックスに、トヨタ アクア 価格、っと………200万。
気を取り直して、そもそもの目的に立ち返る。100万 買える 車、で検索。なになに、現行車で出ている100万円以下の車種、総数は……19台。
え、少なっ!世の中にはあんなにいっぱい車があるのに?!
週休7日、健康体、自由に使える金が25万(家賃含む)…みたいな暮らしがしてえな
つうかその程度の暮らしもできねえ社会に人間を産み出すなよ、とかなり強く思う
「人生の目的がわからん」みたいなこと言ってる悩める子羊に「子供ができたらわかるよ」なんて言ってるやつをみるとかなーりムカつくんだよな 子供が第一!とか言ってるけど、あんたのいう「子供」ってせいぜい成人するまでのかわいい時期のことだろ?40のおっさんになっても働かねえで家でダラダラすることは許さない・許せないんだ どうせ
ミドリガメかわいい😍飼う❤️つってデカくなったら捨てるタイプの人間にしか見えねえんだよな 川で生きる方がノビノビできて幸せ!とか言ってさ
「子育て」がせいぜい成人までしかカバーしてないのホントにムカつくよ 「もう大人なんだから面倒見切れない」なんて超無責任な最低の発言をよくもまあ恥ずかしがらずにできるもんだ お前が生み出したんじゃないのか? その面の皮の厚さこそが親の資質ってことなのかな?ぼくにはとてもできない
たとえば有給付き3ヶ月世界一周クルーザー旅行券みたいなものがあったとする 仕事には一切影響を及ぼさず、贅を極めた旅行が3ヶ月間楽しめる…が、渡されたら有無を言わさず翌日には出発してその旅行に参加しないといけないし、同意を得てから渡すことはできない
そういう券があったとして、知り合いにイキナリ渡すかってことだ いくら楽しくて悪影響が少ないとはいえ、相手にも都合とか心の準備ってものがある クルーズ欲があるかどうかもわからない かなり入念なリサーチが必要だし、リサーチしたところでやっぱり勝手な感じがする
出産、それの楽しいクルーズ3週間じゃなくてそこそこ苦痛な人生80年版なんだよな 相手に一切同意はとれないし、趣味のリサーチなんかも不可 知り合いですらない相手だ 人生に対するやる気があるかなんて完全に未知数
であるからには完璧なサポートができる環境を用意するのが人の道ってものだろう はじめの十数年は助けてやるから感謝しろ、なんて言い分が通るものか 80年のうち50年くらいしか直接は助けてあげられないから本当にごめんね、のこりの30年は遺した10億円でなんとかやっていってくれ…くらいの態度が必要
俺は完全に被害者なんだよな そりゃやる気もでない 子供を無責任に生み出して八つ当たりしてもいいけど、生来の優しさがそれを拒む
「世界一周旅行しました!」「100カ国を回りました!」って言われたらすげえ感じするけどよく考えると地球の七割は海なので雑魚ですね
俺たちはせっまいせっまいクソみたいな土の上でイキって食物連鎖の頂点・地球の支配者なんて抜かしてるバカ 大体表面積上は水のほうが多いんだから地球じゃなくて水球だろ 土なんてどこにでもあんだよな ゴミですよ 水のほうが格段に良い
俺はビンボーだから今後たいした旅もせんと死んでいき、途中それこそ100カ国回ったりしてる連中を見て「俺は籠の鳥、奴らは自由で良いな」なんて自己憐憫に浸ったりするかもしれないが、奴らの自由のフィールドは所詮三割の陸にすぎず実にしょぼい 何が自由か 何が世界中か
海 母なる海に背を向けて陸でいきり始めた結果溺れ死ぬようになった、という惨め極まりない事実こそが知恵の実による失楽園に対応してるんじゃなかろうか?服なんかしょぼいよ ヌーディストには原罪がないのか? 火なんかしょぼいよ プロメテウスくんもIHヒーター使いなよ
海は怖い 海にロクな思い出がない クラゲには刺される、波にはさらわれる、魚は怖い、溺れたら塩辛くてつらい
違うんだな〜ッ 悪いのは海じゃない 俺でもない 人間という劣った生物の低性能です 鰓呼吸くらいやってみろよなあ なーにが万物の霊長じゃ めだかでもできることができない真性の雑魚 洗面器で溺れ死ぬ低能生物の哀れ
本当は海で生きたかった なんせ広い 青いし 深くもある 地震きても死なん 地震でダメージ喰らうのは雑魚の仕草 情強は波に乗って楽しむのみ
月の満ち欠けで潮があるっていうのも良いよねえ かっこいいですよ あの美しい白い球体 あれの生み出す流れに乗れるっていうのは光栄だあ
地球の地面なんてきったねえですよ 緑色したキモチワルーイ生物がびっしり蔓延っていて最悪 地球本来の自然は緑色じゃねえからな
ああー海 海よ
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トレーシングペーパーと合わせて贈ったことある。
年齢にもよるけど。
https://www.amazon.co.jp/dp/475624937X/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_pTymEb0PNAZYJ
世界一周なぞり描き-ときめきを紡ぐ旅- Tracing around the world
他に、少しずつ段階を踏んで仕上げていく本があったが、結構前の本で検索しても、すぐには出てこずすまんです。
天才型は、こういうのいらない。けど
自分の才能を当たり前(絵がうまいことを簡単なもの、特別とは感じない)に思いすぎて、
違う分野にいってしまうこともある。
退屈で。