はてなキーワード: シナプスとは
「理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。
オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞が情報伝達を行う際、シナプスは行為を理解しない。ひとつの作業を行うのみであり、結果のための行為を連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為が目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。
つまり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為の副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要な事実である。
本来「理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。
これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。
この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学は哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。
あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)
はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで
本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から「青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。
だからなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である。世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)
・〈ぼく〉という特別さの有無について
さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在の特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたしの感想を書いておく。結果から述べると永井均の認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。
まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたしの意見である。つまり、意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。
「特別さの証明」からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論的観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識(アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。
まあ結局、「確認(認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆の認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである。他者を認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理は他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学〉である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである。
ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。
(余談だが99p9lの永井の解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)
ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタインが友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題(命題)に「言語」があったというのは興味深い。
わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそも、わたしが最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら)結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。
しかし言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事の表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会(面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである。言語をどのように理解し、駆使するか(論理的思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから、抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないか。わたしは今の本業は言語(ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者を自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。
なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像でしかないが、哲学をやろうとアカデミーのなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込み」から逃れることはできないのではないか。(数学者の望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)
〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事な作業である。
さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。
1箇所目(17p,9l)
あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観を他者に阿るのは心臓を他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者は自己の存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。
その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである。世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。
2箇所目(111p,11l)
この人は政治と政治的議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれてしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分が政治、または政治的議論をしたことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治的議論の方法についてである。
「自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本の左派は無様なんだ)
はっきり言っておくが、政治的議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間(政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話である。タイムリーに話題にしたことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間を擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。
5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。
まず、私は死ネタが嫌いではない。
むしろ好んで読むことすらある。
人によって作品の確信や結末にあたる【ネタ】部分は心に刺さることが多い。死ネタは地雷として表現されることが多いと考えてタイトルに表記した。人それぞれ、地雷とされる【ネタ】は様々だと思う。取捨選択して、素晴らしい二次創作ライフを楽しんで欲しい。
もしも、作品に注意書きがなく、自分の思う内容ではなかったとしても、目くじらを立てずスルースキルを発揮する力を養うべきだ、と。そこそこ長くオタクも腐女子も経験した身としては、蚊帳の外からそっと思っていた。
今回、どうしても、どうしても、言葉を綴りたくなってしまった。
私だけが?と思う推しキャラクターを巡る世の流れや趣向の違いを飲み込めない意固地なオタクだとわかっているのだが、やるせない孤立感が大きい。
私の推しキャラクターは、唯我独尊タイプだが信念のある支配者然とした男性キャラクターである。知性も理性も備えている。また、彼自身遊び心も持ち合わせており、絶え間なく変わる姿に心の底から引き込まれてしまう。正直、作品の中で、1・2を争う完璧な生物であり、私の語彙程度では正しく表現できないことが悔しいが男前なキャラクターに分類されると思っている。
当然のように、支えている部下たちも一流の男たちである。完璧な仕事ぶり、所作・言葉使いまで、各人員が要所に個性や気品があると思う。
かなりこの方々は人気がある。
私は推しキャラクターには多大なる恩義があるので、もう一生推す・この人で最後、と本気と書いてマジで思っている。盲目的であることを許してほしい。
ここから少し推しを巡るカップリングの話をしたい。私の推しキャラクターとその側近のような部下がいる。人により捉え方は変わると思うが、複数人いる部下の中で、この2人だけ作中で別次元の描かれ方をしていたように感じた。ここにストンとおさまってしまった腐思考の方々も多いのではないだろうか。実は、私もその口だ…
そんなあっさり、おまえ。と思うかもしれないが、視覚と音の効果は絶大で逃れようがないんだ。世界中に見せたい、これできてるよな?と、10億人思うはず。
私はその推しキャラクターを単体で推して長いが、今までカップリングで考えることは、稀にある、程度の頻度であった。
推しキャラクターをとにかく彼らしく描いていて欲しいという願いを持っていたので、二次創作よりも公式に傾倒していた事もある。ここで書く彼らしいは、公式を逸脱しない設定でという意味で捉えて欲しい。それも、わたし個人の主観によるものなので、人により解釈は変わるだろう。簡単に考えれば二次創作に重きを置いていなかった、公式最重視型オタクだったのだ。
でも、拗らせ方がひどい時期は
と、ここまでは流石に思っていなかったかもしれないが、人間活動としてのリアルな事象はなるべく想像したくなかった。神様レベルの信仰対象に限りなく近かったのではなかろうか。また、夢女子的な思考はなかったが推しキャラクターへ心酔に近い考えを持っていたために、ドリーム思想の方々とは相入れないとわかっていた。住む畑が違うならば耕さなければいい、ノータッチを貫いた。
そして当時から最近まで、確信的な推しのえっちなシーンを想像するのはギリギリのラインに留めたいという気持ちがあった。やってもいいけど直接的には見たくない。暗転希望、事後描写にしてくれ。反して、支配者タイプの成人男性なのだから、女は抱いてていいと思っていた。
みたいものが少ないと判断していたためか、二次創作を進んで読むことは少なかった。
そして、
2020年7月現在、これは全く当てはまらない。公式からの新しい情報投下により私の世界は一変した。
部下(攻め)×推しキャラクター(受け)がめちゃくちゃ読みたい。毎日読みたい。沢山読みたい。朝起きてからおやすみまで読みたい。作中まだ幸せそうに見えない推しキャラクターを幸せにしてくれ、部下!と願いながら広大なネットの海で神々の作品に溺れさせてくれ。
そして根っ子には腐った女を飼っているので求めるところは以下である。
メタクソ読みたい。
洗浄からきちんと見させていただきたいですし、わたし、上に乗るのが好みです。
できたらステイさせられるのは攻めがいいし、女王然としていて欲しい。
貴方の優位は揺るがない。で、お願いしたい。
これ。
今回、自分の認識が変わり、二次創作を楽しめるようになった。ブームにのり溢れてくる作品群、雲が晴れたように私の世界は明るかった。とても喜ばしい日々が続いていた、自分も作品をかきたいという気持ちもあった。少し前まで創作意欲も創作物にも触れる事が怖かった時期があったので本当に感謝の気持ちで、推しに五体投地して過ごしている気持ちだ。
意識的に、自分が読み飛ばしているシーンが、だんだんと、だんだんと、増えていくことに。
その頻度が増えていることに。
これだ。
あまりにも唐突に、コーヒーいれたよー!みたいな感覚で呼び捨てにされる推しキャラクターと、唐突に呼び捨てにする部下という図に思考回路が追いついていなかった。
頭の中のシナプス伝達が出来てない、言語中枢が真っ黒に塗りつぶされたのか、拒否してるとしか思えない。視覚からも受け付けてはくれない、意図して目を滑らせる。これは、これはダメかもしれない…のみこめないのだ。素直にびっくりしてしまった。
私は、オタクとして自覚をもつ頃には、読めないものが少なかった。漫画も小説もとりあえず読んでから考えるスタンスで生きてきた。そして、殆どが多様性をもった【ネタ】として別時空のキャラクター達として読み進めることができた。ハッピーエンドもバッドエンドもそれぞれの解釈を楽しむことが作者の世界観を知り楽しめる、そこに幸せを感じていた。
勿論、記憶に残らないものや、私には難しいかもしれないという世界観もあったがそれほど気にせず受け流していたのだと思う。
わたしの二次履修背景からしてこんなことになるとは思わなかった。しかしながら今回に限り頭の中を占めるのは、
推しキャラクターを呼び捨てにするという身に余る行為を軽率にしている部下。
なぜか?という疑問が拭えない。なんでなんだ部下…なぜ敬意を払わない。お前にとって、唯一無二のお方ぞ。
(わたしは冷静ではないので、細かな前後描写や文脈から作者の意図を汲み取ることができない、また読み返してもできる自信がない。)
補足をしておきたいが、全ての部下→推しキャラクター(上司)への呼び捨て行為が受け入れがたい訳ではなかった。
ストーリーの流れで呼び捨てる行為がスムーズまたは、必要とされれば受け入れられた。
そこに至る設定というのはとても大切で、呼び捨てる行為にスイッチや理屈があることが重要な鍵となっているようだった。
人によって、なんとないことかもしれない。名前の先に付ける敬称が無いだけだ。
推しの事を呼び捨てる行為について、部下は許しを得ているのか。
不敬であろう、なんて、不敬なのだろうか。
そもそも部下はこんなことをするだろうか。そんな信念でお仕えしているのか、望むだろうか。
推しはあっさりと呼び捨てることをさせるだろうか、高貴なあなたが!?
いや、無理だなぁ涙涙涙
しかしながら、界隈の流行があるようで、ポンポンポーンとお名前を呼んでいる部下。
呼ぶにしても、推しからの許可や切羽詰まった懇願をしてからにと切望してしまう。推しキャラクターは受けだが完全生物なんだ。オメガバ○スならαだろうし、セクヒ○スなら重種だ。マーメイドかも。メタくそ美しいんだ世界が傾く美貌なんだ。
ひとり四面楚歌に立たされている中、追い討ちをかけるように、客観的な作品への同意マークが増えていくことが不可思議でならない…みんな呼び捨て呼称は気にならないのか、この方をあっさりと名前で呼んでいいの…様つけないの…
自らの中に警備員を飼っていたことにも驚愕し、同時に作品を創作してくださった方への罪悪感や裏切られた気持ち、受け入れられない自分への失望が一気に流れ込んできていた。相反する感情で潰れそう、きつすぎる。
ただ、推しキャラクターが好きでたまらなくて、カップリング趣向を楽しめるようになったのに、このような感情を持っている自分への悲しみ呆れ。でも、やはり受け入れられない真理。
萎えるのだ、受け止められない。呼び捨てるという行為を見た瞬間に、サッと血の気がひく、どんな行為の最中だろうと冷静さを取り戻してしまう。その後には、怒りすら覚えてしまう。どうしようもない…
そして、恐ろしいのがこれは記載される可能性が低い、無いだろう地雷なのだ。
私自身は作品を読むうえで地雷を気にしたことが殆どない、読んでから考えるタイプだった。対して、過去自身の創作に関しては慎重で注意記載は多すぎる方だった。だからわかる。
という至極丁寧な記載をしていただけるだろうかと言えば、私にはそこまで求められない。小説ならば数千数万の作品を書いてくださる偉人たちにそこまでさせるか、と言えばできない。自身も攻めが受けの呼称を変えますと、表記したことはない。もしかしたら、私も誰かの脳にダイレクトアタックをキメていた可能性もある。なんてことだ。
自営したいのに、とても回避が難しいことに頭を抱えている。
つらいつらいつらいつらい。
読みたい!!!なんでこんなに面倒なことになった
素直に推しのえっちシーン読めよおおおお!拗らせないでくれマイブレイン!
でもやっぱり呼び捨ておがじぃ!
冷静では無い。
素晴らしい作品に出会い読み進め、いざこれから本番です。きたきたきたあああああ盛り上がってまいりましたっ!という時に突如として推しが呼び捨てされる行為、いともたやすく行われるえげつない行為。
すべてが止まる、静寂が訪れる。
「○○という行動は障害者である」という前提がある人間と付き合うと、健常者じゃなくて障害者として扱われるようになって人間としての尊厳が試されるぞ!
「君はそういう考え方をする障害だから仕方がないけど」とか「こういうのが嫌で介護の仕事を辞めたのに、なぜ家で介護をしなければいけないのか」みたいなことを遠回しに言われたり直接言われたりして人格の強度を試されるぞ!
やがて相手がマジで疲弊していくのが目に見えて、諦めようという気持ちになるぞ!
「君に障害があるなんて」とまるで異物を見るような目で見られるぞ!
あらゆるミスをなじられるぞ!一つ一つのミスについてどうすればいいか逐一説明をされ、指示通りにやった結果ミスしたら「お前は本当に人間なのか」と直接言われるぞ!
やがて「指摘をしても無駄だ」と学習したASDは「指摘をしても無駄な奴とは会話も無駄だ」という結論にシナプスを接続し、一切の会話を拒否されるようになるぞ!
ASDの脳内定義はどうやって更新すればいいのか、みたいなことに日常生活のリソースを裂くことになるぞ!自分のことでパンパンな日常生活のリソースを!
たとえば「女の生理痛は男が金玉を蹴られた痛みと同じ」という言説から考えてみよう。
これは冷静に見れば全然おかしい言葉であることがわかるだろうか。
個人差とかもあるが、それ以前に「自分の感じる痛みを他人のそれと比較すること」はどうやっても不可能なのである。
何故なら痛みという「感覚」自体を、何らかの言葉や図表、量的な指標を用いて他人に伝えることができないからだ。
極端な話、自分の感じる【この】痛みという感覚が、他人の感じる痛みという感覚と同じなのかどうかすらわからない。
自分の見ている赤が他人の見ている赤と同じとは限らない、と言う説明がされることが多い。
ところで質問なのだが、このクオリアという心的現象は、物理現象の一種なのだろうか?
つまり、現在は脳科学が発展していないために見えていないだけで、実際のところ「心の働き」と呼ばれるもののすべては脳神経で起こっているニューロンの発火や電気信号だけで成り立っていて、それらを完全に解析さえすれば上述のような「他人の痛みの比較」も可能だし、人が何を感じ、何を考えているのかといった心的現象も追うことができるのだろうか?
もしくは、意識や感覚といった領域は物理的法則では縛られない世界にあって、ニューロンの発火だけでは絶対に説明がつけられない部分が残るのだろうか?
あなたは
あなたは、意識や感覚などの心的現象は物理法則に則った現象の一種にすぎず、人間の技術力に限界さえなければ、いずれは脳神経学によって解き明かすことのできる類のものだと考えている。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは自由意志の問題である。
心的現象が物理法則に則っているのであれば、あなたの「コーヒーが飲みたい」「あの本を読もう」「右足を前に出そう」といった意識はすべて、その直前の脳神経の物理的状態から力学・電磁気学などによって導き出される現象に過ぎない。
そうであるならばあなたの意識と行動のすべては法則に支配されており、自由意志などというものは存在しない。
あなたはこの考えを
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、そこにあなたの意志はない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎない。End
あなたは物的一元論を受け入れながらも、自由意志の存在を肯定する。
すなわち、現代科学では解明されていない領域に、自由意志の存在を受け入れる法則が隠れていると考えるほかない。
あなたの自由意志とはあなたを構成する量子の揺らぎの別名であり、シュレディンガー方程式を自在に操って、この文章を読むと言う物理的行為を成し遂げているのだった。End
あなたは、意識や感覚といった心的現象には、ニューロンやシナプスの物理的挙動だけでは理解しえない、物理法則とは別種の法則が働いている領域があると信じる。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは物理領域の因果的閉包性の問題だ。
物体が物体に衝突して相互作用を起こす時、それは純粋に物理世界のできごとであって、この現象に対して神や霊魂や祈りなどが作用することによって物理的挙動が変わることはない、と、多くの人間に信じられている。
これを適用するならば、心的現象が物理的実体である脳神経や肉体に干渉をおよぼしてその物理的挙動を変えさせることはない、と言うことができそうだ。
あなたは心の存在を肯定しながら、物理領域の因果的閉包性をも肯定する。
すなわち、心的現象は物理領域に干渉されてもよいが、逆に物理領域に心的現象が干渉することはできないと考える。
では、あなたが「コーヒーを飲みたい」と思って実際にコーヒーを飲むとき、あなたの心の動きが肉体という物理的実体を動かしたことにはならないのだろうか?
すべての前提を整合させるには、こう考えるしかない。「コーヒーを飲みたい」という心の動きと同時に、脳におけるニューロンの発火という物理的現象もまた起こっていて、それによって肉体が動作するという物理的結果を招いたのだ、と。
あるいは、心の動きと脳の物理的現象は実は同一のものの二側面と考えても良いし、心の動きは脳の物理的状態に随伴して起こると考えても良い。
いずれにせよ、この立場を取るのであればあなたは自由意志の存在を否定しなければならない。
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、その結果にあなたの意志は干渉していない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎず、あなたの中に確かに存在しているその「心」は、物理的実体に束縛された背後霊のようなものだった。End
あなたは、「物理的実体」なるものが本当に存在すると信じているだろうか?
物理領域の因果的閉包性なるものは、単なる科学主義者の経験則にすぎず、本当は心的現象が物理的実体に干渉を与えて動作させることもできると考える。
今もまた、あなたの霊魂という非物理的実体は、あなたの肉体という物理的実体を操作して、画面をスクロールし、眼球を回転させ、あなたの自由意志のもとにこの文章を読み、それについて何か考えを抱いている。
あなたは、世界とは根本的に心の働きによって成り立っていて、物理的実体、物理的挙動、物理法則なるものはすべて心の働きがあなた自身に見せている虚像に過ぎない可能性を否定できない。
確かに、あなたの目の前にパソコンやスマホがあるといっても、それはあなたの視覚という感覚が伝えてくる像に過ぎないし、触れて確かめようとも触覚が同じことをするだけだ。
あなたは、パソコンやスマホが目の前に「実在」すると断言できない。
あなたの脳は培養液に浮かび、接続された電気コードから絶え間なく信号を与えられている存在に過ぎないかもしれない。
もしくはそんなものもなく、世界などというものは根本的に実在しておらず、観念的な情報が漂っているだけの存在、それがあなたなのかもしれない。
今もまた、あなたの自由意志は、あなたがあなたの指であると思っているものを操作し、あなたが文字であると思っているものを読み進める。
恐れることはない。あなたの実体がなんであれ、あなたという意思の主体が存在すること自体は、他ならぬあなただけは絶対に否定できないのだから。End
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この定義なら、大手以外の映画製作会社によって作られたポルノ映画全体のことを言えるのでまほろ駅前多田便利軒www
はい、ここで増田のシナプスに注目ゥwww 彼のシナプスは「大手映画」という単語をキャッチしたことにより分子レベルで疑問が浮かんだでござるな?www な?www なあなあ?wwwwwww
ピンク映画が流行る前の1960年頃、日本の映画製作は大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が牛耳っており、五社協定というものが結ばれていた。
ドプフォwww つい五社協定なんていうマニアックな単語が出てしまったwww 五社協定というのは、専属監督・俳優らに関する協定のことでござるなwww 他社所属の監督・俳優の引きぬきや貸出は禁止ですというモノwww ま、これぐらいのボキャブラリィ存じ上げておったかwww スマヌスマヌwww
なんでそんな協定ができたかwww 当時は多大な需要を満たすために、スター俳優を中心としたシステムを作り上げて大量の本数を作っていたのじゃwww
そうなると、客を呼べるスターを引き抜いちゃえばいいじゃんと泥沼の戦いになってしまうとwww
ところが、1960年代後半になると、日本における製作本数のうち半分近くがピンク映画になった。(ピンク映画自体の製作本数も桁違いに増えた)
正解はテレビでしたーwwwwwwwwwwww ブフォオッwwwwwwwwww
テレビの浸透によって映画館への客足は鈍り大手五社の製作本数も激減www 五社協定(新東宝が倒産し、日活が加入)は1971年をもって消滅www
つまりですなあwww 映画文化自体は残りつつも、製作は予算の安いピンク映画に流れたというわけでござるwww
だから、増田の言った「昔にはよくある光景」っていうのは正解かもしれないwww
正直、拙者は資料でしかわからないけどwww フォヌカポゥwwwwwwwwwwwwwwww
ちなみに、ピンク映画は「低予算かつ女の裸が映っていれば何でもいい」という思想があるwww そのため、敷居が低いことから作家性が強い作品も多いwww
浜野佐知のように一般映画では稀有だった女性監督ですら存在したwww
最近の若者も知ってそうな人だったら、「愛のむきだし」の園子温や「カツベン」の周防正行などなどwww
そんな感じで由緒あるピンク映画界隈だけれども、最近は廃れつつあるらしい。
ちょっとググってみたのですが、かつて200本以上の製作本数を誇ったピンク映画ですが、2010年には50本近くになってしまったとか。
どことなく漂う昭和の残り香は消えゆく文化の残滓。跡をたどって、DVDなどで新しい世界を覗いてみるのもオツなものかもしれません。(「成人映画館」自体はかなり敷居が高い印象・・・)
シナプスの接続とか海馬の大きさとか色んな要素があるとしてるけど、脳の大きさとIQの強い結びつきがあるのは確かだって言ってるよね。
頭でっかちなのはいいけど、俺の「脳の大きさとIQにはかなり強い結びつきがあるのは確か」への反論用意してよ。
てかそれ以前に引用している文の中にalthough having a big brain is somewhat predictive of having big smartsって入ってるじゃん、無理して読んでるの?それとも読んでないの?