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2022-12-09

anond:20221209135746

北村氏は一貫して版元を批判してる。ただ、訳者本人に対して悪感情があるのは事実っぽい。そもそも、以下ツイートRTしてからその呟きだし。

https://twitter.com/koheisaito0131/status/1599927813234393088

この山形浩生日本では、トマ・ピケティとかアダム・トゥーズとか翻訳してるわけで。そりゃ歪んだ受容になるよな、と。

以下、北村氏のツイート掘って出てきたもの

https://twitter.com/Cristoforou/status/1600392912927600640

最初から私は主に版元を批判してますけど。まあ、訳者も受けるなよ…とは思いますが、ほぼ版元の責任でしょ?

https://twitter.com/Cristoforou/status/1599969809978257409

ピケティ21世紀の資本』は英語からの重訳です。訳者本人が「下手な直訳よりうまい重訳のほうがずっと歪曲は少ない」って自己弁護していますけれども。ピケティちゃんと訳せるうまいフランス語翻訳者がいないとでも?

https://cruel.hatenablog.com/entry/20140711/1405091495

https://twitter.com/Cristoforou/status/1600420864217952256

まさに「蟻の一穴」です。売れ筋で今後も読まれそうな本がそうなるっていうことは、今後に良くない例を残しまから

個人的には、「翻訳の速度優先して仏語訳できる訳者さなかったのは版元の怠慢じゃないの? それやってるとフランス語翻訳文化どんどん衰退しない?」は的を射た批判だと思う。

ただ、この増田を書いている自分経済学には門外漢なので、山形氏はブログを読んでいる範囲経済学知識がめちゃくちゃある分、「重訳でも内容に極端な間違いが発生することはあるまい」と版元が判断したのはそれほどおかしくはないようにも感じる。結局本が売れなかったら出版文化自体が続かないし。

2022-11-30

筑波大学言論封殺し、言論の自由と学問の自由犠牲にしている。

東京都立大学宮台真司教授が何者かに襲われたという衝撃的な事件が起きた。言論暴力によって封じることは当然許されない。強い憤りを覚える。

さて、大学構内で大学教員が襲われたという事件で有名なもの中大事件、そして筑波大学の「悪魔の詩訳者殺人事件だろう。

サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』に対してホメイニ師が反イスラーム的とし、関係者死刑を宣告するファトワーを発令し、日本語訳訳者であった筑波大学助教授が何者かに殺害されたという衝撃的な事件だ。最終的に迷宮入り犯人が捕まっていない。

ラシュディも近年アメリカで襲われたりといまだに尾を引いている事件である。なおインドムスリムとして生まれラシュディの『真夜中の子供たち』は最近岩波文庫入りして読みやすくなり、とても面白いので是非読んでみることをお勧めする。

中大事件個人的怨恨であるのに対し、本事件は明確な言論の自由、学問の自由への挑戦であるし、多くの人の印象に残っている事件だろう。

当然、学問の自由言論の自由を守るべき大学としては語り継いでいき、定期的なセレモニーなどを通して大学として言論の自由、学問の自由を再度確認すべきメモリアル事件である


……が、筑波大学は明確にこの事件無視している。

筑波大学歴史が浅い大学ブランド力の弱さを気にしているらしく、前身である東京高等師範学校東京教育大学権威を借りようといろいろと嘉納治五郎(師範学校教授)の銅像を建てたり、朝永振一郎顕彰したりしている。そんなに東京教育大学が素晴らしかったというなら潰すなよ。

それはともかく、その最たるもの筑波大学ギャラリーなのだが、ここには筑波大学の「悪魔の詩訳者殺人事件の展示・記述は一切ない。誰もが認める大学史、言論史上に残る大事であるにもかかわらずだ。

https://www.tsukuba.ac.jp/about/campus-gallery/

秋野豊博士というタジキスタン国連政務官として平和維持活動中に凶弾に倒れた先生の展示はある。

寡聞にしてこの秋野先生という方は存じ上げないが大事な方だったろうとは思うが、ニュースバリュー・事件重要性を考えればここに並んで悪魔の詩訳者殺害事件で倒れた五十嵐助教授の展示がないのはかなり解せない。

遺族側と仲悪いのか?とも考えられるが、近年出た記事では遺族側は事件の風化を気にされており、大学側の顕彰を拒むとは思えない。

では、何故筑波大学歴史からこんな重要事件が葬り去られているのか。その答えは、近年の大学(ひいては文科省)の方針にある。

筑波大学指定国立大学として、国から高い目標を掲げさせられている。その中で重要KPIとして設定されているのが留学生数だ。

留学元は大抵の大学がそうである通り、アジア圏が多い。中国韓国はもちろんだが、筑波大学中央アジアアラブ圏とのつながりも強く、学内でもイスラーム圏の留学生を観ることは多い。

これで答えが出ただろう。イスラームから留学生を受け入れ大学として数値目標を達成するためには、殺された五十嵐助教授は闇に葬られなければならないのだ。

本来であれば、大学として許されざるテロであることをイスラームから留学生にも理解してもらう努力をすべきだと思うのだが、その努力放棄大学言論の自由と学問の自由犠牲にして大学としての達成目標をとったということだ。

学生運動渦巻く東京教育大学を潰して、文科省肝いりで作ったトップダウン大学である以上、仕方ないかもしれない。だけれども、五十嵐助教授大学短期的な利益のため大学からも葬られていることに強い憤りを覚える。

anond:20221130204714

もう読まないと思うじゃん?でも今後、様々な読書経験を積んでいくと、例えば10年後とかライフステージが変わったりしたときに、ふと読み返したくなるんだよ。

海外文学訳者に注目して選書するのもおすすめです。

anond:20221130205018

訳者あとがきで「この本の作者のことは何も知らない」「俺が訳した別の作者の話のほうが面白かった」って書いてる百年前の本は見たことある

訳者あとがきで著者に失礼なことを言っている本

たとえば最近読んだ本ではこうだ。著者は女性法人学者(骨を専門とする科学者)で、本の内容は骨の世界について一般人に紹介するようなもの。この本で、作者は祖父レイプされて自殺した少年の骨に強いストレスを感じていた痕跡があったエピソードを紹介し、自身もまた9歳の時にレイプされたことを告白していた。

訳者あとがきでもこの事に触れていたんだが、著者はレイプ児童虐待に関する論文も多数発表している。やはりレイプ原体験になっているのか、いやはや、ちょっと執念を感じる……。って書き方なんだよね

古い本ならありうる話だが、この本の日本語翻訳版出たのは2022年の夏、しか訳者名前からしておそらく女性。英日翻訳をするくらいの教養者だから昨今の人権感覚とかはわかっているはず。それでもこんなこと書いてしまえるのか……となんか地味にショックだった

あと覚えてるのはダ・ヴィンチ・コードの作者の本。訳者あとがきで、ウンチクが多いとネガティブに書いてて心底驚いた。教養テーマにした作品でそれ言うんかい……と。

訳者あとがき自由すぎるだろ

カラマーゾフの兄弟読破した

・読むきっかけは、世界的に有名な文学作品であったからという安直ものであった。

2020年10月に買って中断を挟み今月読み終えた。2年もかかってしまった。

面白かったかどうかというと、微妙だった。

特に日本語訳表現が独特であり、あまり見慣れない言い回しが多用されており、意味を掴むのに苦労した部分が多かった。

・また、大して重要でもない人物の掘り下げを延々と行なっていたり、なぜここがと思えるような場面描写が延々と続いており、苦痛に感じるところもあった。

・やはり、この本が発表された時代の背景や状況を考慮に入れる必要があるのかな、と思った。

・どういった点に注目すれば面白く読めるのか、といった事前調査が不十分だった。

・かといって、長すぎるのでもう一度読みたいとはあまり思わない。

未読の方へ

読むとき人物相関図を横に置くべきである。作中で同一人物に対して複数呼び名が使い分けられており、途中で誰が誰だかわからなくなる。

追記1

・読んだのは原卓也訳です。

追記2:完走した感想

物語序盤が特に苦痛であり、中断ポイントだったように思う。途中からサスペンス要素が入ってきて面白くなった。

・大審問官の部分の重要性については、後書きの訳者による解説を見た方がわかりやすいと思った。

蜘蛛の糸元ネタが出てきたところで「これって蜘蛛の糸じゃん!」と思い「こっちの方が古いか」と思い直した。ただしこちらではネギだった。

物語中、途中から3000ルーブルって日本円にするとどのくらい?という疑問がついて回った。

女性キャラグルーシェニカとカテリーナ)の情緒不安定すぎだと思った。

長男ドミートリイは不憫であるがやむなしと思った。金を工面するために奔走するシーンは、作中で最もスピード感があった。

次男イワンは終盤精神崩壊してとにかく不憫であった。

・三男のアリョーシャが萌えキャラであり総受けであり癒しキャラであった。

コーリャは別にいてもいなくてもよいと思った。彼は熱心なアリョーシャ推しだったので続編前提のキャラだったのかもしれない。

最後裁判で、結局なぜドミートリイが全員一致で有罪となったのか読み取ることができずもやもやした。

・作者がこの物語登場人物の一人として裁判に参加した体験記として書かれているというメタ構造面白かった。

anond:20221129133151

米国人が「翻訳とは単語そのまま現地文字に置き換える程度の単純作業」と甘く見てケチるのが原因だよな。実際は訳者主観によるリライト作業になるって認識世界的に不足。

2022-09-08

anond:20220908102746

筆者の意図したものっていう正解は存在するよ

正解が分からいか訳者の中にある正解が世に出ているわけで

まあ増田の言う通り、その千差万別なところこそが面白さかつ翻訳業が死滅しない理由だよな

anond:20220908101318

言うほど正解が存在するか?

小説漫画翻訳なら訳者によって千差万別だろう。

2022-08-18

anond:20220817134415

たったひとつの冴えたやりかた ハンカチ

「the only neat thing to do handkerchief」

Google検索するもそれらしい結果は得られなかった

大野万紀が言った説も言及されているが確証が得られない

「The Starry Rift handkerchief」

Google検索するとやや近い表現記述が見つかる

https://www.publishersweekly.com/9780312937447

Publishers Weeklyが記した分から一部引用

In all likelihood, this is destined for the same popularity as Tiptree's other work but readers must be prepared to turn down their critical facilities and get out their handkerchiefs.

この本は、ティプトリーの他の作品と同じように人気が出るだろうが、読者は批評家としての資質を低下させ、ハンカチを取り出す覚悟必要である。(deepL翻訳

ブコメにも言及あり

以下ブコメより引用

“読者は、批評家としての資質を低下させ、ハンカチを取り出す覚悟必要であろう。 (DeepL)” https://books.apple.com/au/book/the-starry-rift/id1016642994 これかな

(話がそれるが「読者は批評家としての資質を低下させ」ってのがうまくニュアンス掴めない……感動して泣いちゃうから冷静な批評できないくらいのニュアンスか?)

じゃあPublishers Weeklyって何者?

wikipediaによると……

Publishers Weekly (PW) is an American weekly trade news magazine targeted at publishers, librarians, booksellers, and literary agents.

パブリッシャーズ・ウィークリー(PW)は、出版社図書館員書店員文芸エージェントなどを対象とした米国の週刊業界誌です。(deepL翻訳

どうやらこの雑誌には書評コーナーがあるらしい

google検索でヒットしたPWが記した文というのも書評アーカイブのようだ

しかしこの書評アーカイブ書評者が書かれていない

他の本の書評にはAgent:誰々って末尾に書かれたものもあるのに……

ひょっとして匿名レビューか?

PWの書評コーナーは著名な書評家が何人かで行っていたみたいな記述もある

「PW書評家のうちの誰か」がPWに書評掲載

誰かが「この小説を読み終わる前にハンカチがほしくならなかったら、あなた人間ではない」と意訳

訳者である浅倉久志が後書きでその意訳書評を紹介

のような経緯が想像できる

これが一番もっともらしいか

追記

真偽不明だがTwitterで「ローカス賞を取った時の雑誌書評」というつぶやきが2011年時点でされていた

だとするとLocus magazine1986年刊行のものに乗っている可能性がある

アーカイブ確認すればわかるはず、だが……

ネット上にあるかなアーカイブ

https://locusmag.com/1986/06/table-of-contents-june-1986/

とりあえずローカス賞特集号っぽい月の目次だけでも

または以下データベース1986年ごろのどれかか

http://www.isfdb.org/cgi-bin/title.cgi?48424

だめだーこれ以上は実物見ないとわからん

2022-07-13

anond:20220713173437

相当重いので人を選ぶが名文だったな。

訳者を好きか嫌いかでも好みが分かれそうだが

俺の中ではここ数年の上位に来る、心に残った作品

2022-07-04

侮蔑表現を気に入るというアメリカ伝統について

最近赤松健候補をレドマツ呼ばわりするのがニガーと同種の深刻な差別問題だという主張が頻繁にされていて、酷暑残酷さに心を痛め後遺症心配するところなのだが、「ニガーを当事者が言うのはOKだが外部が言うのはダメ」という言説はちょっと違うので一言言わせてくれ。

 

この「罵倒文句を己らの呼称として使うようになる」っていうのはアメリカ伝統なんよ。

 

ヤンキーヤンキードゥードゥル

Yankeeは元々北部アメリカ人の事で、主に南部人(デキシー)が使う罵倒語だった。

ところがこれを北部の連中は気に入ってしまい、自分らの事をヤンキー自称するようになった。NY州の大リーグチームはNYヤンキースだ。今ではアメリカ人=ヤンキーという使い方も一般的だ。

一方外国ヤンキーという場合は大抵が罵倒語だ。でも当のヤンキー達は気にせず使い続けた。

 

日本の『アルプス一万尺』はアメリカ愛国歌ヤンキードゥードゥル Yankee Doodle歌詞勝手に改変したものだ。

元は独立戦争に先立つフレンチインディアン戦争時に参戦したアメリカ植民地軍を揶揄した歌だった。

軍服も揃えておらず統率も取れていない、キビキビも出来ないアメリカ人達を正規軍人の英国人達が嗤った歌詞だ。

doodleとはダラダラテレテレしてる、ボケっとしてる、暇なのでイタズラ描きするってな意味だ。特別な日にGoogleロゴ特別なモノに変わるアレもdoodleだがこれは最後意味のイタズラ描きって意味だな。

そんなアホアメリカ人が手入れもちゃんとしてるか判らん鉄砲持ってテレテレタラタラやってきたよ、あーあ。ってな感じの歌なんだな。

そもそもヤンキー自体軽蔑語なので酷い歌だ。

「いなかっぺキョロ充が街に行った。羽付き帽被っただけでダンディのつもりだ。イカしてるねぇ神聖モテモテ王国だねぇ」

ところがアメリカ人たちはこの侮蔑的な歌を気に入ってしまった。それで自分らの歌としてしまったのである

独立戦争で歌われ演奏され、独立後の米国軍行進曲にしてしまった。

ペリー日本にやってきた時に上陸後は鼓笛隊演奏で行進したのだが、その時の曲はヤンキードゥードゥルだったのだ。

 

こんな風に建国の初めからしてこうなので、「罵倒語を気に入って使い始める」というのは後にアチコチで見られるようになった。

思いつく限り列挙してみたい。

・Black

The blackとかblack manとか使われていたが、肌の色を直接に示すので差別的だった。特にトイレバス座席施設入り口区分けなどで「black」「colored」と書かれていたので猶更である

だが公民権運動で「ブラック イズ ビューティフル」のスローガンが使われると当事者プライドと結びつき、やがてblack musicなど一般化された。

ここでの意味の逆転はアメリカ伝統があっての事だ。

 

レッドネック

南部白人の事で、農作業で首が赤く灼けた様をからかった語で、保守退嬰的、閉鎖的、進取の気性が無い、低学歴民度が低い、反国家的など酷い意味が凝縮された罵倒語。

しかしこれを当人たちはポジティブ意味で使う事が多々ある。

それは「なんでも自分らでやる」というライフスタイルへの愛着と自負で、南部農家は食料の入手から機械の手入れ、家の修繕、家具作成、車の修理や改造など、何でも自分でやる。これは日本農家なども変わらない事で、全体的に器用貧乏だったり詰めが甘かったりするが都会の人間からすると広く何でも出来るスーパーマンみたいに見えるものだ。

以前、トラクター会社機械部分をブラックボックス化して信頼性を上げる代わりにメーカーじゃなきゃ修理できないようにしたら大炎上した事があった。https://jfaco.jp/column/2435

レッドネックスタイル」を理解していなかったのが原因だ。これは米国では結構大きな問題になり、欧州の「修理する権利」と結びつける形で法制化が進んでいる。

日本メーカーアップル欧州の「修理する権利」で叩かれて電池交換や社外インク可能にさせられているが、この背景にもこの「何でも自分でやりたい」というマインドがあるのを忘れてはいけない。金と財産権問題しか見えないのは飼い慣らされている為だ。

から今では米国外で何でも自分で作ってみる、直してみるのを動画にしているDIY youtuberなどもレッドネック自称している。

 

クィア

Queerは元々罵倒語で変なやつ、男性同性愛者(婉曲)とかの意味だったのだが、意味が逆転されてポジティブ意味になった。

1985年バロウズ著『Queer』の日本語は『おかま』だ。この題は訳者山形浩生が付けたのか?ちょっと意味が違うと思うのだが。つーか、1985年でも男性同性愛を一緒くたにおかま呼ばわりはしてなかったんじゃないか?どうも腑に落ちない邦題だ。

Wikipediaには頭でっかちな事ばかり書いてあるが、実際はドラッグクイーンとかのワザとらしい性的倒錯仕草クィアとよんでたのが、マジのトランス女性などが世間に認められるようになると(イスラエルのDana Internationalなど)弾き出されて「LBGTに収まらない性的違和」を是認する意味になったとう感じだ。

この辺の変化、日本だと90sドラッグクイーン代表井原秀和円奴S(まるやっこスーパー)が女性目指すようになったのが象徴的。90sのクィアポジティブ化は米国ハウスシーンと共にあった。

 

・米民主党シンボルとしてのDonkey(ロバ)

ロバには馬鹿間抜け、グズ、ウスノロノロマ、うすらバカ等の含意がある。

勘違いしてはいけないのは、当初の民主党南部農民支持層保守政党で黒人奴隷解放に大反対していた。民主党共和党共に今と支持層、支持地域が逆転しているのである

大統領選で、そんな南部民主党出身大統領候補アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)をスマートで都会的な北部共和党議員たちがjackassと詰って呼んでいた。jackassは雄ロバの事だが、馬鹿間抜け、グズ、ウスノロノロマ、うすらバカ等の意味もある。

これをレドマツさんじゃなかった、アンドリュー・ジャクソンは気に入ってしまい、「アンドリュー・ジャッカスです(観客ワハハ)」とか自陣の象徴として使ったのである

それでその後もそのうすらバカでグズで間抜け象徴であるロバを大統領選で使うようになって今に至るというわけだ。

 

・Trap

ビデオチャットで「いい女やな~」「ぎゃ!ちんこある罠や!」っていうイタズラが元々なんだけど、すぐに生えてないなら興味ないっていう増田みたいなのが増えてtrapは売りに。

これはアメリカ伝統関係あるだろうか?3%ぐらいは関係ある気がする。付いててお得だし。

 

映画アンタッチャブルでの一コマ

1987年ブライアン・デ・パルマアンタッチャブル 』では主任捜査エリオットネスがガサ入れでヘマした所を記者写真に撮られ新聞トップ記事にされ、その記事オフィスに貼るシーンがある。

これもアメリカ伝統があっての事なんだろう。屈辱に耐えるのではなく、「侮辱を気に入る」のだ。それが先人がしてきた事だから。 

 

という訳で単にいつの間にか意味が逆転してしてしまうのではなくて、アメリカ場合侮辱を気に入る」「恒久的に自分表象にする」というコードがあるのだ。単に悪口を逆手にとって「○○ですが何か?」というのと違うのはその語をずっと使うって事だ。逆手に取るのとは違うマインドなんである

 

からニガーを当事者けが言ってもいいというのはこのアメリカ伝統の過渡期にある可能性があって、そのうち普通に使われるようになるかも知れないって事である

だったら差別語は何言ってもいいんだな、とか言って差別発言で炎上して失職したり家が突き止められたりというバカが出るのもネットの常である

2022-05-21

ハリースタックサリヴァン入門』

一読して、同性愛をめぐる主題の取り扱いの薄さが気になったのだが、筒井亮太の解題に指摘があった。

「[...]実のところ、サリヴァン個人セクシュアリティの部分は、後続する類書(本書もその例外ではない)において巧妙に回避され、正面きって論じられることが少ない。その点を鋭く指摘したブレッシュナー(Blechner 2005)は、サリヴァン病棟管理実践をはじめとするさまざまな着想の背景には彼個人同性愛(とその社会的苦境)が大きく関わっていると言う。ゲイ公言しているブレッシュナーのもとには、サリヴァン記述しているような患者が多く訪れており、患者たちは周囲の「ホモフォビア」によって傷つき苦しんでいた。その臨床経験も含めて、彼は、サリヴァンの対人関係論を理解する上で、性欲同や同性愛の側面を除外せず、考慮するように強く主張している」(313 f.)

訳者はこの点(巧妙に回避されていること)をどのようにとらえているのだろうと思った(「ゲイ公言しているブレッシュナー」という書きぶり・・・)。

Mark J. Blechnerの論文は、ウェブ上で入手でき、『精神病理学私記』を読み解くのに有益情報がいくつかあり面白く読んだ。

The gay Harry Stack Sullivan: Interactions between his life, clinical work, and theory

http://www.wawhite.org/uploads/PDF/E1F_2%20Blechner_M_TGHSS.pdf

同性パートナー、Michael Allenによれば街娼であった、を養子したことや、相互フェラチオ、いわゆる「69」への着目の背景、意味サリヴァン著作表紙にみられる陰陽図を模したような白と黒の馬の頭部の図柄)等の下り特に興味深かった。

調べると訳者Twitterアカウント運用している様子。明らかに個人特定されうる投稿内容なのだが、同氏を含め特定可能な仕方でSNS運用する心理臨床家は、自己開示をめぐる職業倫理についてどのようにとらえているのだろう。

2022-04-03

生き残るための手段としての「ロシアに対するキャンセルカルチャー

原文

https://lb.ua/culture/2022/03/18/509953_cancel_russia_yak_instrument.html

ヴォロディミール・シェイコはウクライナ研究所日本国際交流基金にあたる)の長で、ウクライナ文化外交責任者訳者感想最後に。

ロシア侵略開始からわずか数日後、ウクライナ文化関係者および団体は、国際社会に対してロシアに対する「文化制裁」を実行し、プーチン政権ロシア資本から直接的・間接的に支援されている人物団体に対する協力の停止を呼びかけるアピールを出した。

ウクライナ研究所は、国内海外パートナー団体専門家ネットワーク代表500人以上に対してアピールを送って拡散することを依頼し、それとは別に欧米学術団体大学に対しても書簡を送ってみた。この「文化制裁」に対する公開書簡には3800人以上のジャーナリスト人権活動家教育関係者文化人たちが署名していて、在外ウクライナ人たちも同様のアピール拡散している。

ウクライナの主張に反論することはできないだろう―――ロシアによって仕掛けられた戦争は、明らかに国際法違反しており、罪のない人々を数千人も理由なく殺害し、歴史的建造物意図的破壊しているのだから。この状況で侵略者と文化的に協力することは戦争犯罪正当化することであり、ロシアによる印象操作のために新たな場所提供することに他ならない。ウクライナ研究所声明の中で、ロシアが数十年もの期間にわたって文化政治的プロパガンダ手段として利用して国際的評価を高めることで、世界の注目を他国への戦争犯罪から逸らしたり、人文学において帝国植民地ヒエラルキー体制確立してきたことを指弾した。このロシア行為に高名な学者キュレーター美術史家、財団理事美術館フェスティバルフィルハーモニーたちは加担してきた。彼らは2014年以降もロシア政府機関に進んで協力してカネの出所無視して見なかったことにしてきたし、そんなロシア芸術的プロジェクトを通じて広められた有害非科学的な主張に対して反論することもなかった。その象徴的な事例が、ニューヨークMoMAロンドンの王立芸術院パリグランパレ十月革命百周年の2017年に開かれた「ロシア芸術」の豪奢な展覧会だろう。ロシアから最恵国待遇」を受けてコレクションを借り出したキュレーターたちは、ロシアウクライナその他の国の芸術を盗み出してきたことを見なかったことにしたし、その全体主義的な芸術を無批判に美化することを止めようとしなかった。

ウクライナ爆弾が落ちた2022年2月24日、「素晴らしいヒューマニズムロシア芸術」というメタファーはようやく消し飛んだ。それでも、文化プーチン政治戦争責任と切り離して考えることができるという信じている数百万の海外の人々にとって、トルストイドストエフスキーショスタコーヴィチあるいは「ロシア・アヴァンギャルド」は心の中で生き続けているようだ。

世界ウクライナとの連帯過去に類を見ないほど広がっており、世界文化界は言葉と行動によってウクライナに大きな支援を送っている。しかし「ロシアに対するキャンセルカルチャー」に対して西側が示した反応は、ウクライナ文化外交課題を投げかけた。

メトロポリタン歌劇場カーネギーホールバイエルン歌劇場などの多くの団体は、指揮者であるゲルギエフ歌手ネトレプコとの契約を打ち切って、ロシアアーティストと協力しないことを公表した。カンヌ映画祭ロシア代表団と政府関係者の参加を拒否した。それとは裏腹に、ロンドンロイヤルオペラハウスウクライナ戦争を「人道危機」とした上、ロシアについては何も言及しないという恥さらしの声明を発表した。私たちコンタクトを取った人々の多くは、ウクライナ難民支援することを口約束する程度で、ロシアとの協力を停止する呼びかけには大した反応を見せなかった。思っていた通り、ポーランドリトアニア団体が最も毅然とした態度をとって、ドイツペンクラブは「真の敵はプーシキンではなくプーチンだ」という声明を出し、フランス人たちは沈黙した。

そして、西側文化学術団体ウクライナロシアの「和解」や「異文化交流」を推進する事業を始めたようだ。注目すべきは、彼らがどうやら戦争が始まって4週間でのウクライナにとっての「和解」の必要性への無関心だろう。ロシア人を「プーチン政権犠牲者」と位置付けることで、戦争犠牲者となっているウクライナ人と同じ「犠牲者」として等しくとして扱うような形で、ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人を一緒くたにした沢山の事業が始まった。

こうして、23もの長期にわたってプーチン政権継続してきたことや、ウクライナでの起きている戦争や、ロシア社会政治的受動性、あるいは市民抵抗が失敗し敗北してきたことにに対して全てのロシア人の責任をなかったことにしたいのだろう。他にも図々しい連中はいる。フリードマンカーンというロシアオリガルヒによって資金提供を受けたことにより度し難い妥協施設となったバビ・ヤールのホロコーストメモリアルセンター芸術監督イリヤ・フルジャノフスキープーチン犯罪と戦うことを要求する書簡署名した。これがウクライナ世論の怒りに火をつけたことは言うまでもないが、逆にブリュッセルワシントンベルリンでは歓迎されたようだ。

これは偶然そうなったわけではない。西側ウクライナロシア関係を完全に誤解してるし、ウクライナには独自文化アイデンティティもない軽視すべき存在だという考え方を持っているのだから。よって、国際社会にはロシアによる戦争が新たな植民地主義であることや、ウクライナが脱植民地を目指して何世紀にもわたって独立運動を繰り広げてきたということを理解してもらう必要がある。ロシア帝国主義とウクライナ独立絶対に両立しない。ウクライナ武器で遊んでいるのではなく自らの独立をかけて戦っているのである。だからこそ、軍事だけではなく文化も同様に重要最前線なのだ

ウクライナロシアへのボイコットを呼びかけていることへの見下した反応や、侵略者とその犠牲者を「和解」させようとする一際魅力的な欲望は、西側が持つ植民地主義的な考え方を強く反映している。この考え方の根底にあるのはロシアが中心でウクライナ辺境であるという先入観で作られた世界観だ。これは権威あるロシア文化は周辺の人々の生死よりも重要なことで、ロシアの言うことは聞くべきだが、周辺の人々の言うことに価値はないという考え方だろう。そのようなパラダイム解体なくして「和解」や「対話」もあるべきではない。

ロシアとの和解は遠い遠い未来に始まる―――まずはロシアドンバスクリミアを含むウクライナ領土から完全に撤退し、国際法廷で戦争犯罪が裁かれ、ウクライナ賠償金を支払わなければならない。プーチン政権は打倒しなければならないし、その後に生まれ民主的政府市民社会メディアウクライナへの犯罪を認めて謝罪しなければならない。そのようなロシア社会自己批判深い反省があって、ようやくその時になって始まるのである

もちろん、こんなバラ色のシナリオが待ち受けていることは分かっているが、だからといってウクライナ今日にでも妥協しなければならないということでもない。ロシアとの「和解」を急ぐことは危険なことだ。それは旧来の考え方に基づいたロシアによるウクライナの再植民地化が開始されることを意味している。要するに、ウクライナを再び文化辺境へと押し戻し、ロシアが「スラブ」「ポストソビエト」「ユーラシア」の中心であり続けるということだ。世界ロシア帝国主義や植民地主義の知識人さらに深く和解することを望むだろう。そうすれば、ウクライナ自分たち意見を反映した和解のあり方を作るチャンスを失ってしまう。

戦後ロシアをどうするか」は、ポストコロニアル研究には重い宿題となる。ロシアは脱植民地化の苦痛という歴史経験しなかった不幸なほど時代遅れの国だが、なぜかは分からないが西側はそのことをよく理解していないらしい。この戦争はそんな西側の目を覚ます機会となるだろう。新しい視点コミュニケーション共存の新しい在り方を作っていく機会なのだ。それは理論だけではなく、より重要なのは法的、経済的、人道的な政策として具体化されるべきで、ウクライナはその創造者の一人とならなければいけない。

これが現在ウクライナ文化外交が目指すべき到達点だ。これは長期的な目標になるだろう。ロシアとの戦争という状況下においての文化外交は、対話和解を促進するべきではなく、ロシア文化的・言語的な支配という脅威に対して抑止力として機能することで、私たちアイデンティティを守らなければならない。

それが私たちが生き残るための手段だ。

解説感想

訳は下訳を作って機械翻訳とも照らし合わせて作りましたが、あいにく初学者なので文責は持ちません。

ウクライナ研究所はそのブリティッシュカウンシルに範をとった機関として2017年設立されました。ヴォロディミール・シェイコはブリティッシュカウンシルで働いた経歴のある人物ですが、日本wikipediaで所長として示されている指揮者の人とは同姓同名の別人です。

lb.uaはそこそこウクライナでは有名なニュースサイトで、元々は週刊誌web版です。

で、このコラムは前半はアリキタリで面白くないんですが、後半から西側批判面白い部分かなと思います特に文化界にありがちな既存ヒエラルキーを温存した形の「和解」を強要しようという流れを戒めているわけですな。

最近流行りのネオナチ問題に絡んでウクライナ右翼問題言及しておきますと。

途中のバビ・ヤールについてですが、このメモリアルセンター地元ウクライナユダヤ人たちによって反対運動が起きたほど国内では評判の悪い施設です。要するにロシアによる情報操作の一環として「ウクライナ反ユダヤ主義的な国であるかのような展示」をするのではないかと考えられていたようで、ウクライナ情報機関SBUが「その証拠は今のところ存在しない」という文書を出すに至り、センターがその御墨付をWebページに掲載しているほどです。フルジャノフスキーセルフプロモーション目的クズ扱いされてました。まあドンバス内戦やらせてる奴の身内連中が集まってきて虐殺を記念するセンターを作ろうなんてグロテスクな話ですわな。

それと、元からウクライナユダヤ人というのはロシアはもちろんのことイスラエルを中心とした西側ユダヤ人社会とも折り合いが悪く、この反対運動の先頭に立っていたYosyf Ziselsなんかは西側ネオナチ扱いされているほど評判が悪いようです。なぜかといえば、このYosyf Ziselsを始めとしたウクライナユダヤ人というのはソ連時代反体制派の経歴を持つことも多く、独立以降はウクライナ意識が強烈だったりするんで、平気でWW2時代の「ナチス協力者」を擁護しちゃったりするんですな。まあ自分たちユダヤ人建国した国という意味ではイスラエルに負けてへんぞ!みたいな意識があるんでしょうな。

なのでウクライナ右翼の金主の一人であるコロモスキーユダヤ系だったりするのは、それほどおかしなことではありません。

よってウクライナ極右というのは、西側ネオナチよりも、日本の「任侠右翼」と類似しています靖国神社とか橿原神宮に集まってる右翼のお兄ちゃんが数年後に民団役員やってるのとかと同じで、思想的背景にはほとんど意味ありません。欧米学者ジャーナリストは「犯罪組織公然部門としての右翼団体」みたいなもの理解できないので頓珍漢な「サッカーフーリガン起源説」を唱えるのですが、そんなものコロモスキーが金主になるわけもないし、戦闘力が高い説明がつかないでしょう。要するに軍事経験のある右翼アニキ愚連隊を抱えて作ったお国のための組織という説明日本人ならすぐ分かると思うのですが、これが西側の人には理解できないようです。

鈴木智彦さんがちょっと笑い話みたいな形で織田絆誠のPMC構想をウクライナと絡めて話していましたが、ウクライナ極右グループは実際にチェチェングルジアで得た戦闘経験を元に国家機関までのし上がったわけで、割と笑い話にもできません。まあ日本暴力団と同じで、なんだかんだお上には絶対に逆らえない性質があるので、ナチス紋章がどうだとかは暴走族旭日旗振り回してるのと同じだし、奇妙な儀式とかやってるのはヤクザ盃事みたいなものだと思って受け流せばよいと思います

というわけで反乱の懸念もないどころか、国家親衛隊普通大隊の方がヤバい奴多いと思ってるんですよ。なんせ2014年には自腹でも戦争したいって連中が集まってたわけで、金目当てだの兄貴分に言われて参加しただのの方が理由としてはいくらかマシでしょう。ただまあ、いつか武装解除した時には犯罪者を野に放つようなものなので、単純に治安悪化することを懸念してなくもないです。

2022-03-16

目出度く「ゴルディアン・ノット作戦こと21世紀ABCD包囲網の打破を目指すロシアン真珠湾概要公表されたので訳す。なお註釈のうち文中のものはすべて英訳者により、数字のものは註釈ではない和訳者のたわごとである。例により和訳者は頭の悪いのと精神病質者が大嫌いだがまあ共産趣味者とかインテリゲンツィヤとかアリストラット労働者を"対象"と捉えるのは今に始まったことではないか特に後ろめたく考えてはいない。

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第三次世界大戦は始まったようだ; 同僚たちはシャンパンの封を切っている[1] - イラン米国間の戦争は核合意を阻害しロシア産原油イラン原油による置き換え余地を封じる。ホルムズ海峡の避けられぬ封鎖は原油価格をうなぎ上りにする。筆者は[ロシアイラン間の]一般的には理解不能合意がある可能性すら信じているが、裏付けるいっさいの事実は持ち合わせていない。

今日はただわれわれ[組織としてのFSBにとって、#WindofChange個別ではなく]の目から見て差し迫ったロシアの"出口"と、クレムリンの"廷臣"について伝えようと思う。(帝政における皇宮について言っている)

これは(実際の摘要の)"複写"ではないがきわめて正確な再話であり、いかように扱ってもかまわず、内容を伏せずに全文を転載してもよい。

この作業はまだ取り掛かったばかりであるので現在はまだ輪郭があるのみで、最終的な報告書は分量があり、詳細で、より堅固になる。今はイラン-米国紛争にかかりきりであるので、筆者はのちより自身の(この新計画に対する)意見をくわえる予定である。『ゴルディアスの結び目』は深く修正・適合される(イランが在イラク米軍基地ミサイルを発射しているため)。

ゴルディアスの結び目』作戦


  • 第二段階: (西側の)反応の分析 - 1-2日間。 V.に.か.ん.し.て.永.遠.の.謎.が.あ.る.─.か.な.す.こ.や.の.帽.で.あ.る.。.ロ.ー.ル.と.声.の.権.威.的.圧.が.整.合.し.な.い.。







  • 4) 明確な協調した信号が(西側から)訪れない場合、これは考えにくいが許容されると思料されるが、挙動(ロシアの)は状況 #2と類似する(同じく)。某.な.ち.ゃ.ん.寝.る.は.よ.い.の.だ.た.だ.の.イ.ン.タ.ー.ネ.ッ.ト.だ.か.ら.。.お.か.げ.ん.は.M.D.,I.r.l.だ.ろ.う.。.女.の.趣.味.も.幼.児.退.行.の.仕.方.も.い.か.に.も.だ.。


  • 上の(6つの)すべての状況において、左記の仮定は極めて確度が高いと分析される:

註釈

2022-03-09

anond:20220307185236

ジェルばんは! 気に入らない点があったので全訳を投下しておく。なお校正ではないが元の訳と一致している部分があることは否定しない。先駆者感謝する :

最近ほとんど眠れていない。ずっと職場にいて、brain fog[頭に霞がかかっている症状]を感じる。[そう感じるのは]過労のせいかもしれないが、自分が超現実的世界にいるように感じている。

パンドラの箱は開いた──夏までには真の世界的恐怖が始まる──世界飢饉は避けがたく[1]、なぜならロシア及びウクライナ小麦の主要生産者である。[英訳者註: 訳者世界飢饉を招くという考えには同意しない。] 筆者は指導部において何ものがこの[ウクライナ侵攻]作戦の実行の進行の決断を手引きした[2]のかについて述べることはできないが、しかし、いまや彼らは方法論的に我々[FSB]を非難している。我々は我々の分析結果についてしかられている。近頃は我々に対しさらに多くの報告書を提出させる圧力が高まっている。あらゆる政治的コンサルタント政治家権力者混沌引き起こしている。もっと重要には、かような戦争が起こることは誰も知らなかった──誰もから秘匿されていたのだ。

例えば──あなたロシアに対する隕石攻撃による様々の影響や結果を分析せよと言われたとする[英訳者註: 西側制裁を指すと思われる]──然してあなた攻撃様態調査し、そしてこれはたんなる仮定の話で詳細は重要ではないと言われ、そこでこの報告書はたんにいずれかの官僚検査項目を埋める目的のもので、分析結論ロシア好意的ものでなければならず、さもなくばよい仕事をしないことについて尋問されると考える。然して作成者は、我々は所与の攻撃形態について、すべてその影響を無効化する手法を持っている、と書くのである。我々はまったく過労状態にある。ところがそののち、たんなる仮定現実に変わったことが明らかになり、そしてそのたんなる仮定に対して我々のなした分析はまったくのがらくたなのだ。我々が制裁に対して回答を持たないのはこのためである。誰もそんな戦争がくるものとは知らないから、誰も今般の制裁に対して備えていないのだ。これは秘密性の裏返った結果である──皆とも暗闇におかれているのに、どうして備えができよう?

カディロフは乱心した。ウクライナ人がキエフにいる彼の部隊に関する情報FSBから入手したと主張したため、我々[FSB]は彼との衝突に近いところまで行った。カディロフの部隊戦闘の機会を得る間もなくまったく破壊され粉々になった。筆者にはあれがFSBから情報漏洩であったかはわからないので、可能性として1-2%は見てよいと述べよう。──しかしこの可能性を完全に排除することはできない[和訳者註: 栄えあるFSBリークすることなどない、と言っている]。わが電撃戦は完全に崩壊した。この任務完了することは不可能である: ゼレンスキーとかの閣僚[deputies]が緒戦の三日で確保され、主要建造物制圧され、そして国内降伏演説を読み上げることを強いられたならば、ならばウクライナ抵抗は霧消し最小限となっただろう。理論上は。

しかし、そのあとは? この _理想的_ な結果においても、解決不能問題が残存する: 我々と交渉する対向側には誰が就くのだ? ゼレンスキー排除したとしよう──いいだろう──誰が文書に調印する? ゼレンスキー署名したのでは彼を排除したのちには意味がなくなる。ОПЗЖ(ロシア協調しているウクライナ野党)は強力を拒否した。臆病者のメドベドシュクは逃亡した[和訳者註: メドベージェフではない]。他にも指導者──ボイコがいるが、彼も拒否したし、彼の取り巻きさえ納得はしないだろう。ツァリョヴァを引き戻したいものだが、我々ロシア側の者でのなかでさえ彼には反対がある。ヤヌコヴィッチを連れ戻す? どのように? もし我々が占領できないというのであれば、新政府は我々が撤退すると同時に10分で崩壊するであろう。占領する? そんな人員をどう確保する? 占領司令部憲兵隊、対諜報、保安──ウクライナ人の抵抗を最小限と見積もっても、補給兵站を除いて50万から人員必要になる。ひとつ法則がある──質のよくない指導力を量で補おうとすれば、全てが悪化するのだ。繰り返しになるがこの問題は _理想的な状況_ における問題であり、そしてそんな状況は存在しない。

そして今度は何か? 我々が全軍動員を発令することができない理由が二つある:

1) 動員はロシア国内の状況崩壊を招く: 政治的経済的社会的[状況]。

2) 我々の補給線はすでに過伸展状態にある。ウクライナに状況対処部隊を送ることは可能であろう、しかし我々は何を得る? ウクライナ──[彼らは]領土大国、彼らの我々への憎悪天文学的である。[3] 我々の道路はひらたく言ってそのような車列の補給を担えず、すべては停止状態へ至る。そしてこの混沌では我々は管理から成すこともできにあ。これら二つの理由は並列に存在するが、しかし一つだけでも全てを破壊するに十分である

こ/の/文/章/を/読/ん/だ/お/ま/え/た/ち/は/雄/宙/武/山/原/石/に/し/て幌/来/部/取/締/役/組/の最/古/こ/と/星/街/す/い/せ/い/の/チ/ャ/ン/ネ/ル/登/録/を/し/ろ

ロシア軍の損失に関して: 筆者は状況を知らない──誰も知らない。当初の二日間は多少の情報があったが、今やウクライナで何が起きているのか誰も知らない。我々は複数の主要師団との接触を失った。(!!)[和訳者註: 露軍の場合師団(旅団?)1あたり5千人] 彼らは接触を再確立するか、あるいは攻撃により散逸するものか、そして指揮官も何名が戦士、負傷、あるいは捕虜となったものか知らないのだ。総死者数はまちがいなく千の単位であり、一万か、五千か、あるいはわずか二千かもしれない。しかしわ司令部にあっても誰も知らないしかロシア兵一万の損失に近いであろう。そして我々はDNRとLNRの損失を計上していない[和訳者註: ドネツク人民共和国、ルハンスク人民共和国。先の侵攻で樹立したロシア傀儡国家。] いまもし我々がゼレンスキー殺害ないし捕虜としたとして、何も変わらない。我々への憎悪はチェチェニアと類するものである。そしていま、ウクライナにおいて我々に忠実であった者すら、公に我々に反抗しているのである。なぜならこれらすべては(ロシアの)頂点において計画されているものであるため、なぜなら我々にはかような事態(ウクライナ侵攻)は我々が攻撃を受けるのでない限り発生しないと伝えられてきたため。なぜなら平和的に交渉による結果を引き出すため我々は脅威度を最大限に高めねばならないと伝えられていたため。なぜなら我々は一切ウクライナ侵攻を考慮することなウクライナにおけるゼレンスキーへの抗議活動を既に準備していたため。[4]

2022-02-12

anond:20220212010453

アニメの底本になった古川日出男訳読んだ程度の理解だけど(以下ネタバレくそもないけどネタバレかもしれない)

邪魔者はどんどん殺そうという感じでは意外とないんだよな。禍根が残るし宗教もあるから

たとえば源頼朝義経父親平治の乱を起こして平家に追討されたけど、平家頼朝義経までは殺さなかった

そのせいで後年追い詰められることになる


平家は徳子を天皇家に輿入れさせて息子を産ませる。これが安徳天皇になると、平清盛天皇祖父だってことになってますます権力を持つ

権力の源泉はもう一人の祖父、つまり後白河上皇から血縁からこれを処刑したりするのは都合が悪い(平家物語だと清盛は討ちたがっていたけど)

一方で以仁王は無理に担ぎ上げられた後白河の子で、平家にとってはもちろん朝廷からしても後白河-高倉-安徳と続いたラインを乱すものとして白眼視され、

挙兵きっかけに平家圧力皇族としての地位を奪ったので殺してヨシ!となった。朝廷への反逆は大義名分として掲げやすいので、とにかくこのロジックを立てようとする

後鳥羽天皇安徳天皇の異母弟)は、もっともっと話がこじれてからの話で、

力を失った平家絶対死守したい安徳天皇三種の神器を持ってトンズラこくという最終手段をとったので、「じゃあもうこっちで天皇立てるわ」って神器なしで朝廷側が立てた

訳者も書いてたけど平家物語って意外と戦の占める割合が少ない。政治交渉宗教、情愛の話が多いよ

2022-01-26

男性皆殺し協会なるものについて

https://twitter.com/TomoMachi/status/1484766107533594624

町山氏が、引っ張ってきた「男性皆殺し協会」なる謎ワードについて、整理してみる。

大本は、ヴァレリーソラナスが書いた"SCUM Manifesto"なる文章。SCUMはSociety for cutting up man.直訳すれば「男を切り刻む協会」だろうか。過激フェミニスト宣言に読めるだろう。確かに、そういう意図もある。一方で、SCUMというのはクズという意味でもある。

もし男を切り刻むことを崇高な正義であると考えて真面目に主張するなら、その団体頭文字クズにはしないだろう。つまるところ、これは風刺であり露悪、自虐を含むブラックジョークなのだ

ウィキペヂアでも、この宣言は、a satire or parody(風刺あるいはパロディ)とされている、と、書いてある通りである

もちろん、風刺ネタなら何を言っていいというものでもない。上記文章に対するツッコミなり批判なりは当然あるだろう。その上で、この文章1967年文章であり、現代フェミニストが、これをそのまま信じてるかというと、そんなこともない。書かれた当時から風刺であり、現代ではなおさら真に受けるもののいない宣言文を、今、持ってきて「喧嘩をやめて」と嘆いて見せるのは、的外れもいいところだが、そこには、どういう意味があるのだろうか?

町山氏が持ってきた「方法論的女性蔑視」は、雁林氏であり、雁林氏の誹謗中傷を巡って対立していたのが、北村氏。上記文章は、この北村氏が翻訳したものである。つまり、雁林氏の主張である方法論的女性蔑視」と、北村氏が翻訳したにすぎない「男を切り刻む」を対立させたわけだ。

言うまでも無いが、過去の文献を訳して紹介するのは、過去のことを知るために意義があることであり、「差別的な文献を訳したか差別者だ」というのは、いいかがりも甚だしい。

ちなみに北村氏は、SCUMを「男性根絶協会」と訳している。それがなぜ「男性皆殺し協会」になったかというと、以下の記事に詳しい。

https://b8270.hateblo.jp/entry/20210327

要は、北村氏の発言切り貼りして、北村氏が、「去勢におびえる男性陣がびびるだろうね!楽しいな!」と言っていたかのように誘導しているデマ記事である。そのデマ記事が「男性皆殺し協会」という訳語を使っていたということだ。

そうしたデマ記事由来の用語を使いつつ、北村氏の名前はあげてないか関係ない、というのが、町山氏の主張だが、非常に信じづらいし、もし本気でそう思ってるなら、誤読を招く文章であり、反省すべきだ。

https://twitter.com/tamai1961/status/1485418191333457923

町山氏も大概だが、さら問題があるのが、こちら。

「受講している男子学生には同情しますね。

成績評価場合、「皆殺し」はありうるので。」

風刺文のタイトルを、文字通りの意味で真に受けて、かつ、訳者がそれと同じ思想だと信じ、それによって、教員として絶対に許されない差別をすると決めつけている。

悪質な誹謗中傷であると言える。

2021-09-23

anond:20210923161411

元増田です。

 

単語」にしたのは、「タイトル」「セリフ」「用語」などを全部包括したかたからです。「終わりの始まり」なんて、色んな場所で聞くけど、タイトルセリフ用語のどれとも言えないし。

 

それにしても、皆さん、色々とありがとう。五七調の日本語は耳に残りやすく、声に出して読みたくなるね。皆さんの知見と、作家訳者編集者に敬意を。

2021-09-13

anond:20210913193904

サンデルの本を和訳した訳者編集者が考えたんじゃねえの

英語で実力も運のうちってどう言うんだろう

2021-08-28

アイアンリーガーに騙された -2-

1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき

プログラムされた意思

 第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。

 もちろん、ショックサーキット自体第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団ロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。

 だが第九話から続くトップジョイ物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである

 トップジョイが――シルバーキャッスル好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。

 第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。

 これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイ本心だ。彼は本心ラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋交流を楽しんでいる一方で。

 同時に、九話ではトップジョイ過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイ根底にある。

 彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットけが理由ではない。もっと根底の、自分存在のものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである

 これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間役割を与えられ、それに相応しいように設計プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。

 作中で、ロボット意思思考、心が人間プログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボット人間赤ん坊と同じようにまっさら状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である

トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボット機能・性能は、つまり製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格プログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。

製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)

 だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格チームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身純粋から本来スパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。

 そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか

 人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか

 人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。

 そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。

 S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。

 S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。

 第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。

 しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的シルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。

 S-XXXにも、心は存在した。

 なぜS-XXXの製造者が「兵器であるロボット「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである

 もしかしたら「心」というものは、それは製造者意図的ものではなく、自分学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。

 いずれにしても、例え人間ほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。

 にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。

 ロボットは、人間によって役割定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである

 この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボット役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。

 一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。

 僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。

 しかし、である。一通り憎悪煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。

 ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。

人間ロボットロボット人間

 僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。

 頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。

 月並み言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。

 そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚人間ロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界

 第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。

 それはつまり人間もまたロボットと同じであることを意味する。

 この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である

 しかし、完全に自由人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師学生、老人、若者、友人……そういった役割立場を与えられ、家庭環境ジェンダー経済力文化時代価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種プログラミングである)。

 真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己存在意義を証明し続けることを要求される。

(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)

 その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。

 もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。

 しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである

アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間隠喩象徴であると述べたそうだ。そして訳者浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。

 こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である

 と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボット人間象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。

 これについては、象徴隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがき引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)

ディックにおいて、人間アンドロイド生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上区別には関心がない。(中略)ディック世界では、そもそも人間機械自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディック社会思想」)

アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味であるいかに彼らのルーツに薄ら寒い人間欲望が渦巻き、彼らの意志人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。

 彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである

3(https://anond.hatelabo.jp/20210828220439)につづく

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