はてなキーワード: 輪郭とは
めちゃわかる。
自分は4浪して東京藝大入って、絵の先生とかもやった(大学入試共通テスト/センター試験を5回受けたので、ガチの4浪)。
「絵が上手いですね」って言われることもあるし、「どうやって上手くなったんですか?」「生まれた時から才能ある人は違いますね」とか色々言われてきたけど、絵のうまさについて言及されるときに、まず最初に言うことがある。
「楽器や運動と同じで、小学校に通うくらいの年月、朝から晩まで毎日ひたすら鍛錬しました」「4浪してる間、受験をサポートしてくれた両親に感謝しています」
相手が子供だろうが、必ず「鍛錬」とかそれに類するワードを使う。「絵を描いてた」だと趣味的なイメージしかできない人がいて、「努力していた」のが伝わらないから。
仲が良かった後輩が先に藝大に受かってしまった日に、死ぬほど悔しくてそれまで描いたデッサンを全て破り捨てた日の話とかもする。
「ずるい」って言うタイプの人は、そこで「鍛錬…!?才能じゃないの…?」って思うのか、単に青春を鍛錬に捧げた狂人が目の前にいると思うのか黙る。
子供が美大志望の親御さんは、才能が不要であることに安堵したり、逆に覚悟が決まるっぽい(流石に少子化のこのご時世に4浪は稀だとも伝えるよ)。
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思えば、音楽や体育の授業と違って、小中学校では具体的な技術を教えるわけでもなく、なんとなく巨匠の絵にふれつつ「のびのび絵を描こう」みたいな雰囲気に終始する。
そのせいなのか、美術だけは「生まれ持った才能」みたいな神話があるのかな、と漠然と思うことがある。
スポーツ選手や演奏家みたいに日々の鍛錬が肝要だし、めちゃくちゃ上手くなるためには血の滲む努力が必要なのは一緒なんだけどね。
あ、蛇足だけど、絵を教えてたこともあって非常に稀に「才能がある」子にもたまに遭遇します。
ただ、そういう子は、とてもピンポイントで使いどころが限定的なPERKを、生来のものとして持ってるってイメージ。例えば「目の前のものの色だけは、正確に捉えられる」とか「目の前のものの輪郭だけは、画面上に正確にコピーできる」とか。
結局そういう「絵の才能がある」子たちだって、他の要素はまるっきり素人なので、絵が上手くなるためには鍛錬が必要なんだよね〜。
ゲームと同じで、漠然と「なんかすごくつよい」みたいなPERKがないのと一緒。「絵が上手い」みたいなPERKは存在しない。
(自分は生まれる時に、絵に関連するPERKを一つも選択しなかったらしく、ひたすら努力で全てをカバーした)
ともあれ、両親には今も本当に感謝してるし、当時頑張った自分にも感謝してる。あそこで努力を怠って合格しなかったら、全然違う人生歩んでただろうな。今はあんなに努力できないや。
Black Tape Project(ブラックテーププロジェクト)は、アートとファッションの分野で活動しているクリエイティブチームによるプロジェクトです。このプロジェクトでは、モデルの体に黒い粘着テープを使用して、ジュエリーや水着のようなエレガントなデザインを作り出します。
このプロジェクトは、社会的な問題に関連するものではありません。その代わりに、美的な表現やファッションの世界での実験を追求しています。黒い粘着テープを使用することで、身体の曲線や輪郭を際立たせ、アートとしての美しさを追求しています。
したがって、Black Tape Projectは奴隷市とは無関係であり、むしろファッションやアートの一環として位置付けられています。
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
りんちゃんの体型、顔が好みすぎて、あああこの顔に私も生まれたかった!!りんちゃん大好き!!と思ってる34歳デブス女です
りんちゃんのビジュアル好みすぎて美術館の美術品を愛するようにりんちゃんを愛してるけど
それでも、さんま御殿に出てくるりんちゃんでも充分美人の部類に入るし、動画のりんちゃんが美しければ作品として完成されてるんだからいいんじゃね?と思う
実際のりんちゃんの顔も気になるしりんちゃんに会えるイベントがあるなら
ぜひ北海道に行って会ってみたい
りんちゃん、もう地上波にはでてこないんだろうなあ。YouTubeで活動してほそぼそと暮らしていくんだろうなぁ
おじさん受けする絶妙なパフォーマンス、返しをするりんちゃん好き
透明感とか色気とか、ショート動画でファンに何回忠告されても生肉を食べるところとか
野生のキツネを抱っこしましたとかほんとなのかうそなのかわからない発言してるとことかも含めて好きなんだよな
北海道の湧き水を「この水は飲めます!」と動画に出してたけどコメントで「北海道で飲める湧き水はありません。エキノコックスに感染するおそれがあるからです」と注意されていたけれどりんちゃん、今もペットボトルで湧水組んで飲んでるのかな
あのさあ
食うのが好きで止められないから太ってるだけだろ?
ナンパがどうとか人のせいにするのやめろよ
156cmで85kgってとてつもねーよ
181cmでウエイトトレーニングが趣味の俺と大差ねーじゃん
俺の骨格で俺の筋肉量でもそうなんだぞ?
156cmの筋肉もない女が85kgってお前それは脳が壊れてるよ
たぶん俺が120kg超とかになるのと等しいだろ
そんな体になるのを想像しただけで苦しいわ
ナンパが嫌なら化粧しないで頭丸刈りでもしとけばいいじゃねえか
お前は単に食うのが好きすぎて少しずつ脳が壊れて
今もう食事の歯止め利かなくなってるだけだろ
なんかサモ目的があって敢えて太ってるんだみたいに言うんじゃねーよ
それがナンパだってなれば人のせいにもできて被害者ぶれていいってだけだろ?
ウエイトトレーニングやってるとたまにフィットネス相談みたいの受けるんだわ
お前が食ってるぶん太ってるだけなんだよ
って言うのを認めない奴が多かった
体質だとか食ってねえとかそんな事ばっかり真顔で言う
ジャンクなものをだらしないリズムでだらだらだらだら食ってるだろ?
それも全部ナンパを避けるために意図的に計画的にやってることか?
それも全部ナンパする奴等が悪いのか?
ちげーだろ?
お前は食うのが好きでほぼ連続的に食って食べてるもの炭水化物や脂肪の爆弾で
それにどんどん脳が慣れて満腹中枢壊れて太ってるだけだろ?
デブって本当に問題から目を逸らしたり先送りしたりすることの天才
自分の体型を人のせいにするな
お前は体型より心が醜い
黒髪眼鏡だったら「チー牛」を自称して良いと思ってるやつらがいる。
・黒髪ではあるけど床屋ヘアではなく美容院でまめにおしゃれカットをしているし、日常的にも髪をブロー、セット等している。
・似合う眼鏡を選んでおしゃれになっている。
・アデノイド顔貌ではない。輪郭も歯並びもきれいで、笑顔がぎこちなくない。
・目が小さくない。
・姿勢が良い。
こういう奴らが、頭髪を脱色していなくて眼鏡をかけているというだけでチー牛を自称していて、違うだろ!と思う。
不正をする存在をアスリート(絵師)が許容できるわけないんだよな
そもそもAIは原理的に既存作品のツギハギコラージュしか生成できない
だから目だけ、ポーズと顔の輪郭だけなど部分の著作権侵害が必ず起こる
今まではキメラトレスのような犯罪行為は炎上によって処罰できたんだけど
イラストAIによって抜け道が出来てしまって、手書きでは違法なのにAIを使えば無罪放免
昔から色即是空、空即是色と言われるように、意識なんてあると言えばある、無いと言えば無いという程度のもの。
原子が流れ分子が波打ちシナプスのミステリーサークルが不確かな論理的輪郭を持つ
そんなのが崩れることは当たり前。むしろ一瞬も意識が同一を保つことはなく、もし意識を生存の定義とするなら、常に我々は死に続けている。
花が咲いて枯れて土になるように、ヒトも生きて死に朽ちるように、雨が川になって海に戻るように、全ては一である。
お前はそこにいない。お前は全てだ。お前は世界だ。シナプスのつながりが特定の表象を生み出すように、縁がお前の輪郭を形作る。一瞬として同じ形はない。全ての瞬間で何も変わっていない。
一つのシナプスが死んでも、脳は動き続ける。一人の人間が死んでも、お前は動き続ける。
お前は意識の中に居るのではない。お前は意識ではない。お前は脳ではなく、お前はホモ・サピエンスではない。
お前は知覚できない古代からの物質の本流の先端に在るだけであり、連綿と続く因果こそお前だ。
因果は全が一になり、一つとしてつながりのない存在はなく、それこそがパラメータの集合のゲシュタルトとなっている。世界のゲシュタルト、お前のゲシュタルト。
私がアスペで辛い点
②理想への執着が凄すぎること
最近、そもそも幸せになれる人間と幸せになれない人間がいるよな、などと思う
よくこういう場でさ、「青春はもう取り戻せない」「いくら港区やマッチングアプリでどれだけで会おうがあの頃は取り戻せないのだ」みたいなメタ認知(笑)が流行るが、理想に囚われて目の前のことを素直に大切にできないその心根のせいで青春時代に青春できなかったんだと思うよ
どうせその頃、「学生の勘違い恋愛wwwどうせすぐ別れるくせに」などと思っていただろ
青春時代に青春してたやつは、港区飲み会だってきっと楽しめるし、マッチングアプリで出会った人に「所詮マッチングアプリだから、自然な出会いの恋愛とは違う」とか思わずに、素直に目の前の人と幸せな時間を積み重ねていけるだろ
上記のような意見を誰かと分かち合ってはしゃげる人たちは、私の人生よりマシな人生を送るんだろうな
それはさておき、そう言う性根って何から生まれるんだろうね?多分アスペだと思う
大抵の拗らせた思考の全ては、幼少期や環境に問題があると語られるけど、残念ながら掘っても掘っても、私の幼少期や環境に問題はなかった
両親は喧嘩もするが仲が良く、伸び伸び育ててくれたし、子供がやりたいことに金を全て出せる経済力があり、思春期の私にもきちんと向き合ってくれた
人間性が終わっている私でも、歩み寄って私のことをよく理解してくれるような友達ができる環境で過ごしてきた
自分の生まれ持ったスペック的にも何かコンプレックスが発生するようなものはないと思う
タイトルが「アスペルガー症候群が辛い」だけど、発達障害を持つ人間たちの中では、限りなく恵まれた立場で生きていると思う
だからこそ絶望的な気持ちになる、私の幸せでない原因が多分、生まれ持った障害である、アスペに収束するから
冒頭、そもそも幸せになれる人間と幸せになれない人間がいると言ったが、幸せになれるやつは多分周囲のひとつひとつを大事にしている
様々な自分の理想よりも、現状、つまりは、自分の今大事な周りの人間がどう思うか、どう感じるかで行動できる
そんなことわかりきっていて、私はこんなに終わっている(空気の読めない発言、ADHDの遅刻、約束破り、その他諸々)自分のことを受け入れてくれる周囲の人間が大切だし、感謝しているし、愛しているから、私もそうありたいと思うんだけど、
でも実際そうあれるかというと、自分に超余裕がある時しかできないのだ
「そんなのみんなそうだよ」
って、多分発達障害じゃない人は言うと思う。で、それは多分その通りだ。でも、余裕がある時って、発達障害にとってはめちゃめちゃ少ない
毎日、朝起きて、仕事に行って、仕事をして人と会話をして、ご飯を食べて、お風呂に入るだけで、もうすごく疲れている
その上で、多分普通の人は、余裕がない時でも、相手の痛みが自然と想像できて、色んなブレーキがかかるんだ
でも私は、それを重々承知していても、落ち着いて考えて、相手の立場になってみようと心を決め、頭をその人に切り替え、順を追って、物語を読む時のように状況を追走しないと、その痛みが想像できないんだよ。
(それは、サリーとアン問題を解くのに一拍かかることの延長線上にある)
しかもその痛みも結構ぼんやりしていて、漠然と「こー思っちゃうよな」とかは思うんだけど、たとえば悲しい話を読んだような、心から痛みを想像できているものではなくて。出来の悪い映画を見た時のようで。輪郭はわかるのに、はっきりと掴めないことが、すごくもどかしくて、悲しくて、自分にがっかりするし、人間になれない感じがする
人の立場になって考えようとするたびに、考えることしかできなくて、感じることのできない自分が、何か人間ではない化け物のように思う
人生を何回やり直したって、私が私である限り、周囲の人間を、普通の人ほど大切にできないし、だから私が歩みたいような、あたたかな人生は送ることができない。
こんなにも恵まれているのに。
いかに私が苦しんでいるかの話を聞いてくれて、「そうなんだね、それでも周りのために頑張ろうって思えているのがすごいよ」と心から言ってくれる友達だっている。
そしてそんな友達が一握りいることが幸せなんだと頭では分かっていても、自分の送りたかった謎の「あたたかな人生」という理想に囚われて、苦しい気持ちになって、時にその人たちを羨み、妬んでしまうことが、きっと一番絶望的なんだ。
とか言われそう
改行が反映されないー
芸能事務所所属のモデルやってるような「同レベルの顔面の男としか俺は会話しません」系綺麗め男子も、ビッグスクーターを乗り回し色んな黒ギャルと付き合いホンモノの犯罪者の友達もいるガチムチオラオラ男子も、平等に女性化願望あるんじゃないかというのを目の当たりにした。
モデルのほうは「俺こういうのも可愛いでしょ」的に自信満々にヘアピンつけたりゴムで髪結ったりしてた。
一方でガチムチ男子のほうもメールの文が妙にメスメスしかったり学生鞄にスティッチのキーホルダー付けてたりして、たまに血迷ってモデル男と同じようにヘアピン付けて体育参加して周りの同級生たちを震撼させてた。
男というのはもしかしたら等しく潜在的女性化願望あるのではと思っている。
自分のフェイスアップを見せびらかしたがる男もあれほど多かったことを考えるに。
余談。
高校当時、塚本高史やNEWSのメンバーよろしく輪郭を覆い隠さんばかりにもみあげ(というか姫毛)を長く蓄えていた男性ホルモン薄い系イケメンに典型のオシャレをしていた同級生たち。
彼らは30歳過ぎたあたりでほぼ例外なく青髭モンスターになったのは衝撃だった(とにかく色白が多かったからか?)。
ある者は服装髪型自由な会社に勤めていたため、青髭を逆手に取り顎髭も口髭もボーボーに伸ばし放題にして、そのまま頭髪もヒッピーさながらに長~く長~く伸ばしてアーティスト系イケオジとして容姿の延命を図ってた。
また、ある者は服装髪型にうるさい会社に勤めていたため、フィットネスジムガチ勢に転向し、筋肉ダルマとして生まれ変わり、併せて日焼けサロンに熱心に通って、やはり延命のためのモデルチェンジに必死になっていた。
素直に永久脱毛すりゃええのに。
目をつぶったときに見える模様をデッサンの精神でできるだけ正確に描いた芸術家の絵ってないんでしょうか?
巷に出回ってる絵は明らかにイメージで適当に描いていますよね。
添付画像ほど色相が豊かじゃないですし、輪郭がわかるような描き方をしてる時点でおかしい。
もっと狭い範囲のグラデーションが視界を覆っています。個々の部分の近傍への色の変化が本当に微妙で、注意深くみなければ視界全体を単色が覆っているように見えることも確かですが、そこには確かに無数の微妙な違いを持った黒が混ざった緑や赤系統の色が散らばっています。
芸術家だからこそ、デッサンや写実的に描く対象としてはもっとも難しいモチーフの一つだと思うので、これに挑んだ絵が一つや二つあってもおかしくないと思うんですけど、ネットで調べてもなかなか見つけられません。
そういう絵はないんでしょうか?他者が描いたものを見て「これだよこれ」って実感が得たいのです。自分でも目をつぶればいつでも見ることができるものとはいえ、この模様は絶えず変化するものなわけで、たととばある一点を見つめようとするとその一点にあったパターンが煙のように形も色合いも微妙に変えながらどんどん動いていってしまうので、一瞬を捉えたものがあると何か安心できるのです。
いわゆる利権にしがみついて公金を必要以上に掻っ攫おうとしてるように見える動き、これはまだ全体の輪郭を想像(妄想?)してる人としてない人と分かれてるものだと思う。
だからこそその中で起点となったともいえる某団体の名称を使って⚪︎⚪︎問題と呼称する人がいるみたいだけど、もはやそれは矮小化して捉えてるとすら自分は感じてる。一方の思惑のひとつとすら勘繰ってしまうのはやりすぎか。
まあ何が正解なのかを自分は知らないとも言えるし、今後の動向によっては正解という名のゴールポストが変容する可能性すらあるのだろうが。ただまあ、ここ数年、いやここ一年でずいぶん「流れ」が変わったように見えるのは自分の気のせいだろうか。
「ボランティア」という、世間的に輪郭のあやふやな概念が邪魔にしかなってないな。
何も知らずにわけもわからず称賛したり叩いたりするネットの空中戦が現場の疲弊に拍車をかける。
個人か団体か社協仕切りの個人の集団か、どういうニーズがあるのか、そもそもニーズが集約されてるのかプッシュ型支援が必要な状態か、要素掛け合わせで全部事情は違うのに「ボランティアは是か非か」のワーワーに一元化されてしまう。
当然ながらいまは人海戦術のニーズも受け入れ体制もなく、しかし人手が足りてるのでもなく「被災者でもあるエッセンシャルワーカー」に限界が来てると。
そういうピンポイントのニーズはボランティアの枠組みはなじまないだろう。
被災地以外で現にその仕事をしてる人が十分な手当を得て一時的にスライドするしかない。