はてなキーワード: 公民権運動とは
時々「世界ではこんなに「ポリコレ」疲れが起きてます!もうポリコレはお終いです」みたいなのがバズっては一切何ら社会に影響も与えることなく消えてくけど
無理さの内訳を分けるとこれも色々あるけどさ
ドイツやフランスの極右ですら、「LGBTの権利」みたいなのを前面に押し出してイスラム教に対抗しているし
アメリカの保守派ですら、公民権運動の全否定みたいなことはやらないし黒人票とかを意識しているわけで
そして日本に住んでる我々ですら、十数年前のテレビ番組をYoutubeで見て「うわーこれ今じゃ放送できないね笑」みたいな態度を取る訳でしょ
その「笑」だよ
テレビ番組じゃなくても何でもいいよ、喫煙描写でもパワハラでも何でも
十年前の出来事を今思い返しただけでちょっと引くみたいな態度を持ってる時点でもうポリコレの影響受けまくってるじゃん
単に「昔はよかった」なのか、文化・信教に基づくものなのか、明確にレイシズムやエスノセントリズムに基づくものなのか
アンチポリコレ、アンチフェミ、アンチ人権を唱える人たちですら実際には配慮の土台に立っているということは意識しないといけないよな
その上でどうしたいのか
ガタガタいう女を張ったおしたいのか
映画「ドリーム」でも、自らの立場で人種差別・性差別と闘いながらも、「公民権運動」とは距離を置く黒人女性達の姿が描かれている。
政治活動というのはいつだって功罪ともにあるもので、そこに身を置くなら、「嫌われる勇気」を持たないことには立ち行かなくなるんじゃないだろうか。
政治活動って要するに「広告」なんだよね。そこに興味を持たない人々に対して、興味を持ってもらうよう誘導するのが目的なんだから。
https://anond.hatelabo.jp/20200311165317
~中略~
だからこそ代理店の制作者は、1ミリでも多く、見る者の目を楽しませる努力をする。
広告の枠を超えて世の中全般を動かせるような言葉を発信できないか苦悶する。
さらにこう続く。
それは「数値化」だ。
~中略~
すると何が起こるか。
~中略~
「『心が女』なら女湯入れる」は誤り トランスジェンダー当事者訴え:朝日新聞デジタル
つまり『調整』して浴場の施設管理者に「ペニス付いてる女性も女湯に入っていいよ」と言わせれば全く合法的にペニス付きトランス女性が女湯に入れるんだ。
これ凄いよ。「男体持ちが女湯に入るのは違法」と法律でキッチリ決められてると勘違いしてた。
まだ一弁護士の見解で、実際は訴訟が起きて判決が出るまで分からないのだろうけど。
「番頭さんにペニス付き女性だと告げたら女湯への入浴を拒否された。明らかに『LGBT理解増進法』に違反する差別だ!」と騒いで吊るし上げれば、裁判するまでもなく施設管理者が折れて「ペニス付きでも女湯に入っていいよ」と『調整』してくれて堂々と入浴できる可能性はあると。
過去いろいろな座り込み運動と呼ばれる行為が行われていたが必ずしも24時間座っていたわけではなく、24時間座ることが定義ではない
(3011日もの長い時間をアピールするなら、日中くらいはいてほしいのは分からんでもない)
公民権運動としての座り込みのもっとも初期の一つが1939年(所和14年)アメリカアレクサンドリア図書館の座り込みは
一般の単語のため他の多くの一般的な用語と同様に厳格な定義は存在せず多くの定義があるが
おおよそ纏めると、伝統とは、過去に行われた習慣や物等を指し、ある世代から次の世代に教えられることによって、現在も相続されているソレ
いずれも何年以上立たなければ伝統ではない という定義はなない
(世代間で継承されたそれを伝統と呼ぶんだから、親子2代で伝統たりうるんだけれど、3代くらいは続いてほしい)
(世代間の交代が1年毎に行われる学校とかだと数年で伝統になったりもするs)
伝統に訴える論証
「それは〇〇の定義により伝統ではないから~」という伝統でない事でもって否定するのではなく
伝統であることはその主張の正しさをなんら保障しない。伝統ではなく明確なエビデンスをもってその主張の正しさを証明せよ
https://ja.asayamind.com/squanto-true-story-native-american-behind-first-thanksgiving
(和解後)
両者は彼らの関係について批判を受けた。エックフォードはナイーブまたは寛容すぎると非難され、ブライアンは偽の日和見主義者であると非難されました。
彼女は特に、何年にもわたって人種差別の顔であった後、彼女が和解の顔であることに憤慨した白人から批判を受けました。
エックフォードは、ブライアンが本来あるべきほど自分の過去を所有していないと信じており、彼女があまりにも注目を集めているのではないかと疑い始めました。
何も和解できてなかった。
友情は育まれなかったし、許すことも無ければ許されることも無かった。
沖縄の基地問題がまったく好転しないのはまさに本土の人たちの寄り添わなさに由来してるのに、まるで現地の反対派に問題があるから寄り添わなないとか言うの因果関係を逆転させて自らの立ち位置を免責して一方的に断罪する傲慢さを感じる。
まあ、沖縄県民を二級国民扱いしてあからさまに差別するのはまずいと分かっているんだろうが、自分たちが行動しない原因を沖縄県民や基地反対派に求めてる点では似たようなものなので、自分が差別主義者であると認めないような冷笑家仕草だから余計たちが悪い卑怯者だよね
公民権運動の際「いやー、黒人差別はどうかと思うけど、あんな過激な行動では支持したくなくなっちゃうなー」とか抜かしてるのと一緒だよね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221007104350
ここのブコメ、ここまで来てまだ増田を『基地賛成派』と決めつけたり『冷笑』と言っているブクマカが多くて嫌になる。
俺様の心に響かなければ0点とし、気に入らない弱者を身内で笑い合うために問題解決を邪魔する冷笑系。トランプ支持者に寄り添えと言ってきた者達は、隗より始めようとは決してしない。彼らはいつもダブスタ。
この増田とそれに賛同する人って、要は沖縄に基地を作るのは揺るぎない絶対の正義であって、反対するのは基地外のパフォーマンスって思ってるわけでしょ?だから「24時間365日の座り込み以外認めない」ってこと?
例えば公民権運動で人種隔離をやめさせるためのレストランでの座り込みを閉店時もやっていたか?って話。ひろゆきやこの増田には「なぜ」座り込みをやっているのかが理解できてないからお門違いの議論しかできない
反対派の目的を批判してるんじゃなくて、せっかくの努力を自分たちからドブに捨てていることに気が付いていない愚かさを悔やんでるんだろ。
ここまではっきり問題点指摘して、野次馬を味方につけることを意識して受け流せって対応方法も示して、どう見ても反対派に好意的じゃないか。
本来どうでもいいはずのただのツッコミ(ひろゆきもそれを大問題だとしてはいない)に対して、受け流せず批判を全て敵視して、
捨てるべき戦場を主戦場に自分たちからしてしまった。せっかくの努力が無党派層には逆効果になってしまう。もったいない。もう少し賢くやれよ。
これが元増田の主張に思えるが。無関係な他人としては最大限に好意的だろ。
この問題に関心もなく当事者意識もない奴が偉そうにアドバイスして何様なんだろう…基地賛成ならなおさら沖縄の負担の問題に関心持つべきだろうに。てかそもそも座り込み=24時間ずっといるべきなの?違くない?
のような努力してるのだから同じ努力をしない野次馬に発言権などない、みたいな考え方。
精神論的な努力を尊び、それへの批判を許さないのは戦争末期の旧軍と同じメンタリティで、それをこそアップデートすべきだと思うぞ。
それだけで野次馬(支持なし層)を敵に回すし、努力するならそれが効率的か・目的達成に有効な努力かを常に問い直すのが令和流のはず。
少なくとも若手の社会人ならそういう努力の仕方を叩きこまれてるはずだから、昭和流の精神論努力批判を許さない集団が支持されることはあまりないだろう。
そもそもそれを認めると、右派が「努力」している案件を左派は批判できなくなるしな(左派は揚げ足取りしかしないて言っている人の感覚はこれと同じ)。
指輪物語はアメリカの黒人公民権運動と同時期なので、まず原作のエルフは白人だろうと思う
その中に既に黒人がいると、一つの見方として、奴隷輸出国の黒人のフォエデラティ貴族?と思えなくもない
それを狙ったものならまさに原作破壊だな(それともキング牧師ぽいのか、見てないので分からない)
映画作品のポリコレが、原作のポリコレと異なるのは雪の女王でもそうで、女王は人攫い(みなしヴィクトリア女王)から善人(みなしエリザベス2世)に変えられ、攫われたカイ少年は消え、証券取引所を示唆したような凍った湖もなく、モノを歪曲して見せる悪魔の魔法もない
さらにオラフ(みなし宗教改革のペーテルソン)というキャラが出てくる
組織的な大作映画で、社会問題を指摘していた原作を破壊するのは、もはや悪魔の魔法に近いわけだ
映画はもはや二次創作物の類だが、そうと気づかない視聴者が多いだろうから、原作ファンが煩いのは当然だろうな
最近、赤松健候補をレドマツ呼ばわりするのがニガーと同種の深刻な差別問題だという主張が頻繁にされていて、酷暑の残酷さに心を痛め後遺症を心配するところなのだが、「ニガーを当事者が言うのはOKだが外部が言うのはダメ」という言説はちょっと違うので一言言わせてくれ。
この「罵倒文句を己らの呼称として使うようになる」っていうのはアメリカの伝統なんよ。
Yankeeは元々北部のアメリカ人の事で、主に南部人(デキシー)が使う罵倒語だった。
ところがこれを北部の連中は気に入ってしまい、自分らの事をヤンキーと自称するようになった。NY州の大リーグチームはNYヤンキースだ。今ではアメリカ人=ヤンキーという使い方も一般的だ。
一方外国がヤンキーという場合は大抵が罵倒語だ。でも当のヤンキー達は気にせず使い続けた。
日本の『アルプス一万尺』はアメリカの愛国歌、ヤンキードゥードゥル Yankee Doodleの歌詞を勝手に改変したものだ。
元は独立戦争に先立つフレンチインディアン戦争時に参戦したアメリカ植民地軍を揶揄した歌だった。
軍服も揃えておらず統率も取れていない、キビキビも出来ないアメリカ人達を正規軍人の英国人達が嗤った歌詞だ。
doodleとはダラダラテレテレしてる、ボケっとしてる、暇なのでイタズラ描きするってな意味だ。特別な日にGoogleロゴが特別なモノに変わるアレもdoodleだがこれは最後の意味のイタズラ描きって意味だな。
そんなアホアメリカ人が手入れもちゃんとしてるか判らん鉄砲持ってテレテレタラタラやってきたよ、あーあ。ってな感じの歌なんだな。
「いなかっぺのキョロ充が街に行った。羽付き帽被っただけでダンディのつもりだ。イカしてるねぇ神聖モテモテ王国だねぇ」
ところがアメリカ人たちはこの侮蔑的な歌を気に入ってしまった。それで自分らの歌としてしまったのである。
独立戦争で歌われ演奏され、独立後の米国軍の行進曲にしてしまった。
ペリーが日本にやってきた時に上陸後は鼓笛隊の演奏で行進したのだが、その時の曲はヤンキードゥードゥルだったのだ。
こんな風に建国の初めからしてこうなので、「罵倒語を気に入って使い始める」というのは後にアチコチで見られるようになった。
思いつく限り列挙してみたい。
The blackとかblack manとか使われていたが、肌の色を直接に示すので差別的だった。特にトイレやバスの座席、施設の入り口の区分けなどで「black」「colored」と書かれていたので猶更である。
だが公民権運動で「ブラック イズ ビューティフル」のスローガンが使われると当事者のプライドと結びつき、やがてblack musicなど一般化された。
南部の白人の事で、農作業で首が赤く灼けた様をからかった語で、保守退嬰的、閉鎖的、進取の気性が無い、低学歴、民度が低い、反国家的など酷い意味が凝縮された罵倒語。
それは「なんでも自分らでやる」というライフスタイルへの愛着と自負で、南部の農家は食料の入手から機械の手入れ、家の修繕、家具の作成、車の修理や改造など、何でも自分でやる。これは日本の農家なども変わらない事で、全体的に器用貧乏だったり詰めが甘かったりするが都会の人間からすると広く何でも出来るスーパーマンみたいに見えるものだ。
以前、トラクター会社が機械部分をブラックボックス化して信頼性を上げる代わりにメーカーじゃなきゃ修理できないようにしたら大炎上した事があった。https://jfaco.jp/column/2435
「レッドネックスタイル」を理解していなかったのが原因だ。これは米国では結構大きな問題になり、欧州の「修理する権利」と結びつける形で法制化が進んでいる。
日本メーカーやアップルが欧州の「修理する権利」で叩かれて電池交換や社外インク可能にさせられているが、この背景にもこの「何でも自分でやりたい」というマインドがあるのを忘れてはいけない。金と財産権の問題にしか見えないのは飼い慣らされている為だ。
だから今では米国外で何でも自分で作ってみる、直してみるのを動画にしているDIY youtuberなどもレッドネックを自称している。
Queerは元々罵倒語で変なやつ、男性同性愛者(婉曲)とかの意味だったのだが、意味が逆転されてポジティブな意味になった。
1985年のバロウズ著『Queer』の日本語は『おかま』だ。この題は訳者の山形浩生が付けたのか?ちょっと意味が違うと思うのだが。つーか、1985年でも男性同性愛を一緒くたにおかま呼ばわりはしてなかったんじゃないか?どうも腑に落ちない邦題だ。
Wikipediaには頭でっかちな事ばかり書いてあるが、実際はドラッグクイーンとかのワザとらしい性的倒錯仕草をクィアとよんでたのが、マジのトランス女性などが世間に認められるようになると(イスラエルのDana Internationalなど)弾き出されて「LBGTに収まらない性的違和」を是認する意味になったとう感じだ。
この辺の変化、日本だと90sドラッグクイーンの代表格井原秀和円奴S(まるやっこスーパー)が女性目指すようになったのが象徴的。90sのクィアポジティブ化は米国のハウスシーンと共にあった。
ロバには馬鹿、間抜け、グズ、ウスノロ、ノロマ、うすらバカ等の含意がある。
勘違いしてはいけないのは、当初の民主党は南部の農民が支持層の保守政党で黒人奴隷解放に大反対していた。民主党、共和党共に今と支持層、支持地域が逆転しているのである。
大統領選で、そんな南部の民主党出身の大統領候補、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)をスマートで都会的な北部の共和党の議員たちがjackassと詰って呼んでいた。jackassは雄ロバの事だが、馬鹿、間抜け、グズ、ウスノロ、ノロマ、うすらバカ等の意味もある。
これをレドマツさんじゃなかった、アンドリュー・ジャクソンは気に入ってしまい、「アンドリュー・ジャッカスです(観客ワハハ)」とか自陣の象徴として使ったのである。
それでその後もそのうすらバカでグズで間抜けの象徴であるロバを大統領選で使うようになって今に至るというわけだ。
ビデオチャットで「いい女やな~」「ぎゃ!ちんこある罠や!」っていうイタズラが元々なんだけど、すぐに生えてないなら興味ないっていう増田みたいなのが増えてtrapは売りに。
これはアメリカの伝統関係あるだろうか?3%ぐらいは関係ある気がする。付いててお得だし。
1987年のブライアン・デ・パルマ『アンタッチャブル 』では主任捜査官エリオット・ネスがガサ入れでヘマした所を記者に写真に撮られ新聞のトップ記事にされ、その記事をオフィスに貼るシーンがある。
これもアメリカの伝統があっての事なんだろう。屈辱に耐えるのではなく、「侮辱を気に入る」のだ。それが先人がしてきた事だから。
という訳で単にいつの間にか意味が逆転してしてしまうのではなくて、アメリカの場合「侮辱を気に入る」「恒久的に自分の表象にする」というコードがあるのだ。単に悪口を逆手にとって「○○ですが何か?」というのと違うのはその語をずっと使うって事だ。逆手に取るのとは違うマインドなんである。
だからニガーを当事者だけが言ってもいいというのはこのアメリカ的伝統の過渡期にある可能性があって、そのうち普通に使われるようになるかも知れないって事である。
だったら差別語は何言ってもいいんだな、とか言って差別発言で炎上して失職したり家が突き止められたりというバカが出るのもネットの常である。
私、最初は『ボディポジティブ』って色々な体型の女性を積極的に採用してメディアに出していこう!(太めの体型に限らず、頭が大きいとか手足が短いとかの一般的に『美しいとされない容姿』全般を含む)
…という、社会や企業に対する要請の事かと思っていて、それは良い事じゃんと思っていたんだよね
それがモデルや俳優といった特別な分野だけじゃなくて、一般企業の事務だの営業だのの職として採用する場合にも広がっていけばいいと思っていた
だけど調べてみたら全然違うじゃん
https://adv.asahi.com/keyword/14486886
「ボディポジティブとは、ありのままの身体(ボディ)を前向き(ポジティブ)に愛そうというムーブメントのこと。」「ボディポジティブとは自分の「ありのままの身体」を受け入れる考え方」
だってさ……『愛そう』とかそういう話だったの!?社会や企業に向けて訴える政治運動じゃなかったの!?思ってたのと違った。
(『ボディニュートラル』というのも見てみたけれど、こっちもやっぱり『自分』が主軸にある事には変わらないのでやっぱり好きになれない)
ポジティブになろう、自分を好きになろうって、常日頃周りから自尊心を削られ続ける女性達個人に対して要求するなんて、あまりにもグロテスクじゃない?
女性個人が自分の身体を「受け入れ」たところで、周りから差別され続ける状況は何ら変わりませんけれど!?あまりにも無意味だし虚しい。
「自分の身体を好きになろう」で解決する問題ならば人種差別も奴隷制も存在してねーし公民権運動も要らなかったよ
違うでしょ、本当の意味でボディポジティブを語るならば主軸は『自分』じゃなくて『他人』にすべき
何故、「他人の容姿を笑うな」と、世間に向けて言っていかないのか。女性個人に押し付けようとするのか。
そうすれば自分を好きになるなんていともたやすいし、自己肯定感なんぞ自然に生まれるよ
希望に溢れていたかのように見えた『ボディポジティブ』の実態がこのような、自己責任論にまみれた上っ面の精神論の押し付けだったなんてあまりにもがっかりだ
『80年代には海外では見直されていた「生活習慣病」という考え方』
https://news.yahoo.co.jp/articles/5015da26607a03ab2fd804f94bd39019607c12f9?page=3
ーー先生が立て続けに、「生活習慣病」について書いた論文を読んで驚いたのは、当初、アメリカでは真逆の発想で導入されたという事実です。1950年代から60年代にかけて公民権運動が活発になった時に、自由主義思想の広がりと共に広がったと書かれていますね。
《生活習慣病概念は自由主義的自己決定権意識と結びつくことで、自らの将来を自らの力で変えることができるという「健康版アメリカンドリーム」として米国の市民・政府・科学者の間で広く受け入れられたのである。(『糖尿病プラクティス』38巻2号)》
元々は、「生活習慣病」は、「専門家に縛られず、自分で自分の未来を切り開く」というアメリカンドリームだったんです。当時の発想としてはすごく良かったし、その考え自体は今後も活かすべきだと思います。
これ凄く重要な指摘だな
なるほど、「生活習慣病」という発想も、元々はそこまで悪いものではなかったんだね
パターナリズム(父権主義)に対する反抗の趣旨を含む概念だったと。
でも今は寧ろ逆だよなあ
理由を説明せず同調圧力で従わせたり黙らせようとする連中なんて無視するか中指突き立てるしかないだろ。
ブコメも主の疑問には答えようとせず黙って従えとしか言ってない人気コメントあってホント糞。
crimsonstarroad アプデしなくても良くて。 若い人にとっての常識的な価値観が自分とはもはや違うんだって認識を持って、若い人に押し付けない・文句を言わないができれば良いと思う。
2022/05/16
ntnajp605 価値観がアップデートされる前のマイノリティは「有無を言わさず」排除されてたんだがな。己がマイノリティの側に立つことはないと信じてきっとる米が大人気なのはどうよ
2022/05/16
だから価値観のアップデートという言葉で有無を言わせず他人を従わせる権利があるとでも?
ある訳ねーだろ。マイノリティでもマジョリティでも誰にもそんな権利ねーよ。
a-design-for-life 価値観と言っても、誰にでも人権があるとか、人を殺してはならないとかは普遍的では。昔は黒人は人権が制限されていたけど、公民権運動でそれはおかしいよね、となって。それでも黒人を差別しないのはおかしいとか?
2022/05/15
レスどうも。
やっぱり、一部のヴィーガンの言動がクローズアップされて、一般人を恐怖や
ひょっとすると、彼らはガマンしてヴィーガンしてるのでは?とすら思う。
我慢してたら常にイライラしてしまうだろうし、(彼らにとって)ガマンしてない他人に攻撃的になってしまう。
カゴメや日清といった大手メーカーも、大豆ミートや代替エッグを次々に発売してるけど、
「ヴィーガン対応」とは明言しないようにしてるのは、やはりそういう考慮だと思う。
「ああこれはヴィーガン以外買っちゃいけないんだ」となったら、売れなくなるだろうし。
今のような「ヴィーガン」「非ヴィーガン」といった分離構造も、
徐々になくなっていくと思うんであまり心配してないです。公民権運動みたいなもの。
いずれお米派・麺派くらいの違いになっていくでしょう。
私、子供の頃からマジで理解できないんだけど、嫉妬の一体何が悪いの?別に何も悪い事じゃなくない?
大学院に行けない貧乏人が金持ちの専業主婦に嫉妬して何が悪いんだよ
「嫉妬でしょ?」と言われて、私だったら「はいそうですその通り嫉妬です」と答えるんだけど
でもみんな何故か「嫉妬なんかしてない」と言うんだよね…
まあ答えている方は本当に嫉妬じゃないのかもしれないけれど、それにしたって鬼の首を取ったかのように「嫉妬でしょ?」と認定してくる人達は謎過ぎる
歴史で習ったフランス革命とか、アメリカ公民権運動とか、まあ問題点もあったのかもしれないけれど、でもそういう運動の原動力は「嫉妬」だよね?
理不尽な差別を受けた弱者が、抑圧している強者に向けて怒りを露わにする嫉妬の運動。
人類史を前に進める原動力は嫉妬だと思っている。嫉妬は良い事、肯定すべき事。
寧ろそういう健全な嫉妬の原理が働かない停滞した社会の方が不健全だ
底辺が勝ち組を仰ぎ見て礼賛する今の日本社会ってほんと不健全だと思うよ